友達の恋人

文月 青

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冬の途絶えそうな陽射しの下、両手で自分の体を抱き締め、彩華は小さな嗚咽を漏らしていた。それが千賀さんへの失恋故か、隠したい過去を知られたせいか、理由は定かでないが、ただひたすらにその身を震わせる彩華は、頼りない子供のように華奢で儚く見えた。

「待って」

声をかけるか躊躇っていたところで、追いついたらしい上原さんが唇に人差し指を当てる。白い息がゆっくりと上ってゆく。

「泣かせてやって。報われた涙だから」

報われたとはどういう意味だろう。

「反省していい人になるんじゃなくて、最後まで悪者でいたかったんだと思う」

それに上原さんの視線がさっきとは打って変わって淋しげだ。

「最初に彩華を何とかしてやりたいと思ったのは、設楽さんを階段から突き落とした直後だった」

友達の恋人であり社内の人気者ーーその頃の上原さんは彩華をそんなふうに見ていた。だから普段は使わない階段の近くで彩華とすれ違ったとき、青褪めて逃げるように駆けてゆく彼女に驚いて後を追った。屋上で一人項垂れる彩華には常の明るさなど欠片もなく、自分の身をその場に縫いつける如く震えていた。

「無意識とはいえ、自分のやったことが怖ろしかったんだと思う」

そのとき彼女が追い詰められていること、設楽さんに卑劣な行為をしていることを知った上原さんは、その場で彩華を糾弾することは到底できなかった。例え我を忘れていようとわざとでなかろうと、不意打ちで人に怪我をさせることなど許されない。

「でも彩華は一人で苦しんでいた」

これまで誰かを傷つけることも、傷つけられることとも無縁だった彩華は、なまじ悪意に晒されたことがなかったので、自分でも制御できない暗い邪な思いを振り払えず、毎日毎日今日は何をしてしまうのだろうと内心怯えていた。

いくら設楽さんが拒んだとはいえ、本来なら千賀さんの上司が進言したように、全てを白日のもとに晒して、然るべき処分を受け、きっちり償いと医師の治療をするべきだった。そうすればこんな事態を長引かせることはなかっただろう。

これは自分の甘さだと上原さんは苦笑した。千賀さんとは違った意味で、彩華が自力で立ち直るのを待ちたかった。助けを求めることも、救いの手を伸ばすこともない関係だったから、あくまで陰からひっそりと。

「どうしてそれをまず教えてくれなかったんですか?」

「彩華が犯した罪は消えない。悪いものは悪い。俺もそう思う。でもこれを先に言ってしまったら、灯里ちゃんはきっと怒れないだろ?」

その通りで返す言葉がない。たぶんどこかで必要のない情が湧いて、有耶無耶になってしまいそうな予感がする。

「千賀の相手に灯里ちゃんを選んだのは、君なら引導を渡してくれると、彩華が譲らなかったからなんだ」

さっき聞いたさり気無く悪口を含んだものとは別の、真っ当な理由を伝えられる。

「灯里ちゃんは友達の中で一番大人しい。でもいざというときには肝が座る。半信半疑だったけど、千賀までぶっ飛ばしちゃったからなあ」

もう忘れて下さい。顔から火が出そうです。

「しかも千賀の長年の想い人というおまけつき」

この偶然まではさすがに読めなかったと上原さん。そこにはこれまでろくでもない企みをしてきたとは思えない、穏やかな笑みがあった。

「上原さん、もしかして本当は彩華が好きなんですか?」

自然に口をついた言葉に、上原さんは更に笑みを深くする。

「意外とストレートだね、灯里ちゃん」

ストレートも何も、訊いた自分が一番驚いている。何故そんなふうに思ったのだろう。

女は凄いな、と上原さんはくっと喉の奥を鳴らす。

「千賀には内緒な。負担になりたくないからさ。灯里ちゃんの初っ端のジャブ、めっちゃ効いた」

ーー千賀さんが私を少しも見なかったから、私は彼の想いがどこに在るか察しました。ならば彩香がちゃんと上原さんを見ていたから、上原さんは疑いを持つことがなかったのでは? 千賀さんに対しても。

今となっては嘘の、衝撃の事実を突きつけられたときの私の台詞。

「これが真実ならと、どれだけ願ったことか……」

静かな、空に溶けてしまいそうな声。

「同時に灯里ちゃんが千賀を好きだと分かって、心底後悔した。これから不幸にしてしまうのだから、今のうちに無理矢理引き離してしまおうかと」

好きになればなるほど別れは辛い。せめて付くのが避けられない傷ならば、浅いうちにと何度も迷った。

「それからベッドの中で千賀の名前を呼ばれた話。あれも本当だ」

ただ実際は彩華も失言に気がついて、すぐに謝ったらしい。その日は私の口から高校時代に千賀さんが好きだったことを聞き、彼がずっと誰を想っていたかを知って、彩華もショックを受けていたらしい。

「情けないけど、正直堪えた。彩華が望むなら代わりでもいいと覚悟していた筈なのに、いざとなるときつい。たぶん他の女ならむしろ大丈夫なんだろうが、彩華とは結局一度もできなかった」

彩華が千賀さんに求めていたものは、恋であり呪縛からの解放。

「彩華にとっては全てを終わらせる為の結婚だったんだろうが、俺にとっては……」

あらかた話し終えたのだろう。興味本位のふざけた態度を崩さなかった上原さんが、この上なく優しい声音で彩華の傍に膝をついた。

「彩華」

彩華を守るような凛々しい背中。

「ずっと誰かに止めて欲しかったの……」





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