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珍しく本気で憤った柴崎が、無言ですっと立ち上がった。これで帰ってくれるだろう。私は静かに目を閉じた。部屋を出てゆく彼の後ろ姿を見たくなかった。こんな別れ方になってしまったけれど、いつかまた逢う日にはきっと笑って…。
ところが柴崎はその場に佇んだまま、全く動く気配がない。私は恐る恐る瞼を上げた。すぐに困惑した表情で枕元を凝視している彼と目が合う。
「千歳、これは?」
柴崎は再び腰を下ろすと、いきなり何かを抜き取って私の顔の前に掲げた。
「母子手帳って、何?」
一瞬にして血の気が引いた。さっきちゃんと枕の下に隠したつもりが、幾分はみ出ていたらしい。妊娠を証明する冊子の登場に、私達はお互いそれぞれの都合で固まった。
「まさか、子供が……?」
呆然と呟いた自分の言葉で、柴崎はぎょっとしたように私に詰め寄る。
「千歳、妊娠してるの?」
「ち、違う」
「入院していたのは、そのせい?」
「違うってば」
畳みかけられて焦るあまり他の台詞が出てこない。
「本田千歳って書いてあるけど?」
「あ、えっと、そうそう。新しいか、彼氏との赤ちゃんって感じ?」
妊娠を認めているのかいないのか、この返答はかなり支離滅裂だと自分でも思う。聞いている柴崎は更にそうだろう。完全に疑いの眼差しを向けてくる。柴崎が支社に勤務している間は隠し通せると踏んで、言い訳の類を一切考えていなかった。
「千歳、ちょっと手を貸して」
柴崎は持っていた母子手帳を一旦枕元に置いて、場に不似合いな笑みを浮かべつつ両手を差し伸べた。既に頭が回っていなかった私は、訝しむこともなく布団から手を出す。
「これは何?」
これはお手かと間抜けな発想をしかけた私は、当然のように左手の薬指を確認した柴崎に舌打ちしたくなった。
「あんたはこれと何しか言えんのか」
苦し紛れにぼやいてみる。けれど子供じみた八つ当たりで誤魔化されるわけもなく。
「あの夜の……なんだね?」
真面目に訊ねる柴崎に臍を噛む。
「違う」
「営業の面々は本当に知らないようだったから、箝口令を敷いたのは経理課長と村上さんあたりかな」
否定する私を流して勝手に推理を始める柴崎。でも営業の一言で私の頭は再び冷えた。
「先走るのはやめんか。いいからあんたは越智さんの元に帰れ」
「さっきもそんなこと零してたね。ここに越智が出てくる理由が分からないんだけど」
「本社中の噂だよ。越智さんが柴崎の部屋に泊まったって」
本社中というのはさすがにオーバーかもしれない。おまけに寝込んだ柴崎の看病のため、という断りもついていたが。もっともそれはこの際どうでもいいだろう。いくら柴崎が病人だったとはいえ、重要なのは一晩、いや二晩共に過ごしたという事実だ。
「風邪と疲れでダウンしただけで、看病が必要な状態じゃなかったのに」
うーんと唸ってから、それよりもと続ける。
「妬いてくれたの?」
嬉しそうに首を傾げる男に苛々と吠える。
「誰が。そんな浮気者は要ら…ん」
声に出してからはっとして口を噤んだ。柴崎は私のものじゃない。
「越智が何度か訪ねてきたのは本当だよ。でも何もしてない」
「あり得ない」
「俺が千歳以外の女の子を部屋に入れるわけないでしょ」
うっかり舞い上がりそうになった自分を叱咤する。そして現実を認識するために、私の左手に重ねたままの柴崎のそれに焦点を合わせた。
「指輪…外してあるじゃん。あんたはもう自由なんだよ」
「怒るよ? 千歳」
憮然として横に置いた鞄の蓋を開けた柴崎は、中から大事そうにハンカチを取り出した。包まれていたのは私の左手で存在感を発揮する、彼が贈ってくれたものとお揃いの指輪。
「千歳の立場もあるから、本社につけていくのは拙いでしょ」
ため息をついて苦笑する。
「支社では外したことは一度もないよ。別れた奥さんに未練たらたらだって、すっかり有名人」
「あんた、そんなんで、仕事に支障は」
「そういう千歳も同じでしょ。同僚から面白おかしく噂されてるんじゃないの?」
離婚したのに結婚指輪を外さないことで、周囲の好奇の目に晒されているのは分かっていた。でもそんな陰口痛くも痒くもなかった。これは約束。私と柴崎が……。
「二人の繋がりが永遠に切れない、同盟の証だからね」
自分の薬指に指輪をはめながら、柴崎が紡いだ言葉に時が止まった。同時に息が苦しくなる。
「どうしてすぐに教えてくれなかったの」
子供のことも私の本音もーー。淋しそうに揺れる双眸にもう嘘はつけない。
「柴崎がどんな気持ちで離婚届を書いたのかと思ったら、今更好きだなんて言えなかった」
新たな道を一人で進むと決めた柴崎を、散々傷つけてきた私が縛りつけることはできなかった。傍にいて欲しいと請うことも。
「馬鹿だね、千歳」
優しく頬を撫でられて、徐々に涙が盛り上がる。一筋伝った雫を柴崎がそっと拭う。
「俺はずっとその言葉を待っていたのに」
唇を震わせる柴崎に、私は今日離婚してから初めて声を上げて泣いた。嬉し涙に形を変えて。
ところが柴崎はその場に佇んだまま、全く動く気配がない。私は恐る恐る瞼を上げた。すぐに困惑した表情で枕元を凝視している彼と目が合う。
「千歳、これは?」
柴崎は再び腰を下ろすと、いきなり何かを抜き取って私の顔の前に掲げた。
「母子手帳って、何?」
一瞬にして血の気が引いた。さっきちゃんと枕の下に隠したつもりが、幾分はみ出ていたらしい。妊娠を証明する冊子の登場に、私達はお互いそれぞれの都合で固まった。
「まさか、子供が……?」
呆然と呟いた自分の言葉で、柴崎はぎょっとしたように私に詰め寄る。
「千歳、妊娠してるの?」
「ち、違う」
「入院していたのは、そのせい?」
「違うってば」
畳みかけられて焦るあまり他の台詞が出てこない。
「本田千歳って書いてあるけど?」
「あ、えっと、そうそう。新しいか、彼氏との赤ちゃんって感じ?」
妊娠を認めているのかいないのか、この返答はかなり支離滅裂だと自分でも思う。聞いている柴崎は更にそうだろう。完全に疑いの眼差しを向けてくる。柴崎が支社に勤務している間は隠し通せると踏んで、言い訳の類を一切考えていなかった。
「千歳、ちょっと手を貸して」
柴崎は持っていた母子手帳を一旦枕元に置いて、場に不似合いな笑みを浮かべつつ両手を差し伸べた。既に頭が回っていなかった私は、訝しむこともなく布団から手を出す。
「これは何?」
これはお手かと間抜けな発想をしかけた私は、当然のように左手の薬指を確認した柴崎に舌打ちしたくなった。
「あんたはこれと何しか言えんのか」
苦し紛れにぼやいてみる。けれど子供じみた八つ当たりで誤魔化されるわけもなく。
「あの夜の……なんだね?」
真面目に訊ねる柴崎に臍を噛む。
「違う」
「営業の面々は本当に知らないようだったから、箝口令を敷いたのは経理課長と村上さんあたりかな」
否定する私を流して勝手に推理を始める柴崎。でも営業の一言で私の頭は再び冷えた。
「先走るのはやめんか。いいからあんたは越智さんの元に帰れ」
「さっきもそんなこと零してたね。ここに越智が出てくる理由が分からないんだけど」
「本社中の噂だよ。越智さんが柴崎の部屋に泊まったって」
本社中というのはさすがにオーバーかもしれない。おまけに寝込んだ柴崎の看病のため、という断りもついていたが。もっともそれはこの際どうでもいいだろう。いくら柴崎が病人だったとはいえ、重要なのは一晩、いや二晩共に過ごしたという事実だ。
「風邪と疲れでダウンしただけで、看病が必要な状態じゃなかったのに」
うーんと唸ってから、それよりもと続ける。
「妬いてくれたの?」
嬉しそうに首を傾げる男に苛々と吠える。
「誰が。そんな浮気者は要ら…ん」
声に出してからはっとして口を噤んだ。柴崎は私のものじゃない。
「越智が何度か訪ねてきたのは本当だよ。でも何もしてない」
「あり得ない」
「俺が千歳以外の女の子を部屋に入れるわけないでしょ」
うっかり舞い上がりそうになった自分を叱咤する。そして現実を認識するために、私の左手に重ねたままの柴崎のそれに焦点を合わせた。
「指輪…外してあるじゃん。あんたはもう自由なんだよ」
「怒るよ? 千歳」
憮然として横に置いた鞄の蓋を開けた柴崎は、中から大事そうにハンカチを取り出した。包まれていたのは私の左手で存在感を発揮する、彼が贈ってくれたものとお揃いの指輪。
「千歳の立場もあるから、本社につけていくのは拙いでしょ」
ため息をついて苦笑する。
「支社では外したことは一度もないよ。別れた奥さんに未練たらたらだって、すっかり有名人」
「あんた、そんなんで、仕事に支障は」
「そういう千歳も同じでしょ。同僚から面白おかしく噂されてるんじゃないの?」
離婚したのに結婚指輪を外さないことで、周囲の好奇の目に晒されているのは分かっていた。でもそんな陰口痛くも痒くもなかった。これは約束。私と柴崎が……。
「二人の繋がりが永遠に切れない、同盟の証だからね」
自分の薬指に指輪をはめながら、柴崎が紡いだ言葉に時が止まった。同時に息が苦しくなる。
「どうしてすぐに教えてくれなかったの」
子供のことも私の本音もーー。淋しそうに揺れる双眸にもう嘘はつけない。
「柴崎がどんな気持ちで離婚届を書いたのかと思ったら、今更好きだなんて言えなかった」
新たな道を一人で進むと決めた柴崎を、散々傷つけてきた私が縛りつけることはできなかった。傍にいて欲しいと請うことも。
「馬鹿だね、千歳」
優しく頬を撫でられて、徐々に涙が盛り上がる。一筋伝った雫を柴崎がそっと拭う。
「俺はずっとその言葉を待っていたのに」
唇を震わせる柴崎に、私は今日離婚してから初めて声を上げて泣いた。嬉し涙に形を変えて。
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