友達の恋人

文月 青

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仕事を終えて会社を出ると、近くに駐めてあった車の運転席に千賀さんがいた。よもや会社に現れるとは思わず、私が一人で右往左往していると、昼休みに千賀さんから私宛てに問い合わせがあり、電話を取った青木さんが体調不良を知らせたのだと種明かしをされた。

「こんなときくらいちゃんと甘えなさい。灯里ちゃんは一人で頑張り過ぎよ」

背中を押されて車の前まで来たものの、勝手なことをしていた手前声をかけられない。いっそのことまたビジネスホテルに戻ろうか。そんな考えに頭が支配され、踵を返す態勢を整えていたら、音もなく運転席の窓が降りた。

「灯里ちゃん、大丈夫なのか?」

すぐにドアを開けて駆け寄ってくる千賀さん。バツが悪くて私は心持ち俯いた。

「すみません。仕事に支障はありませんでしたか?」

「そんなこと気にしないで。帰ろう」

優しく促されて私は助手席にぐったりと横たわった。熱は先程よりも上がっているらしく、本当はもう歩くのも辛かったので、車に乗せてもらえるのは正直ありがたかった。一方で特に深い意味もなく口にしたのだろうが、千賀さんの帰ろうの一言にそこはまだ自分の家なのだろうかと胸が痛んだ。

「これは……」

ところがそんな痛みなど吹き飛ぶような事態が起こっていた。宿泊に使っていたビジネスホテルに寄ってもらい、チェックアウトを済ませてから、千賀さんに支えられるようにして玄関を抜けると、リビングは別世界だったのだ。

「家を空けている間に、友達好みの部屋が完成しているかもねえ」

先程の青木さんの台詞が蘇る。

「一体……」

床に私を座らせてから、千賀さんも隣に膝をつく。

「中古ショップに引き取ってもらった」

事も無げに彼は答えたが、リビングやダイニングからはソファもテーブルもそっくり消えているのである。さすがにテレビは残っていたが、それにしても購入したばかりの家具を売ってしまうとは、千賀さんの行動には泡を吹くしかない。

「カーテンは無いと困るから替えられなかった」

ぼそぼそと呟かれた台詞に私は耳を疑った。

「灯里ちゃんの好みもあるだろうし」

やはり間違いない。千賀さんはこの部屋にある彩華が選んだものを、私の留守中に処分していたのだ。

「引っ越せばいいんだろうけど、通勤の都合もあるし簡単にはできない。でも今のままでは灯里ちゃんが嫌な思いをする」

家出よりもよほど突飛な有様に、すぐには言葉が出てこなかった。

「話は体調が良くなってからだ。とにかく今は休もう」

抱えられて入った寝室にも、案の定大きなベッドの代わりにちんまりと敷かれた、来客用の布団が一組。せめてソファベッドぐらい用意しようか迷ったんだけど、というぼやきにも最早驚く気にはなれない。

「薬を持ってくるから着替えてて」

リビングに置いていた細々した私物は、いつの間にか寝室に運び込まれてあった。クローゼットはそのままとはいえ、がらんとした室内にこめかみがずきずきする。この人は私が知っている千賀悠斗と同一人物なのだろうか。ますます分からなくなってきた。

体の節々が痛んできたせいもあり、考えることを止めてパジャマに着替えると、水と風邪薬を手に千賀さんが戻ってきた。帰りがけにコンビニで食料を買ってもらったけれど、到底食べるのは無理だったので、胃には良くないが薬だけを服む。

疲れ切って布団に転がったら、ほんのりと嗅ぎなれない匂いが私を包んだ。これが千賀さんの匂いなのだと自覚したら、とてつもなく全身が火照って更に熱が上昇したのを感じた。離婚協議をしている筈なのにこの展開はおかしい。朦朧とする意識の中で私はひたすら首を捻った。




喉が渇いて目が覚めた。見覚えはあるのに馴染みのない天井が、薄暗い部屋の中で徐々にはっきりしてくる。体は重いのに宙に浮いているような感覚に、風邪をひいていたことを思い出した。ふと人の気配がして顔を動かせば、額に乗せてあったらしいタオルが滑り落ち、隣に敷かれた布団で小さな寝息を立てる千賀さんが見えた。

驚いて飛び起きたつもりだったが、実際は寝返りを打つので精いっぱい。てっきりリビングで寝ているものだと思っていた。しかもげほげほと派手に咳き込んでしまい、眠りが浅かったらしい千賀さんがゆっくり瞼を上げた。

「大丈夫?」

幾分呂律の回らない喋り方で訊ねてくる。

「あの、ト、トイレに」

焦点が合っていないのか間近でじっとみつめられ、顔を逸らすわけにもいかない私は咄嗟にそう言ってしまった。本当は水が欲しかったのに。

「付いていこうか?」

「一人で平気です」

抱き起こす為に肩に置かれた手が温かくて、まだ寒気の残る体にじんわりと浸透する。こんなときは一人じゃなくてよかったと心底思う。結婚するまで実家住まいだった私は一人暮らしの経験がない。鬱陶しいくらいいつも家族が傍にいて、たまには静かにしてとむくれる程には誰かしらの声が聞こえていた。

「気分が悪い?」

千賀さんに背中を預けたままぼけっとしていたらしい。私は咳が止まってからのろのろと頭を振った。矛盾しているのだろうが、もしかしたら私は結婚して一人の淋しさを味わったのかもしれない。




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