結婚三箇条

文月 青

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梅雨が明けて暑い夏がやってきました。ですが全てが明るみに出てすっきりしている私とは裏腹に、柿崎さんは何故かどんどんやつれていきます。柿崎さんの部屋で毎日眠ることは了承してくれましたが、私の荷物が室内に少しずつ増えるに従って、彼のため息も読書量も増えていっているようでした。

仕事で疲れているのかと気にしていたある晩、お風呂から上がって柿崎さんの部屋に向かうと、彼は寝床でいつものように文庫本を読んでいました。

「話がある」

きっと私を待っていたのでしょう。すぐに本を置いて姿勢を正しました。改まった様子に私にも緊張が走ります。まるで悪いことをした子供が、これから親に叱られるときのようなそんな雰囲気の中、私は神妙な面持ちで柿崎さんの前に正座しました。

「一つ。俺は身の回りのことは自分でする。無駄に世話を焼かないように。一つ。約束の期限まで夫婦生活は行わない。それに準じる行為も禁止。よって明日からは寝室も別々にする。一つ。困ったときに工藤くんを頼らないこと」

徐に切り出されたのは、内容こそ変更されていますが、かつてどこかで聞いたことのある文言です。

「これから一年、我々が円満にやっていく為のいわゆる三箇条だ。この三つを守り、警察のお世話にならぬよう、常識の範囲で暮らしてくれれば、後は好きにして構わない」

これは正しく結婚初日に突き付けられた三箇条なるものです。誤解がとけて意志の疎通が叶ったのに、縛めがきつくなっているのは気のせいでしょうか。しかも三つ目に至っては意味が分かりません。

「結婚当初の生活に戻るということですか?」

「そんな感じかな」

「食事も別々ですか?」

「そうなるな」

あまりにも私がしょんぼりしているせいでしょう。柿崎さんは苦笑しながらぽんぽんと頭を叩きました。

「井坂部長との約束を守るためには、やはりこの方法が一番なんだ。柊子くんが傍にいると俺は君が欲しくなる。自制が利かなくて済まないな」

申し訳なさそうに謝ります。

「ただ君も少しは分かってくれ。無邪気過ぎるのも罪なんだ。これは他の男に対しても」

父との約束もさることながら、どうやら普段の私の言動が今回新たに三箇条を制定する原因になったようです。気持ちの上では夫婦になれたと、調子に乗って柿崎さんに纏わりついたのがいけなかったのかもしれません。私は唇を噛み締めて立ち上がりました。

「話はまだ」

「自分の部屋に行きますね」

何か言いたげな柿崎さんを遮って、この部屋に持ち込んだ私物を纏め始めます。残念ですが困っている柿崎さんを余所に、子供じみた真似をしたであろう私に、異論を唱える権利はありません。

「いや、何も今からじゃなくても」

少々焦ったような柿崎さんに首を振り、私は無言で準備を終えました。

「すみませんでした」

部屋を後にする際に頭を下げると、柿崎さんは驚いたように目を見開きました。

「怒っていたんじゃないのか?」

「いいえ」

肩を落としつつも笑顔で否定します。

「恋愛の要素を味わってみたくて、はしゃぎ過ぎました」

柿崎さんは初めから私を好きになって、結婚を申し込んでくれました。そのことを知ってもの凄く嬉しいです。でも私の結婚生活のスタートは、幸せな状況で始まったわけではありません。途中からは母の身代わりの観賞妻だと思っていました。

柿崎さんの気持ちを疑ってはいません。充分大切にしてもらっています。けれど贅沢かもしれませんが、夫婦とか家族とか、そういったしがらみを抜きにして、恋人のように過ごしてみたい気持ちもありました。どれだけ仲よくあろうと、私と柿崎さんはもう夫と妻以外にはなれないのですから。

「おやすみなさい」

顔を見ると泣いてしまいそうなので、私はそそくさと襖を閉めて逃げるように階段を下りました。本来の自室の布団に潜り込みます。柿崎さんは私のために一人我慢を強いられてきたというのに、子供な自分が恥ずかしいです。早く彼につりあうような大人になりたい。本気で願った夜でした。




翌朝。これまで通り台所で朝食とお弁当を作っている私に、柿崎さんは決まり悪そうな様子でおはようと挨拶をしてきました。

「おはようございます」

私がおにぎりを握る手を止めて笑顔で応えると、柿崎さんは二人分のコーヒーを淹れて一つを私に差し出します。受け取ってしばらくその匂いに安らいでいましたが、さすがに早朝でも夏のホットは辛いです。私達は汗だくの顔を見合わせて同時に吹き出しました。

「アイスにするべきだったな」

ようやく柿崎さんも笑みを浮かべてくれました。私の心の中がコーヒー同様満たされていきます。彼にはいつもこんな顔をしていて欲しいです。

「あの、柊子くん。昨日のことなんだが…」

なので言い淀む柿崎さんに、私はにっこり微笑みました。

「大丈夫です。私ちゃんと三箇条を守ります。柿崎さんもスマホでいいですから、せめて一日一回は会話して下さいね」

「もちろん。俺だって君と話したい」

「時々デートもして下さい」

「ああ、分かった」

「それから」

そこで私は一旦言葉を切りました。例え触れられなくても一緒にいたい人をみつめます。

「約束のときが来たら、必ずお嫁さんにして下さいね」

瞠目する柿崎さん。この一年の間に少しでもあなたに相応しくなれるよう、大人になれるよう努力しながら待っています。

「必ず」

距離を保ったまま、気持ちの上で抱き締め合って、柿崎さんは背筋を伸ばしました。

「行ってくる」

私は元気に手を振りました。

「行ってらっしゃい」




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