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番外編
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灯里ちゃんとの結婚生活は、同じ家で暮らしながらすれ違いの連続だった。仕事の都合で時間的に顔を合わせないのではなく、言葉を交わすことも共に過ごすことも殆どなかったからだ。誰の目もない家の中でくらい寄り添っていたい。けれど俺は寝室を、灯里ちゃんはリビングを拠点に日々を送っていた。
「お前もまた社食か」
そんなある日、会社で上原から声をかけられた。昼食を取る為にちょうど社食に向かう途中だった。
「まあな」
本当は灯里ちゃんの弁当が食べたかった。彼女は料理が上手だ。俺の前ではいつもおどおどしているが、家事は得意なのか意外にも手際がいい。しかも美味い。
「話したのか? 彩華のこと」
男二人でテーブルに着くなり、上原が神妙な顔つきで訊ねた。日替わり定食を口に運ぶものの、灯里ちゃんのご飯を食べてからは味気なく感じる。
「いや」
彩華が俺の恋人だったこと、設楽さんに怪我を負わせたこと、灯里ちゃんの身に危険が及ばぬよう、愛のない結婚をした振りをしていること。全てを今すぐにでも打ち明けたい。
「正解だ。俺も彩華がどうなるか予測がつかない。しばらくは灯里ちゃんとラブラブになるなよ」
「なるか」
現在は上原という夫がいるし、少なくとも灯里ちゃんは彩華の友達だ。大丈夫だとは思うが、とにかく彩華が以前のように病んだりしないと証明されるまで、灯里ちゃんとの仲を疑われるわけにはいかない。だから泣く泣く弁当も断ったし、美味いと態度に出せない分完食して伝えている。つもり。不味いなんて絶対言わない。文句のつけようが無い。
「ここまで冷たくされるとは気の毒に。そもそも千賀は何故灯里ちゃんと結婚したんだ?」
愚問だ。好きで誰にも渡したくなくてずっと傍にいたいからに決まっている。たぶん自分では気づいていないのだろうが、料理をしながら時々ハミングする灯里ちゃんも、お風呂上がりの火照った肌の灯里ちゃんも、リビングのソファで眠る灯里ちゃんも、苦しめている張本人でありながら、愛しくて愛しくて仕方がない。
「こんなところで寝ては駄目だろう」
朝寝坊した灯里ちゃんを澄まして起こしたときも、その寝顔と目覚めたときの恥じらう姿に、どれ程触れたいと願ったことか。己の衝動的な一面に驚いている。
「彩華の友達なら、設楽さんのようなことが起きる確率が低い」
「それだけ?」
よもや高校時代に好きだった人だとは口にできない。教えたくない。
「ああ。親が結婚しろと煩くて、そろそろ誤魔化すのが難しくなってきたしな。正に渡りに船だ」
「ひでえ奴」
苦笑した上原だったが、やけに満足そうなのが不思議だった。
思わぬ形で灯里ちゃんの本音を知ることになったのは、同僚達が結婚祝いを兼ねてうちに集まったときだった。彩華の手前守ることができなかったとはいえ、灯里ちゃんは彼らに貶められても一人耐えていた。怒る筋合いでもないのに、灯里ちゃんを慰める上原に、上原に笑いかける灯里ちゃんに、俺は途方もなく嫉妬した。
「安易な結婚の提案を安易に受け入れた。灯里ちゃんにとってはその程度のことなんだろうが」
好きだとも告げず、大切にもせず、彩華との過去を隠し、妻という肩書だけを与えた男の暴言に、灯里ちゃんは信じられない言葉を返した。
「私は千賀さんのことが……好きでした」
瞠目する俺に更に畳みかける。
「最初に好きになったのは高校生の頃です」
愕然とした。灯里ちゃんが俺と彩華の過去を知っていたことを、何故俺の名前を頑なまでに呼ぼうとしないのかを、そして二人の想いが通じ合っていたことを聞かされて。
「少なくとも私は、千賀さんの隣をずっと歩いてゆこうと思っていました」
俺だって同じだ。他の誰でもない灯里ちゃんだから、かつての恋人の友達であろうと、どれだけ軽蔑されようと、この手に欲しいと思った。
「どうして私と結婚したんですか」
いつぞや上原に向けられたものと違わぬ質問。あのときの答えを彼女の耳に入れたくない。けれど咄嗟に自分の想いを代弁することも叶わず。
「あなたは夫ではなく、いつまで経っても友達の恋人でしかないんですね」
唇を噛む俺に悲しそうに呟いて、灯里ちゃんはバスルームに爪先を向けた。
夜中そっと足を運んだリビングで、苦し気な表情で眠る灯里ちゃんの寝顔を眺めた。ソファの傍らに静かに腰を下ろせば、隠しきれない涙の痕。いつもこうして一人で泣いていたのだろうか。
灯里ちゃんの堪えてきた日々に胸が掻きむしられる。想いを寄せた男に酷い扱いを受けて、それでも伴侶として生きてゆくのは、筆舌に尽くしがたい程辛かった筈だ。再会を喜んでいたのは自分だけではなかった。なのに俺は灯里ちゃんに何と残酷な仕打ちをしたのだろう。
いくら手立てがなかったとはいえ、ただ俺を好きになってくれただけの、俺の過去とは全く無関係な灯里ちゃんが傷を負うことになるとは……。やってしまったことは覆せない。どんなに悔やんでも灯里ちゃんにつけた傷は消えない。
「ごめんな、灯里ちゃん」
今の俺にはこっそり涙を拭うことしかできない。でもせめて眠っている間くらいは君の傍にいるから。
「お前もまた社食か」
そんなある日、会社で上原から声をかけられた。昼食を取る為にちょうど社食に向かう途中だった。
「まあな」
本当は灯里ちゃんの弁当が食べたかった。彼女は料理が上手だ。俺の前ではいつもおどおどしているが、家事は得意なのか意外にも手際がいい。しかも美味い。
「話したのか? 彩華のこと」
男二人でテーブルに着くなり、上原が神妙な顔つきで訊ねた。日替わり定食を口に運ぶものの、灯里ちゃんのご飯を食べてからは味気なく感じる。
「いや」
彩華が俺の恋人だったこと、設楽さんに怪我を負わせたこと、灯里ちゃんの身に危険が及ばぬよう、愛のない結婚をした振りをしていること。全てを今すぐにでも打ち明けたい。
「正解だ。俺も彩華がどうなるか予測がつかない。しばらくは灯里ちゃんとラブラブになるなよ」
「なるか」
現在は上原という夫がいるし、少なくとも灯里ちゃんは彩華の友達だ。大丈夫だとは思うが、とにかく彩華が以前のように病んだりしないと証明されるまで、灯里ちゃんとの仲を疑われるわけにはいかない。だから泣く泣く弁当も断ったし、美味いと態度に出せない分完食して伝えている。つもり。不味いなんて絶対言わない。文句のつけようが無い。
「ここまで冷たくされるとは気の毒に。そもそも千賀は何故灯里ちゃんと結婚したんだ?」
愚問だ。好きで誰にも渡したくなくてずっと傍にいたいからに決まっている。たぶん自分では気づいていないのだろうが、料理をしながら時々ハミングする灯里ちゃんも、お風呂上がりの火照った肌の灯里ちゃんも、リビングのソファで眠る灯里ちゃんも、苦しめている張本人でありながら、愛しくて愛しくて仕方がない。
「こんなところで寝ては駄目だろう」
朝寝坊した灯里ちゃんを澄まして起こしたときも、その寝顔と目覚めたときの恥じらう姿に、どれ程触れたいと願ったことか。己の衝動的な一面に驚いている。
「彩華の友達なら、設楽さんのようなことが起きる確率が低い」
「それだけ?」
よもや高校時代に好きだった人だとは口にできない。教えたくない。
「ああ。親が結婚しろと煩くて、そろそろ誤魔化すのが難しくなってきたしな。正に渡りに船だ」
「ひでえ奴」
苦笑した上原だったが、やけに満足そうなのが不思議だった。
思わぬ形で灯里ちゃんの本音を知ることになったのは、同僚達が結婚祝いを兼ねてうちに集まったときだった。彩華の手前守ることができなかったとはいえ、灯里ちゃんは彼らに貶められても一人耐えていた。怒る筋合いでもないのに、灯里ちゃんを慰める上原に、上原に笑いかける灯里ちゃんに、俺は途方もなく嫉妬した。
「安易な結婚の提案を安易に受け入れた。灯里ちゃんにとってはその程度のことなんだろうが」
好きだとも告げず、大切にもせず、彩華との過去を隠し、妻という肩書だけを与えた男の暴言に、灯里ちゃんは信じられない言葉を返した。
「私は千賀さんのことが……好きでした」
瞠目する俺に更に畳みかける。
「最初に好きになったのは高校生の頃です」
愕然とした。灯里ちゃんが俺と彩華の過去を知っていたことを、何故俺の名前を頑なまでに呼ぼうとしないのかを、そして二人の想いが通じ合っていたことを聞かされて。
「少なくとも私は、千賀さんの隣をずっと歩いてゆこうと思っていました」
俺だって同じだ。他の誰でもない灯里ちゃんだから、かつての恋人の友達であろうと、どれだけ軽蔑されようと、この手に欲しいと思った。
「どうして私と結婚したんですか」
いつぞや上原に向けられたものと違わぬ質問。あのときの答えを彼女の耳に入れたくない。けれど咄嗟に自分の想いを代弁することも叶わず。
「あなたは夫ではなく、いつまで経っても友達の恋人でしかないんですね」
唇を噛む俺に悲しそうに呟いて、灯里ちゃんはバスルームに爪先を向けた。
夜中そっと足を運んだリビングで、苦し気な表情で眠る灯里ちゃんの寝顔を眺めた。ソファの傍らに静かに腰を下ろせば、隠しきれない涙の痕。いつもこうして一人で泣いていたのだろうか。
灯里ちゃんの堪えてきた日々に胸が掻きむしられる。想いを寄せた男に酷い扱いを受けて、それでも伴侶として生きてゆくのは、筆舌に尽くしがたい程辛かった筈だ。再会を喜んでいたのは自分だけではなかった。なのに俺は灯里ちゃんに何と残酷な仕打ちをしたのだろう。
いくら手立てがなかったとはいえ、ただ俺を好きになってくれただけの、俺の過去とは全く無関係な灯里ちゃんが傷を負うことになるとは……。やってしまったことは覆せない。どんなに悔やんでも灯里ちゃんにつけた傷は消えない。
「ごめんな、灯里ちゃん」
今の俺にはこっそり涙を拭うことしかできない。でもせめて眠っている間くらいは君の傍にいるから。
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