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四月最初の土曜日の朝。高坂の母が前日退院したというメールが遥から届いた。一緒にお祝いに行こうと誘われたので、いそいそと外出の準備をしていると、父が呼んでいると義母が部屋まで私を迎えに来た。待ち合わせの時間が迫っているのにと内心焦っていたら、父は思いの外険しい表情でリビングのソファに座っていた。

「どこに行くんだ」

義母が隣に腰を下ろすのを待ってから父が徐に切り出す。キッチンでペットボトルのお茶をコップに注いでいた秋ちゃんも、何事だというように顔を出した。

「お祝い。高坂のお母さんが退院したから」

ソファの横に突っ立ったまま答える私に、義母はそれは良かったわねと安堵の笑みを浮かべた。でも珍しく視線が落ち着かない。

「あいつも来るのか」

外出先については特に追及しなかった父が、そこに顔を揃える人物を確認する。何となく話の内容が読めた。私が遥と接触するのか気にしているのだ。

「遥のこと? 来るよ。息子だもん」

あっけらかんとしている私とは対照的に、父の表情はどんどん険しさを増してゆく。

「最近あいつと会っているみたいだな」

やっぱり。私はキッチンの秋ちゃんを振り返った。彼は俺じゃないというように首を振る。逆に身を竦ませる義母に犯人の目星がついた。

「偶然だけどね。お見舞いとか飲み会とか」

「大丈夫なのか? 蒼」

それまでの様相を消して心配げな問いを向けてくる父。義母もこのときばかりは真っすぐに私をみつめた。

「何が?」

「またお前が泣くことになるんじゃないかと」

その台詞で私は両親が意図するところを理解した。彼らは遥と会うことを怒っているのではなくて、離婚したときのように私が傷つけられることを危惧していたのだ。自分のせいでここにもまだ心を痛めている人達がいる。

「そのことなんだけど」

言い出しにくくて前置きすると、再びはっとしたように緊張した面持ちになる二人。私は申し訳なくて泣きたくなってしまった。

「遥は浮気していなかったの。それが最近分かって。全て私の誤解だったの」

ごめんなさいと蚊の鳴くような声で謝って頭を垂れる。混乱を極める両親に詳細を説明すると、二人は喜んでいいのか悲しんでいいのか分からないようだった。特に父は二年前に遥に取った行動もある。単純に結果オーライとはいかないだろう。

「だから話してやれって言ったんだよ」

お茶のコップを手にしたまま秋ちゃんが姿を現した。テーブルにコップを置いて、父の向かいにどさっと体を沈める。

「あれであいつ、蒼のことは大事にしてるから」

まだ手も出していないくらいだ、と笑ってつけ加える。親の前で何てこと言うんだ。目を剥く私を余所に父は眉間に深い皺を刻み、義母は困ったように夫と義娘を見比べている。

「あのね、蒼」

やがて腹を括ったのか義母が口を開いた。私はそんな彼女を笑顔で制した。

「二年前のことなら知ってる」

その場にいた全員が私に注目する。

「遥に聞いたんじゃないよ。共通の知人に教えられたの。つい最近だけどね」

できるだけ明るく伝えたつもりなのに、痛ましそうな表情の秋ちゃん、口元を両手で覆う義母、そして頭を抱える父。誰にも責任なんて、罪悪感なんて感じないで欲しいのに。

「悪いのは全部私。自分で蒔いた種はちゃんと刈り取るよ」

力強く発した私に皆は無言のままだった。




「心配かけてごめんなさいね。もう大丈夫だから」

遥と一緒に義父のマンションを訪ねると、母は寝室のベッドで横になっていた。まだ完全に快復したとは言い難い顔色に、ぶり返してしまったのかと傍に駆け寄ったら、義父からしばらくは家事一切禁止と言い渡されたのだそうだ。

「幸恵はすぐ無理をするからね。とにかく体を休ませないと」

「これなんだもの」

母は少々むくれながらもどこか嬉しそうだ。ベッドの中にいるのに表情は明るい。

「私に長生きして欲しいなら、まず幸恵が長生きしないと。君のいない人生に意味はないからね」

「あなたったら! 蒼と遥くんがいるのに」

慌てふためく母の横でゆったり構える義父に、隣からげっと嫌そうな声がする。

「こんな人だったのか、親父」

実父のストレートな表現に、遥は苦虫を噛み潰したような表情だ。

「大切なことは気づいたときに伝えないとな」

その穏やかな様子に義父の気持ちが分かったような気がした。私や父に対してもそうだったけれど、母は自分が病弱で妻としても親としても役目を果たせないことを悔やんでいた。たぶん気にしていないと百回繰り返したところで、その思いが無くなることはないだろう。だから義父はきっとそんな母の心を軽くしようと努めているのだ。愛情を伝えるという形で。

「気づいたときに、か。だよな。伝えたくても伝えられなくなっちまうもんな」

父と病弱な義母との関係を慮っているのか、自身の身の上に起きたことを反芻しているのか、その意味するところは分からないけれど、私にだけ聞こえるように落とされた言葉はとても重いものだった。




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