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室内に甘い匂いが漂っていた。シンプルな飾りつけの小さなケーキが完成し、その出来栄えに私はキッチンで一人小躍りする。慌てて漬け込んだチキンは、夜までに焼けば何とかなるだろう。後は……半ば浮かれながら段取りを辿っていると、軽やかなチャイムの音が鳴った。まだお昼前なのにずいぶんと早い帰りだ。私はいそいそと玄関に駆けてゆく。
「おか……彩華?」
おかえりなさいと言いながら、いきなりドアを開けた私の前に現れたのは、千賀さんではなくやけに顔色の悪い彩華だった。
「ごめんね、突然」
謝る声にも張りがない。もしかして上原さんと昨日のことで何かあったのだろうか。リビングに通してからもいつもの彩華らしくない、焦点の合わない虚ろな眼差しに、私は逸る気持ちを落ち着けようとキッチンでお茶を淹れた。
「これ、灯里が作ったの?」
ふらふらとキッチンに入ってきた彩華が、作業台代わりの小さなテーブルに乗せていたケーキを指差す。
「ちょっと不格好になっちゃったけどね」
苦笑しながら答え、お茶を差し出そうとしたときだった。
「あや……!」
お皿事ケーキを持った彩華は、あろうことかそのまま両手を離した。一瞬のことなのにまるでスローモーションのようだった。足元に散らばった割れたお皿とぐちゃっと潰れたケーキ。
「駄目だよ、灯里。私にできないことで悠斗を喜ばせるなんて」
さっきまでの足取りも覚束ない、人が変わったような彩華ではなく、真顔で私を凝視している。そこには怒りも憎しみもなく、何の色も浮かんでいなかった。
「悠斗から私の記憶が薄れてしまう。私を忘れてしまう」
視界がぐらつき、自らを鼓舞するように頭を振る。深く息を吸い込んでぐっとその場に踏ん張った。
「彩華は、千賀さんが、好きなの?」
この質問の答えを聞いてしまったら、彩華とは友達でいられなくなる……もっと酷い関係になるかもしれない。けれどもう避けて通ることも誤魔化すこともできない。
「好き? 好き……。そんな軽いものじゃないわ。だって私達は恋人同士だった」
千賀さんと上原さんから知らされていたことなのに、彩華の口からも同じ文言を連ねられると、ずっしりとした現実の重みを感じずにはいられない。
「じゃあ上原さんのことは?」
更に夫という名の、自分に重なる人への彩華の想いを問う。
「好きよ。だから結婚したんだもの」
けろりと答えた彩華の双眸に、見る見るうちに涙が膨れ上がった。好きという言葉からは程遠い、やり場のない悲しみが湛えられている。人前では滅多に泣かない彩華が、睫毛を濡らす姿が痛々しくて身動ぎ一つできない。
「ごめんね、灯里。悠斗を奪らないで」
床に散らばる残骸と化したケーキを挟んで、私と彩華はしばらく立ち尽くしていた。形あるものはいつか壊れるというけれど、なけなしの私の勇気がそこでぺしゃんこになっている。
「ごめんね、灯里……ごめんなさい」
自分がしたことを認めた彩華は、蒼白になって何度も何度も私に詫びた。そしてここ数日混乱していた心中を吐露した。
「慶彦はいい人で、この人となら幸せになれると思っていた。本当に不満なんてないし、不幸でもない」
だけどね、と噛み締めた唇から血が滲む。
「私にとって悠斗は、他の誰とも比べられない、大事なたった一人なの」
出会ってすぐに、その不器用な優しさに恋に落ちた。元の彼女から自分を守る為に別れを選んだ強さも、友達という仮の姿でずっと陰で支えてくれていた思いやりも、全てが愛しかった……。彩華は訥々と語る。
「口にしなくても分かっていた。悠斗がずっと私を慈しんでいたこと。だから他の人とつきあわず、一人でいたことも」
縛りを解いてあげなければ、そう考えて上原さんとの結婚を決めた、と。
「でなければ悠斗は私から離れられない」
「上原さんはそのこと……」
「知らないわ。悠斗が灯里と上手くいったら、そのときは慶彦に尽くすつもりだったから。でも悠斗は灯里を拒絶した」
一度は粉々になって再生しつつあった体が、今度は更に深くまで刃で突き刺された。何度も抉り続けながら、決してとどめを刺さずに。
「灯里は悠斗を幸せにできない」
反論を試みる前に、止め処なく涙を溢れさせながらも、場違いに美しい彩華に制された。
「悠斗は一度でも灯里を好きだと言った?」
否定する術を私は持っていなかった。
千賀さんがいくら私との結婚を望んだと訴えても、鵜呑みにすることができなかった理由。家から彩華の匂いを取り除いてくれても、彼女に対する態度を改めてくれても、上原さんに嫉妬してくれても。
ーー好きだという、一番大切な言葉をもらえなかった。
彩華は分かっていたのだ。だからあえて訊ねた。私と千賀さんが真の意味で夫婦なのかと。千賀さんが私を求めていないことを確信していて。
「悠斗を返して?」
当然のように念を押されたときでさえ、私には断る権利もなく、
「何故、私に黙っていたの?」
ようやく声を絞り出せば、彩華が済まなそうに表情を曇らせた。
「ごめんね。心苦しかったんだけど、悠斗に二人だけの秘密にしてとお願いされたから」
結婚してから何度彩華のごめんねを聞いただろう。その場に膝をついてからの時間は、既に流れていなかった。
「おか……彩華?」
おかえりなさいと言いながら、いきなりドアを開けた私の前に現れたのは、千賀さんではなくやけに顔色の悪い彩華だった。
「ごめんね、突然」
謝る声にも張りがない。もしかして上原さんと昨日のことで何かあったのだろうか。リビングに通してからもいつもの彩華らしくない、焦点の合わない虚ろな眼差しに、私は逸る気持ちを落ち着けようとキッチンでお茶を淹れた。
「これ、灯里が作ったの?」
ふらふらとキッチンに入ってきた彩華が、作業台代わりの小さなテーブルに乗せていたケーキを指差す。
「ちょっと不格好になっちゃったけどね」
苦笑しながら答え、お茶を差し出そうとしたときだった。
「あや……!」
お皿事ケーキを持った彩華は、あろうことかそのまま両手を離した。一瞬のことなのにまるでスローモーションのようだった。足元に散らばった割れたお皿とぐちゃっと潰れたケーキ。
「駄目だよ、灯里。私にできないことで悠斗を喜ばせるなんて」
さっきまでの足取りも覚束ない、人が変わったような彩華ではなく、真顔で私を凝視している。そこには怒りも憎しみもなく、何の色も浮かんでいなかった。
「悠斗から私の記憶が薄れてしまう。私を忘れてしまう」
視界がぐらつき、自らを鼓舞するように頭を振る。深く息を吸い込んでぐっとその場に踏ん張った。
「彩華は、千賀さんが、好きなの?」
この質問の答えを聞いてしまったら、彩華とは友達でいられなくなる……もっと酷い関係になるかもしれない。けれどもう避けて通ることも誤魔化すこともできない。
「好き? 好き……。そんな軽いものじゃないわ。だって私達は恋人同士だった」
千賀さんと上原さんから知らされていたことなのに、彩華の口からも同じ文言を連ねられると、ずっしりとした現実の重みを感じずにはいられない。
「じゃあ上原さんのことは?」
更に夫という名の、自分に重なる人への彩華の想いを問う。
「好きよ。だから結婚したんだもの」
けろりと答えた彩華の双眸に、見る見るうちに涙が膨れ上がった。好きという言葉からは程遠い、やり場のない悲しみが湛えられている。人前では滅多に泣かない彩華が、睫毛を濡らす姿が痛々しくて身動ぎ一つできない。
「ごめんね、灯里。悠斗を奪らないで」
床に散らばる残骸と化したケーキを挟んで、私と彩華はしばらく立ち尽くしていた。形あるものはいつか壊れるというけれど、なけなしの私の勇気がそこでぺしゃんこになっている。
「ごめんね、灯里……ごめんなさい」
自分がしたことを認めた彩華は、蒼白になって何度も何度も私に詫びた。そしてここ数日混乱していた心中を吐露した。
「慶彦はいい人で、この人となら幸せになれると思っていた。本当に不満なんてないし、不幸でもない」
だけどね、と噛み締めた唇から血が滲む。
「私にとって悠斗は、他の誰とも比べられない、大事なたった一人なの」
出会ってすぐに、その不器用な優しさに恋に落ちた。元の彼女から自分を守る為に別れを選んだ強さも、友達という仮の姿でずっと陰で支えてくれていた思いやりも、全てが愛しかった……。彩華は訥々と語る。
「口にしなくても分かっていた。悠斗がずっと私を慈しんでいたこと。だから他の人とつきあわず、一人でいたことも」
縛りを解いてあげなければ、そう考えて上原さんとの結婚を決めた、と。
「でなければ悠斗は私から離れられない」
「上原さんはそのこと……」
「知らないわ。悠斗が灯里と上手くいったら、そのときは慶彦に尽くすつもりだったから。でも悠斗は灯里を拒絶した」
一度は粉々になって再生しつつあった体が、今度は更に深くまで刃で突き刺された。何度も抉り続けながら、決してとどめを刺さずに。
「灯里は悠斗を幸せにできない」
反論を試みる前に、止め処なく涙を溢れさせながらも、場違いに美しい彩華に制された。
「悠斗は一度でも灯里を好きだと言った?」
否定する術を私は持っていなかった。
千賀さんがいくら私との結婚を望んだと訴えても、鵜呑みにすることができなかった理由。家から彩華の匂いを取り除いてくれても、彼女に対する態度を改めてくれても、上原さんに嫉妬してくれても。
ーー好きだという、一番大切な言葉をもらえなかった。
彩華は分かっていたのだ。だからあえて訊ねた。私と千賀さんが真の意味で夫婦なのかと。千賀さんが私を求めていないことを確信していて。
「悠斗を返して?」
当然のように念を押されたときでさえ、私には断る権利もなく、
「何故、私に黙っていたの?」
ようやく声を絞り出せば、彩華が済まなそうに表情を曇らせた。
「ごめんね。心苦しかったんだけど、悠斗に二人だけの秘密にしてとお願いされたから」
結婚してから何度彩華のごめんねを聞いただろう。その場に膝をついてからの時間は、既に流れていなかった。
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