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「お疲れ様です、修司さん」

私と富沢さんの間に流れる緊迫した空気を、最初に打破したのはなぎささんだった。というかむしろ気づいていなかったようで、にこにこと仕事帰りの富沢さんを労っている。そのお陰で彼はふーっと息を吐き、私は肩の力を抜くことができた。

「全く、なぎには負ける」

こつんとなぎささんの額を小突く富沢さん。たったそれだけの仕草に、彼女への愛しさが溢れている。一見塔矢よりも遥かに取っつき難く、女嫌いの評判通り女性には素っ気ない富沢さんが、こんな愛情の伝え方をするのが意外だった。

「で? 小林さんだっけ? こんな所で何してんの」

迷惑だとはっきり態度に出ている、この状態が過去二回の食事の際の通常モードだった。何せあのときもなぎささんしか見えていなかった。

「いえ、別に」

「あっそ。じゃ、俺ら用があるから」

一刻も早く立ち去りたいのだろう。富沢さんはなぎささんの肩に手を回して、歩くよう促している。

「奏音さんは高梨さんを待っていたんじゃないんですか?」

再びのなぎささんの爆弾投下により、私と富沢さんは息を飲む。もちろんその場から動けなくなった。

「修司さん、高梨さんに連絡してあげては?」

きっと私と塔矢が別れたことを、知らされていないのだ。微塵も悪気がないなぎささんに、富沢さんは困ったように眉を八の字に下げている。

「あの、塔矢は元気ですか?」

せっかくなぎささんが作ってくれた機会。私は思い切って口を開いた。

「ああ……」

険しい表情で歯噛みする富沢さんを余所に、高梨さんは風邪でも引いたの? と首を傾げるなぎささんに心が和む。

「熱を出したと聞いたので」

話を合わせて頷くと、富沢さんは双眸に一瞬迷いの色を浮かべた。内心で葛藤しているのか、躊躇うように何度も唇を舐めている。

「高梨は支社に異動した」

やがて迷いを振り切るように、きっぱりと告げた。

「ここから新幹線で一時間半の場所だ」

異動の話など初耳だった。そんな打診があったことすら相談されていない。連れていってもらえる対象ではない。その事実を改めて突きつけられたような気がした。

「だから引っ越しを……」

呆然と呟く私に、富沢さんは確かめようとして途中で納得する。

「あいつの住処を訪ねた、よな。やっぱり」

そして今度は幾分声も表情も和らげた。

「高梨は新天地で一人で頑張っている。あんたも他に目を向けてもいいんじゃないか。 もちろん無理にとは言わない。簡単にそれができるくらいなら、誰も苦労はしないからな」

自身の体験に基づいたものなのだろうか。その言葉は私の胸に深く沁みた。




「またいつか一緒にご飯を食べましょうね」

優しく笑ってくれたなぎささんに、素直に諾の意を示した後、私は富沢さんにお詫びをして帰途に着いた。混み合う電車の窓から、辛うじて流れる景色を捉える。

「俺と二人じゃ不満かよ」

不貞腐れ気味の富沢さんに、そんなこと……と頬をほんのり染めたなぎささんが初々しかった。

「またあんたは外でそういう顔を!」

片手で口元を覆う照れた富沢さんも。お似合いの二人が羨ましい。

「富沢となぎささんを見ていると、二人っていいなと思う」

初めて四人で食事をしたとき、向かいに座る二人を眺めながら、塔矢がこっそり教えてくれたことがある。

その日は希望を出していないのに、日曜日に休みを貰えたので、塔矢と一緒に前日から泊まり込んで海釣りを楽しんだ。紅葉が綺麗な昨年の秋の頃。その帰りに食事に寄った小さな食堂で、先に来店していた富沢さん達に遭遇したのだ。

「何しに来たんだよ」

邪魔しやがってという気持ちを前面に押し出す、態度の悪い富沢さんに私は眉を顰めた。そもそもこの店は彼の家でも何でもない。けれど口も態度も最悪なのに、富沢さんのなぎささんへの言動には、形にならない思いやりが含まれていて、そんな彼をよく理解しているのだろう。

「修司さんは自称腹黒なんですけど、実はちょっとだけいい人です」

楽しそうになぎささんがフォローしていた。

「富沢はいつも飄々としていて、誰に対してもこだわりが無さそうなのに、彼女だけは大切にしてるんだよな」

俺も奏音のこと、あんなふうに大切にできてるかな……珍しく洩らした本音に赤くなった私に、自分の失態(本人談)に狼狽えて更に真っ赤になった塔矢。

食事どころじゃなくなって、美味しそうな魚の煮付けを前に、口を噤んでしまった私と塔矢を、富沢さんは胡散臭そうに一瞥したけれど、その後テーブルの下で重ねられた手に、もう不躾な視線は意識の外に追いやられた。

年配のご夫婦が営む、カウンターとテーブル席が三つだけの小さな店の中。私の手の平にゆっくり書かれた、他人とは重さが異なる「すき」の二文字。

塔矢は無口なわけじゃない。ただ恋愛においては肝心な部分をぼかす傾向にある。だから全然ロマンチックじゃなくても、そんな塔矢の気持ちがくすぐったくて恥ずかしくて、痛い程嬉しくて。

この手を決して離すまいと誓った夜だった。



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