これは一つの結婚同盟

文月 青

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柴崎の部屋の寝室で、隣の空っぽの布団を眺めていた。彼は今シャワーを浴びている。坂本さんと越智さんが帰った後、私は柴崎に抱えられてこの部屋まで運ばれた。食事もちゃんと取った筈なのに、食べた記憶も献立も全く頭に残っていない。

「越智からはやり直したいと言われた」

私が坂本さんに伸されている間、越智さんはこれまで押さえ込んでいた想いを柴崎にぶつけていたらしい。私がそれを邪魔しないよう、坂本さんは渋々暴挙に出たと毒づいた。

「こんな女、金を積まれてもご免だ」

気が合うことに私も全く同意見。できるだけ平気な振りを装ったが、赤くなった手首が目に入ると寒気を覚える。正直怖かった。男の力がこれほど強いものだとは思わなかった。一見強引でも柴崎が無理やり私を抱こうとしていたんじゃないことがよく分かる。

「朗さん。私いつまでも待っているから」

越智さんの胸の内を表すような、切ない響きが耳にこだまする。気の強そうな彼女の瞳には涙が浮かんでいた。柴崎が一貫して応えなくても、坂本さんに帰るよう促されても、ただ待っていると繰り返して…。

「眠れない?」

タオルで髪を拭きながら柴崎が寝室に入ってきた。床に並べて敷いた自分の布団に座り、じっと私を窺ってから口を開く。

「隠すつもりはなかったんだ。でも知られたくもなかった」

越智さんとの過去だろう。柴崎からも信用が無いーー坂本さんの指摘にずきんと胸が痛んだ。

「私が言いふらすと、思った?」

「千歳がそんなことする筈ないでしょ。何言ってるの。怒るよ?」

恐る恐る絞り出した問いに、柴崎はぺしっと私の額を叩く。信頼を前提とする返事がことのほか嬉しくて、大人のくせにべそをかいてしまいたい気分になった。

「身近に俺と関わりを持った女性がいたら、千歳は絶対俺を恋愛対象にしないでしょ」

確かにその通りだ。大学時代の経験から、恋愛事で大切な人を失うのは懲り懲りだった。だから友人でいるのが一番いいという結論に至ったのだ。なのに今回は三角どころか四角関係という、自分の許容範囲をはるかに超えた現象が起きている。

「越智に告白されたとき、素直に喜んだのね、俺。情けないけど、いい人で終わるタイプだという自覚はあったし、また現実にそうでもあったから」

誰にでも人当たりがいい分、特別になりにくいみたいと、柴崎は淋しそうに補足する。そういえば社内でも人畜無害と評していた女子がいた。

「仕事に対する姿勢や、周囲への気配り。表に現れない部分に惹かれたと告げてくれた越智に、自分を認められたような気がした。これで絆されずにいるのは難しいよね」

私は黙って頷いた。越智さんは柴崎の本質を見抜いて好きになった。そしてそんな彼女を柴崎も。

「楽しかったんだよ。仕事帰りに食事して、休日にはデートして。越智は博識で勉強家だから、俺の方が教えられることも多かったし」

けれど柴崎はつきあいが進むにつれて、何かが欠けているような思いに囚われるようになった。相手に不満があるわけではないのに、満たされないものが心の中に巣食っている。

「いつのまにか千歳が傍にいなくなってた」

当然だ。例えただの同期でも彼女がいる人を、自分の都合だけで引っぱり回すことはできない。そのくらいの分別はがさつな私にだってある。だから用事があるときしか連絡はしなかったし、大人数のとき以外は飲みや遊びに誘うのも控えた。

「それからは社内で千歳の姿ばかり探してた。たまに目が合って笑ってくれようものなら、心臓がどきどきした。越智と一緒にいても、ここにいるのが千歳なら…ふとした瞬間にそう考えている自分に驚いた。それでも気づかないふりをしていたのに、母さんのお嫁さん発言でとうとう誤魔化せなくなった」

そっと私の頬に触れる柴崎。

「自分が誰を好きなのか、欲しいのか」

頬から離した手を膝の上でぎゅっと握り締める。

元々私の存在を意識していた越智さんは、柴崎の気持ちの変化を敏感に嗅ぎ取り、私に悪態をついたり嫌味を吐いたりするようになった。時を同じくして坂本さんがちょっかいをかけてきたので、てっきり彼を好きなのだと勘違いしてしまったが、あれは柴崎の彼女であるが故の嫉妬だったのだ。

「坂本さんが越智を好きだったなんて、想像もしていなかった」

それは私も同じ。坂本さんは苦しむ越智さんを見兼ねて、私と柴崎の仲を裂こうとしたのだそうだ。

「本田さんの無神経さには虫唾が走ります。少しは他人の気持ちも推し量るべきです」

越智さんは毎日どんな気持ちで、形だけの結婚をした私と柴崎を見ていたのだろう。柴崎を友人という立場に括りつけるために、三人の想いを無にするような適当な結婚をした私をーー。

「最低だ、私」

坂本さんの言葉は全て真実だ。私が他人の想いを軽く扱わなければ、少なくとも四人の中の誰かは報われていた。

「それは俺の方。千歳はね、恋愛が面倒なんじゃないんだよ。人を傷つける事態を招くのが怖いだけ」

優しい声で囁いて柴崎は私の頭を撫でる。普段は忘れているのに、時折小さな棘のように心の奥を刺す。私の曖昧な態度から、元彼に自分を試すような真似をさせ、見ず知らずの後輩には酷い嘘をつかせたことを。

「お願いだから、俺と結婚しなければよかったとだけは言わないで」

緩く抱き締める柴崎の腕の中で、それだけはないと伝えたくて私は必死に首を振った。




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