バツイチの恋

文月 青

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まだ肌寒さは残るものの、時折吹く暖かい風にようやく春の訪れを感じられるようになった。桜屋の窓から見える山々にまだ色はなく、枯れたような淋しい装いになっているが、これから生き生きとした緑が芽吹いて柔らかな季節を彩ってゆく。

「四月のシフトができたので、それぞれ確認しておいて下さいね」

仕事を終えて帰り支度をしているパートさん達に、出勤日や宿泊予定数等を書き込んだ用紙を配っていると、隣から富沢くんが意味ありげな視線を送ってきた。

「最近頼もしくなったよね、一ノ瀬さん」

「そうかな」

小さく笑んで毎日提出している日報で、今日の作業に漏れがないか確認する。先日危うく一部屋清掃を忘れるところだったので、その戒めも込めてチェックは怠らない。

一月に体調不良でダウンした後、私は兼ねてからの話であったパートのリーダーを引き受けた。正直不安に押し潰されそうだったが、いきなり主任の仕事を引き継ぐことはなく、シフト作成や資材発注、日報の確認等を覗けば、仕事内容はさほど差はなかった。

といっても業務連絡ならいざ知らず、ミスの指摘や注意をするときは、翌日からパートさん達に口もきいてもらえなくなったらどうしようと毎回冷や汗ものだ。幸い気を悪くする人がいないので助かっているけれど、やはり他人の顔色を窺う癖はなかなか抜けない。

「そろそろ修兄と咲姉が来る頃かな」

腕時計を確認して富沢くんが呟いた。三月半ばの日曜日。間もなく修司さんの二十八歳の誕生日なので、いつものメンバーでお祝いをすることになっている。勤務時間が伸びた私に合わせて、三人が都合をつけてくれるのがありがたい。

「そういえば富沢くん、お兄さんの欲しい物知らない?」

日報にサインをしてファイルに綴じながら、三月に入ってから頭を悩ませている案件について訊ねる。ハンドクリームをプレゼンとして貰って凄く嬉しかったから、せめて私もその半分でも修司さんを喜ばせたいのに、彼が欲しがっている物の見当がつかない。

「別に気を使わなくていいぞ」

当の本人もこの調子だし、プレゼント選びは暗礁に乗り上げている。

「修兄は人にも物にもこだわりがないし、一ノ瀬さんがいてくれたらそれで充分なんじゃないの」

バッグを手に揶揄ってくる富沢くんを私は軽く睨んだ。




桜屋の駐車場には既に白い車が待っていた。修司さんと出会って一年。もう二度と会うことはないと思っていた彼と、五月に葉桜の下で再会したときは、あまりの偶然に目を瞠ったものだ。

「なぎ、お疲れ」

修司さんが運転席から手を振っている。富沢くんは笑いを堪えて、咲さんがいる後部座席に乗り込む。その咲さんも俯いて肩を揺らしている。最近この二人は修司さんの態度の変化がおかしくて仕方がないのだ。その姿見たさに四人でつるんでいると言っても過言ではない。

先週みんなでドライブした際にもそれは顕著に表れていた。

「修司さん…じゃなかった富沢さん」

うっかり心の声が洩れてしまい、名前で呼びかけて訂正した私に、ハンドルを握る修司さんは拗ねたように口を尖らせたのである。

「じゃないって…俺、修司なんだけど」

「それはそうですが」

「大体あんたは悟や咲とはタメ口のくせに、何で俺にだけ馬鹿丁寧に喋るんだよ。すっげー疎外されてるような気がする」

二の句が継げない私を尻目に、富沢くんと咲さんは後部座席で息も絶え絶え。しかもそれ以来修司さんは私のことを「なぎ」と呼ぶようになった。

「別れたご主人と同じ、なぎさという呼び方はしたくない」

という理由で。だからさっき富沢くんも咲さんも揃って笑っていたのだ。

もっとも修司さんは甘えているわけでも、極端に嫉妬しているわけでもない。ちょっとしたことで自信を失いかける私が、誤解による不安に苛まれないよう、実は本来苦手である筈の意思表示に努めてくれている。

「一ノ瀬さーん、今日の日報なんだけど」

お待たせしましたと運転席を覗き込んだところで、背後から恒例の主任の声が届いた。富沢くん達に負けず劣らず楽しんでいると思しき彼は、案の定修司さんが迎えに来たときだけ駐車場に現れる。いい加減やめてもらいたい。

「ごめんなさい。ちょっと行ってきますね」

断りを入れている途中で運転席のドアが開いた。降りてきた修司さんは左手で私の右手を掴み、後部座席の窓の下に隠れた部分でいきなり指を絡ませる。  まだ笑いが収まっていない車内の二人は、こちらに表情が見えないよう背を向けていた。

「富沢さん?」

唐突な行動に驚く私に、修司さんは無言を貫いている。

「先に事務所に戻っているね」

呑気に宣う主任が踵を返すと、修司さんは右手で私の後頭部を押さえた。

「誕生日のプレゼント、貰う」

予告もなしにほんの一瞬唇を触れ合わせる。

「欲しいものでいいんだろ」

仏頂面で照れる修司さんに唖然とする私。さり気なさ過ぎて抵抗する間もなかった。

「こ、こ、こ、キ、キ、キ!」

こんな人目のある、それも私の職場でキスするなんて何を考えているんですか! と文句を言いたかったけれど、あまりの衝撃にもはや単語すら出てこない。湯上りみたいにのぼせてしまっている。もう本当に何なのこの人。

「あんたが悪い。ここんとこ、急に綺麗になるから…」

ぎょっとする私にちっと舌打ちする修司さん。

「ったく、俺にこんなこと言わせるのはあんたくらいだ。とんだ一つを選んじまった」

主任がまた出てきたよーと、富沢くんが後部座席の窓を叩くと、修司さんは苦虫を噛み潰したような表情でさっさと済ませてこいとぼやいた。ついでのように洩らされた一言に、この上ない幸せに包まれた私は、誤魔化すように頭上を振り仰ぐ。綻ぶまでもう少しの桜の代わりに、目の前に立つ人の花のような笑みが降った。



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