これは一つの結婚同盟

文月 青

文字の大きさ
上 下
19 / 20

19

しおりを挟む
珍しく本気で憤った柴崎が、無言ですっと立ち上がった。これで帰ってくれるだろう。私は静かに目を閉じた。部屋を出てゆく彼の後ろ姿を見たくなかった。こんな別れ方になってしまったけれど、いつかまた逢う日にはきっと笑って…。

ところが柴崎はその場に佇んだまま、全く動く気配がない。私は恐る恐る瞼を上げた。すぐに困惑した表情で枕元を凝視している彼と目が合う。

「千歳、これは?」

柴崎は再び腰を下ろすと、いきなり何かを抜き取って私の顔の前に掲げた。

「母子手帳って、何?」

一瞬にして血の気が引いた。さっきちゃんと枕の下に隠したつもりが、幾分はみ出ていたらしい。妊娠を証明する冊子の登場に、私達はお互いそれぞれの都合で固まった。

「まさか、子供が……?」

呆然と呟いた自分の言葉で、柴崎はぎょっとしたように私に詰め寄る。

「千歳、妊娠してるの?」

「ち、違う」

「入院していたのは、そのせい?」

「違うってば」

畳みかけられて焦るあまり他の台詞が出てこない。

「本田千歳って書いてあるけど?」

「あ、えっと、そうそう。新しいか、彼氏との赤ちゃんって感じ?」

妊娠を認めているのかいないのか、この返答はかなり支離滅裂だと自分でも思う。聞いている柴崎は更にそうだろう。完全に疑いの眼差しを向けてくる。柴崎が支社に勤務している間は隠し通せると踏んで、言い訳の類を一切考えていなかった。

「千歳、ちょっと手を貸して」

柴崎は持っていた母子手帳を一旦枕元に置いて、場に不似合いな笑みを浮かべつつ両手を差し伸べた。既に頭が回っていなかった私は、訝しむこともなく布団から手を出す。

「これは何?」

これはお手かと間抜けな発想をしかけた私は、当然のように左手の薬指を確認した柴崎に舌打ちしたくなった。

「あんたはこれと何しか言えんのか」

苦し紛れにぼやいてみる。けれど子供じみた八つ当たりで誤魔化されるわけもなく。

「あの夜の……なんだね?」

真面目に訊ねる柴崎に臍を噛む。

「違う」

「営業の面々は本当に知らないようだったから、箝口令を敷いたのは経理課長と村上さんあたりかな」

否定する私を流して勝手に推理を始める柴崎。でも営業の一言で私の頭は再び冷えた。

「先走るのはやめんか。いいからあんたは越智さんの元に帰れ」

「さっきもそんなこと零してたね。ここに越智が出てくる理由が分からないんだけど」

「本社中の噂だよ。越智さんが柴崎の部屋に泊まったって」

本社中というのはさすがにオーバーかもしれない。おまけに寝込んだ柴崎の看病のため、という断りもついていたが。もっともそれはこの際どうでもいいだろう。いくら柴崎が病人だったとはいえ、重要なのは一晩、いや二晩共に過ごしたという事実だ。

「風邪と疲れでダウンしただけで、看病が必要な状態じゃなかったのに」

うーんと唸ってから、それよりもと続ける。

「妬いてくれたの?」

嬉しそうに首を傾げる男に苛々と吠える。

「誰が。そんな浮気者は要ら…ん」

声に出してからはっとして口を噤んだ。柴崎は私のものじゃない。

「越智が何度か訪ねてきたのは本当だよ。でも何もしてない」

「あり得ない」

「俺が千歳以外の女の子を部屋に入れるわけないでしょ」

うっかり舞い上がりそうになった自分を叱咤する。そして現実を認識するために、私の左手に重ねたままの柴崎のそれに焦点を合わせた。

「指輪…外してあるじゃん。あんたはもう自由なんだよ」

「怒るよ? 千歳」

憮然として横に置いた鞄の蓋を開けた柴崎は、中から大事そうにハンカチを取り出した。包まれていたのは私の左手で存在感を発揮する、彼が贈ってくれたものとお揃いの指輪。

「千歳の立場もあるから、本社につけていくのは拙いでしょ」

ため息をついて苦笑する。

支社むこうでは外したことは一度もないよ。別れた奥さんに未練たらたらだって、すっかり有名人」

「あんた、そんなんで、仕事に支障は」

「そういう千歳も同じでしょ。同僚から面白おかしく噂されてるんじゃないの?」

離婚したのに結婚指輪を外さないことで、周囲の好奇の目に晒されているのは分かっていた。でもそんな陰口痛くも痒くもなかった。これは約束。私と柴崎が……。

「二人の繋がりが永遠に切れない、同盟の証だからね」

自分の薬指に指輪をはめながら、柴崎が紡いだ言葉に時が止まった。同時に息が苦しくなる。

「どうしてすぐに教えてくれなかったの」

子供のことも私の本音もーー。淋しそうに揺れる双眸にもう嘘はつけない。

「柴崎がどんな気持ちで離婚届を書いたのかと思ったら、今更好きだなんて言えなかった」

新たな道を一人で進むと決めた柴崎を、散々傷つけてきた私が縛りつけることはできなかった。傍にいて欲しいと請うことも。

「馬鹿だね、千歳」

優しく頬を撫でられて、徐々に涙が盛り上がる。一筋伝った雫を柴崎がそっと拭う。

「俺はずっとその言葉を待っていたのに」

唇を震わせる柴崎に、私は今日離婚してから初めて声を上げて泣いた。嬉し涙に形を変えて。







しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

平凡令嬢の婚活事情〜あの人だけは、絶対ナイから!〜

本見りん
恋愛
「……だから、ミランダは無理だって!!」  王立学園に通う、ミランダ シュミット伯爵令嬢17歳。  偶然通りかかった学園の裏庭でミランダ本人がここにいるとも知らず噂しているのはこの学園の貴族令息たち。  ……彼らは、決して『高嶺の花ミランダ』として噂している訳ではない。  それは、ミランダが『平凡令嬢』だから。  いつからか『平凡令嬢』と噂されるようになっていたミランダ。『絶賛婚約者募集中』の彼女にはかなり不利な状況。  チラリと向こうを見てみれば、1人の女子生徒に3人の男子学生が。あちらも良くない噂の方々。  ……ミランダは、『あの人達だけはナイ!』と思っていだのだが……。 3万字少しの短編です。『完結保証』『ハッピーエンド』です!

【完結】婚約者が好きなのです

maruko
恋愛
リリーベルの婚約者は誰にでも優しいオーラン・ドートル侯爵令息様。 でもそんな優しい婚約者がたった一人に対してだけ何故か冷たい。 冷たくされてるのはアリー・メーキリー侯爵令嬢。 彼の幼馴染だ。 そんなある日。偶然アリー様がこらえきれない涙を流すのを見てしまった。見つめる先には婚約者の姿。 私はどうすればいいのだろうか。 全34話(番外編含む) ※他サイトにも投稿しております ※1話〜4話までは文字数多めです 注)感想欄は全話読んでから閲覧ください(汗)

王妃の仕事なんて知りません、今から逃げます!

gacchi
恋愛
側妃を迎えるって、え?聞いてないよ? 王妃の仕事が大変でも頑張ってたのは、レオルドが好きだから。 国への責任感?そんなの無いよ。もういい。私、逃げるから! 12/16加筆修正したものをカクヨムに投稿しました。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

安らかにお眠りください

くびのほきょう
恋愛
父母兄を馬車の事故で亡くし6歳で天涯孤独になった侯爵令嬢と、その婚約者で、母を愛しているために側室を娶らない自分の父に憧れて自分も父王のように誠実に生きたいと思っていた王子の話。 ※突然残酷な描写が入ります。 ※視点がコロコロ変わり分かりづらい構成です。 ※小説家になろう様へも投稿しています。

同期に恋して

美希みなみ
恋愛
近藤 千夏 27歳 STI株式会社 国内営業部事務  高遠 涼真 27歳 STI株式会社 国内営業部 同期入社の2人。 千夏はもう何年も同期の涼真に片思いをしている。しかし今の仲の良い同期の関係を壊せずにいて。 平凡な千夏と、いつも女の子に囲まれている涼真。 千夏は同期の関係を壊せるの? 「甘い罠に溺れたら」の登場人物が少しだけでてきます。全くストーリには影響がないのでこちらのお話だけでも読んで頂けるとうれしいです。

伯爵令嬢の苦悩

夕鈴
恋愛
伯爵令嬢ライラの婚約者の趣味は婚約破棄だった。 婚約破棄してほしいと願う婚約者を宥めることが面倒になった。10回目の申し出のときに了承することにした。ただ二人の中で婚約破棄の認識の違いがあった・・・。

私の好きなひとは、私の親友と付き合うそうです。失恋ついでにネイルサロンに行ってみたら、生まれ変わったみたいに幸せになりました。

石河 翠
恋愛
長年好きだった片思い相手を、あっさり親友にとられた主人公。 失恋して落ち込んでいた彼女は、偶然の出会いにより、ネイルサロンに足を踏み入れる。 ネイルの力により、前向きになる主人公。さらにイケメン店長とやりとりを重ねるうち、少しずつ自分の気持ちを周囲に伝えていけるようになる。やがて、親友との決別を経て、店長への気持ちを自覚する。 店長との約束を守るためにも、自分の気持ちに正直でありたい。フラれる覚悟で店長に告白をすると、思いがけず甘いキスが返ってきて……。 自分に自信が持てない不器用で真面目なヒロインと、ヒロインに一目惚れしていた、実は執着心の高いヒーローの恋物語。ハッピーエンドです。 この作品は、エブリスタ及び小説家になろうにも投稿しております。 扉絵はphoto ACさまよりお借りしております。

処理中です...