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橋本編 鬼畜の片想い
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梅雨に入って雨の日が続いていた。蒸し暑くて仕事中も家でも嫌な汗をかいている。洗濯物は乾かないし、部屋の隅にカビらしきものは生えているしで、正直さすがの俺も気分が塞いでしまう。
「橋本さん、最近元気ないですね」
茂木にそんな指摘をされたのは、仕事帰りに運動をしなくなって十日ほど経った頃だった。ただでさえ悪天候で滅入るのに、出勤早々男に心配される俺ってどうよ。
「女の人に会いに行っている気配もありませんし」
お前は俺を何だと思っている。悪いがそんなに頻繁に女と交渉なんか持っとらんわ。
「運動不足なんだよ」
例え強くなくてもこの雨ではサッカーはできない。面倒だと嫌がっていた割に、結構楽しんでいたんだと今更ながら自覚する。藪やガキどもはどうしているんだろう。
「藪さんも昨日同じこと言ってましたよ」
「会ったのか?」
「はい。あ、そうだ。店長から聞いたんですけど、藪さん、家を出るとか出ないとか」
初耳だった。しかも両親と暮らすために帰ってきたのに、いくら父親の病が回復したとはいえ、家を出るとはどういうことだ。
「昔の男とよりでも戻ったか」
ひとりごちる。あいつに限ってなさそうだが。もしや他の縁談か?
「何の話ですか?」
茂木が不思議そうに首を傾げる。相変わらず可愛い奴。こいつと年中一緒にいてコンプレックスを持たない奈央は凄いな。
「結婚でもするんじゃないのか?」
「違うみたいです。何だかお姉さん絡みだとかで」
父親が倒れたときには既に嫁いでいたという例の姉か。でもその姉が妹が同居している実家に何の用がある。父親の介護はほぼ母親と藪の二人でやったというし、元気になったんだから姉の出番はないだろう。いや、出てくる気ならもっと早く来いの間違いか。
「ふーん。まぁ他人のことだ。仕事に出るぞ」
想像の域を出ない話は一旦切り上げ、俺は茂木の背中を押して本日の業務に取りかかった。
ーーが。思わぬところに落とし穴があった。
「何だ、あれは」
配達に行った奈央の勤める菓子店で、俺は伝票を受け取りながら彼女にこっそりぼやいた。
「親分のお姉さん」
仕事中にはまず面に出さない、困惑の表情を浮かべて奈央もため息をついている。
この店にはイートインコーナーがある。そう呼ぶのもおこがましい狭さだが、近所の常連客の憩いの場になっているようで、年配客がお茶とケーキを味わいながらお喋りに興じている姿をよく見かける。そんな楽しい筈の場所で、あやめさん相手にぐだぐだ愚痴っている女が約一名。
「そういえば今朝、茂木が藪の姉さんがどうとか言ってたな」
「私も詳しくは分からないけど、店長の話ではお姉さん夫婦が実家に戻りたがっているらしいの」
「は?」
目を瞬く俺の耳に藪姉の声が届く。
「旦那がリストラにあって、マンションの家賃もきついし、子供の習い事も辞めさせたくないし。ちょうどいいから同居してあげるって言ったのに、お母さんは瞳がいるから駄目だって。酷いでしょ」
俺の嫌いなタイプの女であり、結婚したくなくなる原因の話だ。梅雨時に鬱陶しい。とてもあの藪の姉とは考えられない。
「ありがとうございました」
虫唾が走りそうだったので、俺は伝票を確認してとっとと店を後にした。たぶん気分的には俺と同じなのだろう。奈央も後を着いてくる。空はどんより曇っていたが、雨は些か小降りになっていた。
「まさかあの理由で、藪は家を出ようとしてるのか?」
家庭の事情は様々だし、俺に口を挟む権利はないが、自分の家庭があって親の介護を手伝えなかったことはともかく、己の人生を変えて親との暮らしを選んだ藪に出て行けと言うのは、独身で結婚なんか真っ平ごめんの俺でも勝手だと思う。
「親分人がいいから、もしかしたら自分から出ていきかねない」
雨宿りをするように軒先に移った奈央が、店内の様子を窺いながら肩を落とす。
「いっそのこと鬼畜でもいいから、親分と結婚して実家に住んでくれたらいいのに」
「お前何気に俺にも藪にも失礼だぞ」
呆れて俺は奈央の頭にげんこつを落とした。小さな雫が弾ける。
「これ以上茂木の艶のいい面なんて、近くで見てられねーよ。ったく、励みやがって」
最後の一言で何を指しているか分かったらしい。奈央の頬がぽっと林檎色に染まった。
「だからむやみに男にそんな顔見せんなよ」
注意しつつも幸せそうな奈央に心が和む。茂木の話をしているときだけ女になるんだなと眺めていたら、仕事の途中なのか封筒を抱えた藪が、彼女らしい大きな傘を差して立っていた。
「橋本さん、最近元気ないですね」
茂木にそんな指摘をされたのは、仕事帰りに運動をしなくなって十日ほど経った頃だった。ただでさえ悪天候で滅入るのに、出勤早々男に心配される俺ってどうよ。
「女の人に会いに行っている気配もありませんし」
お前は俺を何だと思っている。悪いがそんなに頻繁に女と交渉なんか持っとらんわ。
「運動不足なんだよ」
例え強くなくてもこの雨ではサッカーはできない。面倒だと嫌がっていた割に、結構楽しんでいたんだと今更ながら自覚する。藪やガキどもはどうしているんだろう。
「藪さんも昨日同じこと言ってましたよ」
「会ったのか?」
「はい。あ、そうだ。店長から聞いたんですけど、藪さん、家を出るとか出ないとか」
初耳だった。しかも両親と暮らすために帰ってきたのに、いくら父親の病が回復したとはいえ、家を出るとはどういうことだ。
「昔の男とよりでも戻ったか」
ひとりごちる。あいつに限ってなさそうだが。もしや他の縁談か?
「何の話ですか?」
茂木が不思議そうに首を傾げる。相変わらず可愛い奴。こいつと年中一緒にいてコンプレックスを持たない奈央は凄いな。
「結婚でもするんじゃないのか?」
「違うみたいです。何だかお姉さん絡みだとかで」
父親が倒れたときには既に嫁いでいたという例の姉か。でもその姉が妹が同居している実家に何の用がある。父親の介護はほぼ母親と藪の二人でやったというし、元気になったんだから姉の出番はないだろう。いや、出てくる気ならもっと早く来いの間違いか。
「ふーん。まぁ他人のことだ。仕事に出るぞ」
想像の域を出ない話は一旦切り上げ、俺は茂木の背中を押して本日の業務に取りかかった。
ーーが。思わぬところに落とし穴があった。
「何だ、あれは」
配達に行った奈央の勤める菓子店で、俺は伝票を受け取りながら彼女にこっそりぼやいた。
「親分のお姉さん」
仕事中にはまず面に出さない、困惑の表情を浮かべて奈央もため息をついている。
この店にはイートインコーナーがある。そう呼ぶのもおこがましい狭さだが、近所の常連客の憩いの場になっているようで、年配客がお茶とケーキを味わいながらお喋りに興じている姿をよく見かける。そんな楽しい筈の場所で、あやめさん相手にぐだぐだ愚痴っている女が約一名。
「そういえば今朝、茂木が藪の姉さんがどうとか言ってたな」
「私も詳しくは分からないけど、店長の話ではお姉さん夫婦が実家に戻りたがっているらしいの」
「は?」
目を瞬く俺の耳に藪姉の声が届く。
「旦那がリストラにあって、マンションの家賃もきついし、子供の習い事も辞めさせたくないし。ちょうどいいから同居してあげるって言ったのに、お母さんは瞳がいるから駄目だって。酷いでしょ」
俺の嫌いなタイプの女であり、結婚したくなくなる原因の話だ。梅雨時に鬱陶しい。とてもあの藪の姉とは考えられない。
「ありがとうございました」
虫唾が走りそうだったので、俺は伝票を確認してとっとと店を後にした。たぶん気分的には俺と同じなのだろう。奈央も後を着いてくる。空はどんより曇っていたが、雨は些か小降りになっていた。
「まさかあの理由で、藪は家を出ようとしてるのか?」
家庭の事情は様々だし、俺に口を挟む権利はないが、自分の家庭があって親の介護を手伝えなかったことはともかく、己の人生を変えて親との暮らしを選んだ藪に出て行けと言うのは、独身で結婚なんか真っ平ごめんの俺でも勝手だと思う。
「親分人がいいから、もしかしたら自分から出ていきかねない」
雨宿りをするように軒先に移った奈央が、店内の様子を窺いながら肩を落とす。
「いっそのこと鬼畜でもいいから、親分と結婚して実家に住んでくれたらいいのに」
「お前何気に俺にも藪にも失礼だぞ」
呆れて俺は奈央の頭にげんこつを落とした。小さな雫が弾ける。
「これ以上茂木の艶のいい面なんて、近くで見てられねーよ。ったく、励みやがって」
最後の一言で何を指しているか分かったらしい。奈央の頬がぽっと林檎色に染まった。
「だからむやみに男にそんな顔見せんなよ」
注意しつつも幸せそうな奈央に心が和む。茂木の話をしているときだけ女になるんだなと眺めていたら、仕事の途中なのか封筒を抱えた藪が、彼女らしい大きな傘を差して立っていた。
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