上 下
21 / 38

20

しおりを挟む
「前略、空の上より

奏音、元気にしていますか? 君がこの手紙を読んでいるということは、俺はもう遠くの地に旅立っている筈です。本当は奏音の憂いを取り除くためにも、こんな手紙を残してはいけないのだと思います。

ただ一つだけ、どうしても謝りたかったのです。嫌いだなんて言ってごめん。俺が奏音を嫌いになったことは一度としてありません。俺を憎んで、嫌いになって、そして忘れてもらう為の嘘でした。

奏音の傍にいられない、ずっと君を守ることができないと分かったとき、目の前が真っ暗になりました。初めて自分の人生を呪いそうになりました。同時に自分亡き後、一人で悲しみに暮れるであろう、優しい奏音の未来に思いを馳せました。

だから弱ってゆく姿を見せる前に、奏音を傷つける形で君の前から消えました。いつか愛する人と巡り会って、幸せになってくれるように願って……。

でもお見舞いに来てくれた富沢となぎささんに諭されました。

「嫌いだと言ったお前の言葉を鵜呑みにするような人なのか」

「きっと奏音さんは、ずっと高梨さんを想い続けるような気がします」

別れてすぐ二人に会ったそうですね。俺が支社に異動したと嘘をつく羽目になった富沢は、こんな役ご免だと憤っていました。そして本当にその通りだと考え直しました。

一時的に俺を恨んだとしても、何れ時が経てば、奏音は俺に事情があったのではないかと気づく……自惚れや願望ではなく、君がそういう人だったと思い出したのです。

本当のことを告げて泣かせたくなかった。でもあんな別れ方をしてはいけなかった。俺が嫌われるのは本望だけれど、自分が嫌われたという嘘を奏音の最後の記憶にしてはいけなかった。

奏音。名前を書くだけで涙が出そうです。君に会って、君の笑顔を見て、君に触れたいです。出会ってから今日まで、奏音を想うだけで心が満たされました。共に過ごした日々はいつ振り返っても温かくて、辛い治療の中でも救いとなりました。

俺は少しでも奏音を幸せにできていたでしょうか。悲しませたりしなかったでしょうか。たった一つの心残りは、最後に大切な言葉を直接伝えられなかったことです。

奏音。俺は君が好きです。過去形じゃなくて現在も変わらず大好きです。意思表示はしていたつもりだけれど、ちゃんと言ってあげられなくてごめんね。

奏音の笑顔は周囲の人を幸福にします。どうか俺のせいで表情を曇らせることなく、素敵な誰かと手を携えて生きていってください。必ずだよ。焼きもちを妬きながら見ています。

こんな俺の傍にいてくれてありがとう。幸せでした。
                                                  草々
 
                                                高梨塔矢
小林奏音様」


                                               
胸の奥が塞がれたように、意識せずにしている呼吸ができなくなった。自分の不安や苦しみをおくびにも出さず、ただひたすら私の幸せだけを願って逝こうとしている。こんな切ない最後のラブレターがあるだろうか。

「泣かせる予定じゃなかったのに、ごめんね奏音さん」

手紙を握り締めたまま放心している私に、円さんがゆっくり歩み寄ってきた。隣の席に腰を下ろして、止めどなく落ちる涙をハンカチで拭う。

「塔矢は精巣の癌なの」

予告もなくされた告知にびくっと体が揺れる。

「富沢さんに聞いているかもしれないけど、入院してすぐ手術を受けてる。これ以上の進行を食い止める為に緊急で。術後に医師せんせいからは転移が三カ所認められる、ステージ3の状態だと説明された」

どこまでも淡々と円さんは続ける。

「正直呆然とした。ステージという言葉は知っていたけど、頭がそれを受け入れることを拒否したみたいに、何も考えられなかった。母があまりにもショックを受けて、もはや悲しむのを通り越して能面のような顔になっていたから、辛うじて平常心を保って、今後の抗がん剤治療の予定を聞いた」

かさかさと便箋が音を立てたので、私は気を落ち着ける為にもそれを封筒の中に戻した。小刻みに震える右手を左手で支えて、手紙を指輪の横に置く。

「帰りの車の中でハンドルを握りながら、何で塔矢が、私の弟がって、悔しくて悲しくてぼろぼろ泣いた。それまで涙なんて出なかったのに、一度溢れたら堰を切ったように流れて、ぐちゃぐちゃの顔で運転してた」

お互いの胸の内を確認したことはないし、口にすると現実になりそうで怖かったから、あえて話題に上らせたこともないけれど、たぶん塔矢本人も私達家族も覚悟はしていたと思うーーそう明かした円さんはふっと表情を緩めた。

「治療の効果があって、転移していた癌が消えているそうよ。今回の手術は時間はかかるけど、他に転移がないか体中を調べる為だから、前回とは全く意味が違うの」

紡がれた言葉に目を瞠った。

「ほんと……に?」

「本当よ。だから手紙を読んでもらったの。もちろん手術が終わるまでは何があるか分からないし、悪い結果を聞く可能性だって全くないわけじゃない。それでも希望は繋がってる」

まだまだ落ちてくる雫を再びハンカチで拭うと、円さんは双眸に力強い光を宿して微笑んだ。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

今日は私の結婚式

豆狸
恋愛
ベッドの上には、幼いころからの婚約者だったレーナと同じ色の髪をした女性の腐り爛れた死体があった。 彼女が着ているドレスも、二日前僕とレーナの父が結婚を拒むレーナを屋根裏部屋へ放り込んだときに着ていたものと同じである。

婚約者が不倫しても平気です~公爵令嬢は案外冷静~

岡暁舟
恋愛
公爵令嬢アンナの婚約者:スティーブンが不倫をして…でも、アンナは平気だった。そこに真実の愛がないことなんて、最初から分かっていたから。

現在の政略結婚

詩織
恋愛
断れない政略結婚!?なんで私なの?そういう疑問も虚しくあっという間に結婚! 愛も何もないのに、こんな結婚生活続くんだろうか?

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

大好きな背中

詩織
恋愛
4年付き合ってた彼氏に振られて、同僚に合コンに誘われた。 あまり合コンなんか参加したことないから何話したらいいのか… 同じように困ってる男性が1人いた

白い初夜

NIWA
恋愛
ある日、子爵令嬢のアリシアは婚約者であるファレン・セレ・キルシュタイン伯爵令息から『白い結婚』を告げられてしまう。 しかし話を聞いてみればどうやら話が込み入っているようで──

私が嫁ぐ予定の伯爵家はなんだか不穏です。

しゃーりん
恋愛
伯爵令嬢サリューシアの婚約者は伯爵令息のテオルド。 しかし、テオルドは病弱で跡継ぎには不安があるということで弟のティムが婚約者に代わることになった。 突然の婚約者変更にサリューシアは戸惑う。 なぜならティムは少し前まで平民として暮らしてきた伯爵の庶子だったからだ。 だがティムはサリューシアの婚約者になれたことを喜び、努力を重ねていった。 そんな姿にサリューシアも好感を抱いていくが、ある日ティムの子供を連れた女性が現れて…… サリューシアは伯爵家に嫁いで幸せになれるのか?というお話です。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...