これは一つの結婚同盟

文月 青

文字の大きさ
上 下
13 / 20

13

しおりを挟む
柴崎が私の部屋に入るのは二度目だ。前回はいきなり野獣に豹変して度肝を抜かれた。そんなことを考えながらドアを開けて玄関に招き入れると、施錠したのを確認して柴崎は私を抱き上げた。咄嗟に彼の肩に腕を回したら、満足そうに微笑んで寝室に向かう。いつぞやのようにベッドに私を横たわらせ、優しく覆い被さってきた。

「今日は野獣納め」

「何だ、それは」

じたばたともがいたところで柴崎はびくともしない。けれどゆるりと繋がれた両手も、乗られている体のいずれも苦しさは微塵も感じなかった。坂本さんとの決定的な違い。私自身が柴崎には嫌悪も恐怖も抱いていないこと。

「千歳の部屋に入れてって言ったでしょ?」

悪戯っぽく笑む柴崎に体中の血が沸騰した。

「あ、あんた、それ、ひ、比喩」

動揺してしどろもどろ気味の私を、蕩けるような表情でみつめてから、ゆっくりと唇を重ねた柴崎は、何度か触れ合った後に静かに告げた。

「俺、一人で行くね」

「やっぱり…」

「ごめんね、勝手に決めて。でも千歳にも仕事があるし、期間が一年だから」

以前坂本さんが支社に研修を兼ねて異動したことがあったが、今回の柴崎の場合も同様なのだそうだ。本来なら本社であるこちらで研修が行われるべきところだが、本社勤務経験のある営業の社員が異動先の支社で実績を作っているらしく、その人の下について新たに学んでくるという。

「部屋はどうするの?」

「向こうで手配をしてくれているよ」

「それもだけど、隣は?」

一緒に暮らしたのはほんの数日だが、それでも私と柴崎の夫婦としての始まりの場所だ。

「そのままにしておいて欲しい?」

「べ、別に」

習慣でついそっぽを向いてしまう。柴崎は苦笑しながら家賃がかさむのが問題なんだよねと唸って、

「千歳の部屋に迎えてくれるなら、解約してもいいんだけどな」

優しく私の顔を覗き込んだ。

「誰が」

「だよね」

辛辣な返しにも何故か嬉しそうだ。

「どうして喜んでるの」

「千歳の本音なんてお見通し」

この部屋で柴崎の帰りを待っていると解釈されたのか、その余裕の態度に私は悔しくて歯噛みした。

「千歳」

「今度は何」

吠える私の額に柴崎は自分のそれをくっつけた。

「抱くね?」

ぎょっとして目を見開く。あまりに近すぎて柴崎が今どんな顔をしているのか分からない。

「大丈夫。久し振りだろうから、できるだけ無理には進めない。でも痛かったり苦しかったりしたら、ちゃんと言って?」

「やめんか、野獣!」

「野獣だからやめない」

きっぱり宣言して柴崎は私の口を塞いだ。一度目のときのように荒々しくはあったけれど、どこか愛しげなキスに抵抗する気力を奪われる。

「千歳」

耳元に落とされた囁きに身も心も震えた。誤魔化せなくなったと表現した柴崎の気持ちが手に取るように分かる。私もずっと気づかずにいたかった。自分がどれほど柴崎を欲していたかを。失いたくないからこそ、それを恋だと認めなかったことを。



目が覚めたとき、部屋の中には薄明かりが点っていた。まだ夜が明けていないのだろう。枕元の目覚まし時計に腕を伸ばしかけて、私はふと違和感を感じた。隣にあった筈の温もりが無い。怠い体を起こして室内を見回しても、さっきまで私を慈しんでいた人の姿はなかった。

既に一時を回って日付も変わっている。私は嫌な予感を覚えてベッドを降りた。リビングに行って電気を点けると、眩しさに一瞬目が眩んだ。けれどテーブルの上に置かれた紙を見つけて頭まで真っ白になる。

そこには柴崎の署名捺印がされた離婚届。一年前に書いた婚姻届とさして違わない、別れを意味するその紙をおずおずと手に取る。見間違う筈が無い几帳面な柴崎の文字を、右手で撫でるように追ってゆく。

ドアの前で私を待っていた柴崎は、間違いなく「最後」という言葉を使った。それは異動する前のという意味ではなかったのか。

混乱する私の足元に小さなメモが落ちた。まるで存在を忘れられそうな、小さな小さな紙切れ。

ーーどうか変わらずにいて下さい。今のままの千歳が俺は大好きです。

息が止まるかと思った。何なの、これ。何この恋文もどき。たった二行に溢れる想いを詰め込んで、こんなもの残して私を置いてゆくつもりなの?

メモと離婚届をテーブルに戻して、私は自分の部屋を飛び出した。真っ暗闇の中に通路の灯りだけが周囲を照らす。近所迷惑だろうかと躊躇いつつも、隣のチャイムを鳴らした。

でも応答がない。再び繰り返しても梨の礫。苛々とドアノブに手をかけると、驚いたことに鍵がかかっていなかった。私は勝手にドアを開けて中に踏み込んだ。

そして呆然と立ち尽くした。部屋の中はもぬけの殻で、柴崎がここに住んでいた証は跡形もなく消えていた。

「逃がさないって言ったくせに…。自分が逃げてんじゃん…。詐欺師め」

無理に笑おうとした口元が歪み、喉の奥が塞がったように苦しくなる。頬に一筋の涙が伝ったとき、ようやく私は柴崎を失ったことを悟った。もう悪口さえも届かない。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

拗らせ女の同期への秘めたる一途な想い

松本ユミ
恋愛
好きだった同期と酔った勢いで 一夜を共にした 恋愛が面倒だと言ったあなたに 「好き」だと言えなくて 身体だけでも繋がりたくて  卑怯な私はあなたを求める この一途な想いはいつか報われますか?

こじらせ女子の恋愛事情

あさの紅茶
恋愛
過去の恋愛の失敗を未だに引きずるこじらせアラサー女子の私、仁科真知(26) そんな私のことをずっと好きだったと言う同期の宗田優くん(26) いやいや、宗田くんには私なんかより、若くて可愛い可憐ちゃん(女子力高め)の方がお似合いだよ。 なんて自らまたこじらせる残念な私。 「俺はずっと好きだけど?」 「仁科の返事を待ってるんだよね」 宗田くんのまっすぐな瞳に耐えきれなくて逃げ出してしまった。 これ以上こじらせたくないから、神様どうか私に勇気をください。 ******************* この作品は、他のサイトにも掲載しています。

【完結】伯爵の愛は狂い咲く

白雨 音
恋愛
十八歳になったアリシアは、兄の友人男爵子息のエリックに告白され、婚約した。 実家の商家を手伝い、友人にも恵まれ、アリシアの人生は充実し、順風満帆だった。 だが、町のカーニバルの夜、それを脅かす出来事が起こった。 仮面の男が「見つけた、エリーズ!」と、アリシアに熱く口付けたのだ! そこから、アリシアの運命の歯車は狂い始めていく。 両親からエリックとの婚約を解消し、年の離れた伯爵に嫁ぐ様に勧められてしまう。 「結婚は愛した人とします!」と抗うアリシアだが、運命は彼女を嘲笑い、 その渦に巻き込んでいくのだった… アリシアを恋人の生まれ変わりと信じる伯爵の執愛。 異世界恋愛、短編:本編(アリシア視点)前日譚(ユーグ視点) 《完結しました》

少し先の未来が見える侯爵令嬢〜婚約破棄されたはずなのに、いつの間にか王太子様に溺愛されてしまいました。

ウマノホネ
恋愛
侯爵令嬢ユリア・ローレンツは、まさに婚約破棄されようとしていた。しかし、彼女はすでにわかっていた。自分がこれから婚約破棄を宣告されることを。 なぜなら、彼女は少し先の未来をみることができるから。 妹が仕掛けた冤罪により皆から嫌われ、婚約破棄されてしまったユリア。 しかし、全てを諦めて無気力になっていた彼女は、王国一の美青年レオンハルト王太子の命を助けることによって、運命が激変してしまう。 この話は、災難続きでちょっと人生を諦めていた彼女が、一つの出来事をきっかけで、クールだったはずの王太子にいつの間にか溺愛されてしまうというお話です。 *小説家になろう様からの転載です。

同期に恋して

美希みなみ
恋愛
近藤 千夏 27歳 STI株式会社 国内営業部事務  高遠 涼真 27歳 STI株式会社 国内営業部 同期入社の2人。 千夏はもう何年も同期の涼真に片思いをしている。しかし今の仲の良い同期の関係を壊せずにいて。 平凡な千夏と、いつも女の子に囲まれている涼真。 千夏は同期の関係を壊せるの? 「甘い罠に溺れたら」の登場人物が少しだけでてきます。全くストーリには影響がないのでこちらのお話だけでも読んで頂けるとうれしいです。

拝啓、大切なあなたへ

茂栖 もす
恋愛
それはある日のこと、絶望の底にいたトゥラウム宛てに一通の手紙が届いた。 差出人はエリア。突然、別れを告げた恋人だった。 そこには、衝撃的な事実が書かれていて─── 手紙を受け取った瞬間から、トゥラウムとエリアの終わってしまったはずの恋が再び動き始めた。 これは、一通の手紙から始まる物語。【再会】をテーマにした短編で、5話で完結です。 ※以前、別PNで、小説家になろう様に投稿したものですが、今回、アルファポリス様用に加筆修正して投稿しています。

溺愛される妻が記憶喪失になるとこうなる

田尾風香
恋愛
***2022/6/21、書き換えました。 お茶会で紅茶を飲んだ途端に頭に痛みを感じて倒れて、次に目を覚ましたら、目の前にイケメンがいました。 「あの、どちら様でしょうか?」 「俺と君は小さい頃からずっと一緒で、幼い頃からの婚約者で、例え死んでも一緒にいようと誓い合って……!」 「旦那様、奥様に記憶がないのをいいことに、嘘を教えませんように」 溺愛される妻は、果たして記憶を取り戻すことができるのか。 ギャグを書いたことはありませんが、ギャグっぽいお話しです。会話が多め。R18ではありませんが、行為後の話がありますので、ご注意下さい。

Perverse second

伊吹美香
恋愛
人生、なんの不自由もなく、のらりくらりと生きてきた。 大学三年生の就活で彼女に出会うまでは。 彼女と出会って俺の人生は大きく変化していった。 彼女と結ばれた今、やっと冷静に俺の長かった六年間を振り返ることができる……。 柴垣義人×三崎結菜 ヤキモキした二人の、もう一つの物語……。

処理中です...