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六月に入って三日が過ぎた。まだ梅雨入り前のからっとした天気なのに、私的には既に暗雲が垂れ込めた土砂降りの気分だった。ここ数日家にいても寛げないので、会社で羽を伸ばそうと秘かに企めば、煩悩がお菓子片手に経理にやってくる。
「いつもありがとうございます」
昼休みも残り十分という頃、通路側の席の女子社員が柴崎からお土産を受け取っていた。昨日は日帰りの出張だったのに、わざわざ女子の好きそうな物を選んで、害のない笑みをそこら中に振り撒いている。
「こちらこそ千歳がお世話になっています」
これまでなら柴崎気が利くなと単純に誇らしかったけれど、今となってはけっ!と腹の中で毒づくことしかできない。
「ついでに不備のあった領収書、営業に持っていきますね」
「さすが柴崎さん。助かります」
感激する女子社員一同に見送られ、柴崎は照れ臭そうに頭を掻きつつ去っていった。どの面下げてあんな猿芝居をしているんだあの男は。
「顔が怖いよ、千歳」
隣で柚が苦笑した。セミロングのゆるふわの髪が愛らしさをアップしている。対する毎朝のブローが面倒臭くて万年ショートの私は、傍目には彼女の彼氏に見えるかもしれない。
「それにしても想像もしていなかった。千歳達の結婚が形だけだったなんて」
身の危険に晒されるようになってから、極度にやつれた私を心配した柚に、洗いざらいぶちまけたのはついさっき。この一年は同期として快適な日々を送ってきたから、結婚の悩みなど当然発生しようもなく、よって誰かに相談する必要性もなかったのだ。
期限も条件も設けず、しかも結婚する理由となった問題がほぼ片付いたのに、離婚の予定もないという時点で、無計画にも程があると柚は呆れたが、そもそも私には別れるという発想がなかった。柴崎の方はどうなんだろう。いや、あいつは結婚しようと言ってたんだっけ。
「自分が蒔いた種とはいえ、柴崎くんはちょっと可哀想ではあるよね」
「何でよ」
「仮にも妻がいるなら、他の人と交渉を持つわけにいかないじゃない。浮気になるもの。でも肝心の妻が熱い要求に応えてくれないんではねえ」
両手を握り締めて口を尖らせる柚を睨んだものの、なるほど男にはそういう事情もあったかとため息が出る。おかしな話柴崎には性欲がない、違うな、私には欲情しないと思っていた。彼女がいたのだから当然だが、五年も傍にいて危うい雰囲気になったことが一度もない。
「おやおや、昼間っから夜の悩み?」
ふいに頭上から声が降った。つられて座ったまま後ろを振り仰いで目が釘付けになる。
「久し振りだな、本田。変わってなくて嬉しいぞ」
そこには堂々と私の旧姓を呼ぶ、ここにはいない筈の煩悩二号の顔があった。
「何しに来たんですか。それとも仕事がなくて暇なんですか」
迷惑な気持ちを一切隠さずにぼやくと、煩悩二号こと坂本健太さんが何故か嬉しそうに肩を揺すった。
「この辛辣さが堪んないんだよな。支社には可愛い子はいたけど、意地悪な女はいなくてさ。本田、やっぱり俺のものになんない?」
「喧嘩を売ってんの、あんたは」
しかも私は女子トイレに向かっているのに、へらへら喋りながら着いてくるな。
そう、この男こそ私に結婚を決意させた、柴崎の先輩である優秀な人材。実際どの程度の手腕をお持ちか知らないが、口で煙に巻くのが得意なことだけは太鼓判を押そう。
「どうせ柴崎とはまだなんだろ」
意味ありげというよりはタイムリーな一言に、私はいきなり歩みを止めた。まもなく午後の始業時間なので、幸い周囲には誰もいない。
「ありがたい程色気がないからな」
ほっと胸を撫で下ろす私に構わず、坂本さんは少しも悪びれずに続ける。
「俺、来月こっちに戻ってくんだわ」
「こんな中途半端な時期に? 帰ってくるな。他所に行け」
眉を顰める私に坂本さんはにっと唇の端を釣り上げた。
「いいねえ、その反応。媚を売られるよりよっぽど唆る」
やめんかその変態発言。私に寄ってくるのはどうしてこんな男ばかりなんだ。
「今度は遠慮なく攻めるからな、本田千歳」
どこかで聞いたような台詞だと、それ以前にあんたが私に遠慮したことがあったかと、心底うんざりしていると、いきなり肩を壁に押し付けられた。
「油断するなよ。俺には未婚も既婚も関係ない。一年も猶予があったのに、手をこまねいていた奴もな」
つい今しがたまでのふざけた姿は鳴りを潜め、怖いくらい真剣な表情で私をみつめている。
「ま、そういうことだからよろしくな」
こちらに向かってくる微かな足音が耳に届き、坂本さんはすっと私から離れた。営業に寄ってくると手をひらひら振って、元来た通路を引き返す。私は壁際に突っ立ったまま、しばらく動くことができなかった。
「いつもありがとうございます」
昼休みも残り十分という頃、通路側の席の女子社員が柴崎からお土産を受け取っていた。昨日は日帰りの出張だったのに、わざわざ女子の好きそうな物を選んで、害のない笑みをそこら中に振り撒いている。
「こちらこそ千歳がお世話になっています」
これまでなら柴崎気が利くなと単純に誇らしかったけれど、今となってはけっ!と腹の中で毒づくことしかできない。
「ついでに不備のあった領収書、営業に持っていきますね」
「さすが柴崎さん。助かります」
感激する女子社員一同に見送られ、柴崎は照れ臭そうに頭を掻きつつ去っていった。どの面下げてあんな猿芝居をしているんだあの男は。
「顔が怖いよ、千歳」
隣で柚が苦笑した。セミロングのゆるふわの髪が愛らしさをアップしている。対する毎朝のブローが面倒臭くて万年ショートの私は、傍目には彼女の彼氏に見えるかもしれない。
「それにしても想像もしていなかった。千歳達の結婚が形だけだったなんて」
身の危険に晒されるようになってから、極度にやつれた私を心配した柚に、洗いざらいぶちまけたのはついさっき。この一年は同期として快適な日々を送ってきたから、結婚の悩みなど当然発生しようもなく、よって誰かに相談する必要性もなかったのだ。
期限も条件も設けず、しかも結婚する理由となった問題がほぼ片付いたのに、離婚の予定もないという時点で、無計画にも程があると柚は呆れたが、そもそも私には別れるという発想がなかった。柴崎の方はどうなんだろう。いや、あいつは結婚しようと言ってたんだっけ。
「自分が蒔いた種とはいえ、柴崎くんはちょっと可哀想ではあるよね」
「何でよ」
「仮にも妻がいるなら、他の人と交渉を持つわけにいかないじゃない。浮気になるもの。でも肝心の妻が熱い要求に応えてくれないんではねえ」
両手を握り締めて口を尖らせる柚を睨んだものの、なるほど男にはそういう事情もあったかとため息が出る。おかしな話柴崎には性欲がない、違うな、私には欲情しないと思っていた。彼女がいたのだから当然だが、五年も傍にいて危うい雰囲気になったことが一度もない。
「おやおや、昼間っから夜の悩み?」
ふいに頭上から声が降った。つられて座ったまま後ろを振り仰いで目が釘付けになる。
「久し振りだな、本田。変わってなくて嬉しいぞ」
そこには堂々と私の旧姓を呼ぶ、ここにはいない筈の煩悩二号の顔があった。
「何しに来たんですか。それとも仕事がなくて暇なんですか」
迷惑な気持ちを一切隠さずにぼやくと、煩悩二号こと坂本健太さんが何故か嬉しそうに肩を揺すった。
「この辛辣さが堪んないんだよな。支社には可愛い子はいたけど、意地悪な女はいなくてさ。本田、やっぱり俺のものになんない?」
「喧嘩を売ってんの、あんたは」
しかも私は女子トイレに向かっているのに、へらへら喋りながら着いてくるな。
そう、この男こそ私に結婚を決意させた、柴崎の先輩である優秀な人材。実際どの程度の手腕をお持ちか知らないが、口で煙に巻くのが得意なことだけは太鼓判を押そう。
「どうせ柴崎とはまだなんだろ」
意味ありげというよりはタイムリーな一言に、私はいきなり歩みを止めた。まもなく午後の始業時間なので、幸い周囲には誰もいない。
「ありがたい程色気がないからな」
ほっと胸を撫で下ろす私に構わず、坂本さんは少しも悪びれずに続ける。
「俺、来月こっちに戻ってくんだわ」
「こんな中途半端な時期に? 帰ってくるな。他所に行け」
眉を顰める私に坂本さんはにっと唇の端を釣り上げた。
「いいねえ、その反応。媚を売られるよりよっぽど唆る」
やめんかその変態発言。私に寄ってくるのはどうしてこんな男ばかりなんだ。
「今度は遠慮なく攻めるからな、本田千歳」
どこかで聞いたような台詞だと、それ以前にあんたが私に遠慮したことがあったかと、心底うんざりしていると、いきなり肩を壁に押し付けられた。
「油断するなよ。俺には未婚も既婚も関係ない。一年も猶予があったのに、手をこまねいていた奴もな」
つい今しがたまでのふざけた姿は鳴りを潜め、怖いくらい真剣な表情で私をみつめている。
「ま、そういうことだからよろしくな」
こちらに向かってくる微かな足音が耳に届き、坂本さんはすっと私から離れた。営業に寄ってくると手をひらひら振って、元来た通路を引き返す。私は壁際に突っ立ったまま、しばらく動くことができなかった。
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