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私は別れた夫である一ノ瀬さんと、窓際の席に向かい合って座っていた。綾江を通して連絡をくれたのに、会わないと突っぱねた手前とても気まずい。しかもここは以前修司さんと立ち寄ったコーヒーショップだ。余計に居たたまれない。
「勤務先まで押しかけて悪かったね」
一時は毎日聞いていた低い声で、初めに一ノ瀬さんは謝った。目の前には懐かしい笑み。離婚間際には私のせいで見せてくれなくなっていた。
「仕事は終わってましたから」
首を振る私に困ったように零す。
「ずいぶん他人行儀だね」
「他人ですし」
注文したコーヒーは手つかずのまま、テーブルに湯気を上らせている。あの日道路に照りつけた陽射しも今はなく、柔らかな光が秋の訪れを知らせていた。
「修兄に電話するから待って」
桜屋の駐車場で一ノ瀬さんの車に乗り込もうとした私を、富沢くんは焦ったように引き止めた。これまで男っ気がまるでなかった私に、唐突に白車の王子様が迎えに現れたのだ。動揺する気持ちは分かる。
「私は富沢くんの同僚なだけよ。どうしてお兄さんが出てくるの」
やんわり押さえる私に、富沢くんはきゅっと唇を結んだ。私を真っ直ぐに見据える。
「修兄が帰って来なかった日、一ノ瀬さんと一緒にいたんじゃないの?」
よもやこんな非常時での鋭い質問に、私は平静を装うので精一杯。
「ち、違うけど」
「でもあれから二人は会っていないよね?」
「元々約束していないでしょ」
きっと富沢くんは何か感づいているのだろう。でも誤解させてはいけない。修司さんが想っているのは香さんだけなのだから。
「心配してくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
なるべく明るく手を振って、私は話がしたいという一ノ瀬さんの車に乗った。
「まだ一ノ瀬を名乗ってくれていたんだね」
ようやくコーヒーに口をつけ、一ノ瀬さんが感慨深げに洩らした。さっき同僚の男の子がそう呼んでいたからと補足する。そういえば彼は私と両親の確執を知らない。未練から名字を旧姓に戻していないと解されたのかもしれない。
「期待しても、いいのかな?」
案の定一ノ瀬さんは熱い視線を私に向ける。彼の言動の意味が分からない。私に嫌気がさした上での離婚で、しかもずっと連絡を取っていなかったのに、何故今頃になって妙なことを言いだすのだろう。
「一ノ瀬さんの名字を使わせてもらったのは、両親がそれを希望したからで、他意はないんです」
正直に答えてから気づく。もし修司さんにこの名字で呼ばれたら、きっと私は傷ついていた。他の男性のものとして扱われているようで。男の修司さんがそこまで考えたとは思い難いけれど、ちょっとしたことに現れる優しさに心が温かくなる。
「驚いた」
一ノ瀬さんが目を瞬いた。今日は店内が混み合っていて、引っ切り無しに人が出入りしている。
「なぎさがはっきり自分の意思を伝えてくるの、初めてじゃないかな」
「そう、でしたか?」
たったこれだけの事実も、当時の私は口にできなかったのだろうか。誤魔化すように飲んだコーヒーはもう冷めかけていた。
「それにそんなふうに笑うのも」
つられて自分の頬に手を当てる。
「悔しいけど、凄くいい顔してる」
嬉しいのか悲しいのか判別がつかない、複雑な表情で一ノ瀬さんが肩を落とした。
「本当はなぎさとやり直したくて、恥を忍んで会いに来たんだ。でも遅かったようだ」
「どうして…。一ノ瀬さん、私のこと重荷になってましたよね? 第一他に好きな人が」
「そこを突かれると痛いな。確かに別れる頃は、なぎさの人形みたいな様子に辟易してた」
瞬時に体が強張る。
「いつもこちらの言うことに二つ返事で頷いて、固定された笑みを貼り付けて。そこには喜怒哀楽なんて微塵も感じなかった」
だから浮気をしていい理由にはならないけど、と一ノ瀬さんがため息をつく。その頃つきあっていた人とは、離婚と同時に破局したのだそうだ。
「俺との暮らしは辛いだけだった?」
「いいえ。むしろ不満なんてありませんでした」
不満がなかったからこそ、この暮らしがいつまで続くのだろうと、逆に不安を煽る結果になった。終わるのが怖くて、負の感情を隠すことに必死だった。一ノ瀬さんは何も悪くない。私が彼も自分も信じられなかっただけ。
「ずっと後悔してたんだ。せめて出会った頃のなぎさに戻してあげたくて。その役目はさせて貰えなくなったけど」
そこで一ノ瀬さんは自嘲気味に笑んだ。
「前に一緒にいた人の影響?」
以前すれ違ったときに、修司さんが隣にいたことを指しているのだろう。
「はい」
「即答か。参ったな。つきあっているの?」
否定するべくあっさり頭を振る。
「彼には大切な人がいるので」
「それでも不幸じゃないんだ?」
心配そうにこちらを窺う一ノ瀬さんに、私は大きく頷いて見せた。
「幸せです」
「勤務先まで押しかけて悪かったね」
一時は毎日聞いていた低い声で、初めに一ノ瀬さんは謝った。目の前には懐かしい笑み。離婚間際には私のせいで見せてくれなくなっていた。
「仕事は終わってましたから」
首を振る私に困ったように零す。
「ずいぶん他人行儀だね」
「他人ですし」
注文したコーヒーは手つかずのまま、テーブルに湯気を上らせている。あの日道路に照りつけた陽射しも今はなく、柔らかな光が秋の訪れを知らせていた。
「修兄に電話するから待って」
桜屋の駐車場で一ノ瀬さんの車に乗り込もうとした私を、富沢くんは焦ったように引き止めた。これまで男っ気がまるでなかった私に、唐突に白車の王子様が迎えに現れたのだ。動揺する気持ちは分かる。
「私は富沢くんの同僚なだけよ。どうしてお兄さんが出てくるの」
やんわり押さえる私に、富沢くんはきゅっと唇を結んだ。私を真っ直ぐに見据える。
「修兄が帰って来なかった日、一ノ瀬さんと一緒にいたんじゃないの?」
よもやこんな非常時での鋭い質問に、私は平静を装うので精一杯。
「ち、違うけど」
「でもあれから二人は会っていないよね?」
「元々約束していないでしょ」
きっと富沢くんは何か感づいているのだろう。でも誤解させてはいけない。修司さんが想っているのは香さんだけなのだから。
「心配してくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
なるべく明るく手を振って、私は話がしたいという一ノ瀬さんの車に乗った。
「まだ一ノ瀬を名乗ってくれていたんだね」
ようやくコーヒーに口をつけ、一ノ瀬さんが感慨深げに洩らした。さっき同僚の男の子がそう呼んでいたからと補足する。そういえば彼は私と両親の確執を知らない。未練から名字を旧姓に戻していないと解されたのかもしれない。
「期待しても、いいのかな?」
案の定一ノ瀬さんは熱い視線を私に向ける。彼の言動の意味が分からない。私に嫌気がさした上での離婚で、しかもずっと連絡を取っていなかったのに、何故今頃になって妙なことを言いだすのだろう。
「一ノ瀬さんの名字を使わせてもらったのは、両親がそれを希望したからで、他意はないんです」
正直に答えてから気づく。もし修司さんにこの名字で呼ばれたら、きっと私は傷ついていた。他の男性のものとして扱われているようで。男の修司さんがそこまで考えたとは思い難いけれど、ちょっとしたことに現れる優しさに心が温かくなる。
「驚いた」
一ノ瀬さんが目を瞬いた。今日は店内が混み合っていて、引っ切り無しに人が出入りしている。
「なぎさがはっきり自分の意思を伝えてくるの、初めてじゃないかな」
「そう、でしたか?」
たったこれだけの事実も、当時の私は口にできなかったのだろうか。誤魔化すように飲んだコーヒーはもう冷めかけていた。
「それにそんなふうに笑うのも」
つられて自分の頬に手を当てる。
「悔しいけど、凄くいい顔してる」
嬉しいのか悲しいのか判別がつかない、複雑な表情で一ノ瀬さんが肩を落とした。
「本当はなぎさとやり直したくて、恥を忍んで会いに来たんだ。でも遅かったようだ」
「どうして…。一ノ瀬さん、私のこと重荷になってましたよね? 第一他に好きな人が」
「そこを突かれると痛いな。確かに別れる頃は、なぎさの人形みたいな様子に辟易してた」
瞬時に体が強張る。
「いつもこちらの言うことに二つ返事で頷いて、固定された笑みを貼り付けて。そこには喜怒哀楽なんて微塵も感じなかった」
だから浮気をしていい理由にはならないけど、と一ノ瀬さんがため息をつく。その頃つきあっていた人とは、離婚と同時に破局したのだそうだ。
「俺との暮らしは辛いだけだった?」
「いいえ。むしろ不満なんてありませんでした」
不満がなかったからこそ、この暮らしがいつまで続くのだろうと、逆に不安を煽る結果になった。終わるのが怖くて、負の感情を隠すことに必死だった。一ノ瀬さんは何も悪くない。私が彼も自分も信じられなかっただけ。
「ずっと後悔してたんだ。せめて出会った頃のなぎさに戻してあげたくて。その役目はさせて貰えなくなったけど」
そこで一ノ瀬さんは自嘲気味に笑んだ。
「前に一緒にいた人の影響?」
以前すれ違ったときに、修司さんが隣にいたことを指しているのだろう。
「はい」
「即答か。参ったな。つきあっているの?」
否定するべくあっさり頭を振る。
「彼には大切な人がいるので」
「それでも不幸じゃないんだ?」
心配そうにこちらを窺う一ノ瀬さんに、私は大きく頷いて見せた。
「幸せです」
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