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塔矢の病室と同じ階にある家族待機室で、私は彼のご両親と円さんと手術が終わるのを待っていた。何かあったら知らせると言われたせいか、人の気配を感じる度に息を詰めてしまい、別件でノックされたときは全員で立ち上がってしまった。
いくらまだ日が長いとはいえ、十時間の手術が終わる頃には夜。この長い長い時間。何事も起きませんように、無事に成功しますようにと祈ることしかできない。私達が手術室から戻るまで、病室にいてくれた富沢さんとなぎささんは、後で合流すると他の場所に移動していった。おそらく気を使ってくれたのだろう。
「奏音さん、ちょっとだけいい?」
食欲はなくても無理やり昼食を胃に流し込み、午後に備えるために気を引き締めていると、円さんから待機室の外に誘われた。
「あの、ごめんなさい」
沈黙すると余計な不安に囚われるので、つい楽しかった出来事、笑える話ばかりを選んでしていた。でも私を塔矢の知人と思っている円さんやご両親にしてみれば、初対面の小娘から語られる身内の武勇伝など、この場では不謹慎だったかもしれない。
「何を謝ってるの。私はあなたに見せたい物があるのよ」
肩を竦める私に、円さんは不思議そうに首を傾けた。緊急時に対応できるよう、待機室近くにある休憩スペースのテーブルに、二人で向かい会って座る。誰もいない静かな所に、窓から八月終わりの光が入り込む。
「二つあるんだけど、一つ目はこれ」
そう言って円さんがバッグの中から取り出したのは、ベルベット素材のハート型の小さなケースだった。洋服のポケットに忍ばせておけるような手の平サイズのそれを、何故か私の前に差し出す。
「開けてみて」
サイズから想像するに指輪だろう。勧められてそっと蓋を持ち上げると、やはり眩い輝きの指輪が一つ。たぶんダイヤモンド。何故こんな非常時に、これまた非日常を彩るめでたい物をと私は訝しんだ。
「それ、塔矢の部屋にあったの」
自分の手の中にある指輪を凝視していたら、円さんはくすっと小さな笑いを洩らした。
「婚約指輪よね」
この大学病院に急遽入院が決まった塔矢は、引っ越しの準備もアパートの解約も、自身ではできなくなった。代わりに片付けをしたのが家族だと、富沢さんから聞いている。円さんはそのとき、塔矢の部屋でこの指輪を見つけたのだという。
「塔矢に訊いたら、もう要らなくなったから処分してって」
誕生日に贈るものとは意味合いが違う、とても大切であろう指輪を、塔矢は明るく突き返したのだそうだ。要らなくなったということは、本来の使い道が断たれた、もしくは自ら断ったことを表している。
「結婚を考えている人がいたこと自体、寝耳に水だったのに、暗にその話が駄目になったような口振りでしょ。どうしていいのか判断がつかなくて、結局私が持っていたの」
休憩スペースにも空調は効いているのに、妙な寒気と共に指輪のケースを持つ手が震えた。
「高梨さん、奏音ちゃん以外の伴侶は要らないって……」
塩見さんが苦し気に洩らしていたのは六月の終わり頃だったろうか。どんな指輪だったら喜ぶか、受け取ってくれるかと、塔矢が照れ臭そうに吐露していたと。夢物語ではなく本当に近い将来、私との結婚を考えてくれていたの?
「幸せを目前にして重い病気を患うなんて、代われるものなら代わりたい。こっそり泣いていた母は、今日あなたが来てくれてどれだけ喜んでいることか」
その台詞に私は指輪から円さんにぎこちなく視線を移した。
「奏音さんに贈るつもりだったんでしょう」
「ご存知、だったんですか?」
塔矢と私が別れた恋人同士だったことを。そこまで口にする前に円さんはあっさり否定した。
「詳しいことは知らないわ。塔矢もあえて教えてくれなかったし。でも奏音さんの姿を見たときのあの慌てよう。病気のことを友達の殆どにも伏せていたくらいだから、あなたに何を言って帰ってきたのか容易に想像つくわよ」
あのちびっこが一丁前に、プロポーズなんてする年齢になったんだもんねえ。まるで姉弟として過ごした日々を思い起こすように、円さんは感慨深げに眦を下げる。
「それともう一つ」
円さんは再びバッグの中から、今度は薄い空色の無地の封筒を取り出した。一旦指輪をテーブルに置いて、今度は手紙らしき封筒を受け取る。
「こっちは先週塔矢から託されたの。自分に万が一のことがあった後、もしも小林奏音という女性が訪ねてきたら渡して欲しいと」
「万が一……」
呟く私に円さんは苦笑した。
「酷い弟よね。自分がいなくなったときのことを、生きて欲しいと願っている姉に頼むなんて」
口調はからりとしているが、円さんは一体どんな気持ちでこの手紙を預かったのだろう。これを私に渡す日が来たならば、そのときは彼女だって大切な弟を失っているのに。
「良かったら読んでくれる?」
「今、ですか?」
「そう。塔矢は怒るかもしれないけど、きっと奏音さんが一番知りたかったことが認められている筈よ」
私が一番知りたかったこと。それは塔矢の真っさらな想い。じっと封筒をみつめてから私は円さんにしっかり頷いた。封を切って封筒と同色の便箋を手にする。
「前略、空の上より」
真っ先に飛び込んできた見慣れた塔矢の文字が、まるでもうこの世にはいないような文言で始まっていたので、私はぐっと唇を引き結んだ。
いくらまだ日が長いとはいえ、十時間の手術が終わる頃には夜。この長い長い時間。何事も起きませんように、無事に成功しますようにと祈ることしかできない。私達が手術室から戻るまで、病室にいてくれた富沢さんとなぎささんは、後で合流すると他の場所に移動していった。おそらく気を使ってくれたのだろう。
「奏音さん、ちょっとだけいい?」
食欲はなくても無理やり昼食を胃に流し込み、午後に備えるために気を引き締めていると、円さんから待機室の外に誘われた。
「あの、ごめんなさい」
沈黙すると余計な不安に囚われるので、つい楽しかった出来事、笑える話ばかりを選んでしていた。でも私を塔矢の知人と思っている円さんやご両親にしてみれば、初対面の小娘から語られる身内の武勇伝など、この場では不謹慎だったかもしれない。
「何を謝ってるの。私はあなたに見せたい物があるのよ」
肩を竦める私に、円さんは不思議そうに首を傾けた。緊急時に対応できるよう、待機室近くにある休憩スペースのテーブルに、二人で向かい会って座る。誰もいない静かな所に、窓から八月終わりの光が入り込む。
「二つあるんだけど、一つ目はこれ」
そう言って円さんがバッグの中から取り出したのは、ベルベット素材のハート型の小さなケースだった。洋服のポケットに忍ばせておけるような手の平サイズのそれを、何故か私の前に差し出す。
「開けてみて」
サイズから想像するに指輪だろう。勧められてそっと蓋を持ち上げると、やはり眩い輝きの指輪が一つ。たぶんダイヤモンド。何故こんな非常時に、これまた非日常を彩るめでたい物をと私は訝しんだ。
「それ、塔矢の部屋にあったの」
自分の手の中にある指輪を凝視していたら、円さんはくすっと小さな笑いを洩らした。
「婚約指輪よね」
この大学病院に急遽入院が決まった塔矢は、引っ越しの準備もアパートの解約も、自身ではできなくなった。代わりに片付けをしたのが家族だと、富沢さんから聞いている。円さんはそのとき、塔矢の部屋でこの指輪を見つけたのだという。
「塔矢に訊いたら、もう要らなくなったから処分してって」
誕生日に贈るものとは意味合いが違う、とても大切であろう指輪を、塔矢は明るく突き返したのだそうだ。要らなくなったということは、本来の使い道が断たれた、もしくは自ら断ったことを表している。
「結婚を考えている人がいたこと自体、寝耳に水だったのに、暗にその話が駄目になったような口振りでしょ。どうしていいのか判断がつかなくて、結局私が持っていたの」
休憩スペースにも空調は効いているのに、妙な寒気と共に指輪のケースを持つ手が震えた。
「高梨さん、奏音ちゃん以外の伴侶は要らないって……」
塩見さんが苦し気に洩らしていたのは六月の終わり頃だったろうか。どんな指輪だったら喜ぶか、受け取ってくれるかと、塔矢が照れ臭そうに吐露していたと。夢物語ではなく本当に近い将来、私との結婚を考えてくれていたの?
「幸せを目前にして重い病気を患うなんて、代われるものなら代わりたい。こっそり泣いていた母は、今日あなたが来てくれてどれだけ喜んでいることか」
その台詞に私は指輪から円さんにぎこちなく視線を移した。
「奏音さんに贈るつもりだったんでしょう」
「ご存知、だったんですか?」
塔矢と私が別れた恋人同士だったことを。そこまで口にする前に円さんはあっさり否定した。
「詳しいことは知らないわ。塔矢もあえて教えてくれなかったし。でも奏音さんの姿を見たときのあの慌てよう。病気のことを友達の殆どにも伏せていたくらいだから、あなたに何を言って帰ってきたのか容易に想像つくわよ」
あのちびっこが一丁前に、プロポーズなんてする年齢になったんだもんねえ。まるで姉弟として過ごした日々を思い起こすように、円さんは感慨深げに眦を下げる。
「それともう一つ」
円さんは再びバッグの中から、今度は薄い空色の無地の封筒を取り出した。一旦指輪をテーブルに置いて、今度は手紙らしき封筒を受け取る。
「こっちは先週塔矢から託されたの。自分に万が一のことがあった後、もしも小林奏音という女性が訪ねてきたら渡して欲しいと」
「万が一……」
呟く私に円さんは苦笑した。
「酷い弟よね。自分がいなくなったときのことを、生きて欲しいと願っている姉に頼むなんて」
口調はからりとしているが、円さんは一体どんな気持ちでこの手紙を預かったのだろう。これを私に渡す日が来たならば、そのときは彼女だって大切な弟を失っているのに。
「良かったら読んでくれる?」
「今、ですか?」
「そう。塔矢は怒るかもしれないけど、きっと奏音さんが一番知りたかったことが認められている筈よ」
私が一番知りたかったこと。それは塔矢の真っさらな想い。じっと封筒をみつめてから私は円さんにしっかり頷いた。封を切って封筒と同色の便箋を手にする。
「前略、空の上より」
真っ先に飛び込んできた見慣れた塔矢の文字が、まるでもうこの世にはいないような文言で始まっていたので、私はぐっと唇を引き結んだ。
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