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柴崎が私の部屋に入るのは二度目だ。前回はいきなり野獣に豹変して度肝を抜かれた。そんなことを考えながらドアを開けて玄関に招き入れると、施錠したのを確認して柴崎は私を抱き上げた。咄嗟に彼の肩に腕を回したら、満足そうに微笑んで寝室に向かう。いつぞやのようにベッドに私を横たわらせ、優しく覆い被さってきた。
「今日は野獣納め」
「何だ、それは」
じたばたともがいたところで柴崎はびくともしない。けれどゆるりと繋がれた両手も、乗られている体のいずれも苦しさは微塵も感じなかった。坂本さんとの決定的な違い。私自身が柴崎には嫌悪も恐怖も抱いていないこと。
「千歳の部屋に入れてって言ったでしょ?」
悪戯っぽく笑む柴崎に体中の血が沸騰した。
「あ、あんた、それ、ひ、比喩」
動揺してしどろもどろ気味の私を、蕩けるような表情でみつめてから、ゆっくりと唇を重ねた柴崎は、何度か触れ合った後に静かに告げた。
「俺、一人で行くね」
「やっぱり…」
「ごめんね、勝手に決めて。でも千歳にも仕事があるし、期間が一年だから」
以前坂本さんが支社に研修を兼ねて異動したことがあったが、今回の柴崎の場合も同様なのだそうだ。本来なら本社であるこちらで研修が行われるべきところだが、本社勤務経験のある営業の社員が異動先の支社で実績を作っているらしく、その人の下について新たに学んでくるという。
「部屋はどうするの?」
「向こうで手配をしてくれているよ」
「それもだけど、隣は?」
一緒に暮らしたのはほんの数日だが、それでも私と柴崎の夫婦としての始まりの場所だ。
「そのままにしておいて欲しい?」
「べ、別に」
習慣でついそっぽを向いてしまう。柴崎は苦笑しながら家賃がかさむのが問題なんだよねと唸って、
「千歳の部屋に迎えてくれるなら、解約してもいいんだけどな」
優しく私の顔を覗き込んだ。
「誰が」
「だよね」
辛辣な返しにも何故か嬉しそうだ。
「どうして喜んでるの」
「千歳の本音なんてお見通し」
この部屋で柴崎の帰りを待っていると解釈されたのか、その余裕の態度に私は悔しくて歯噛みした。
「千歳」
「今度は何」
吠える私の額に柴崎は自分のそれをくっつけた。
「抱くね?」
ぎょっとして目を見開く。あまりに近すぎて柴崎が今どんな顔をしているのか分からない。
「大丈夫。久し振りだろうから、できるだけ無理には進めない。でも痛かったり苦しかったりしたら、ちゃんと言って?」
「やめんか、野獣!」
「野獣だからやめない」
きっぱり宣言して柴崎は私の口を塞いだ。一度目のときのように荒々しくはあったけれど、どこか愛しげなキスに抵抗する気力を奪われる。
「千歳」
耳元に落とされた囁きに身も心も震えた。誤魔化せなくなったと表現した柴崎の気持ちが手に取るように分かる。私もずっと気づかずにいたかった。自分がどれほど柴崎を欲していたかを。失いたくないからこそ、それを恋だと認めなかったことを。
目が覚めたとき、部屋の中には薄明かりが点っていた。まだ夜が明けていないのだろう。枕元の目覚まし時計に腕を伸ばしかけて、私はふと違和感を感じた。隣にあった筈の温もりが無い。怠い体を起こして室内を見回しても、さっきまで私を慈しんでいた人の姿はなかった。
既に一時を回って日付も変わっている。私は嫌な予感を覚えてベッドを降りた。リビングに行って電気を点けると、眩しさに一瞬目が眩んだ。けれどテーブルの上に置かれた紙を見つけて頭まで真っ白になる。
そこには柴崎の署名捺印がされた離婚届。一年前に書いた婚姻届とさして違わない、別れを意味するその紙をおずおずと手に取る。見間違う筈が無い几帳面な柴崎の文字を、右手で撫でるように追ってゆく。
ドアの前で私を待っていた柴崎は、間違いなく「最後」という言葉を使った。それは異動する前のという意味ではなかったのか。
混乱する私の足元に小さなメモが落ちた。まるで存在を忘れられそうな、小さな小さな紙切れ。
ーーどうか変わらずにいて下さい。今のままの千歳が俺は大好きです。
息が止まるかと思った。何なの、これ。何この恋文もどき。たった二行に溢れる想いを詰め込んで、こんなもの残して私を置いてゆくつもりなの?
メモと離婚届をテーブルに戻して、私は自分の部屋を飛び出した。真っ暗闇の中に通路の灯りだけが周囲を照らす。近所迷惑だろうかと躊躇いつつも、隣のチャイムを鳴らした。
でも応答がない。再び繰り返しても梨の礫。苛々とドアノブに手をかけると、驚いたことに鍵がかかっていなかった。私は勝手にドアを開けて中に踏み込んだ。
そして呆然と立ち尽くした。部屋の中はもぬけの殻で、柴崎がここに住んでいた証は跡形もなく消えていた。
「逃がさないって言ったくせに…。自分が逃げてんじゃん…。詐欺師め」
無理に笑おうとした口元が歪み、喉の奥が塞がったように苦しくなる。頬に一筋の涙が伝ったとき、ようやく私は柴崎を失ったことを悟った。もう悪口さえも届かない。
「今日は野獣納め」
「何だ、それは」
じたばたともがいたところで柴崎はびくともしない。けれどゆるりと繋がれた両手も、乗られている体のいずれも苦しさは微塵も感じなかった。坂本さんとの決定的な違い。私自身が柴崎には嫌悪も恐怖も抱いていないこと。
「千歳の部屋に入れてって言ったでしょ?」
悪戯っぽく笑む柴崎に体中の血が沸騰した。
「あ、あんた、それ、ひ、比喩」
動揺してしどろもどろ気味の私を、蕩けるような表情でみつめてから、ゆっくりと唇を重ねた柴崎は、何度か触れ合った後に静かに告げた。
「俺、一人で行くね」
「やっぱり…」
「ごめんね、勝手に決めて。でも千歳にも仕事があるし、期間が一年だから」
以前坂本さんが支社に研修を兼ねて異動したことがあったが、今回の柴崎の場合も同様なのだそうだ。本来なら本社であるこちらで研修が行われるべきところだが、本社勤務経験のある営業の社員が異動先の支社で実績を作っているらしく、その人の下について新たに学んでくるという。
「部屋はどうするの?」
「向こうで手配をしてくれているよ」
「それもだけど、隣は?」
一緒に暮らしたのはほんの数日だが、それでも私と柴崎の夫婦としての始まりの場所だ。
「そのままにしておいて欲しい?」
「べ、別に」
習慣でついそっぽを向いてしまう。柴崎は苦笑しながら家賃がかさむのが問題なんだよねと唸って、
「千歳の部屋に迎えてくれるなら、解約してもいいんだけどな」
優しく私の顔を覗き込んだ。
「誰が」
「だよね」
辛辣な返しにも何故か嬉しそうだ。
「どうして喜んでるの」
「千歳の本音なんてお見通し」
この部屋で柴崎の帰りを待っていると解釈されたのか、その余裕の態度に私は悔しくて歯噛みした。
「千歳」
「今度は何」
吠える私の額に柴崎は自分のそれをくっつけた。
「抱くね?」
ぎょっとして目を見開く。あまりに近すぎて柴崎が今どんな顔をしているのか分からない。
「大丈夫。久し振りだろうから、できるだけ無理には進めない。でも痛かったり苦しかったりしたら、ちゃんと言って?」
「やめんか、野獣!」
「野獣だからやめない」
きっぱり宣言して柴崎は私の口を塞いだ。一度目のときのように荒々しくはあったけれど、どこか愛しげなキスに抵抗する気力を奪われる。
「千歳」
耳元に落とされた囁きに身も心も震えた。誤魔化せなくなったと表現した柴崎の気持ちが手に取るように分かる。私もずっと気づかずにいたかった。自分がどれほど柴崎を欲していたかを。失いたくないからこそ、それを恋だと認めなかったことを。
目が覚めたとき、部屋の中には薄明かりが点っていた。まだ夜が明けていないのだろう。枕元の目覚まし時計に腕を伸ばしかけて、私はふと違和感を感じた。隣にあった筈の温もりが無い。怠い体を起こして室内を見回しても、さっきまで私を慈しんでいた人の姿はなかった。
既に一時を回って日付も変わっている。私は嫌な予感を覚えてベッドを降りた。リビングに行って電気を点けると、眩しさに一瞬目が眩んだ。けれどテーブルの上に置かれた紙を見つけて頭まで真っ白になる。
そこには柴崎の署名捺印がされた離婚届。一年前に書いた婚姻届とさして違わない、別れを意味するその紙をおずおずと手に取る。見間違う筈が無い几帳面な柴崎の文字を、右手で撫でるように追ってゆく。
ドアの前で私を待っていた柴崎は、間違いなく「最後」という言葉を使った。それは異動する前のという意味ではなかったのか。
混乱する私の足元に小さなメモが落ちた。まるで存在を忘れられそうな、小さな小さな紙切れ。
ーーどうか変わらずにいて下さい。今のままの千歳が俺は大好きです。
息が止まるかと思った。何なの、これ。何この恋文もどき。たった二行に溢れる想いを詰め込んで、こんなもの残して私を置いてゆくつもりなの?
メモと離婚届をテーブルに戻して、私は自分の部屋を飛び出した。真っ暗闇の中に通路の灯りだけが周囲を照らす。近所迷惑だろうかと躊躇いつつも、隣のチャイムを鳴らした。
でも応答がない。再び繰り返しても梨の礫。苛々とドアノブに手をかけると、驚いたことに鍵がかかっていなかった。私は勝手にドアを開けて中に踏み込んだ。
そして呆然と立ち尽くした。部屋の中はもぬけの殻で、柴崎がここに住んでいた証は跡形もなく消えていた。
「逃がさないって言ったくせに…。自分が逃げてんじゃん…。詐欺師め」
無理に笑おうとした口元が歪み、喉の奥が塞がったように苦しくなる。頬に一筋の涙が伝ったとき、ようやく私は柴崎を失ったことを悟った。もう悪口さえも届かない。
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