友達の恋人

文月 青

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別居初日の仕事帰り、千賀さんは本当に会社の前で待っていた。食事に誘われたけれど、荷物を片付けなければならないと断ったら、初っ端からへこむと遠い目をされた。しょげている様が子犬みたいだったので、

「片付けを手伝ってくれるなら、うちでご飯をどうぞ」

深く考えずに笑いかけると、何故かうっすら赤くなって戸惑っている。

「灯里ちゃんの部屋に、入ってもいいのか?」

「まだ荷解きが終わっていないので、足の踏み場がないですけど」

「そういう意味じゃないんだけど」

苦笑しながらも千賀さんは頷き、空っぽの冷蔵庫を満たすべく、彼の車で近隣のスーパーまで行った。夕方の混み合う店内で、約束通りお互いの好きな食べ物や嫌いな食べ物を話しつつ、ゆっくり食材を物色してゆく。

「どうしたんですか?」

今日は簡単にお鍋にでもしようと、白菜をかごに突っ込んだ私を、カートを押してくれていた千賀さんが、にやにやしながら眺めている。

「いや、何だか新婚みたいで嬉しいな、と」

「な、何を今更」

無愛想に返したけれど、不意打ちに心臓がドキドキした。

「俺達、日常の買物すら一緒にしたことなかったんだよな」

一瞬申し訳なさそうな表情を見せた後、すぐに千賀さんは優しく私の頭を撫でた。

「再会してからの時間、これから取り戻させて」

一分一秒君の為に……真顔で囁かれて、体の中を熱が駆け巡った。

「若い頃は私達もあんなふうでしたねえ」

横を通った年配のご夫婦に微笑まれ、はっとして周囲を見回せば、好意的ではあるものの、生温い視線がちらほら。私は恥ずかしさが込み上げて、慌ててその場を離れた。

「千賀さんの馬鹿」

豆腐や肉を次々かごに入れては、くすくす忍び笑いを洩らす千賀さんを睨む。

「人前で、あんなこと」

「本音なんだけど」

「嘘ばっかり。じゃあ仕事中はどうするんです」

「出た。意地悪発言」

あらかた買物を終え、なるべく空いている列に並んだ私の隣で、千賀さんは楽しくて仕方がないといったふうに背を丸める。

「こんなやり取りすらも、俺には貴重なんだよ。もう何を言われても可愛くて。ここにいるのは俺の奥さんだと叫びたくなる」

私は顔を上げられなくなってしまった。俯いてこそこそと会計を済ませ、買った物をエコバッグに詰めてスーパーを出る。冬の夜の冷たい空気に晒されて、ようやく少しだけ気持ちを落ち着けると、千賀さんが私の手からエコバッグを取った。

「重いですよ」

「台詞が逆だよ」

白い息を吐いて千賀さんが懲りずに笑う。

「灯里ちゃんはもっと人を頼ることを覚えた方がいい」

そうして空いている方の手で、再び私の頭を撫でる。凄く恥ずかしいのに、愛しげなその仕草を嫌だと感じないのは何故なんだろう。

「ありがとう、ございます」

素直にお礼を伝えたくなった。私の胸の内を察したのか、千賀さんはうんと小さく答えた。

星明かりが足元を照らすように瞬く下を、併設された駐車場に駐めた車に向かって歩く。荷物が間に挟まっているのでもないのに、微妙な距離を空ける千賀さん。訳もなく淋しくなって、私はそっと千賀さんの手に触れた。

「あああ、灯里ちゃん?」

驚いて振り返った千賀さんは、酷く焦ったように自分の手を引っ込めた。まるで拒絶する如く。

「違う違う勘違い!」

居たたまれずに謝ろうと口を開きかけた私を、千賀さんが動揺しまくりで制した。

「嬉しいんだよ。嬉しいんだけど、まともに灯里ちゃんと手を繋いだことがないから、びっくりしただけで」

思わず目を瞬いた。さっき人前で私の頭を撫でていた人の言葉だろうか。それに抱き締められたことも二度程あった筈なのに、ただお互いの手が触れただけで、大の大人がここまで大騒ぎするのはおかしい。

「あのね、自分が一方的に押していくのと、灯里ちゃんから行動されるのは別」

顔を半分覆って参ったとため息をつく千賀さんは、結婚初日に私を寝室に誘えず、水を飲んでリビングから去っていくしかなかった彼そのもの。

「あなたは中学生ですか」

真相を聞いたときと同じ反応を返す私に、千賀さんはむすっと口を尖らせる。

「うるさい。灯里ちゃんといると、どうしても高校時代の自分に戻るから、必死で大人の男を取り繕っていたのに、全然格好つかないじゃないか」

「最初からヘタレだったんじゃ」

「それはないだろ」

年上の男性に失礼かもしれないが、膨れる千賀さんのギャップが面白くて、私はえいっとばかりに彼の手を握った。

「……っ!」

ああもう本当に君って人は。そんな呟きが微かに耳を掠め、不思議とくすぐったい気分になる。

「俺、手汗かいてない?」

私に引っ張られるように歩きながら、千賀さんが恐る恐る訊ねた。

「あったかいですよ」

「力入れ過ぎてない? 痛くない?」

「もっと強くてもいいくらいですよ」

「本気でまずい」

ふいに千賀さんが足を止めた。潤んだ双眸で私を見下ろしている。

「灯里ちゃんが好き過ぎて、この先どうしていいか分からない」

夜でなければ、私はたぶん世の中のどの絵の具よりも真っ赤に染め上がっていたことだろう。





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