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胸を焦がすような恋ではなかったかもしれない。けれど自分の心の奥深くには大切な人が息づいている。消息を気にかけることも、会って結ばれようとも思っていない。なのに他の女性とつきあっても、記憶の中のその人が霞むことはない。
「俺の中に住んでいる人の存在を、彩華は敏感に嗅ぎ取っていたのだろう。それが設楽さんと被った」
おそらく自分とつきあい続けても、設楽さんを遠ざけても、いつか彩華は同じことを繰り返す。
「灯里ちゃんが俺の一番の思い出である限り」
それならば嫉妬の対象を作らぬよう、また嫉妬する立場に置かぬよう、別れて「友達」という形で寄り添うことを選んだ。せめて彩華がこれ以上誰かを傷つけず、以前のような明るさを取り戻せるように、悩んだときには耳を貸し、困ったときには手を差し伸べて。彼女を真に愛する新しい誰かとの幸せを見つけるまでーー。
「出会った頃の彩華は、きっと灯里ちゃんが知っている彼女そのものだった筈だ。俺がここまで変えてしまったんだ」
子供の頃から常に中心的存在で、黙っていても彩華の周囲には人が集まった。誰をも楽しませながら気遣いも欠かさない彼女は、当然のようにみんなに慕われた。その彩華が唯一追いかけたのが、無条件で振り向いてもらえなかったのが千賀さんだった。
「引き合わされたのが灯里ちゃんでなかったら、巻き込まない為にも関わらなかった。二度と会わないように仕向けただろう」
でも何の悪戯か私達は偶然の再会を果たした。声が聴こえる、触れることのできる距離で。
「いや、本来なら灯里ちゃんだからこそ、一度の再会で終わらせるべきだった」
自分の傍らで屈託のない笑顔を見せながら、設楽さんへの陰湿な行為をエスカレートさせていった彩華。人の心が壊れてゆく様を目の当たりにしたからこそ、もう誰かを傷つけさせてはならない。まして友達になど。
「なのに離れることも、他の男に譲ることも、俺にはできなかった」
再会した頃の千賀さんには既に彩華に対しての好意はなく、以前のような先輩と後輩という認識に戻っていた。だから葛藤はあれど、己を戒める枷もまた失っていた。その代償が守ると決めて結婚した私を、自らの手で傷つけてしまったことだった。
「彩華はその後、どうしていたんですか?」
千賀さんはさっき病んでいるという表現をした。もし本当に病気なら治療が必要となるのではないだろうか。
「設楽さんの一件以降は特に不自然な言動はなかった。ただ万が一のことも考えて、信頼できる上司に相談した」
その上司は然るべき対処を取るべきだと強く勧めたが、設楽さんが頑なに首を縦に振らなかった為、会社のストレスチェック制度等を利用して、彩華に病院を受診するよう促してくれたのだそうだ。
「ちょうど新しい仕事のストレスがあって、定期的にカウンセリングを受けていたんだが、退職後は通院が途絶えてしまったそうだ」
済まなそうに千賀さんが私をみつめる。
「彩華が犯したことは許されない。ただこの事態を招いたのは間違いなく俺だ」
そうだろうか。もしかしたら彩華の背中を直接押したのは、他の誰でもない私なのではないだろうか。
「千賀さんは高校時代、私が好きだった人なの」
彩華と千賀さんの仲を疑っていたから、嫉妬故に今頃になって不用意なことを口走ったのは私。
「灯里ちゃんは彩華の友達だから、滅多な行動には出ないだろうと踏んではいたが、それでも何があるか分からない。せめて彩華が俺と灯里ちゃんの仲を勘繰らなくなるまで、恋人らしくない、冷え切った夫婦の体裁を整えたかった」
拒絶の姿勢を取り続けた最大の理由が、唯一私を守る手段だったのだ。
「だから灯里ちゃんへの想いに気づかれぬよう、さも興味のない振りをして冷たくあしらった。彩華優先と見せかけて……」
実際上原さんの嘘も手伝って、私は千賀さんが彩華への想いを残していながら、彼女の幸せの為に好きでもない自分と結婚したと信じた。
「いずれ事情を明かすつもりだったけれど、灯里ちゃんは友達に勧められるままお見合い感覚で結婚したと思っていたから、本音を知らされたときにどれ程後悔したか分からない」
夫婦として同じ家に住みながら、自分を想って一人耐えていた私に謝る術などなく、離婚を切り出されるのも当然だと、千賀さんは切なげに息をついた。
「結婚祝いに集まった同僚達も詳細は何も知らないから、設楽さんにいじめられ、友達の灯里ちゃんに俺を取られた体の彩華を憐れむ気持ちがあったんだと思う。上原と結婚したこととは別に」
目眩がしそうだった。彩華がこれまでやってきたことも、千賀さんが抱えてきたものも、上原さんの謎の言動も、正直すぐにはとても呑み込めそうにない。各々に事情があったのは考慮しても、それでは今日まで悩んできた私は何だったのだろう。嘘と思い込みに踊らされ、勝手に振り回されていた愚かな人間でしかない。
「最初に話しておいてくれれば……」
例え謀でも千賀さんに捨て置かれた淋しさは本物だ。予め事情を説明してもらえていたら、彼に合わせることもできたし、こんなふうに拗れずに済んだろう。
「敵を欺くならまず味方から。彩華に見破られたら灯里ちゃんが危険だ。想いが叶えば必ず表に現れる」
「じゃあ彩華との過去を隠したくて……彩華に口止めしたわけではないんですね?」
「ない。前にも言っただろう? 彩華から既に話を聞いて、軽蔑されているんじゃないかと思っていたと。むしろ早く事実を告げたかったくらいだ」
ただ、と床の一点を凝視する千賀さん。
「一部始終を知っている上原が、何故不可解な真似をしたのか」
私にも上原さんの行動がまるで理解できない。彩華との関係に悩む振りをし、同じ立場に見せかけて私を気遣う一方で、彼はわざと偽りの情報を与えてきたのだ。
「灯里ちゃんが俺を信用できなかったのは、俺自身が一番の理由だろうけど、上原の嘘も影響していたからなのか?」
顔を覗き込まれて私が力なく頷いたとき、
「はい、時間切れ」
壁をノックする軽快な音と共に楽しげな声が響いた。
「俺の中に住んでいる人の存在を、彩華は敏感に嗅ぎ取っていたのだろう。それが設楽さんと被った」
おそらく自分とつきあい続けても、設楽さんを遠ざけても、いつか彩華は同じことを繰り返す。
「灯里ちゃんが俺の一番の思い出である限り」
それならば嫉妬の対象を作らぬよう、また嫉妬する立場に置かぬよう、別れて「友達」という形で寄り添うことを選んだ。せめて彩華がこれ以上誰かを傷つけず、以前のような明るさを取り戻せるように、悩んだときには耳を貸し、困ったときには手を差し伸べて。彼女を真に愛する新しい誰かとの幸せを見つけるまでーー。
「出会った頃の彩華は、きっと灯里ちゃんが知っている彼女そのものだった筈だ。俺がここまで変えてしまったんだ」
子供の頃から常に中心的存在で、黙っていても彩華の周囲には人が集まった。誰をも楽しませながら気遣いも欠かさない彼女は、当然のようにみんなに慕われた。その彩華が唯一追いかけたのが、無条件で振り向いてもらえなかったのが千賀さんだった。
「引き合わされたのが灯里ちゃんでなかったら、巻き込まない為にも関わらなかった。二度と会わないように仕向けただろう」
でも何の悪戯か私達は偶然の再会を果たした。声が聴こえる、触れることのできる距離で。
「いや、本来なら灯里ちゃんだからこそ、一度の再会で終わらせるべきだった」
自分の傍らで屈託のない笑顔を見せながら、設楽さんへの陰湿な行為をエスカレートさせていった彩華。人の心が壊れてゆく様を目の当たりにしたからこそ、もう誰かを傷つけさせてはならない。まして友達になど。
「なのに離れることも、他の男に譲ることも、俺にはできなかった」
再会した頃の千賀さんには既に彩華に対しての好意はなく、以前のような先輩と後輩という認識に戻っていた。だから葛藤はあれど、己を戒める枷もまた失っていた。その代償が守ると決めて結婚した私を、自らの手で傷つけてしまったことだった。
「彩華はその後、どうしていたんですか?」
千賀さんはさっき病んでいるという表現をした。もし本当に病気なら治療が必要となるのではないだろうか。
「設楽さんの一件以降は特に不自然な言動はなかった。ただ万が一のことも考えて、信頼できる上司に相談した」
その上司は然るべき対処を取るべきだと強く勧めたが、設楽さんが頑なに首を縦に振らなかった為、会社のストレスチェック制度等を利用して、彩華に病院を受診するよう促してくれたのだそうだ。
「ちょうど新しい仕事のストレスがあって、定期的にカウンセリングを受けていたんだが、退職後は通院が途絶えてしまったそうだ」
済まなそうに千賀さんが私をみつめる。
「彩華が犯したことは許されない。ただこの事態を招いたのは間違いなく俺だ」
そうだろうか。もしかしたら彩華の背中を直接押したのは、他の誰でもない私なのではないだろうか。
「千賀さんは高校時代、私が好きだった人なの」
彩華と千賀さんの仲を疑っていたから、嫉妬故に今頃になって不用意なことを口走ったのは私。
「灯里ちゃんは彩華の友達だから、滅多な行動には出ないだろうと踏んではいたが、それでも何があるか分からない。せめて彩華が俺と灯里ちゃんの仲を勘繰らなくなるまで、恋人らしくない、冷え切った夫婦の体裁を整えたかった」
拒絶の姿勢を取り続けた最大の理由が、唯一私を守る手段だったのだ。
「だから灯里ちゃんへの想いに気づかれぬよう、さも興味のない振りをして冷たくあしらった。彩華優先と見せかけて……」
実際上原さんの嘘も手伝って、私は千賀さんが彩華への想いを残していながら、彼女の幸せの為に好きでもない自分と結婚したと信じた。
「いずれ事情を明かすつもりだったけれど、灯里ちゃんは友達に勧められるままお見合い感覚で結婚したと思っていたから、本音を知らされたときにどれ程後悔したか分からない」
夫婦として同じ家に住みながら、自分を想って一人耐えていた私に謝る術などなく、離婚を切り出されるのも当然だと、千賀さんは切なげに息をついた。
「結婚祝いに集まった同僚達も詳細は何も知らないから、設楽さんにいじめられ、友達の灯里ちゃんに俺を取られた体の彩華を憐れむ気持ちがあったんだと思う。上原と結婚したこととは別に」
目眩がしそうだった。彩華がこれまでやってきたことも、千賀さんが抱えてきたものも、上原さんの謎の言動も、正直すぐにはとても呑み込めそうにない。各々に事情があったのは考慮しても、それでは今日まで悩んできた私は何だったのだろう。嘘と思い込みに踊らされ、勝手に振り回されていた愚かな人間でしかない。
「最初に話しておいてくれれば……」
例え謀でも千賀さんに捨て置かれた淋しさは本物だ。予め事情を説明してもらえていたら、彼に合わせることもできたし、こんなふうに拗れずに済んだろう。
「敵を欺くならまず味方から。彩華に見破られたら灯里ちゃんが危険だ。想いが叶えば必ず表に現れる」
「じゃあ彩華との過去を隠したくて……彩華に口止めしたわけではないんですね?」
「ない。前にも言っただろう? 彩華から既に話を聞いて、軽蔑されているんじゃないかと思っていたと。むしろ早く事実を告げたかったくらいだ」
ただ、と床の一点を凝視する千賀さん。
「一部始終を知っている上原が、何故不可解な真似をしたのか」
私にも上原さんの行動がまるで理解できない。彩華との関係に悩む振りをし、同じ立場に見せかけて私を気遣う一方で、彼はわざと偽りの情報を与えてきたのだ。
「灯里ちゃんが俺を信用できなかったのは、俺自身が一番の理由だろうけど、上原の嘘も影響していたからなのか?」
顔を覗き込まれて私が力なく頷いたとき、
「はい、時間切れ」
壁をノックする軽快な音と共に楽しげな声が響いた。
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