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「いざとなったら、今だけでいいの一言が出なかった」
私が食べたフルーツヨーグルトの器を一旦キッチンに下げ、二人分のコーヒーを淹れて戻ってきた柴崎は、一緒に灰皿を差し出してから、今気づいたという体で不思議そうに訊ねた。
「煙草吸わないの?」
「柴崎が没収したんだけど」
「予備があるでしょ。なければ買えばいいんだし」
憮然とする柴崎に、私は数回瞬きを繰り返す。
「本数を減らしただけで吸ってるよ。柴崎に吸い過ぎって注意されたから、控える努力をしてるだけ」
そこで柴崎はふっと目を細めた。
「柴崎が私に意味のないことをさせるわけないし」
照れ臭そうに口元を綻ばせる。
「無条件に信頼されているみたいで、素直に嬉しい。千歳のそういうところ、好きだな」
コーヒーシュガー並みの糖分を撒き散らされ、私は二の句が継げなくなった。基本ブラックだけれどね。
「だから今だけじゃ嫌だった」
カップの半分程コーヒーを味わってから、柴崎は茶目っ気たっぷりに舌を出した。
「もうバレてるかもしれないけど、母さんのお嫁さんに会いたいは口癖みたいなものだし、坂本さんの異動の話も耳に入ってた。たぶん結婚しなくても、現状は改善されてたと思う」
薄々勘づいてはいたが、実際に暴露されると腹が立つ。
「この詐欺師が」
「ごめん。このまま、この先もずっと千歳と一緒にいたいと分かったから、誰かに取られる前に俺のものにしてしまいたかった。そういう観点でいけば、偽装にはなるのかも」
当時も現在も私が柴崎に恋愛感情を持っていないことを、身近にいた彼は確かめるまでもなく知っている。それ故に強硬手段に出たのだろう。
正直なところ、私とて親しい友人が窮地に陥ったからといって、誰彼構わず結婚できるかと言えばそれは違う。やはり柴崎だから。さっきの自分の台詞ではないが、彼が無意味なことを私に強いる筈がないから。
「一年も同期の関係だったのは何で?」
「千歳の気持ちが俺に向くのを待ってた。結果見事に惨敗。で、兎をやめました」
私はこれで煙草をやめました、みたいな乗りなのが面白くない。
「柴崎は真面目に私としたいの? 欲求不満の解消」
女の子がそんな露骨なと呆れながら、柴崎は困ったように肩を落とした。
「したいよ。でもそれ以前に千歳に男として意識されたい」
だったら柴崎は一番最初に間違えたことになる。愛があろうとなかろうと彼を受け入れること込みで、もちろん同居を前提に私は結婚を承諾したのだから。
梅雨入りしてから連日雨が降っている。気温も湿度も高くてじめじめと鬱陶しいのに、更に不快指数が上がる出来事が起こった。坂本さんが予定より早く、六月半ばには戻ってきたのである。こちらの営業に欠員が出たせいなので文句も言えない。
「本田、領収書頼む」
私の担当でもなければ、声をかけやすい席に座っているわけでもないのに、坂本さんは当然のように私を名指しする。仕事なので渋々受け取ると、
「昼飯行かないか? ああ、晩飯でもいいぞ」
大抵この手のお誘いもついてくる。
「行きません。そんな余裕があるなら、もっと稼いできて下さい」
「安心しろ、本田。お前を路頭に迷わせたりはしない」
「意味が違うわ。とっとと営業に帰れ」
つられてこんな掛け合いをしてしまうが、悲しいかな経理の社員達は慣れていて、嗜めるどころか逆に囃し立ててくる始末。夫の柴崎より頻繁に姿を見せては、笑いを提供するので仕方がない部分もあるが、私としては迷惑なことこの上ない。
しかも傍目にはいちゃついているように移るらしく、今度はそれを漏れ聞いた越智さんに、
「会社に逆ハーレムでも作るつもりですか」
社食や女子更衣室で顔を合わせる度、姑よろしくいびられ、
「浮気したらお仕置きするよ?」
嫉妬した柴崎からは自宅、会社問わず隙あらばキスやらスキンシップやら仕掛けられ、気を抜く暇が全くない。越智さん、節操なしは絶対柴崎の方だ。
「千歳が俺のことを好きになってくれたら、もう少し鷹揚に構えてやれるけど、今は無理」
自宅の最寄駅からアパートまで並んで歩きながら、柴崎が情けない表情で呟いた。残業を済ませて会社を出たところで、追いかけてきた彼に手を取られ、それからずっと恋人繋ぎ。怖ろしいことに抵抗しなくなりつつある自分がいる。
「比べる対象にもならないよ、柴崎と坂本さんじゃ。あの人に頼まれても結婚なんてできない」
「本当に?」
はにかんだ笑顔にどきんと心臓が鳴る。やばい。男女逆転してるぞ、おい。
「まあね」
適当に言葉を濁してアパートの階段を上り、三階の角部屋まで急ぐ。ようやく手を離して、バッグの中の鍵を漁っていると、柴崎がぽつりと零した。
「俺の部屋じゃ、駄目?」
ぎこちなく振り向けば、やけに熱っぽい二つの視線とぶつかる。柴崎の部屋に入ったら、今夜は何もしないではいられないだろう。
ーーどうしよう?
答えあぐねていると、階段を駆け上がってくる足音と共に、予想外の大音声が周囲に響き渡った。
「本田、柴崎。遊びに来てやったぞ!」
どこから着けていたのか、そこには疲れ知らずの坂本さんが立っていた。
私が食べたフルーツヨーグルトの器を一旦キッチンに下げ、二人分のコーヒーを淹れて戻ってきた柴崎は、一緒に灰皿を差し出してから、今気づいたという体で不思議そうに訊ねた。
「煙草吸わないの?」
「柴崎が没収したんだけど」
「予備があるでしょ。なければ買えばいいんだし」
憮然とする柴崎に、私は数回瞬きを繰り返す。
「本数を減らしただけで吸ってるよ。柴崎に吸い過ぎって注意されたから、控える努力をしてるだけ」
そこで柴崎はふっと目を細めた。
「柴崎が私に意味のないことをさせるわけないし」
照れ臭そうに口元を綻ばせる。
「無条件に信頼されているみたいで、素直に嬉しい。千歳のそういうところ、好きだな」
コーヒーシュガー並みの糖分を撒き散らされ、私は二の句が継げなくなった。基本ブラックだけれどね。
「だから今だけじゃ嫌だった」
カップの半分程コーヒーを味わってから、柴崎は茶目っ気たっぷりに舌を出した。
「もうバレてるかもしれないけど、母さんのお嫁さんに会いたいは口癖みたいなものだし、坂本さんの異動の話も耳に入ってた。たぶん結婚しなくても、現状は改善されてたと思う」
薄々勘づいてはいたが、実際に暴露されると腹が立つ。
「この詐欺師が」
「ごめん。このまま、この先もずっと千歳と一緒にいたいと分かったから、誰かに取られる前に俺のものにしてしまいたかった。そういう観点でいけば、偽装にはなるのかも」
当時も現在も私が柴崎に恋愛感情を持っていないことを、身近にいた彼は確かめるまでもなく知っている。それ故に強硬手段に出たのだろう。
正直なところ、私とて親しい友人が窮地に陥ったからといって、誰彼構わず結婚できるかと言えばそれは違う。やはり柴崎だから。さっきの自分の台詞ではないが、彼が無意味なことを私に強いる筈がないから。
「一年も同期の関係だったのは何で?」
「千歳の気持ちが俺に向くのを待ってた。結果見事に惨敗。で、兎をやめました」
私はこれで煙草をやめました、みたいな乗りなのが面白くない。
「柴崎は真面目に私としたいの? 欲求不満の解消」
女の子がそんな露骨なと呆れながら、柴崎は困ったように肩を落とした。
「したいよ。でもそれ以前に千歳に男として意識されたい」
だったら柴崎は一番最初に間違えたことになる。愛があろうとなかろうと彼を受け入れること込みで、もちろん同居を前提に私は結婚を承諾したのだから。
梅雨入りしてから連日雨が降っている。気温も湿度も高くてじめじめと鬱陶しいのに、更に不快指数が上がる出来事が起こった。坂本さんが予定より早く、六月半ばには戻ってきたのである。こちらの営業に欠員が出たせいなので文句も言えない。
「本田、領収書頼む」
私の担当でもなければ、声をかけやすい席に座っているわけでもないのに、坂本さんは当然のように私を名指しする。仕事なので渋々受け取ると、
「昼飯行かないか? ああ、晩飯でもいいぞ」
大抵この手のお誘いもついてくる。
「行きません。そんな余裕があるなら、もっと稼いできて下さい」
「安心しろ、本田。お前を路頭に迷わせたりはしない」
「意味が違うわ。とっとと営業に帰れ」
つられてこんな掛け合いをしてしまうが、悲しいかな経理の社員達は慣れていて、嗜めるどころか逆に囃し立ててくる始末。夫の柴崎より頻繁に姿を見せては、笑いを提供するので仕方がない部分もあるが、私としては迷惑なことこの上ない。
しかも傍目にはいちゃついているように移るらしく、今度はそれを漏れ聞いた越智さんに、
「会社に逆ハーレムでも作るつもりですか」
社食や女子更衣室で顔を合わせる度、姑よろしくいびられ、
「浮気したらお仕置きするよ?」
嫉妬した柴崎からは自宅、会社問わず隙あらばキスやらスキンシップやら仕掛けられ、気を抜く暇が全くない。越智さん、節操なしは絶対柴崎の方だ。
「千歳が俺のことを好きになってくれたら、もう少し鷹揚に構えてやれるけど、今は無理」
自宅の最寄駅からアパートまで並んで歩きながら、柴崎が情けない表情で呟いた。残業を済ませて会社を出たところで、追いかけてきた彼に手を取られ、それからずっと恋人繋ぎ。怖ろしいことに抵抗しなくなりつつある自分がいる。
「比べる対象にもならないよ、柴崎と坂本さんじゃ。あの人に頼まれても結婚なんてできない」
「本当に?」
はにかんだ笑顔にどきんと心臓が鳴る。やばい。男女逆転してるぞ、おい。
「まあね」
適当に言葉を濁してアパートの階段を上り、三階の角部屋まで急ぐ。ようやく手を離して、バッグの中の鍵を漁っていると、柴崎がぽつりと零した。
「俺の部屋じゃ、駄目?」
ぎこちなく振り向けば、やけに熱っぽい二つの視線とぶつかる。柴崎の部屋に入ったら、今夜は何もしないではいられないだろう。
ーーどうしよう?
答えあぐねていると、階段を駆け上がってくる足音と共に、予想外の大音声が周囲に響き渡った。
「本田、柴崎。遊びに来てやったぞ!」
どこから着けていたのか、そこには疲れ知らずの坂本さんが立っていた。
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