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「不用心だな。鍵が開いてたぞ」
音のした方を振り返ると、満面に笑みを浮かべた上原さんが、リビングの入口で笑いを噛み殺していた。いつの間に来たのだろう。どうやら私達の会話を盗み聞きしたらしい。隣には顔面蒼白の、ついさっき会ったばかりの彩華を伴っている。
「お互い手の内はバレたということで」
彩華を引きずるようにして、ずかずかリビングに踏み込んできた上原さんは、空いている場所に嫌がる彼女共々腰を下ろした。
「上原、彩華も、どういうつもりだ」
間髪入れずに千賀さんが訊ねた。怒鳴ったり喚いたりしていないところに、静かな憤りを感じる。
「ああ、悪い。さっきのは単なる時間稼ぎだから」
のほほんと返す上原さん。午前中いっぱい千賀さんに夫婦の営みについて相談していた彼だが、実は彩華と私を二人きりにする為の囮だったのだという。またしても嘘だったのだ。
「悠斗……設楽さんのこと、知っていたの?」
呆れて上原さんを睨んでいた千賀さんに、彩華は今にも泣きそうな様子で弱々しく訊ねた。声も握った両の手も震えている。こんなに怯えている彩華を目にしたのは初めてかもしれない。
「いつ……から?」
「彩華が怪我をさせたときから」
一気に彩華の顔が歪む。設楽さんに対する所業を知られていたとは、夢にも思っていなかったのだろう。そして千賀さんも今の話を聞かれた以上、事実を隠すつもりはないのか毅然とした態度で臨んでいる。
「それなのに、陰で私を見守ってくれていたの?」
期待に満ちた表情を浮かべた彩華を、千賀さんは厳しく一刀両断した。
「見張りだ。他の人に危害を及ぼすのを防ぐ為に。見守っていたわけじゃない」
「だって、新居も、私のしたいように、家具もカーテンも」
そこで彩華はぎゅっと唇を噛み、縋るような眼差しを千賀さんに向ける。
「いずれ私と暮らす為では、なかったの?」
「灯里ちゃんの身の安全を図ったに過ぎない」
「じゃあ、私が選んだ家具を処分したのは……」
「必要ないからだ」
冷静に答える千賀さんを彩華は悲しそうにみつめた。そこには二人にしか分からない、二人が作り上げてきた年月がある。
「悠斗、私のこと、好きなんだよね……?」
「好きなのは灯里ちゃんだけだ。だから結婚した」
心臓が大きく跳ねた。私に向けてのものではなかったけれど、一度も千賀さんがくれなかった言葉が、頭の先から徐々に私を満たしてゆく。待っていた。この一言がずっと欲しかった。けれど喜びに浸る間もなく、自身の体を抱き締めていた私の頬に強烈な痛みが走る。
「ふざけんじゃないわよ!」
顔の左半分がじんじんと痺れた。唇が切れたのか口の中に鉄の味が広がる。私を叩いた彩華は慌てた上原さんに拘束され、千賀さんが庇うように私達の間に体を滑り込ませた。彼の背中が私を守っている。痛みではなくその事実に涙が溢れそうになる。
「悠斗は私のものだった! なのに灯里もあの女も、高校時代の恋の相手とか仕事のパートナーとか、汚い手を使って邪魔をして!」
「彩華」
なおも言い募る彩華の名を冷たく呼び、千賀さんは彼女を黙らせた。
「設楽さんが現在どうしているか、知っているか?」
「どうせ悠斗にべったり張り付いて社内を歩いているんでしょ」
そっと窺うと取り繕う気もなくなったのか、彩華は上原さんの拘束から抜け出して悪態をつく。怒ってもいじけてもさばけていた彼女が、こんなふうに不貞腐れて他人を貶めることに驚いた。短大時代から彩華が露骨に誰かの悪口を言ったのを聞いたことがない。
「退職した」
「何でよ。あの人仕事が好きそうだったじゃない」
「社内を一人で歩いていると、後ろに彩華の気配を感じるようになったんだ」
「そんなの嘘に決まってるじゃない。私が退職するまでは平気で出勤していたのに」
ふんと鼻で笑った彩華を千賀さんはじっと凝視した。
「彩華も退職したし、ここのところそういったことはなかったんだ。実物が在籍していたときは、居所が分かっていたから避けることも逃げることもできた。ところがいざ辞めて安心できる筈が、今度はいもしない影が追いかけてくるようになった」
「どういうこと?」
「彩華は無意識だったのかもしれないが、怪我をしたことよりも階段から人を突き落とす行為と、自分に向けられた悪意に恐れ慄いたせいだ」
「私のドッペルゲンガーでもいるって言うの? 馬鹿馬鹿しい」
「結婚したんだ、設楽さん。今年の九月に」
訝し気に彩華が眉を顰めた。九月は彩華と上原さんが結婚式を挙げた月。
「たぶんそれがきっかけになったんだろう。相手は会社の先輩だ。もしも過去に彩華とつきあいがあったとしたら……そんな想像に悩まされるようになったんだ。いくら違うと否定されてもその不安は拭えない」
報復を恐れて彩華の悪事に口を噤んでいた人が、再び同じ、それ以上の苦痛に見舞われている。幸せの象徴である結婚によって。
「これが彩華と俺が犯したことであり、灯里ちゃんを遠ざける振りをした理由だ。それと」
千賀さんの視線がゆっくりと彩華の隣に注がれる。
「ここまでの話は全て承知しているぞ、上原は」
え? と小声で洩らして彩華は呆然と上原さんを眺めた。
音のした方を振り返ると、満面に笑みを浮かべた上原さんが、リビングの入口で笑いを噛み殺していた。いつの間に来たのだろう。どうやら私達の会話を盗み聞きしたらしい。隣には顔面蒼白の、ついさっき会ったばかりの彩華を伴っている。
「お互い手の内はバレたということで」
彩華を引きずるようにして、ずかずかリビングに踏み込んできた上原さんは、空いている場所に嫌がる彼女共々腰を下ろした。
「上原、彩華も、どういうつもりだ」
間髪入れずに千賀さんが訊ねた。怒鳴ったり喚いたりしていないところに、静かな憤りを感じる。
「ああ、悪い。さっきのは単なる時間稼ぎだから」
のほほんと返す上原さん。午前中いっぱい千賀さんに夫婦の営みについて相談していた彼だが、実は彩華と私を二人きりにする為の囮だったのだという。またしても嘘だったのだ。
「悠斗……設楽さんのこと、知っていたの?」
呆れて上原さんを睨んでいた千賀さんに、彩華は今にも泣きそうな様子で弱々しく訊ねた。声も握った両の手も震えている。こんなに怯えている彩華を目にしたのは初めてかもしれない。
「いつ……から?」
「彩華が怪我をさせたときから」
一気に彩華の顔が歪む。設楽さんに対する所業を知られていたとは、夢にも思っていなかったのだろう。そして千賀さんも今の話を聞かれた以上、事実を隠すつもりはないのか毅然とした態度で臨んでいる。
「それなのに、陰で私を見守ってくれていたの?」
期待に満ちた表情を浮かべた彩華を、千賀さんは厳しく一刀両断した。
「見張りだ。他の人に危害を及ぼすのを防ぐ為に。見守っていたわけじゃない」
「だって、新居も、私のしたいように、家具もカーテンも」
そこで彩華はぎゅっと唇を噛み、縋るような眼差しを千賀さんに向ける。
「いずれ私と暮らす為では、なかったの?」
「灯里ちゃんの身の安全を図ったに過ぎない」
「じゃあ、私が選んだ家具を処分したのは……」
「必要ないからだ」
冷静に答える千賀さんを彩華は悲しそうにみつめた。そこには二人にしか分からない、二人が作り上げてきた年月がある。
「悠斗、私のこと、好きなんだよね……?」
「好きなのは灯里ちゃんだけだ。だから結婚した」
心臓が大きく跳ねた。私に向けてのものではなかったけれど、一度も千賀さんがくれなかった言葉が、頭の先から徐々に私を満たしてゆく。待っていた。この一言がずっと欲しかった。けれど喜びに浸る間もなく、自身の体を抱き締めていた私の頬に強烈な痛みが走る。
「ふざけんじゃないわよ!」
顔の左半分がじんじんと痺れた。唇が切れたのか口の中に鉄の味が広がる。私を叩いた彩華は慌てた上原さんに拘束され、千賀さんが庇うように私達の間に体を滑り込ませた。彼の背中が私を守っている。痛みではなくその事実に涙が溢れそうになる。
「悠斗は私のものだった! なのに灯里もあの女も、高校時代の恋の相手とか仕事のパートナーとか、汚い手を使って邪魔をして!」
「彩華」
なおも言い募る彩華の名を冷たく呼び、千賀さんは彼女を黙らせた。
「設楽さんが現在どうしているか、知っているか?」
「どうせ悠斗にべったり張り付いて社内を歩いているんでしょ」
そっと窺うと取り繕う気もなくなったのか、彩華は上原さんの拘束から抜け出して悪態をつく。怒ってもいじけてもさばけていた彼女が、こんなふうに不貞腐れて他人を貶めることに驚いた。短大時代から彩華が露骨に誰かの悪口を言ったのを聞いたことがない。
「退職した」
「何でよ。あの人仕事が好きそうだったじゃない」
「社内を一人で歩いていると、後ろに彩華の気配を感じるようになったんだ」
「そんなの嘘に決まってるじゃない。私が退職するまでは平気で出勤していたのに」
ふんと鼻で笑った彩華を千賀さんはじっと凝視した。
「彩華も退職したし、ここのところそういったことはなかったんだ。実物が在籍していたときは、居所が分かっていたから避けることも逃げることもできた。ところがいざ辞めて安心できる筈が、今度はいもしない影が追いかけてくるようになった」
「どういうこと?」
「彩華は無意識だったのかもしれないが、怪我をしたことよりも階段から人を突き落とす行為と、自分に向けられた悪意に恐れ慄いたせいだ」
「私のドッペルゲンガーでもいるって言うの? 馬鹿馬鹿しい」
「結婚したんだ、設楽さん。今年の九月に」
訝し気に彩華が眉を顰めた。九月は彩華と上原さんが結婚式を挙げた月。
「たぶんそれがきっかけになったんだろう。相手は会社の先輩だ。もしも過去に彩華とつきあいがあったとしたら……そんな想像に悩まされるようになったんだ。いくら違うと否定されてもその不安は拭えない」
報復を恐れて彩華の悪事に口を噤んでいた人が、再び同じ、それ以上の苦痛に見舞われている。幸せの象徴である結婚によって。
「これが彩華と俺が犯したことであり、灯里ちゃんを遠ざける振りをした理由だ。それと」
千賀さんの視線がゆっくりと彩華の隣に注がれる。
「ここまでの話は全て承知しているぞ、上原は」
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