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番外編
君の隣で 2
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四月半ばの陽気の中を、俺は奏音と二人でゆっくり歩いていた。休日の住宅街は静かで、揃って外出している家庭も多いのだろう。時折届く賑やかな子供の声と、宿題は終わったのと呼びかける母親、キャッチボールをしようと庭に出る父親の姿に、自然と口元が綻ぶ。そこに犬の鳴き声が混じるのはご愛嬌。
「やっぱり小さくても庭つきっていいね」
楽しげな家族に目を細めながら、ふふっと奏音が小さく笑う。この辺りは建売の戸建てが増えており、似たようなデザインの家が並んでいるが、やはりマイホームはいいなと俺も思う。
「犬小屋も置けるし」
俺は速攻で妻の頭を小突いた。
「叱られた俺の逃げ場になりそうで嫌だ」
「犬がリビングで踏ん反り返っていたりして」
お互いに顔を見合わせて吹き出す。今日はこれから同僚の富沢を訪ねることになっている。実はうちと彼のアパートは歩いて十五分の距離にある。
「なぎは自分の家族に頼れないから」
俺や奏音を心配する一方、実家との関わりを絶っているなぎささんの力にもなってほしいと言われ、双方支え合えるならと近所に新居を構えた。
「なぎが妊娠した」
めでたい報告がなされたのは、つい三日前のことだった。よもや子供ができたとは想像もしていなかったらしく、
「食べ過ぎかも」
胃のムカムカが数日続いていながら、なぎささんは清掃の仕事に通っていたのだそうだ。そこでとうとう吐き気を催し、年配のパートさんから悪阻ではと指摘されたのだとか。
「まさか、どうして私が」
「どうしてって、やることやってれば可能性はあるだろうが」
気が動転して妙なことを口走るなぎささんに、原因を作った張本人が突きつけると、彼女は恥ずかしさのあまり、顔を覆ってしまったというのだから、何とも微笑ましい限りだ。
「男の子かな、女の子かな。産まれたら俺にも抱っこさせろよ?」
我が事のように浮き足立つ俺に、富沢は当然だと頷いた。
「自分の幼少期と被るのか、子供にちゃんと愛情を注げるかなぎが不安がっている。高梨と嫁さんが一緒にいてくれると、あいつも心強い」
きっと話し辛かったであろう富沢が、一番初めに俺に知らせてくれたこと、済まなそうな態度を一切見せなかったことが、そして頼ってくれたことが何よりも嬉しかった。
「可愛い」
すれ違うベビーカーの赤ちゃんに、奏音の小さな囁きが洩れた。淋しさや悲しさとは無縁な、きらきらした輝きを目に宿している。
口にしても詮無いことだが、正直我が子を抱いてみたかった。けれどそれは奏音の方がずっと強く感じていることだろうし、もしも逆の立場だったら、俺も望むのは奏音との子供だけだ。
「本当だ。富沢二世の誕生が待ち遠しいな」
だから素直にそう言える。
「富沢さん似だと、抱っこした瞬間睨まれそうだけど」
そして俺をそんな穏やかな気持ちにさせる奏音は、やっぱり凄いと思うのだ。
「せっかくの日曜日に悪いな」
出迎えた富沢がお約束の仏頂面で部屋に招き入れた。本来ならなぎささんの体調が落ち着くまで、訪問は遠慮するべきなのだろうが、肝心の彼女が塞ぎがちなのだという。
「こればかりは俺では役立たずだからな」
女性でなければ分かり合えないこともあろうと、富沢はあえて奏音に声をかけたのだ。幸い悪阻は酷くなっていないそうで、なぎささんはリビングのソファにゆったり腰かけていた。
「具合はどうですか?」
挨拶を交わした後、奏音はなぎささんに寄り添うように並んだ。俺の病気を知って以来、こうして守るように傍にいてくれたなぎささんに、どれだけ救われたかしれないと呟いていたことがあった。
「大丈夫よ」
笑みを浮かべるなぎささんに、富沢が呆れたように肩をすくめる。
「嘘つけ」
インスタントだがと断って勧めてきたのは、三つのコーヒーと一つのミルク。お茶を淹れることもさることながら、態度とは裏腹な労りに男なのに絆されそうになる。
「このお腹の中に赤ちゃんがいるって、何だか不思議」
コーヒーを一口飲んでから、奏音がそっとなぎささんのお腹に触れた。
「私もまだ実感が湧かないの。早くお母さんとしてしっかりしなくちゃと思うんだけど」
富沢の子供を授かったのは心底嬉しい。でも両親に疎まれて育ったなぎささんは、子供を可愛がる自分をイメージできなくて苦しんでいる。
「えー、そんなに急がなくても。子供にとってはなぎささんがこの先ずっとママなんだもの。少しずつママに近づけばいいんじゃないですか」
「少し、ずつ?」
「だってうちのお兄ちゃんなんて、お義姉さんが悪阻で参ってるときに、病気じゃないからって釣りに行っちゃったのよ。むしろしっかりしなくちゃいけないのは、男よ男!」
奏音にビシッと人差し指を向けられ、富沢が俺? と目を瞬く。奏音の実家では義兄のこの所業は、現在も釣り三昧の彼を抑えるべく語られている。
「第一富沢さんの子でしょ。放っておいたって絶対強くなる筈。男なら般若みたいな顔で産まれてくるかも」
「般若……」
何か思い当たる節があるのか、なぎささんの表情がふいに柔らかくなった。代わりに富沢が眼光鋭く奏音を睨めつけている。
「いい度胸だな、高梨の嫁」
「ほらね。おー怖っ」
わざとらしくお手上げポーズをする奏音。やがてそれぞれ笑いが起こり、強張っていた室内は和やかな空気に包まれた。
「やっぱり小さくても庭つきっていいね」
楽しげな家族に目を細めながら、ふふっと奏音が小さく笑う。この辺りは建売の戸建てが増えており、似たようなデザインの家が並んでいるが、やはりマイホームはいいなと俺も思う。
「犬小屋も置けるし」
俺は速攻で妻の頭を小突いた。
「叱られた俺の逃げ場になりそうで嫌だ」
「犬がリビングで踏ん反り返っていたりして」
お互いに顔を見合わせて吹き出す。今日はこれから同僚の富沢を訪ねることになっている。実はうちと彼のアパートは歩いて十五分の距離にある。
「なぎは自分の家族に頼れないから」
俺や奏音を心配する一方、実家との関わりを絶っているなぎささんの力にもなってほしいと言われ、双方支え合えるならと近所に新居を構えた。
「なぎが妊娠した」
めでたい報告がなされたのは、つい三日前のことだった。よもや子供ができたとは想像もしていなかったらしく、
「食べ過ぎかも」
胃のムカムカが数日続いていながら、なぎささんは清掃の仕事に通っていたのだそうだ。そこでとうとう吐き気を催し、年配のパートさんから悪阻ではと指摘されたのだとか。
「まさか、どうして私が」
「どうしてって、やることやってれば可能性はあるだろうが」
気が動転して妙なことを口走るなぎささんに、原因を作った張本人が突きつけると、彼女は恥ずかしさのあまり、顔を覆ってしまったというのだから、何とも微笑ましい限りだ。
「男の子かな、女の子かな。産まれたら俺にも抱っこさせろよ?」
我が事のように浮き足立つ俺に、富沢は当然だと頷いた。
「自分の幼少期と被るのか、子供にちゃんと愛情を注げるかなぎが不安がっている。高梨と嫁さんが一緒にいてくれると、あいつも心強い」
きっと話し辛かったであろう富沢が、一番初めに俺に知らせてくれたこと、済まなそうな態度を一切見せなかったことが、そして頼ってくれたことが何よりも嬉しかった。
「可愛い」
すれ違うベビーカーの赤ちゃんに、奏音の小さな囁きが洩れた。淋しさや悲しさとは無縁な、きらきらした輝きを目に宿している。
口にしても詮無いことだが、正直我が子を抱いてみたかった。けれどそれは奏音の方がずっと強く感じていることだろうし、もしも逆の立場だったら、俺も望むのは奏音との子供だけだ。
「本当だ。富沢二世の誕生が待ち遠しいな」
だから素直にそう言える。
「富沢さん似だと、抱っこした瞬間睨まれそうだけど」
そして俺をそんな穏やかな気持ちにさせる奏音は、やっぱり凄いと思うのだ。
「せっかくの日曜日に悪いな」
出迎えた富沢がお約束の仏頂面で部屋に招き入れた。本来ならなぎささんの体調が落ち着くまで、訪問は遠慮するべきなのだろうが、肝心の彼女が塞ぎがちなのだという。
「こればかりは俺では役立たずだからな」
女性でなければ分かり合えないこともあろうと、富沢はあえて奏音に声をかけたのだ。幸い悪阻は酷くなっていないそうで、なぎささんはリビングのソファにゆったり腰かけていた。
「具合はどうですか?」
挨拶を交わした後、奏音はなぎささんに寄り添うように並んだ。俺の病気を知って以来、こうして守るように傍にいてくれたなぎささんに、どれだけ救われたかしれないと呟いていたことがあった。
「大丈夫よ」
笑みを浮かべるなぎささんに、富沢が呆れたように肩をすくめる。
「嘘つけ」
インスタントだがと断って勧めてきたのは、三つのコーヒーと一つのミルク。お茶を淹れることもさることながら、態度とは裏腹な労りに男なのに絆されそうになる。
「このお腹の中に赤ちゃんがいるって、何だか不思議」
コーヒーを一口飲んでから、奏音がそっとなぎささんのお腹に触れた。
「私もまだ実感が湧かないの。早くお母さんとしてしっかりしなくちゃと思うんだけど」
富沢の子供を授かったのは心底嬉しい。でも両親に疎まれて育ったなぎささんは、子供を可愛がる自分をイメージできなくて苦しんでいる。
「えー、そんなに急がなくても。子供にとってはなぎささんがこの先ずっとママなんだもの。少しずつママに近づけばいいんじゃないですか」
「少し、ずつ?」
「だってうちのお兄ちゃんなんて、お義姉さんが悪阻で参ってるときに、病気じゃないからって釣りに行っちゃったのよ。むしろしっかりしなくちゃいけないのは、男よ男!」
奏音にビシッと人差し指を向けられ、富沢が俺? と目を瞬く。奏音の実家では義兄のこの所業は、現在も釣り三昧の彼を抑えるべく語られている。
「第一富沢さんの子でしょ。放っておいたって絶対強くなる筈。男なら般若みたいな顔で産まれてくるかも」
「般若……」
何か思い当たる節があるのか、なぎささんの表情がふいに柔らかくなった。代わりに富沢が眼光鋭く奏音を睨めつけている。
「いい度胸だな、高梨の嫁」
「ほらね。おー怖っ」
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