8 / 20
本編
8
しおりを挟む
その女性とアパートの前で鉢合わせたのは翌日の夕方だった。タイミング悪く切らしていた生姜を急ぎ買って戻ってきたら、ドアの前に上品なスーツに身を包んだ髪の長い女性が立っていた。
「陽生に何か?」
小首を傾げる姿が可愛らしいその女性は、呼び慣れているかのように瀬戸の名前を舌に乗せた。身なりはあまり気にしない私も、下手するとその辺の男子高生より短い髪に古びたジーンズの自分が妙に恥ずかしくなる。
「彼は今留守ですよ」
この人は瀬戸を訪ねてきた同僚だろうか。胸によくあるファイルを抱えて親切に教えてくれる。
私はしばし悩んだ。自分は恋人ではなくただの友人でありながら共に暮らしている。しかも生活費についての取り決めはまだ宙に浮いたままなので、食費はともかく家賃や光熱費は一人暮らしの時同様、瀬戸の口座から自動的に引き落とされていた。だから結局私の身分は居候…。
「えーと、すみません。私は友人です」
何とも格好がつかない。でもうっかり同居しているなんて言ったら変な誤解を受ける可能性がある。瀬戸と女性の関係がどの程度か計れない以上、彼の社会的地位を失墜するわけにはいかない。
「あぁ、もしかしてあなたがここで?」
驚くことに女性は私のことを知っているようだった。口振りからは同居していることも込みで納得しているのが窺える。私ははいともいいえとも言えずに押し黙った。同居の件は特に隠してはいないけれど、瀬戸にわざわざ話す女性が存在したことが意外だった。
「出張中の陽生に頼まれて資料を取りに来たんです。勝手に入ってごめんなさいね」
そんな私に嫌悪感を顕にすることもなく、笑顔のままお詫びを口にするこの人は、これまでの瀬戸の彼女達とは違ってとても好感が持てた。
「それじゃ失礼しますね」
最後まで丁寧な応対の女性に頭を下げ、ぴんと伸びた綺麗な背中を見送ってから、私はドアに鍵を差し込む。中に入って靴を脱ぎかけたところで足が止まった。いない筈の瀬戸の部屋から灯りが漏れている。瀬戸が出勤してから今日私が外出するときまで、確かに閉まっていたドアが僅かに開いて。
あの女性が合鍵を持っているのだと悟ったとき、生姜の入った小さなエコバッグが足元に落ちた。両手が小刻みに震えている。
瀬戸の家の前でその当時の彼女や、以前つきあっていた彼女に出くわしたことは幾度かあった。大抵は私の出で立ちを見て鼻にも引っかけなかったが、中には八つ当たり半分で自分の家の鍵をちらつかせ、さも瀬戸に頼まれて忘れ物を取りに来たように装う人もいた。でも瀬戸が誰かに合鍵を渡したことが一度もない事実を知っていた私は、どれも信用せず話半分にやり過ごしていたのだ。
けれど現実にこの家に誰かが入った形跡を見てしまった今。先程の女性の話を疑う余地はない。おそらく胸に抱いていたファイルも小道具ではなく、出張前夜に瀬戸が目を通していたものだろう。瀬戸はきっと本気だ。
私は恐る恐る室内に足を踏み入れ、瀬戸の部屋のドアノブを握る。一緒に住んでいながら一度も招かれたことがない瀬戸の部屋。そのドアを勢いよく閉めて私はアパートを飛び出した。
「お前は平気なのか?」
いつぞやの星の言葉が蘇る。平気だったわけじゃない。友人として傍にいることを選んだのは自分のくせに、結婚して引導を渡してほしいと願っていたくせに、いざ瀬戸に心から想いを寄せる人ができたと分かっただけで、身が千切られるほど苦しい。
今度こそ本当に瀬戸の隣にはいられない。
どうして私ってこうなんだろう。ぽつぽつと灯る窓明りや、美味しそうな夕餉の匂いに虚しさが募る。辛うじて財布とスマートフォンだけは所持していたけれど、散々走って走って走って、気づいたときにはどこにも行き場がなかった。
着替えも持たずに実家に帰省はできないし、そもそも明日は仕事だ。友人の花嫁にメールを送ってみたものの、新婚家庭にお邪魔するわけにはいかないし、頼みの綱の星も新婚さん。僻みたくはないものの、周囲のラブラブ加減が恨めしくなる。
出張から戻ったのか、瀬戸からもメールが引っ切り無しに届く。電話に出ないせいもあるけれど、「どこだ」「連絡しろ」という相変わらず短い文にどこか和んでしまう自分は重症だ。
つくづく私は。
「馬鹿野郎」
馬鹿だと自覚しかけたところで先を越された。聞き慣れた声の主に背後から容赦なく頭を叩かれる。その痛みに憤りの強さを感じ取る。
「一体何があった」
呼吸が荒い。探し回ってくれたのだろうか。二重の申し訳なさに私は肩を縮めて振り返った。スーツ姿の瀬戸は静かに怒っていたけれど、その双眸にはむしろ安堵の色が揺れている。
「家の鍵は開いてるわ、玄関に生姜が転がってるわ」
思わず息を呑む。そういえば後先考えずに家を飛び出したから、戸締りをした記憶がない。私はがっくりと項垂れた。
「ごめんなさい」
「責めているんじゃない。何を言われた?」
嫌な予感がしてのろのろと顔を上げる。瀬戸が唇を真一文字に結んで見下ろしていた。
「会ったんだろ? 彼女に」
その瞬間堪えていた涙がどっと溢れた。
「ちょ、斗田、どうした」
瀬戸が本気で焦っている。卒業式やテレビや本の悲しい場面、仕事での失敗を悔やんだ際を除けば、たぶん瀬戸の前で露骨に泣いたのは初めてだった。できるだけ女としての涙は隠してきたから。
だけど止められなかった。覚悟はしていたのに、いざあの女性を彼女だと本人に認められたら抑えがきかなくなった。こんな形でみっともない素の自分を晒す羽目になるなんて屈辱だ。
「おい、泣くなって」
半ば苛々し始めた瀬戸はちっと舌打ちすると、子供のように泣きじゃくる私の肩を前方に押した。
「とりあえず入れ」
見慣れたドアが行く手に立ちはだかっている。そう。どこにも居場所を見つけられなかった私は、実は瀬戸のアパートに帰ってきていた。着替えとか荷物とか言い訳は様々あれど、ここ以外に行きたい所なんて結局なかったのだ。
「帰ってこないんじゃないかと思ったぞ」
いろんな意味で格好悪い私に、瀬戸がぶっきらぼうに呟く。彼の真意が掴めず、私はただぽろぽろと雫を落とし続けた。
「陽生に何か?」
小首を傾げる姿が可愛らしいその女性は、呼び慣れているかのように瀬戸の名前を舌に乗せた。身なりはあまり気にしない私も、下手するとその辺の男子高生より短い髪に古びたジーンズの自分が妙に恥ずかしくなる。
「彼は今留守ですよ」
この人は瀬戸を訪ねてきた同僚だろうか。胸によくあるファイルを抱えて親切に教えてくれる。
私はしばし悩んだ。自分は恋人ではなくただの友人でありながら共に暮らしている。しかも生活費についての取り決めはまだ宙に浮いたままなので、食費はともかく家賃や光熱費は一人暮らしの時同様、瀬戸の口座から自動的に引き落とされていた。だから結局私の身分は居候…。
「えーと、すみません。私は友人です」
何とも格好がつかない。でもうっかり同居しているなんて言ったら変な誤解を受ける可能性がある。瀬戸と女性の関係がどの程度か計れない以上、彼の社会的地位を失墜するわけにはいかない。
「あぁ、もしかしてあなたがここで?」
驚くことに女性は私のことを知っているようだった。口振りからは同居していることも込みで納得しているのが窺える。私ははいともいいえとも言えずに押し黙った。同居の件は特に隠してはいないけれど、瀬戸にわざわざ話す女性が存在したことが意外だった。
「出張中の陽生に頼まれて資料を取りに来たんです。勝手に入ってごめんなさいね」
そんな私に嫌悪感を顕にすることもなく、笑顔のままお詫びを口にするこの人は、これまでの瀬戸の彼女達とは違ってとても好感が持てた。
「それじゃ失礼しますね」
最後まで丁寧な応対の女性に頭を下げ、ぴんと伸びた綺麗な背中を見送ってから、私はドアに鍵を差し込む。中に入って靴を脱ぎかけたところで足が止まった。いない筈の瀬戸の部屋から灯りが漏れている。瀬戸が出勤してから今日私が外出するときまで、確かに閉まっていたドアが僅かに開いて。
あの女性が合鍵を持っているのだと悟ったとき、生姜の入った小さなエコバッグが足元に落ちた。両手が小刻みに震えている。
瀬戸の家の前でその当時の彼女や、以前つきあっていた彼女に出くわしたことは幾度かあった。大抵は私の出で立ちを見て鼻にも引っかけなかったが、中には八つ当たり半分で自分の家の鍵をちらつかせ、さも瀬戸に頼まれて忘れ物を取りに来たように装う人もいた。でも瀬戸が誰かに合鍵を渡したことが一度もない事実を知っていた私は、どれも信用せず話半分にやり過ごしていたのだ。
けれど現実にこの家に誰かが入った形跡を見てしまった今。先程の女性の話を疑う余地はない。おそらく胸に抱いていたファイルも小道具ではなく、出張前夜に瀬戸が目を通していたものだろう。瀬戸はきっと本気だ。
私は恐る恐る室内に足を踏み入れ、瀬戸の部屋のドアノブを握る。一緒に住んでいながら一度も招かれたことがない瀬戸の部屋。そのドアを勢いよく閉めて私はアパートを飛び出した。
「お前は平気なのか?」
いつぞやの星の言葉が蘇る。平気だったわけじゃない。友人として傍にいることを選んだのは自分のくせに、結婚して引導を渡してほしいと願っていたくせに、いざ瀬戸に心から想いを寄せる人ができたと分かっただけで、身が千切られるほど苦しい。
今度こそ本当に瀬戸の隣にはいられない。
どうして私ってこうなんだろう。ぽつぽつと灯る窓明りや、美味しそうな夕餉の匂いに虚しさが募る。辛うじて財布とスマートフォンだけは所持していたけれど、散々走って走って走って、気づいたときにはどこにも行き場がなかった。
着替えも持たずに実家に帰省はできないし、そもそも明日は仕事だ。友人の花嫁にメールを送ってみたものの、新婚家庭にお邪魔するわけにはいかないし、頼みの綱の星も新婚さん。僻みたくはないものの、周囲のラブラブ加減が恨めしくなる。
出張から戻ったのか、瀬戸からもメールが引っ切り無しに届く。電話に出ないせいもあるけれど、「どこだ」「連絡しろ」という相変わらず短い文にどこか和んでしまう自分は重症だ。
つくづく私は。
「馬鹿野郎」
馬鹿だと自覚しかけたところで先を越された。聞き慣れた声の主に背後から容赦なく頭を叩かれる。その痛みに憤りの強さを感じ取る。
「一体何があった」
呼吸が荒い。探し回ってくれたのだろうか。二重の申し訳なさに私は肩を縮めて振り返った。スーツ姿の瀬戸は静かに怒っていたけれど、その双眸にはむしろ安堵の色が揺れている。
「家の鍵は開いてるわ、玄関に生姜が転がってるわ」
思わず息を呑む。そういえば後先考えずに家を飛び出したから、戸締りをした記憶がない。私はがっくりと項垂れた。
「ごめんなさい」
「責めているんじゃない。何を言われた?」
嫌な予感がしてのろのろと顔を上げる。瀬戸が唇を真一文字に結んで見下ろしていた。
「会ったんだろ? 彼女に」
その瞬間堪えていた涙がどっと溢れた。
「ちょ、斗田、どうした」
瀬戸が本気で焦っている。卒業式やテレビや本の悲しい場面、仕事での失敗を悔やんだ際を除けば、たぶん瀬戸の前で露骨に泣いたのは初めてだった。できるだけ女としての涙は隠してきたから。
だけど止められなかった。覚悟はしていたのに、いざあの女性を彼女だと本人に認められたら抑えがきかなくなった。こんな形でみっともない素の自分を晒す羽目になるなんて屈辱だ。
「おい、泣くなって」
半ば苛々し始めた瀬戸はちっと舌打ちすると、子供のように泣きじゃくる私の肩を前方に押した。
「とりあえず入れ」
見慣れたドアが行く手に立ちはだかっている。そう。どこにも居場所を見つけられなかった私は、実は瀬戸のアパートに帰ってきていた。着替えとか荷物とか言い訳は様々あれど、ここ以外に行きたい所なんて結局なかったのだ。
「帰ってこないんじゃないかと思ったぞ」
いろんな意味で格好悪い私に、瀬戸がぶっきらぼうに呟く。彼の真意が掴めず、私はただぽろぽろと雫を落とし続けた。
0
お気に入りに追加
239
あなたにおすすめの小説
お見合い以前
文月 青
恋愛
田坂結衣は夢見がちな母親達につきあわされ、殆ど接触のなかった年上の幼馴染、富沢孝之とお見合いをすることになってしまったが。実は二人はお見合いの前に、とんだ再会を果たしていた…。
田坂家の姉妹と、富沢家の兄弟が微妙に絡む、二家族の恋愛? 結婚? のストーリー。
*「バツイチの恋」の関連作です。
人違いラブレターに慣れていたので今回の手紙もスルーしたら、片思いしていた男の子に告白されました。この手紙が、間違いじゃないって本当ですか?
石河 翠
恋愛
クラス内に「ワタナベ」がふたりいるため、「可愛いほうのワタナベさん」宛のラブレターをしょっちゅう受け取ってしまう「そうじゃないほうのワタナベさん」こと主人公の「わたし」。
ある日「わたし」は下駄箱で、万年筆で丁寧に宛名を書いたラブレターを見つける。またかとがっかりした「わたし」は、その手紙をもうひとりの「ワタナベ」の下駄箱へ入れる。
ところが、その話を聞いた隣のクラスのサイトウくんは、「わたし」が驚くほど動揺してしまう。 実はその手紙は本当に彼女宛だったことが判明する。そしてその手紙を書いた「地味なほうのサイトウくん」にも大きな秘密があって……。
「真面目」以外にとりえがないと思っている「わたし」と、そんな彼女を見守るサイトウくんの少女マンガのような恋のおはなし。
小説家になろう及びエブリスタにも投稿しています。
扉絵は汐の音さまに描いていただきました。
溺婚
明日葉
恋愛
香月絢佳、37歳、独身。晩婚化が進んでいるとはいえ、さすがにもう、無理かなぁ、と残念には思うが焦る気にもならず。まあ、恋愛体質じゃないし、と。
以前階段落ちから助けてくれたイケメンに、馴染みの店で再会するものの、この状況では向こうの印象がよろしいはずもないしと期待もしなかったのだが。
イケメン、天羽疾矢はどうやら絢佳に惹かれてしまったようで。
「歳も歳だし、とりあえず試してみたら?こわいの?」と、挑発されればつい、売り言葉に買い言葉。
何がどうしてこうなった?
平凡に生きたい、でもま、老後に1人は嫌だなぁ、くらいに構えた恋愛偏差値最底辺の絢佳と、こう見えて仕事人間のイケメン疾矢。振り回しているのは果たしてどっちで、振り回されてるのは、果たしてどっち?
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
声を聴かせて
文月 青
現代文学
特に目的もなく日々を過ごす大学生の西崎剛は、夏休みのある暑い日、自宅付近の公園で高校生の相原海とその弟の陸に出会う。
声をかけてもろくに返事もせず、指しゃぶりばかりしている陸を見て、躾がなっていないと指摘した西崎だったが、後に陸が障害児で言葉を話せないことを知る。
面倒を嫌い、何事も自分には関係ないと流しがちだった西崎は、それをきっかけに二人に興味を持ち、自ずと関わってゆくようになる。やがて友人の挫折や陸の障害を通して、海に惹かれている自分に気づいたとき、初めて彼女が背負っているものの大きさに直面するが…。
「海を守りたい」
それぞれの思いが交錯する中、西崎が導き出した答えは…?
降ってきた結婚
文月 青
恋愛
亡くなった祖母の遺言により、野田詩乃は見ず知らずの男と結婚することが決められた。相手の大場拓海は抵抗するどころか、詩乃本人には興味を示さず、故人の遺志を継ぐためだけに、まるで仕事の如く結婚に踏み切ろうとする。
一見強引な男と、実はマイペースな女。お互いに振り回し、振り回されているうちに、何やら二人の関係は逆転しつつあるようで……。
かりそめ婚のはずなのに、旦那様が甘すぎて困ります ~せっかちな社長は、最短ルートで最愛を囲う~
入海月子
恋愛
セレブの街のブティックG.rowで働く西原望晴(にしはらみはる)は、IT企業社長の由井拓斗(ゆいたくと)の私服のコーディネートをしている。彼のファッションセンスが壊滅的だからだ。
ただの客だったはずなのに、彼といきなりの同居。そして、親を安心させるために入籍することに。
拓斗のほうも結婚圧力がわずらわしかったから、ちょうどいいと言う。
書類上の夫婦と思ったのに、なぜか拓斗は甘々で――。
バツイチの恋
文月 青
恋愛
旅館で清掃を担当する一ノ瀬なぎさは、二十九歳のバツイチ独身。二年前に離婚して以来、男を遠ざけてきたけれど、友人の代理で出席した合コンで、やはり人数合わせで参加していた男と隣り合わせになる。
うろ覚えの名前しか知らない、もう二度と会うことはないと思っていたその人は、何と職場のバイトの大学生、富沢悟の兄・修司だった。「私なんか」が口癖のなぎさに、心のままに振る舞うよう教える修司。けれど彼に気持ちを開きかけたとき、彼の辛い恋を知ることとなる…。
自己肯定感が低いなぎさの、明日へのステップとなる本気の片想い物語。
*「お見合い以前」の富沢家の次男と三男が絡みます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる