4 / 41
4
しおりを挟む
連休中は一日も休まずに出勤していたら、二週間ぶっ通しで働く結果となった。他のパートさんを交代で休ませるためとはいえ、さすがに寝に帰るだけの私も疲れた。でも少しは人の役に立てたし、夜もよく眠れたので良しとしよう。
「隈ができてるぞ」
日中たっぷりと睡眠を取ったので、今度はお腹を満たそうと訪れた、近所のショッピングモールのレストラン街で、背後から呆れた声が頭上に振った。つられて上を見た私の目に飛び込んできたのは、仕事モードの修司さんだった。
「仕事、全然休んでないんだって?」
弟に聞いたと補足して、修司さんは愛想のなさを発揮する。
「今日は休みです。富沢さんこそ、仕事帰りですか?」
スーツ姿で髪を整えているのもさることながら、脇の方で連れらしい男女がこちらを窺っていて、特に女の子の視線が一際痛い。
「ああ。ところであんた、これから飯?」
「はい」
「ちょうど良かった。また協力して」
そう言うなり修司さんは、連れの男女に向かってあっさり断りを入れた。
「悪い。俺、抜けるわ」
大きな手で私の肩を押して、合コンのときのように足早にその場を去る。突き刺さる視線を感じる間もなく、少しひんやりした宵闇に出た。
「助かったよ」
ネクタイを心持ち緩めながら、修司さんがふーっと息を吐く。同僚に誘われたカラオケに、他部署の話したことがない女の子達が付いていたので、逃げる隙を探していたらしい。
「飯食うのに、野郎だけでわざわざショッピングモールなんて、おかしいとは思ったんだけどさ」
そこに女の子達がスタンバイしていたのだそうだ。修司さんは苦々しげに吐き捨てるけれど、彼女達の気持ちも分かるような気がした。
若くて素敵な人だ。仕事ぶりは知らないけれど、てきぱきとこなしそうだし、特定の相手がいなければ、お近づきになりたくもなろう。女性を紹介されることを煙たがっているなら尚更。
「では、私はこれで」
自分なんかにもう用はないだろうし、お腹の虫が鳴くのを聞かれるのもみっともない。なので私はさっさと退散することにした。
「おい、待てって」
ところが修司さんは焦ったように私の腕を掴んだ。
「飯、食おう」
「富沢さんと、私がですか?」
驚いて目を瞬く私に、彼は唖然として呟いた。
「そんなにびっくりすることか」
することです。私にとっては。
修司さんの行きつけだという店は、年配のご夫婦が二人で営む、カウンターとテーブル席が三つだけの小さな食堂だった。仕事帰りのサラリーマンがほっと一息つけるような、家庭的な雰囲気を醸し出している。
「お洒落な所じゃなくて、がっかりしたか?」
カウンターに座るなり修司さんが言った。
「いいえ。むしろ好ましいです」
ただでさえ修司さんと一緒で動揺しているのに、煌びやかな店に案内されたら更に緊張が増す。私にはこちらの方が断然嬉しい。
「いらっしゃいませ。今日は女の子連れ?」
女将さんが笑顔で水とおしぼりを手渡してくれる。
「香ちゃん以来ね」
「まあ。いつものお願いできる?」
「かしこまりました」
香ちゃんという名前が気にならなくもないが、おそらく修司さんの昔の彼女だろうと想像がついたので、あえて突っ込まずにコップの水を飲んだ。
一緒に来たはいいものの、私と修司さんの間に特に話題があるわけでもなく、店内を見回しながら無言で並んでいると、目の前に和定食のお膳が置かれた。湯気の上るご飯と味噌汁、魚の煮付けに煮物と漬物。
「よくある家庭料理で申し訳ないんだけど」
にっこり微笑む女将さんに首を振り、私は食欲をそそる匂いに箸を取った。
「美味しい」
初めに口をつけた具沢山の味噌汁の、野菜と出汁が生み出す優しい味わいに、思わず吐息が洩れる。
「だろ?」
相槌を打ちつつ、がつがつ食べる修司さんは男らしい。私も遠慮なく魚の煮付けを口に運ぶ。ふっくらした身に、甘辛い煮汁が染みて堪らない。
結婚している頃は夫を喜ばせようと、本と首っぴきであれこれ作ったものだった。要領が悪くて余計な時間がかかったり、失敗も何度もしたけれど、それが楽しい時間だったときもあった。
一人になってからは自分のために何かすること自体億劫で、清掃の仕事に就いていながら、部屋の掃除はおざなりだし、食事に至っては出来合いのお惣菜を買ったり、レンジでチンして食べられる物で終わらせていた。
「ごちそうさまでした」
修司さんと同じ量を平らげ、満足して手を合わせていると、彼は我慢できないというふうに吹き出した。
「こんだけ食べる女、会社にはまずいないな」
「すみません」
女にはあるまじき勢いで、夢中で食事をしていたことが急に恥ずかしくなった。
「ばーか。褒めてんだよ。女と飯食って美味いと思ったの、久し振りだ」
「はあ」
「変な人だな、あんた」
ちっとも褒められている気はしないけれど、子供のように無邪気に笑う修司さんに、私は呼吸困難に陥りそうな気分だった。きっとこれはボーナス。仕事を頑張ったご褒美。だからあとは夢の中で幸せが続いてくれたらそれでいい。
「隈ができてるぞ」
日中たっぷりと睡眠を取ったので、今度はお腹を満たそうと訪れた、近所のショッピングモールのレストラン街で、背後から呆れた声が頭上に振った。つられて上を見た私の目に飛び込んできたのは、仕事モードの修司さんだった。
「仕事、全然休んでないんだって?」
弟に聞いたと補足して、修司さんは愛想のなさを発揮する。
「今日は休みです。富沢さんこそ、仕事帰りですか?」
スーツ姿で髪を整えているのもさることながら、脇の方で連れらしい男女がこちらを窺っていて、特に女の子の視線が一際痛い。
「ああ。ところであんた、これから飯?」
「はい」
「ちょうど良かった。また協力して」
そう言うなり修司さんは、連れの男女に向かってあっさり断りを入れた。
「悪い。俺、抜けるわ」
大きな手で私の肩を押して、合コンのときのように足早にその場を去る。突き刺さる視線を感じる間もなく、少しひんやりした宵闇に出た。
「助かったよ」
ネクタイを心持ち緩めながら、修司さんがふーっと息を吐く。同僚に誘われたカラオケに、他部署の話したことがない女の子達が付いていたので、逃げる隙を探していたらしい。
「飯食うのに、野郎だけでわざわざショッピングモールなんて、おかしいとは思ったんだけどさ」
そこに女の子達がスタンバイしていたのだそうだ。修司さんは苦々しげに吐き捨てるけれど、彼女達の気持ちも分かるような気がした。
若くて素敵な人だ。仕事ぶりは知らないけれど、てきぱきとこなしそうだし、特定の相手がいなければ、お近づきになりたくもなろう。女性を紹介されることを煙たがっているなら尚更。
「では、私はこれで」
自分なんかにもう用はないだろうし、お腹の虫が鳴くのを聞かれるのもみっともない。なので私はさっさと退散することにした。
「おい、待てって」
ところが修司さんは焦ったように私の腕を掴んだ。
「飯、食おう」
「富沢さんと、私がですか?」
驚いて目を瞬く私に、彼は唖然として呟いた。
「そんなにびっくりすることか」
することです。私にとっては。
修司さんの行きつけだという店は、年配のご夫婦が二人で営む、カウンターとテーブル席が三つだけの小さな食堂だった。仕事帰りのサラリーマンがほっと一息つけるような、家庭的な雰囲気を醸し出している。
「お洒落な所じゃなくて、がっかりしたか?」
カウンターに座るなり修司さんが言った。
「いいえ。むしろ好ましいです」
ただでさえ修司さんと一緒で動揺しているのに、煌びやかな店に案内されたら更に緊張が増す。私にはこちらの方が断然嬉しい。
「いらっしゃいませ。今日は女の子連れ?」
女将さんが笑顔で水とおしぼりを手渡してくれる。
「香ちゃん以来ね」
「まあ。いつものお願いできる?」
「かしこまりました」
香ちゃんという名前が気にならなくもないが、おそらく修司さんの昔の彼女だろうと想像がついたので、あえて突っ込まずにコップの水を飲んだ。
一緒に来たはいいものの、私と修司さんの間に特に話題があるわけでもなく、店内を見回しながら無言で並んでいると、目の前に和定食のお膳が置かれた。湯気の上るご飯と味噌汁、魚の煮付けに煮物と漬物。
「よくある家庭料理で申し訳ないんだけど」
にっこり微笑む女将さんに首を振り、私は食欲をそそる匂いに箸を取った。
「美味しい」
初めに口をつけた具沢山の味噌汁の、野菜と出汁が生み出す優しい味わいに、思わず吐息が洩れる。
「だろ?」
相槌を打ちつつ、がつがつ食べる修司さんは男らしい。私も遠慮なく魚の煮付けを口に運ぶ。ふっくらした身に、甘辛い煮汁が染みて堪らない。
結婚している頃は夫を喜ばせようと、本と首っぴきであれこれ作ったものだった。要領が悪くて余計な時間がかかったり、失敗も何度もしたけれど、それが楽しい時間だったときもあった。
一人になってからは自分のために何かすること自体億劫で、清掃の仕事に就いていながら、部屋の掃除はおざなりだし、食事に至っては出来合いのお惣菜を買ったり、レンジでチンして食べられる物で終わらせていた。
「ごちそうさまでした」
修司さんと同じ量を平らげ、満足して手を合わせていると、彼は我慢できないというふうに吹き出した。
「こんだけ食べる女、会社にはまずいないな」
「すみません」
女にはあるまじき勢いで、夢中で食事をしていたことが急に恥ずかしくなった。
「ばーか。褒めてんだよ。女と飯食って美味いと思ったの、久し振りだ」
「はあ」
「変な人だな、あんた」
ちっとも褒められている気はしないけれど、子供のように無邪気に笑う修司さんに、私は呼吸困難に陥りそうな気分だった。きっとこれはボーナス。仕事を頑張ったご褒美。だからあとは夢の中で幸せが続いてくれたらそれでいい。
0
お気に入りに追加
258
あなたにおすすめの小説
【完結】いてもいなくてもいい妻のようですので 妻の座を返上いたします!
ユユ
恋愛
夫とは卒業と同時に婚姻、
1年以内に妊娠そして出産。
跡継ぎを産んで女主人以上の
役割を果たしていたし、
円満だと思っていた。
夫の本音を聞くまでは。
そして息子が他人に思えた。
いてもいなくてもいい存在?萎んだ花?
分かりました。どうぞ若い妻をお迎えください。
* 作り話です
* 完結保証付き
* 暇つぶしにどうぞ
【完結】愛も信頼も壊れて消えた
miniko
恋愛
「悪女だって噂はどうやら本当だったようね」
王女殿下は私の婚約者の腕にベッタリと絡み付き、嘲笑を浮かべながら私を貶めた。
無表情で吊り目がちな私は、子供の頃から他人に誤解される事が多かった。
だからと言って、悪女呼ばわりされる筋合いなどないのだが・・・。
婚約者は私を庇う事も、王女殿下を振り払うこともせず、困った様な顔をしている。
私は彼の事が好きだった。
優しい人だと思っていた。
だけど───。
彼の態度を見ている内に、私の心の奥で何か大切な物が音を立てて壊れた気がした。
※感想欄はネタバレ配慮しておりません。ご注意下さい。
【完結】公爵令嬢は王太子殿下との婚約解消を望む
むとうみつき
恋愛
「お父様、どうかアラン王太子殿下との婚約を解消してください」
ローゼリアは、公爵である父にそう告げる。
「わたくしは王太子殿下に全く信頼されなくなってしまったのです」
その頃王太子のアランは、婚約者である公爵令嬢ローゼリアの悪事の証拠を見つけるため調査を始めた…。
初めての作品です。
どうぞよろしくお願いします。
本編12話、番外編3話、全15話で完結します。
カクヨムにも投稿しています。
美枝子とゆうすけ~かあさんに恋したら
佐伯達男
恋愛
お見合いを断られた青年が好きになった人は…
お見合い相手のバツイチママであった。
バツイチで4人の孫ちゃんのおばあちゃんとうんと年下の青年の恋に、ますます複雑になって行く30娘の恋模様。
【完結】婚約者の義妹と恋に落ちたので婚約破棄した処、「妃教育の修了」を条件に結婚が許されたが結果が芳しくない。何故だ?同じ高位貴族だろう?
つくも茄子
恋愛
国王唯一の王子エドワード。
彼は婚約者の公爵令嬢であるキャサリンを公の場所で婚約破棄を宣言した。
次の婚約者は恋人であるアリス。
アリスはキャサリンの義妹。
愛するアリスと結婚するには「妃教育を修了させること」だった。
同じ高位貴族。
少し頑張ればアリスは直ぐに妃教育を終了させると踏んでいたが散々な結果で終わる。
八番目の教育係も辞めていく。
王妃腹でないエドワードは立太子が遠のく事に困ってしまう。
だが、エドワードは知らなかった事がある。
彼が事実を知るのは何時になるのか……それは誰も知らない。
他サイトにも公開中。
仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが
ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。
定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない
そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──
亡くなった王太子妃
沙耶
恋愛
王妃の茶会で毒を盛られてしまった王太子妃。
侍女の証言、王太子妃の親友、溺愛していた妹。
王太子妃を愛していた王太子が、全てを気付いた時にはもう遅かった。
なぜなら彼女は死んでしまったのだから。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる