隣の他人

文月 青

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本編

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その女性とアパートの前で鉢合わせたのは翌日の夕方だった。タイミング悪く切らしていた生姜を急ぎ買って戻ってきたら、ドアの前に上品なスーツに身を包んだ髪の長い女性が立っていた。

「陽生に何か?」

小首を傾げる姿が可愛らしいその女性は、呼び慣れているかのように瀬戸の名前を舌に乗せた。身なりはあまり気にしない私も、下手するとその辺の男子高生より短い髪に古びたジーンズの自分が妙に恥ずかしくなる。

「彼は今留守ですよ」

この人は瀬戸を訪ねてきた同僚だろうか。胸によくあるファイルを抱えて親切に教えてくれる。

私はしばし悩んだ。自分は恋人ではなくただの友人でありながら共に暮らしている。しかも生活費についての取り決めはまだ宙に浮いたままなので、食費はともかく家賃や光熱費は一人暮らしの時同様、瀬戸の口座から自動的に引き落とされていた。だから結局私の身分は居候…。

「えーと、すみません。私は友人です」

何とも格好がつかない。でもうっかり同居しているなんて言ったら変な誤解を受ける可能性がある。瀬戸と女性の関係がどの程度か計れない以上、彼の社会的地位を失墜するわけにはいかない。

「あぁ、もしかしてあなたがここで?」

驚くことに女性は私のことを知っているようだった。口振りからは同居していることも込みで納得しているのが窺える。私ははいともいいえとも言えずに押し黙った。同居の件は特に隠してはいないけれど、瀬戸にわざわざ話す女性が存在したことが意外だった。

「出張中の陽生に頼まれて資料を取りに来たんです。勝手に入ってごめんなさいね」

そんな私に嫌悪感を顕にすることもなく、笑顔のままお詫びを口にするこの人は、これまでの瀬戸の彼女達とは違ってとても好感が持てた。

「それじゃ失礼しますね」

最後まで丁寧な応対の女性に頭を下げ、ぴんと伸びた綺麗な背中を見送ってから、私はドアに鍵を差し込む。中に入って靴を脱ぎかけたところで足が止まった。いない筈の瀬戸の部屋から灯りが漏れている。瀬戸が出勤してから今日私が外出するときまで、確かに閉まっていたドアが僅かに開いて。

あの女性が合鍵を持っているのだと悟ったとき、生姜の入った小さなエコバッグが足元に落ちた。両手が小刻みに震えている。

瀬戸の家の前でその当時の彼女や、以前つきあっていた彼女に出くわしたことは幾度かあった。大抵は私の出で立ちを見て鼻にも引っかけなかったが、中には八つ当たり半分で自分の家の鍵をちらつかせ、さも瀬戸に頼まれて忘れ物を取りに来たように装う人もいた。でも瀬戸が誰かに合鍵を渡したことが一度もない事実を知っていた私は、どれも信用せず話半分にやり過ごしていたのだ。

けれど現実にこの家に誰かが入った形跡を見てしまった今。先程の女性の話を疑う余地はない。おそらく胸に抱いていたファイルも小道具ではなく、出張前夜に瀬戸が目を通していたものだろう。瀬戸はきっと本気だ。

私は恐る恐る室内に足を踏み入れ、瀬戸の部屋のドアノブを握る。一緒に住んでいながら一度も招かれたことがない瀬戸の部屋。そのドアを勢いよく閉めて私はアパートを飛び出した。

「お前は平気なのか?」

いつぞやの星の言葉が蘇る。平気だったわけじゃない。友人として傍にいることを選んだのは自分のくせに、結婚して引導を渡してほしいと願っていたくせに、いざ瀬戸に心から想いを寄せる人ができたと分かっただけで、身が千切られるほど苦しい。

今度こそ本当に瀬戸の隣にはいられない。



どうして私ってこうなんだろう。ぽつぽつと灯る窓明りや、美味しそうな夕餉の匂いに虚しさが募る。辛うじて財布とスマートフォンだけは所持していたけれど、散々走って走って走って、気づいたときにはどこにも行き場がなかった。

着替えも持たずに実家に帰省はできないし、そもそも明日は仕事だ。友人の花嫁にメールを送ってみたものの、新婚家庭にお邪魔するわけにはいかないし、頼みの綱の星も新婚さん。僻みたくはないものの、周囲のラブラブ加減が恨めしくなる。

出張から戻ったのか、瀬戸からもメールが引っ切り無しに届く。電話に出ないせいもあるけれど、「どこだ」「連絡しろ」という相変わらず短い文にどこか和んでしまう自分は重症だ。

つくづく私は。

「馬鹿野郎」

馬鹿だと自覚しかけたところで先を越された。聞き慣れた声の主に背後から容赦なく頭を叩かれる。その痛みに憤りの強さを感じ取る。

「一体何があった」

呼吸が荒い。探し回ってくれたのだろうか。二重の申し訳なさに私は肩を縮めて振り返った。スーツ姿の瀬戸は静かに怒っていたけれど、その双眸にはむしろ安堵の色が揺れている。

「家の鍵は開いてるわ、玄関に生姜が転がってるわ」

思わず息を呑む。そういえば後先考えずに家を飛び出したから、戸締りをした記憶がない。私はがっくりと項垂れた。

「ごめんなさい」

「責めているんじゃない。何を言われた?」

嫌な予感がしてのろのろと顔を上げる。瀬戸が唇を真一文字に結んで見下ろしていた。

「会ったんだろ? 彼女に」

その瞬間堪えていた涙がどっと溢れた。

「ちょ、斗田、どうした」

瀬戸が本気で焦っている。卒業式やテレビや本の悲しい場面、仕事での失敗を悔やんだ際を除けば、たぶん瀬戸の前で露骨に泣いたのは初めてだった。できるだけ女としての涙は隠してきたから。

だけど止められなかった。覚悟はしていたのに、いざあの女性を彼女だと本人に認められたら抑えがきかなくなった。こんな形でみっともない素の自分を晒す羽目になるなんて屈辱だ。

「おい、泣くなって」

半ば苛々し始めた瀬戸はちっと舌打ちすると、子供のように泣きじゃくる私の肩を前方に押した。

「とりあえず入れ」

見慣れたドアが行く手に立ちはだかっている。そう。どこにも居場所を見つけられなかった私は、実は瀬戸のアパートに帰ってきていた。着替えとか荷物とか言い訳は様々あれど、ここ以外に行きたい所なんて結局なかったのだ。

「帰ってこないんじゃないかと思ったぞ」

いろんな意味で格好悪い私に、瀬戸がぶっきらぼうに呟く。彼の真意が掴めず、私はただぽろぽろと雫を落とし続けた。





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