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番外編
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香さんが出産した産院は、全室個室で母子同室だった。面会時間に合わせて訪ねると、ちょうど母乳を飲ませたところで、香さんが赤ちゃんを抱いて背中をさすっていた。毎回出るわけではないが、げっぷをしやすくしてあげているのだそうだ。
「見た目とのギャップが激しいね」
正にげふっという大きなげっぷをした赤ちゃんに、富沢くんが目を丸くした。そういえば姉の子供とは関わりを持っていないので、私も赤ちゃんのげっぷなんて初めて聞いた。自分が母親になる日は想像できないが、いろいろと勉強になる。
「可愛い」
お腹いっぱいで眠くなったのだろう。香さんの腕の中で赤ちゃんは小さな欠伸をする。口も爪も全てが小さい、けれど柔らかな温もりに私と咲さんはもうメロメロ。
「なぎさちゃんも欲しくなっちゃった?」
「はい!」
母の顔をした香さんに訊ねられ、うっかり肯定の意を示したら、背後から突き刺すような視線を感じた。
「へえ、そうなんだ」
振り返るまでもなく、絶賛不機嫌中の修司さんが低く呟く。
「誰の子供が欲しいんだか」
その様子に赤ちゃんをベッドに寝かせた香さんが、期待に満ち満ちた目で私達を見る。娘の由奈ちゃんと赤ちゃんを眺めていた夫の雅治さんも、事情を知っている富沢くんと咲さんも、必死で笑いを堪えているのが分かる。
「一ノ瀬さん、修兄、準備できてる?」
唇が重なる寸前、弟と幼馴染に来訪を告げられた修司さんは、その後不機嫌に拍車をかけた。
「何で来たんだよ」
予定では披露宴が終わったら、自宅で待機している富沢くん達を拾って、四人揃って病院に行く筈だった。
「遠回りになるから、俺達が一ノ瀬さんの部屋に来た方が早いじゃん」
富沢家と病院は、私のアパートを挟んで反対方向に建っているので、二人は疲れているだろう修司さんに気を使ってくれたらしい。
「まだ一時間もあんだろうが」
座って冷たいお茶を飲む富沢くんを、着替えを済ませた修司さんが睨んでいる。
「怒るなよ、大人気ない。何? 一ノ瀬さんとイチャイチャしたかったの? 邪魔してごめんね」
揶揄う口調に苛々と歯噛みをする修司さん。でも私はイチャイチャの一言に図星を突かれたようで、しらを切れずに赤くなってしまった。だって富沢くん達がチャイムを鳴らさなかったら…。
「我慢の限界だ」
これはやっぱりそういう意味だよね? 私の勘違いじゃないよね? 大学生男子の前だけれど、その先を想像するだけで内心身悶える。
「阿呆。挙動不審だ」
隣の修司さんがこつんと私の頭を叩いた。ベッドを背にしているのもいけないに違いない。彼の耳もほんのり染まっている。うわあ誰かー! どうしていいか分からないー!
「マジかよ…」
「し、修司が女の人とイチャイチャ…」
アパート中に響き渡るような、大きな声で笑いまくった二人に、すぐさま鉄槌が下されたのは言うまでもなく、それから修司さんは機嫌が直らないのである。
「外で煙草吸ってるから」
病室内に漂う雰囲気を察したのか、修司さんは一人ドアに向かった。
「香姉、雅治さん、おめでとう」
ドアを閉める間際に優しく微笑み、香さんと雅治さんが笑顔で頷くのを確かめて、静かに病室を後にする。
「修司くんは本当に変わったな」
香さんと視線を交わしながら、雅治さんが改めて口元を緩めた。すやすやと眠る赤ちゃんを起こさないよう、由奈ちゃんにしーっと人差し指を立てられている。
「凄いよ、あれ。嫉妬の塊」
小さな声で富沢くんが相槌を打つ。私は不思議に思って訊ねた。
「元からあんな一面も持っていたのではないんですか?」
「違うね。どちらかといえば穏やかで、その日の気分を他人に見せるようなことはなかったよ」
腑に落ちない。私に対しては不機嫌が通常モードだし、最初から怒られていたような覚えがある。
「だから俺も驚いた。ちゃんと感情を出せる相手ができたんだなって」
以前の修司さんは会社の女性は別にして、誰に対しても常に平坦な態度で接していたのだという。それは好ましくある反面、辛いことも悲しいことも身の内にしまい込んでいることにも繋がる。きっとそれは私が無理に浮かべていた笑みと同じ。
ふと修司さんの言葉が脳裏を過ぎった。
「だからあんたが笑ってはいはい言っている姿が、自分に重なったのかもしれない。あんたもそうやって何か守ってんのかなって。助けるなんておこがましいけど、せめて片足突っ込んでる嫌な場所から、引っ張り上げてやりてーなって」
昨年の夏頃だったろうか。香さんへの想いを打ち明けられた後、修司さんは自分の辛さよりも私のことを案じていた。
「それになぎささんと知り合ってからよ。私達と一緒に行動するようになったの」
「だよね。これまでは香姉としか連まなかったもん」
咲さんと富沢くんが顔を見合わせて苦笑した。香さんも同じ表情で補足する。
「偶然にも他の兄弟姉妹がくっついちゃったでしょ? 好きになった本人達はもちろん悪くないけど、私と修司だけは母親達のやり方に反発していたからね。自然と疎遠になりつつあったのよ」
おそらく修司さんと富沢くん達が揃って、香さんの赤ちゃんを見に来ることはなかった、と。実際由奈ちゃんが産まれたときはそうだったから。
「男には失礼かもしれないが、今の修司くんは可愛いくて、更に親しみが湧くよ」
まるで本当の弟のことを話すように、雅治さんは目を細めて洩らす。
「なぎさちゃん」
ふわっと香さんが私の両手を包んだ。
「修司は私の大事な弟なの。よろしくお願いね」
修司さん。私は自分の意思で、望んで「はい」と応えてもいいですか?
「見た目とのギャップが激しいね」
正にげふっという大きなげっぷをした赤ちゃんに、富沢くんが目を丸くした。そういえば姉の子供とは関わりを持っていないので、私も赤ちゃんのげっぷなんて初めて聞いた。自分が母親になる日は想像できないが、いろいろと勉強になる。
「可愛い」
お腹いっぱいで眠くなったのだろう。香さんの腕の中で赤ちゃんは小さな欠伸をする。口も爪も全てが小さい、けれど柔らかな温もりに私と咲さんはもうメロメロ。
「なぎさちゃんも欲しくなっちゃった?」
「はい!」
母の顔をした香さんに訊ねられ、うっかり肯定の意を示したら、背後から突き刺すような視線を感じた。
「へえ、そうなんだ」
振り返るまでもなく、絶賛不機嫌中の修司さんが低く呟く。
「誰の子供が欲しいんだか」
その様子に赤ちゃんをベッドに寝かせた香さんが、期待に満ち満ちた目で私達を見る。娘の由奈ちゃんと赤ちゃんを眺めていた夫の雅治さんも、事情を知っている富沢くんと咲さんも、必死で笑いを堪えているのが分かる。
「一ノ瀬さん、修兄、準備できてる?」
唇が重なる寸前、弟と幼馴染に来訪を告げられた修司さんは、その後不機嫌に拍車をかけた。
「何で来たんだよ」
予定では披露宴が終わったら、自宅で待機している富沢くん達を拾って、四人揃って病院に行く筈だった。
「遠回りになるから、俺達が一ノ瀬さんの部屋に来た方が早いじゃん」
富沢家と病院は、私のアパートを挟んで反対方向に建っているので、二人は疲れているだろう修司さんに気を使ってくれたらしい。
「まだ一時間もあんだろうが」
座って冷たいお茶を飲む富沢くんを、着替えを済ませた修司さんが睨んでいる。
「怒るなよ、大人気ない。何? 一ノ瀬さんとイチャイチャしたかったの? 邪魔してごめんね」
揶揄う口調に苛々と歯噛みをする修司さん。でも私はイチャイチャの一言に図星を突かれたようで、しらを切れずに赤くなってしまった。だって富沢くん達がチャイムを鳴らさなかったら…。
「我慢の限界だ」
これはやっぱりそういう意味だよね? 私の勘違いじゃないよね? 大学生男子の前だけれど、その先を想像するだけで内心身悶える。
「阿呆。挙動不審だ」
隣の修司さんがこつんと私の頭を叩いた。ベッドを背にしているのもいけないに違いない。彼の耳もほんのり染まっている。うわあ誰かー! どうしていいか分からないー!
「マジかよ…」
「し、修司が女の人とイチャイチャ…」
アパート中に響き渡るような、大きな声で笑いまくった二人に、すぐさま鉄槌が下されたのは言うまでもなく、それから修司さんは機嫌が直らないのである。
「外で煙草吸ってるから」
病室内に漂う雰囲気を察したのか、修司さんは一人ドアに向かった。
「香姉、雅治さん、おめでとう」
ドアを閉める間際に優しく微笑み、香さんと雅治さんが笑顔で頷くのを確かめて、静かに病室を後にする。
「修司くんは本当に変わったな」
香さんと視線を交わしながら、雅治さんが改めて口元を緩めた。すやすやと眠る赤ちゃんを起こさないよう、由奈ちゃんにしーっと人差し指を立てられている。
「凄いよ、あれ。嫉妬の塊」
小さな声で富沢くんが相槌を打つ。私は不思議に思って訊ねた。
「元からあんな一面も持っていたのではないんですか?」
「違うね。どちらかといえば穏やかで、その日の気分を他人に見せるようなことはなかったよ」
腑に落ちない。私に対しては不機嫌が通常モードだし、最初から怒られていたような覚えがある。
「だから俺も驚いた。ちゃんと感情を出せる相手ができたんだなって」
以前の修司さんは会社の女性は別にして、誰に対しても常に平坦な態度で接していたのだという。それは好ましくある反面、辛いことも悲しいことも身の内にしまい込んでいることにも繋がる。きっとそれは私が無理に浮かべていた笑みと同じ。
ふと修司さんの言葉が脳裏を過ぎった。
「だからあんたが笑ってはいはい言っている姿が、自分に重なったのかもしれない。あんたもそうやって何か守ってんのかなって。助けるなんておこがましいけど、せめて片足突っ込んでる嫌な場所から、引っ張り上げてやりてーなって」
昨年の夏頃だったろうか。香さんへの想いを打ち明けられた後、修司さんは自分の辛さよりも私のことを案じていた。
「それになぎささんと知り合ってからよ。私達と一緒に行動するようになったの」
「だよね。これまでは香姉としか連まなかったもん」
咲さんと富沢くんが顔を見合わせて苦笑した。香さんも同じ表情で補足する。
「偶然にも他の兄弟姉妹がくっついちゃったでしょ? 好きになった本人達はもちろん悪くないけど、私と修司だけは母親達のやり方に反発していたからね。自然と疎遠になりつつあったのよ」
おそらく修司さんと富沢くん達が揃って、香さんの赤ちゃんを見に来ることはなかった、と。実際由奈ちゃんが産まれたときはそうだったから。
「男には失礼かもしれないが、今の修司くんは可愛いくて、更に親しみが湧くよ」
まるで本当の弟のことを話すように、雅治さんは目を細めて洩らす。
「なぎさちゃん」
ふわっと香さんが私の両手を包んだ。
「修司は私の大事な弟なの。よろしくお願いね」
修司さん。私は自分の意思で、望んで「はい」と応えてもいいですか?
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