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リビングには何とも微妙な空気が流れている。ソファに向かい合うやたら朗らかな坂本さんを前に、ただ相槌を打つだけの柴崎。キッチンでお茶を淹れながら、そういえば夕食は用意しないといけないのかな、でも長居されると困るしなと、私は一人頭を悩ませていた。
「そんな大そうな客じゃないんだから、着替えてきていいぞ、本田」
ついでに酒の方がいいなと、差し出されたお茶を啜る坂本さん。懲りない旧姓呼びに柴崎の眉がピクリと動く。職場でも私はちゃんと「柴崎」を名乗っているし、振りではなく戸籍上も夫婦なのだが、
「俺にとってのお前は本田千歳以外の何者でもない。他の男の所有物扱いなんかしない」
坂本さんは訳の分からない持論を展開して、一向に改める気配がない。なので私も諦めて放置しているけれど、今の問題はそこではない。
「別に不都合はありませんから」
つっけんどんに返して柴崎の横に腰を下ろしたものの、今日に限ってスーツを着ていた私は、内心ではかなり焦りを感じていた。何せこの部屋には私の物は一つもない。食器ですら柴崎が買ったお客用の物を使っている。なまじ隣に住んでいるから常備しておく必要がなかったのだ。
「もこもこの部屋着姿見せろよ」
「そんなもん着るか。くそ暑い。ジャージだよ」
つい癖で切り返してから後悔する。坂本さんの目が嫌な光を帯びた。
「品定めしてやるけど?」
自分の部屋に着替えに戻るわけにはいかない。ついでに坂本さんに品定めしてもらう義理もない。
「あんまり千歳を揶揄わないで下さいね。それよりどこから着けていたんですか?」
草食動物の癒し効果を発揮しつつ、柴崎がやんわりと訊ねた。先輩を立てているあんたは偉い。
「会社。営業の奴らに聞いたら、誰もお前らの新居に招かれたことがないって言うからさ。興味が湧いた」
悪びれずに答える坂本さんを蹴っ飛ばしたい。堂々とストーキングすんな。
「普段は結構散らかっているもので」
「でも整理整頓できてるよな、この部屋。付け焼刃の掃除じゃないだろ。無駄な物は一切ないし。まるで会社の柴崎のデスクみたいだ」
一つ一つ細かい所まで不躾に室内を検分した坂本さんが、巡らせていた視線を再び柴崎で止めた。
「第一二人で住むには狭くないか? 後は寝室だけだろ?」
「逆ですよ。二人でくっつくにはこのくらいが丁度いいんです」
ね? と私の顔を覗き込む柴崎に、勢いよく首を縦に振る。これ以上広い部屋を借りると、家賃の負担が大きくなる。何より寝室に鎮座しているのは、彼が独身時代から愛用しているシングルベッド。さすがにこれを目撃されると反論の余地が無くなる。
「ふーん。まあ一理あるか」
納得したように坂本さんはにっと口の端を吊り上げた。厄介なことになった。彼は間違いなく私と柴崎の関係を疑っている。
夕食は店屋物で済ませた。私の手作り料理を食べたいと、チャレンジャー坂本は所望したが、頷いたが最後普段家事を怠っていることがもろばれだ。おそらく明日になっても胃が満たされることはない。
「それは俺の特権ですから駄目です」
柴崎のナイスフォローで事なきを得たが、繊細な神経を持ち合わせていない私は、その後も続く狐と狸の化かし合いに、いい加減面倒臭くなり始めていた。
「お揃いの物が全然ねーなあ」
二人が仕事の話を繰り広げたのを幸い、逃げるようにキッチンで出前の皿を洗っていると、坂本さんがダイニングとの間を仕切るカウンターに瞬間移動してきた。シンク周りや食器棚を遠慮なく眺めては、生活臭のない家だなと喉の奥を鳴らす。
「茶碗とかマグカップをペアにするのは、私が好きじゃないので」
皿を水切りラックに置いてぼやいた。これは事実だ。私はお揃いどころか、食器そのものにこだわりがない。柄がちぐはぐだろうが百均の商品であろうが、要は使えれば何でもいいのである。
「し……朗は?」
リビングに姿がないので、滅多に口にすることがない名前を告げる。
「寝室。資料を取りに行かせた」
坂本さんはまだ居座るつもりなのだろうか。まもなく二十二時だ。今日は残業で疲れている。そろそろ自分の部屋でごろごろしたい。
「煙草の匂いが殆どしないな、この部屋」
洗って伏せてある灰皿を目敏く見つけ、坂本さんはそれを右手で持ってほくそ笑む。本当に嫌な男だ。柴崎も煙草を吸うが嗜む程度。一方の私は彼に注意されてから抑えてはいるが、ヘビーまではいかずともそれなりなスモーカー。窓を開けていようが換気扇の下で吸おうが、室内に多少の匂いが籠るのは避けられない。柴崎が驚く程度には。
「煙草臭を漂わせて以来、部屋の外に出て吸ってるから」
壁紙も汚れるのよと、経理課長が奥さんに叱られた話を思い出し、咄嗟に引用させてもらう。部下の窮地を救う良い上司だ課長。
「お前達は確かに仲がいいが、ごく薄いラップ一枚分の壁がある」
「ラップなら壁じゃないんじゃ」
しかも消耗品だし。入れられた訂正をスルーして、坂本さんは左手でがしっと私の顎を掴んだ。
「いつまで減らず口を叩けるかな」
ギラギラした双眸で顔を近づけてくる。私はすかさずお宝に蹴りをお見舞いした。無言で蹲る坂本さんと、近所のおばさんの言いつけを守る律儀な私を、寝室から飛び出してきた柴崎が声を殺して笑っていた。
「そんな大そうな客じゃないんだから、着替えてきていいぞ、本田」
ついでに酒の方がいいなと、差し出されたお茶を啜る坂本さん。懲りない旧姓呼びに柴崎の眉がピクリと動く。職場でも私はちゃんと「柴崎」を名乗っているし、振りではなく戸籍上も夫婦なのだが、
「俺にとってのお前は本田千歳以外の何者でもない。他の男の所有物扱いなんかしない」
坂本さんは訳の分からない持論を展開して、一向に改める気配がない。なので私も諦めて放置しているけれど、今の問題はそこではない。
「別に不都合はありませんから」
つっけんどんに返して柴崎の横に腰を下ろしたものの、今日に限ってスーツを着ていた私は、内心ではかなり焦りを感じていた。何せこの部屋には私の物は一つもない。食器ですら柴崎が買ったお客用の物を使っている。なまじ隣に住んでいるから常備しておく必要がなかったのだ。
「もこもこの部屋着姿見せろよ」
「そんなもん着るか。くそ暑い。ジャージだよ」
つい癖で切り返してから後悔する。坂本さんの目が嫌な光を帯びた。
「品定めしてやるけど?」
自分の部屋に着替えに戻るわけにはいかない。ついでに坂本さんに品定めしてもらう義理もない。
「あんまり千歳を揶揄わないで下さいね。それよりどこから着けていたんですか?」
草食動物の癒し効果を発揮しつつ、柴崎がやんわりと訊ねた。先輩を立てているあんたは偉い。
「会社。営業の奴らに聞いたら、誰もお前らの新居に招かれたことがないって言うからさ。興味が湧いた」
悪びれずに答える坂本さんを蹴っ飛ばしたい。堂々とストーキングすんな。
「普段は結構散らかっているもので」
「でも整理整頓できてるよな、この部屋。付け焼刃の掃除じゃないだろ。無駄な物は一切ないし。まるで会社の柴崎のデスクみたいだ」
一つ一つ細かい所まで不躾に室内を検分した坂本さんが、巡らせていた視線を再び柴崎で止めた。
「第一二人で住むには狭くないか? 後は寝室だけだろ?」
「逆ですよ。二人でくっつくにはこのくらいが丁度いいんです」
ね? と私の顔を覗き込む柴崎に、勢いよく首を縦に振る。これ以上広い部屋を借りると、家賃の負担が大きくなる。何より寝室に鎮座しているのは、彼が独身時代から愛用しているシングルベッド。さすがにこれを目撃されると反論の余地が無くなる。
「ふーん。まあ一理あるか」
納得したように坂本さんはにっと口の端を吊り上げた。厄介なことになった。彼は間違いなく私と柴崎の関係を疑っている。
夕食は店屋物で済ませた。私の手作り料理を食べたいと、チャレンジャー坂本は所望したが、頷いたが最後普段家事を怠っていることがもろばれだ。おそらく明日になっても胃が満たされることはない。
「それは俺の特権ですから駄目です」
柴崎のナイスフォローで事なきを得たが、繊細な神経を持ち合わせていない私は、その後も続く狐と狸の化かし合いに、いい加減面倒臭くなり始めていた。
「お揃いの物が全然ねーなあ」
二人が仕事の話を繰り広げたのを幸い、逃げるようにキッチンで出前の皿を洗っていると、坂本さんがダイニングとの間を仕切るカウンターに瞬間移動してきた。シンク周りや食器棚を遠慮なく眺めては、生活臭のない家だなと喉の奥を鳴らす。
「茶碗とかマグカップをペアにするのは、私が好きじゃないので」
皿を水切りラックに置いてぼやいた。これは事実だ。私はお揃いどころか、食器そのものにこだわりがない。柄がちぐはぐだろうが百均の商品であろうが、要は使えれば何でもいいのである。
「し……朗は?」
リビングに姿がないので、滅多に口にすることがない名前を告げる。
「寝室。資料を取りに行かせた」
坂本さんはまだ居座るつもりなのだろうか。まもなく二十二時だ。今日は残業で疲れている。そろそろ自分の部屋でごろごろしたい。
「煙草の匂いが殆どしないな、この部屋」
洗って伏せてある灰皿を目敏く見つけ、坂本さんはそれを右手で持ってほくそ笑む。本当に嫌な男だ。柴崎も煙草を吸うが嗜む程度。一方の私は彼に注意されてから抑えてはいるが、ヘビーまではいかずともそれなりなスモーカー。窓を開けていようが換気扇の下で吸おうが、室内に多少の匂いが籠るのは避けられない。柴崎が驚く程度には。
「煙草臭を漂わせて以来、部屋の外に出て吸ってるから」
壁紙も汚れるのよと、経理課長が奥さんに叱られた話を思い出し、咄嗟に引用させてもらう。部下の窮地を救う良い上司だ課長。
「お前達は確かに仲がいいが、ごく薄いラップ一枚分の壁がある」
「ラップなら壁じゃないんじゃ」
しかも消耗品だし。入れられた訂正をスルーして、坂本さんは左手でがしっと私の顎を掴んだ。
「いつまで減らず口を叩けるかな」
ギラギラした双眸で顔を近づけてくる。私はすかさずお宝に蹴りをお見舞いした。無言で蹲る坂本さんと、近所のおばさんの言いつけを守る律儀な私を、寝室から飛び出してきた柴崎が声を殺して笑っていた。
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