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「行ってきます」

朝食を済ませたスーツ姿の塔矢が、元気に片手を上げて出かけて行った。私はネクタイの曲がりを直しつつ、行ってらっしゃいと笑顔で見送る。初めは気恥ずかしくて、朝から二人で照れまくりだったが、ようやく日常の一コマとして定着した。

涙に暮れていた昨年の今頃を振り返り、晴れやかな空の下でベランダに洗濯物を干す。二人が出会って三年目の春。私と塔矢は結婚した。新たに借りたアパートで、現在は新婚生活を満喫している。もちろん犬は飼っていない。

退院後、塔矢は予定通り一旦実家に身を寄せたが、やはり休職していた会社に戻りたかったらしく、体調が落ち着いたのを確認するや否や、ご両親に頭を下げて復帰を果たしたのである。
 
そのときは以前と同じように、一人暮らしをするつもりだった塔矢に、同居したいと願い出たのは私だった。実家にいる間は物理的に無理でも、近くに住むならできるだけ一緒にいたい。もちろん塔矢の負担になるなら、籍を入れなくて構わない。

「どちらにしても、一度奏音のご両親に挨拶に行こう」

ところが塔矢は返事を保留にした挙句、そう言って聞かなかった。例え同居という形でも、親に内緒で奏音と暮らすわけにはいかないと。私の実家は兄夫婦が継いでいるし、孫もいるので気に病む要素はないのに、頑なに譲らなかった。

しかも渋々私の実家に向かうと、病気のことも子供のことも、全て正直に打ち明けてしまったのだ。私は確実に反対されると項垂れた。

「同棲がいいというのは、逃げ場を残しておきたいからか?」

案の定父が剣呑な空気を醸し出した。母は隣ではらはらしながら成り行きを見守っている。おまけに同居から同棲にすり替わり、響きが微妙に違う。

「はい。自分にもしものことがあったとき、奏音さんを縛らずに済むようにしたいのです」

塔矢の考えは分かっていた。彼はいろんな意味で私に傷をつけたくないのだ。私がそんなこと何の問題にもならないと、いくら口を酸っぱくして説いても、自ら結婚を望むことはなかった。

「そんな曖昧な気持ちでは、上手く行くものも行かないだろう。結婚するか別れるか、今ここで決めなさい」

文句をぶつけようと立ち上がりかけた私は、 信じられないという表情で呟いた塔矢に目を瞬いた。

「結婚……させて頂いても、いいんですか?」

「結婚より同棲を望む親はなかなかいないだろう」

憮然として父は答えたが、塔矢は床に額を擦りつけたまま、言葉を詰まらせていた。ありがとうと言おうとしても声にならない彼に、

「ありがたいと思うなら、いつまでも元気でいなさい」

父は念を押すように告げた。後に母からこっそり教えられた話によると、塔矢は訪問の許可を得る連絡を入れた際、

「自分が奏音さんに相応しくないと判断されたら、彼女の前でその旨を話して下さるようお願い致します」

そう伝えていたのだそうだ。電話の内容に腑に落ちなかった両親は、塔矢自身が置かれている現状を知って予想以上に驚いた。でも塔矢が身を引こうとしていること、何よりも娘のことを大切にしてくれていることを感じ、信じてみようと思ったのだそうだ。




空が薄闇に包まれ始めた。私は苦手な料理と格闘しながら、疲れて帰ってくる塔矢と二人で食べる夕食を拵えている。現在も続けている仕事は、短時間のパートに切り替えてもらい、田中さんの教えを受けて目下料理の修行中。

ちなみに私達の結婚に触発されて、とうとう年貢を納めた麻友さんも、来春塩見さんと結婚する予定だ。

「俺は今すぐ籍だけでも入れたい」

塩見さんはかなりごねたし、麻友さんも式にはこだわらないので、入籍を先に済ませてもよかったのだが、塩見さんのお母さんとお姉さん達に、がっちり阻止されたらしい。うーん、前途多難。

「手紙と指輪は奏音ちゃんの好きにして」

それから塔矢が円さんに託した二つは、病院で見せてもらった日から私が預かっていた。もちろん塔矢は知らない。隠しているのではないが、おそらく私の目に触れぬまま、円さんが処分したと考えているのだろう。特に詮索されたことはない。

いずれ折を見て話すつもりだけれど、その機会を逸した場合に備えて、私は今の心境を綴った手紙を添えた。塔矢から贈られたラブレターには敵わなくても、もしも一人でそれらを手に取ったとき、彼が悲しまないように。

もたもたしているうちに、塔矢の帰宅を告げるチャイムが鳴った。濡れた手を慌ててエプロンで拭って、私は出迎える為に小走りで玄関に向かう。

「ただいま、奏音」

急いでドアを開けると、眩しそうに私をみつめる愛しい人が立っていた。ここに私がいる事実を噛み締めるように、体中から喜びを溢れさせて。だから私もあなたが毎日帰ってくる嬉しさを込めて、これから先何百回も何千回も何万回も、ずっとずっと途切れることなく何度でも言うのだ。

「おかえりなさい、塔矢」


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