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「灯里ちゃん?」
軽く腕を引っ張られて我に返ると、隣に心配そうな千賀さんの顔があった。いつのまに寝室に来たのか、ここ数日同様二つ敷かれた布団に、それぞれ横になっている。ほんの少しの隙間が、何故かいつもより冷え冷えとしたもののように感じた。
「ぼうっとしてました」
「仕事が忙しかった?」
「あ、はい、そうですね」
曖昧に答える私に、千賀さんは優しい笑みを見せる。それを合図に忘れていた光景が脳裏に蘇った。
「灯里ちゃん、欲しい物はない?」
どくんと脈打つ鼓動。この質問が数時間前なら、私は少しくらい喜んでいたかもしれない。
「せ、千賀さんこそ、欲しい物はないんですか?」
さっきまではイブをどう過ごそうか憂えていたのに、本人に向かって平然と馬鹿なことを訊ねている。
「今は……灯里ちゃんがいてくれたら、それでいい」
天井に顔を戻してぼそっと呟く千賀さん。私を一瞬にして幸せにも不幸せにもできる。嘘つきな上に何と罪な人だろう。
「最初はそんなこと、なかったんだ」
街の中をふらつきながら、上原さんは独り言のように語り出した。誰かに聞いて貰いたいというより、吐き出さないと自分を保てないといったふうだった。
「灯里ちゃんと千賀が上手く行き始めた頃からかな。彩華の様子が変わったのは」
それは彩華と上原さんが、私のお見舞いに来てくれた日を境に始まった。部屋の模様替えをしたり、近所を散策して知人を作ったり、新婚生活を楽しんでいた彩華が、毎日塞ぎ込むようになったのだという。
苦手とはいえ持ち前の前向きさで、あれこれ試しながら取り組んでいた家事も、掃除や洗濯を怠ることが増えた。仕事から帰ると食事の用意もせずに、真っ暗なキッチンに彩華が突っ立っていたこともあった。
「俺は彩華が家事が苦手だと知っていて結婚したから、ちゃんとこなせなくても別に構わないんだ。むしろ体調が悪いのかと懸念していた」
けれど熱もなければどこも痛くない。薬も治療も必要としていないのに、日々口数は減り笑わなくなってゆく彩華。訳を聞いたところで濁すばかり。
「千賀が原因なんだろうと当たりをつけてはいたが」
三日前の夜。愛し合っているときに、無意識に彩華が洩らした。
ーー悠斗。
「本人も自覚がなくてさ。その名前を呼んで俺にしがみついていた」
淡々と事実を述べる上原さんに、彩華を責める素振りはなく、ただ悲しそうに笑っていた。
「そのときは聞き流した。一度だけのことだったし」
でも昨日の夜。ベッドの中で彩華にキスをしようとした上原さんは、彼女の双眸に映っているのが自分ではなく千賀さんに見えて、甘える声が千賀さんを呼んでいるように聴こえて、求める腕が千賀さんを探しているような気がして。唇すら重ねることができなかった。
「情けないよな」
私にも覚えがあった。千賀さんが彩華の名前を呼ぶときの、ただただ慈しむ声色を知って以来、自分はいまだに彼の名前を呼べずにいる。
「ごめんな。俺がこんなんじゃ、灯里ちゃんと千賀にも影響するのに」
でもすべきこともしたいことも分からない。一時的なものなのか、この状態を引きずって行かねばならないのかさえ。
恋人同士だったならば、彩華と千賀さんには当然それなりのつきあいがあっただろう。今更それをどうこう突くつもりはもちろんない。けれどなまじ相手が友達なだけに、何もかもがリアルで生々しい。
別々に寝ていたからあえて考える必要がなかった……無意識のうちに避けていた友達と夫の閨事。もしも私達が離婚を回避しても、真の意味で夫婦になるなら、その事実を受け入れなければならない。
千賀さんはどうなのだろう。私と触れ合いたいと思っているのだろうか。それらしい雰囲気にならないようにしているのは、私への配慮なのだと疑わなかったけれど、もしもそれが上原さんと同じ理由だったら。
私が千賀さんに向ける動作の一つ一つが、こうしてただ傍にいるときでさえ、彩華に見えているのだとしたら。例え私とキスをしようとしても、目を閉じた瞬間や唇が触れた瞬間、彩華のことが蘇るのだとしたら。
「灯里ちゃん?」
千賀さんに再び現実に呼び戻される。
「すみません。眠くなってきました」
わざとらしく欠伸を一つする。千賀さんは私を選んだと、私と結婚したかったと言ってくれた。その言葉を丸ごと信じられるわけではない。けれどいつか信頼の気持ちが宿って、二人の心の距離が縮まったとしても、彼の傍らに私にも彩華が見えてしまったら。
二人の隙間を埋めて、千賀さんが私に身を寄せた。
「何があった」
決めつけるような口調で千賀さんが問う。私は黙って首を振った。帰宅が遅かった彼に夕食のときに訊ねた。寄り道でもしていたの、と。返った答は残業だった。
「彩華を幸せにしたい。でも彩華の望みが千賀と共に在ることなら、俺にできる唯一はあいつを手放すこと」
それができるくらいならと、上原さんは一人葛藤していた。そして上原さんが彩華を手放す覚悟をしたときには、私という枷を必要としなくなった千賀さんが、心のままに彩華への想いを解放してしまうかもしれない。そうなったら私にも自分の意思とは関係なく、千賀さんとの別れが訪れる。
「彩華の、ことなんだね」
切なげに断定する千賀さんに、私はそれでも首を振るしかなかった。まだ彼のことが好きなら素直に縋ってしまえばいいものを、何処かで信じ切れない自分が嫌だった。
軽く腕を引っ張られて我に返ると、隣に心配そうな千賀さんの顔があった。いつのまに寝室に来たのか、ここ数日同様二つ敷かれた布団に、それぞれ横になっている。ほんの少しの隙間が、何故かいつもより冷え冷えとしたもののように感じた。
「ぼうっとしてました」
「仕事が忙しかった?」
「あ、はい、そうですね」
曖昧に答える私に、千賀さんは優しい笑みを見せる。それを合図に忘れていた光景が脳裏に蘇った。
「灯里ちゃん、欲しい物はない?」
どくんと脈打つ鼓動。この質問が数時間前なら、私は少しくらい喜んでいたかもしれない。
「せ、千賀さんこそ、欲しい物はないんですか?」
さっきまではイブをどう過ごそうか憂えていたのに、本人に向かって平然と馬鹿なことを訊ねている。
「今は……灯里ちゃんがいてくれたら、それでいい」
天井に顔を戻してぼそっと呟く千賀さん。私を一瞬にして幸せにも不幸せにもできる。嘘つきな上に何と罪な人だろう。
「最初はそんなこと、なかったんだ」
街の中をふらつきながら、上原さんは独り言のように語り出した。誰かに聞いて貰いたいというより、吐き出さないと自分を保てないといったふうだった。
「灯里ちゃんと千賀が上手く行き始めた頃からかな。彩華の様子が変わったのは」
それは彩華と上原さんが、私のお見舞いに来てくれた日を境に始まった。部屋の模様替えをしたり、近所を散策して知人を作ったり、新婚生活を楽しんでいた彩華が、毎日塞ぎ込むようになったのだという。
苦手とはいえ持ち前の前向きさで、あれこれ試しながら取り組んでいた家事も、掃除や洗濯を怠ることが増えた。仕事から帰ると食事の用意もせずに、真っ暗なキッチンに彩華が突っ立っていたこともあった。
「俺は彩華が家事が苦手だと知っていて結婚したから、ちゃんとこなせなくても別に構わないんだ。むしろ体調が悪いのかと懸念していた」
けれど熱もなければどこも痛くない。薬も治療も必要としていないのに、日々口数は減り笑わなくなってゆく彩華。訳を聞いたところで濁すばかり。
「千賀が原因なんだろうと当たりをつけてはいたが」
三日前の夜。愛し合っているときに、無意識に彩華が洩らした。
ーー悠斗。
「本人も自覚がなくてさ。その名前を呼んで俺にしがみついていた」
淡々と事実を述べる上原さんに、彩華を責める素振りはなく、ただ悲しそうに笑っていた。
「そのときは聞き流した。一度だけのことだったし」
でも昨日の夜。ベッドの中で彩華にキスをしようとした上原さんは、彼女の双眸に映っているのが自分ではなく千賀さんに見えて、甘える声が千賀さんを呼んでいるように聴こえて、求める腕が千賀さんを探しているような気がして。唇すら重ねることができなかった。
「情けないよな」
私にも覚えがあった。千賀さんが彩華の名前を呼ぶときの、ただただ慈しむ声色を知って以来、自分はいまだに彼の名前を呼べずにいる。
「ごめんな。俺がこんなんじゃ、灯里ちゃんと千賀にも影響するのに」
でもすべきこともしたいことも分からない。一時的なものなのか、この状態を引きずって行かねばならないのかさえ。
恋人同士だったならば、彩華と千賀さんには当然それなりのつきあいがあっただろう。今更それをどうこう突くつもりはもちろんない。けれどなまじ相手が友達なだけに、何もかもがリアルで生々しい。
別々に寝ていたからあえて考える必要がなかった……無意識のうちに避けていた友達と夫の閨事。もしも私達が離婚を回避しても、真の意味で夫婦になるなら、その事実を受け入れなければならない。
千賀さんはどうなのだろう。私と触れ合いたいと思っているのだろうか。それらしい雰囲気にならないようにしているのは、私への配慮なのだと疑わなかったけれど、もしもそれが上原さんと同じ理由だったら。
私が千賀さんに向ける動作の一つ一つが、こうしてただ傍にいるときでさえ、彩華に見えているのだとしたら。例え私とキスをしようとしても、目を閉じた瞬間や唇が触れた瞬間、彩華のことが蘇るのだとしたら。
「灯里ちゃん?」
千賀さんに再び現実に呼び戻される。
「すみません。眠くなってきました」
わざとらしく欠伸を一つする。千賀さんは私を選んだと、私と結婚したかったと言ってくれた。その言葉を丸ごと信じられるわけではない。けれどいつか信頼の気持ちが宿って、二人の心の距離が縮まったとしても、彼の傍らに私にも彩華が見えてしまったら。
二人の隙間を埋めて、千賀さんが私に身を寄せた。
「何があった」
決めつけるような口調で千賀さんが問う。私は黙って首を振った。帰宅が遅かった彼に夕食のときに訊ねた。寄り道でもしていたの、と。返った答は残業だった。
「彩華を幸せにしたい。でも彩華の望みが千賀と共に在ることなら、俺にできる唯一はあいつを手放すこと」
それができるくらいならと、上原さんは一人葛藤していた。そして上原さんが彩華を手放す覚悟をしたときには、私という枷を必要としなくなった千賀さんが、心のままに彩華への想いを解放してしまうかもしれない。そうなったら私にも自分の意思とは関係なく、千賀さんとの別れが訪れる。
「彩華の、ことなんだね」
切なげに断定する千賀さんに、私はそれでも首を振るしかなかった。まだ彼のことが好きなら素直に縋ってしまえばいいものを、何処かで信じ切れない自分が嫌だった。
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