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橋本編 鬼畜の片想い
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もしかして態度を変えられるのではないかと思っていたが、藪はその後も拍子抜けするくらいいつも通りだった。相変わらず口煩くて、がらが悪くて、老けていて、まるで何もなかったようなその様子は、俺を無性に安心させた。下手な詮索と安い同情だけはご免だったのだ。
「で、あんたはまた何をやってんだよ」
仕事帰りに足を向けた緑地公園で、小学生と走り回る大人を再び見かけた俺は、諦めのため息を洩らした。
「サッカー」
「そんなこたぁ分かってる」
訊いた俺が馬鹿だった。保護者に該当する年齢の藪は、先日のメンバーとサッカーに夢中になっている。子供達に負けず劣らず楽しそうだ。今日はパンツスーツのせいか動きも軽快。
「ほら橋本、加勢しな」
「ったく、人使いの荒い」
舌打ちをして仕方なく藪の隣に並ぶ。
「絵にならんツートップだな」
文句を吐きつつボールを蹴り出せば、あっという間に砂埃が舞った。小学生と一緒に俺を取り巻く藪の髪が、まるで馬の尻尾のように跳ねておかしくなる。
「全く元気なおばさんだ」
クリーニング行きであろう、汚れたスーツに呆れる俺の目には、生き生きと笑う藪の姿が映っていた。
「やべぇ、久々に本気でやっちまった」
ガキどもにせがまれて、あれこれ教えているうちに、またしても貴重な癒しの時間は失われ、夕闇の中俺はごろんと芝に転がっていた。じめっとした湿気と草の匂いに高校時代を懐かしむ。
「私も疲れた。これは明後日あたりにくるな」
「明後日?」
同じように仰向けに寝転ぶ藪に、顔だけを動かして訊ねる。
「筋肉痛だよ。最近次の日には出なくてさ」
「あぁ、それうちの親がよくぼやいてた。年を取ると痛みが数日後に出るから、何が原因か分からなくなるって」
やっぱりばばあじゃんと笑ってやると、藪は俺の額をぺちっと叩いた。
「そこまで年は取っとらん」
よほど疲れたのか手に力が入っていない。でも黒ずんでゆく空に浮かぶ、赤く染まった雲を気持ちよさそうに見上げている。
「それにしてもいいのか、スーツ」
払っても汚れの落ちなかった通勤服を指す。こんな格好でサッカーをする大人なぞ早々お目にかかれない。
「セール品だから。元々こういう服、堅苦しくて好きじゃないし」
店長宅で一緒に飯をご馳走になるときや、休日に偶然出くわしたときの藪は、確かにラフなシャツやジーンズを身に着けている。可愛らしい服が似合わないと自覚している故かと思ったが、単純に好みの問題だったわけだ。
「どのくらいの頻度で混ざってんだよ。服の数が持たんぞ」
「週に一、二のペースだよ。残業があったら無理だしさ」
「充分だろ」
少なくともうちの営業所の女性陣が、仕事帰りに子供とサッカーに明け暮れているなんて話は、ついぞ聞いたことがない。こいつはお淑やかという言葉を知らんのか。
「いいじゃん。余計なもんが全部吹っ飛んでくから、明日も頑張ろうって気になるんだよ」
ほんの少し声のトーンが落ちた。夜の帳が降り始めて藪の表情は分からないが、彼女の目は遠くに光を宿す星を捕らえているようだった。
「あんたもちったぁ煩悩が振り払えただろ」
「俺には煩悩なんざねーよ」
「そういや百戦錬磨とか言ってたもんなぁ」
相変わらずじーさん笑いをする藪。ワンコの野郎、ろくでもない噂を広めやがって。明日しばいてやる。
「まぁでも」
咳ばらいをしたついでに闇の力を借りる。
「気の毒そうな振る舞いをしなかった点については感謝する」
何の話か見当がついたのだろう。藪はすぐに笑いを引っ込めた。
「それは私も同じだ」
二人の間の空気が動き、藪がこちらを向いた。
「可哀想なんて言われたくはないからな」
結婚を止めたことを言っているのだろう。悪いが結婚願望がない俺にとっては、可哀想でも何でもないだけなんだが。
「自分で好きでやったことなのに、一方的に同情されても困らないか? 橋本は今の状況に不満はないんだろう?」
不満なんてない。奈央に自分を好きになって欲しいとか、茂木と別れて欲しいとか、全くもって微塵も思っていない。そんなことされたら逆に迷惑だ。断言する。
「だからあんたを気の毒がる理由が、私にはない」
きっぱりした藪の口調に俺はふっと目を細めた。
「で、あんたはまた何をやってんだよ」
仕事帰りに足を向けた緑地公園で、小学生と走り回る大人を再び見かけた俺は、諦めのため息を洩らした。
「サッカー」
「そんなこたぁ分かってる」
訊いた俺が馬鹿だった。保護者に該当する年齢の藪は、先日のメンバーとサッカーに夢中になっている。子供達に負けず劣らず楽しそうだ。今日はパンツスーツのせいか動きも軽快。
「ほら橋本、加勢しな」
「ったく、人使いの荒い」
舌打ちをして仕方なく藪の隣に並ぶ。
「絵にならんツートップだな」
文句を吐きつつボールを蹴り出せば、あっという間に砂埃が舞った。小学生と一緒に俺を取り巻く藪の髪が、まるで馬の尻尾のように跳ねておかしくなる。
「全く元気なおばさんだ」
クリーニング行きであろう、汚れたスーツに呆れる俺の目には、生き生きと笑う藪の姿が映っていた。
「やべぇ、久々に本気でやっちまった」
ガキどもにせがまれて、あれこれ教えているうちに、またしても貴重な癒しの時間は失われ、夕闇の中俺はごろんと芝に転がっていた。じめっとした湿気と草の匂いに高校時代を懐かしむ。
「私も疲れた。これは明後日あたりにくるな」
「明後日?」
同じように仰向けに寝転ぶ藪に、顔だけを動かして訊ねる。
「筋肉痛だよ。最近次の日には出なくてさ」
「あぁ、それうちの親がよくぼやいてた。年を取ると痛みが数日後に出るから、何が原因か分からなくなるって」
やっぱりばばあじゃんと笑ってやると、藪は俺の額をぺちっと叩いた。
「そこまで年は取っとらん」
よほど疲れたのか手に力が入っていない。でも黒ずんでゆく空に浮かぶ、赤く染まった雲を気持ちよさそうに見上げている。
「それにしてもいいのか、スーツ」
払っても汚れの落ちなかった通勤服を指す。こんな格好でサッカーをする大人なぞ早々お目にかかれない。
「セール品だから。元々こういう服、堅苦しくて好きじゃないし」
店長宅で一緒に飯をご馳走になるときや、休日に偶然出くわしたときの藪は、確かにラフなシャツやジーンズを身に着けている。可愛らしい服が似合わないと自覚している故かと思ったが、単純に好みの問題だったわけだ。
「どのくらいの頻度で混ざってんだよ。服の数が持たんぞ」
「週に一、二のペースだよ。残業があったら無理だしさ」
「充分だろ」
少なくともうちの営業所の女性陣が、仕事帰りに子供とサッカーに明け暮れているなんて話は、ついぞ聞いたことがない。こいつはお淑やかという言葉を知らんのか。
「いいじゃん。余計なもんが全部吹っ飛んでくから、明日も頑張ろうって気になるんだよ」
ほんの少し声のトーンが落ちた。夜の帳が降り始めて藪の表情は分からないが、彼女の目は遠くに光を宿す星を捕らえているようだった。
「あんたもちったぁ煩悩が振り払えただろ」
「俺には煩悩なんざねーよ」
「そういや百戦錬磨とか言ってたもんなぁ」
相変わらずじーさん笑いをする藪。ワンコの野郎、ろくでもない噂を広めやがって。明日しばいてやる。
「まぁでも」
咳ばらいをしたついでに闇の力を借りる。
「気の毒そうな振る舞いをしなかった点については感謝する」
何の話か見当がついたのだろう。藪はすぐに笑いを引っ込めた。
「それは私も同じだ」
二人の間の空気が動き、藪がこちらを向いた。
「可哀想なんて言われたくはないからな」
結婚を止めたことを言っているのだろう。悪いが結婚願望がない俺にとっては、可哀想でも何でもないだけなんだが。
「自分で好きでやったことなのに、一方的に同情されても困らないか? 橋本は今の状況に不満はないんだろう?」
不満なんてない。奈央に自分を好きになって欲しいとか、茂木と別れて欲しいとか、全くもって微塵も思っていない。そんなことされたら逆に迷惑だ。断言する。
「だからあんたを気の毒がる理由が、私にはない」
きっぱりした藪の口調に俺はふっと目を細めた。
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