隣の他人

文月 青

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本編

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あまりの爆弾発言に驚きすぎた私は、ひとまず汚れたテーブルを布巾で拭いて、改めて二人分のコーヒーを淹れてから座りなおした。瀬戸は力尽きたようにずるずると腰を下ろし、片手で額を抑えて天井を仰いでいる。

「あの女が出張中べたべたしてくるから、きっぱり言ったんだ」

徐々にこちらに視線を戻しながらぽつりと呟く。

「俺にはずっと前から好きな女がいて、やっと念願叶って一緒に暮らしてる、もう結婚するって」

さっきから煩いくらいに心臓がばくばく音を立てている。

「それで諦めると踏んでたんだけど」

瀬戸は大きなため息を吐いてそもそもの発端を説明した。

瀬戸とあのスーツの女性は本当に同僚で、しばらく前からつきまとわれていたのだそうだ。同じ課に勤務していては無視するわけにもいかず、仕事上必要な関わりを持つに留めていたが、なまじ瀬戸の女遍歴が知られていただけに、相手もなかなか引いてくれなかったらしい。加えて今回の出張中やけに接触をしてくるので、瀬戸も我慢できずに件の台詞を言ってしまった。

ところがこれで大人しくなるかと思いきや、適当な理由をでっち上げて自分の部屋を探りにくるわ、偶然とはいえ知らないところで私に遭遇するわ、

「あなたの友人にご挨拶してきたわ」

しかもそれを帰社するなりぶちまけられたものだから、瀬戸は出張の報告書を急いで仕上げて帰宅したのだけれど、家はもぬけの殻で出迎えたのは床に落ちた生姜だけだった、と。

そこまで聞いて私は妙な引っかかりを覚えた。彼女が瀬戸にとってはただの同僚で、勝手に誤解して大騒ぎしていた点は嬉しくもあり恥ずかしくもある。でも要するに全て紐解いてはっきりしたのは結局。

「私は虫除け…」

という事実。つまり結婚前提云々もその場限りの嘘。

「だからどうしてそんな解釈になる? 斗田が出て行ったんじゃないか、今度こそ愛想をつかされたんじゃないかって、こっちは本気で心配したっていうのに」

落胆しかけた私に、瀬戸は泣き出しそうなほど切ない声で囁く。

「本音なんだ。ずっと斗田のことが」

鼓動が更にヒートアップする。耳の奥で何かががんがん鳴り響いている。どうやって呼吸をすればいいか忘れそうになる。

まさか本当に瀬戸が私を?

そんな筈はない。この十年瀬戸がそんな素振りを私に見せたことなど欠片もなかった。疑う要素さえ一つも。

「いつ、から」

喉がからからに乾いていたので、コーヒーを飲んで気持ちを落ち着けてから訊ねてみる。熱いのか温いのかさえ感じない。

「大学に入って間もなく。お前に初めて男ができたとき」

意外な告白に私は目を瞬いた。瀬戸と違う大学に通うのを機に、私が瀬戸離れを試みた最初。同じサークルの先輩で、いつも周囲を楽しませる明るい人だった。
残念ながら私が深いつきあいに踏み込めず、別れてしまう結果になったけれど。でも既に七年前の出来事。

「俺さ、お前が自分から離れていくなんて想像したこともなくてさ。他の男の隣で笑ってるお前を見たとき、あまりの衝撃に頭が真っ白になった」

瀬戸は自嘲気味に笑う。

「隣にいるのが当たり前すぎて、それがどれだけ特別なことだったか分かっていなかった」

失って初めて大切な存在に気づいた、と瀬戸は苦しげに吐息を漏らす。

でも自覚したところで、自分はこれまで散々いろんな女とつきあってきたし、そんな自分を私がどう思っているかも分からない。何より私が彼氏を作り始めた以上、好きだと伝えることで、友人ですらいられなくなるかもしれない。

それならいっそのこと、嫌われても軽蔑されても、友人として一番近くにいようと決めた。私が困らないよう、これまで通り短いサイクルで好きでもない人とつきあいながら。

「斗田が隣にいなくなることの方が怖かった」

ぎゅっと瀬戸が唇を噛む。私はテーブルの上に置いた両手に力を込めた。そこから体中にじわじわと温かなものが染み渡っていく。

同じだった。二人ともお互いを失いたくなくて、心の中だけで同じ想いを重ねてきた。長い長い時間、ずっと隣にいたのに。

「もう一度だけ訊く」

ふいに瀬戸が真剣な眼差しで私を射抜いた。

「俺の家の合鍵を持っているのは誰だ」

瀬戸らしい断定的な口調に、涙と笑みがいっぺんに零れた。瀬戸が好き。もう隠さなくていい想いが、全身から溢れて止まらない。

「行くぞ」

唐突に瀬戸が席を立ち、すっと私の横に並んだ。感激をぶち壊すかのような行動に呆気に取られる。

「どこに?」

「俺の部屋」

そのまま私の腕を掴んで歩き出す。私の部屋を過ぎ、近くて遠かった瀬戸の部屋に招き入れられる。室内を眺める暇もなく、いきなりベッドに押し倒された。

「抱かせろ」

微かに瀬戸の匂いが漂うなか放たれたストレートな一言に、顔が真っ赤に染まったのが分かった。

「頼むからその初心な反応やめろって。理性が持たん」

そんなこと知ったこっちゃない。至近距離で熱い息を吐かれて、こっちだって身が持たない。

「俺がどれだけ我慢したと思ってる。隣に好きな女がいる、でも手を出せないこの天国と地獄」

文句を言いながら、瀬戸が優しく唇にキスを落とす。そこで私は我に返った。

「でも瀬戸さん、キスした後もなかったことにしてましたよね?」

「そうでもしないと、その日のうちに事に及びそうだったんだよ。夜だってだからなるべく部屋に篭ってた」

「仕事だったんじゃ」

「たまにはな」

よもや瀬戸がそんな状態になっていたとはつゆ知らず、私は女扱いされないと嘆いていたわけだ。

「というわけで、もう待たない」

いきなり肩に顔を埋める瀬戸。くすぐったくて身じろぎしている間に、Tシャツの裾を捲り上げられる。

「ぎゃーっ、心の準備がーっ! 」

外側の服に色気がなくても、せめて下着は可愛いものにしたいのに。今日は休みだから手を抜いている!

「今更」

さして大きくもない片乳がぽろんと零れ、もう駄目だと観念した直後、チャイムとドアを叩く音と、凄まじい怒鳴り声が響き渡った。

「出てこいクズで節操なしの馬鹿男!」

それは間違いなくさっき私がメールを送った、幸せいっぱいの花嫁のものだった。





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