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三月も半ばに差し掛かり、寒さも大分和らいだ頃、上原さんに異動の辞令があった。どうやら本人が希望を出していたらしく、それが叶って四月に支社に赴くのだという。もちろん彩華も帯同する。彼女は治療の途中だが、一人にするのは心配なので、連れて行くことにしたのだそうだ。
「私に気を使ってくれたの?」
瑠璃子さんーー設楽さんの下の名前。いつまでも旧姓で呼ぶのもおかしいのでーーが首を傾げて訊ねる。上原さんの辞令発表後の土曜日。彼と千賀さんと私は大和田家にお邪魔していた。先週瑠璃子さんのおめでたを知らされ、そのお祝いに伺ったのだ。
「そんなんじゃないよ。ここ二年ほど迷っていたんだ。でも憂いは消えたし、やりたい仕事をやってみようと思って」
憂いとは彩華と千賀さんのことだろうか。
「だったらいいんだけど」
ほっとしたように息をつく瑠璃子さんに、上原さんは苦笑した。
「そろそろ自分を優先してくれないと、旦那が俺を威嚇してくるんだけど」
穏やかな午後の陽が射す昼下がり。居心地の良いリビングのソファに座る大和田さんは、瑠璃子さんの隣で上原さんを睨んでいる。
「当然だ。慶彦はトラブルしか持ち込まん」
そうしてまだ膨らんでもいない、妊娠三ヶ月の妻のお腹を愛おしそうに撫でた。新人時代にビシビシ扱かれた千賀さんは、先輩の別人振りに呆気に取られている。
「あの厳しい大和田さんが、優しいパパに豹変した」
「なあ? 俺もびっくりだよ」
従兄弟の気安さからか、上原さんも揶揄い半分で同意した。
「お前達も子供ができたら分かる」
余裕の態度で応じる大和田さん。恥ずかしそうに頬を染める瑠璃子さんが、可愛らしくて微笑ましい。そして二人が幸せそうなのが何より嬉しい。
妊娠中は不安を感じることも多いと聞くし、上原さんの仕事の都合とはいえ、彩華がこの地を離れるのは、瑠璃子さんの為にも良かったのかもしれない。
「そういえば千賀の雰囲気も、ずいぶん柔らかくなったな。社内の女性陣が騒いでいたぞ」
身に覚えがあるのだろう。千賀さんが体を強張らせた。ふーんと小さく鼻を鳴らす私。
「大和田さん、やめて下さい。灯里ちゃんに誤解されるじゃないですか」
「誤解されるようなことでも? 千賀さん」
にこやかに問う私に、千賀さんはもうと眉を八の字に下げる。大和田さんと瑠璃子さんは吹き出したが、上原さんはげっと顔を顰めた。
「お前ら、まだそんな呼び方してんのかよ」
「誰かさんのおかげで、暗黒の結婚でしたからね」
すかさず切り返すと、上原さんはげんなりしたように肩を落とした。
「灯里ちゃん、そろそろ俺をいびるの、やめてくんない?」
「反省が足りないです。彩華の分までいびられる覚悟をなさい」
不貞腐れる彼を除いた全員が、楽しそうに声を上げて笑っている。この光景がいつまでも続きますように。
「いつこっちを発つんだ?」
大和田家からの帰り道、まだ明るい街並みを三人で駅まで歩いていると、千賀さんが上原さんに引っ越しの時期を確かめた。
「ぎりぎり今月の終わり」
「そうか」
それきり二人は無言になる。常に行動を共にせずとも、同期入社で切磋琢磨してきた間柄。私と彩華を巡る一連の出来事で、ぎくしゃくしているのは否めないが、それでも友達だったのだ。淋しさがないわけではない。
「彩華の通院はどうするんですか?」
おそらく千賀さんからは口にできないこと。いくら別れたといっても、一度は想いを通わせた相手だ。全く気にならない筈がない。
「引っ越し先で探すつもり。素人判断にはなるが、あいつにとっても環境を変えるのは悪くないと思うんだよ」
逃げるのではなく、冷静になって過去と現在の自分をみつめる為に。己の犯したことを認められたとき、本当の意味で反省と償いができるだろう、と。許されるかどうかは別として。
「私が言い出したことではありますが、彩華とは今後も夫婦として?」
「乗りかかった船だ。放り出すわけにもいかねーだろ。結果的に千賀や灯里ちゃんと手を切らせたのは俺だし」
「実のところ、上原さんは彩華が好きなんですか?」
「どうだろうな」
歩道の石を爪先で蹴って、上原さんはふっと口元を緩めた。
「ただ彩華はまだ千賀を吹っ切れていないようだし、お前らのような関係には程遠い……ようやくやったんだろ?」
身も蓋も無い。赤くなって睨みつける私を、男二人は笑いを噛み殺しながら眺めている。
「遠慮がなくなって、よそよそしさも消えた」
私は辿り着いた駅の中に急ぎ足で入った。気配でしたとかしないとか悟られるなんて、恥ずかしくて外を歩けないではないか。
「灯里ちゃん」
勝手に改札を抜けようとしたところで、上原さんに呼び止められた。いつのまにか隣には千賀さんが立っている。
「伝言。六十や七十になるかもしれないけど、もしもきちんと償うことができたら、そのときは会って下さいって」
瑠璃子さんの傷が癒える日がくるのか、誰にも、本人にも分からないけれど、それだけの時間が経過したら、私の気持ちも変わるだろうか。
「瑠璃子さんが今後幸せでいてくれたならば」
約束はできない。でも許すのも私ではない。だから。
「もう一つ。六十や七十になっても、千賀さんだけは譲れないと伝えて下さい」
「了解」
充分な答えだったのだろう。珍しく爽やかな笑みを残して、上原さんは私よりも先に改札を通っていった。
「私に気を使ってくれたの?」
瑠璃子さんーー設楽さんの下の名前。いつまでも旧姓で呼ぶのもおかしいのでーーが首を傾げて訊ねる。上原さんの辞令発表後の土曜日。彼と千賀さんと私は大和田家にお邪魔していた。先週瑠璃子さんのおめでたを知らされ、そのお祝いに伺ったのだ。
「そんなんじゃないよ。ここ二年ほど迷っていたんだ。でも憂いは消えたし、やりたい仕事をやってみようと思って」
憂いとは彩華と千賀さんのことだろうか。
「だったらいいんだけど」
ほっとしたように息をつく瑠璃子さんに、上原さんは苦笑した。
「そろそろ自分を優先してくれないと、旦那が俺を威嚇してくるんだけど」
穏やかな午後の陽が射す昼下がり。居心地の良いリビングのソファに座る大和田さんは、瑠璃子さんの隣で上原さんを睨んでいる。
「当然だ。慶彦はトラブルしか持ち込まん」
そうしてまだ膨らんでもいない、妊娠三ヶ月の妻のお腹を愛おしそうに撫でた。新人時代にビシビシ扱かれた千賀さんは、先輩の別人振りに呆気に取られている。
「あの厳しい大和田さんが、優しいパパに豹変した」
「なあ? 俺もびっくりだよ」
従兄弟の気安さからか、上原さんも揶揄い半分で同意した。
「お前達も子供ができたら分かる」
余裕の態度で応じる大和田さん。恥ずかしそうに頬を染める瑠璃子さんが、可愛らしくて微笑ましい。そして二人が幸せそうなのが何より嬉しい。
妊娠中は不安を感じることも多いと聞くし、上原さんの仕事の都合とはいえ、彩華がこの地を離れるのは、瑠璃子さんの為にも良かったのかもしれない。
「そういえば千賀の雰囲気も、ずいぶん柔らかくなったな。社内の女性陣が騒いでいたぞ」
身に覚えがあるのだろう。千賀さんが体を強張らせた。ふーんと小さく鼻を鳴らす私。
「大和田さん、やめて下さい。灯里ちゃんに誤解されるじゃないですか」
「誤解されるようなことでも? 千賀さん」
にこやかに問う私に、千賀さんはもうと眉を八の字に下げる。大和田さんと瑠璃子さんは吹き出したが、上原さんはげっと顔を顰めた。
「お前ら、まだそんな呼び方してんのかよ」
「誰かさんのおかげで、暗黒の結婚でしたからね」
すかさず切り返すと、上原さんはげんなりしたように肩を落とした。
「灯里ちゃん、そろそろ俺をいびるの、やめてくんない?」
「反省が足りないです。彩華の分までいびられる覚悟をなさい」
不貞腐れる彼を除いた全員が、楽しそうに声を上げて笑っている。この光景がいつまでも続きますように。
「いつこっちを発つんだ?」
大和田家からの帰り道、まだ明るい街並みを三人で駅まで歩いていると、千賀さんが上原さんに引っ越しの時期を確かめた。
「ぎりぎり今月の終わり」
「そうか」
それきり二人は無言になる。常に行動を共にせずとも、同期入社で切磋琢磨してきた間柄。私と彩華を巡る一連の出来事で、ぎくしゃくしているのは否めないが、それでも友達だったのだ。淋しさがないわけではない。
「彩華の通院はどうするんですか?」
おそらく千賀さんからは口にできないこと。いくら別れたといっても、一度は想いを通わせた相手だ。全く気にならない筈がない。
「引っ越し先で探すつもり。素人判断にはなるが、あいつにとっても環境を変えるのは悪くないと思うんだよ」
逃げるのではなく、冷静になって過去と現在の自分をみつめる為に。己の犯したことを認められたとき、本当の意味で反省と償いができるだろう、と。許されるかどうかは別として。
「私が言い出したことではありますが、彩華とは今後も夫婦として?」
「乗りかかった船だ。放り出すわけにもいかねーだろ。結果的に千賀や灯里ちゃんと手を切らせたのは俺だし」
「実のところ、上原さんは彩華が好きなんですか?」
「どうだろうな」
歩道の石を爪先で蹴って、上原さんはふっと口元を緩めた。
「ただ彩華はまだ千賀を吹っ切れていないようだし、お前らのような関係には程遠い……ようやくやったんだろ?」
身も蓋も無い。赤くなって睨みつける私を、男二人は笑いを噛み殺しながら眺めている。
「遠慮がなくなって、よそよそしさも消えた」
私は辿り着いた駅の中に急ぎ足で入った。気配でしたとかしないとか悟られるなんて、恥ずかしくて外を歩けないではないか。
「灯里ちゃん」
勝手に改札を抜けようとしたところで、上原さんに呼び止められた。いつのまにか隣には千賀さんが立っている。
「伝言。六十や七十になるかもしれないけど、もしもきちんと償うことができたら、そのときは会って下さいって」
瑠璃子さんの傷が癒える日がくるのか、誰にも、本人にも分からないけれど、それだけの時間が経過したら、私の気持ちも変わるだろうか。
「瑠璃子さんが今後幸せでいてくれたならば」
約束はできない。でも許すのも私ではない。だから。
「もう一つ。六十や七十になっても、千賀さんだけは譲れないと伝えて下さい」
「了解」
充分な答えだったのだろう。珍しく爽やかな笑みを残して、上原さんは私よりも先に改札を通っていった。
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