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リビングの掃除を終えたところで、私はぐったりとソファに身を横たえた。料理を作るのは苦ではないが、元々ホームパーティーめいたものに縁がなかった私は、大勢の人を迎えたことにとてつもない疲れを感じていた。何より帰り際の一言が効いた。
「邪魔したな、千賀。楽しかったよ。彩華も料理美味かったぞ。お前はいい奥さんだな」
既に視界から私を追い出した同僚達は、ぞろぞろと連れ立って玄関を出てゆく。
「おいおい、彩華は俺の恋女房なんだけど」
上原さんの冗談のおかげで、辛うじて明るいムードを保ったけれど、その彼も決して笑ってはいなくて。自分の不手際のせいで、上原さんに迷惑をかけたことが心苦しかった。
「ごめんね、灯里。ありがとう」
そう彩華が耳打ちしてくれたのに、気にしないでと返すのが精一杯だった。
「またリビングで寝るのか」
頭上から抑揚のない声が落ちた。お風呂上がりの濡れ髪もそのままに、千賀さんが私を見下ろしている。
「ご、ごめんなさい」
みっともない姿を晒していた私は、慌ててがばっと起き上がった。
「俺に言いたいことがあるんじゃないのか」
双眸には明らかな苛立ちが滲んでいる。同僚を不快にさせたことを怒っているのだろう。
「あの、ごめんなさい」
「何を謝っている」
「だって千賀さんは」
「灯里ちゃんも千賀だろう!」
いきなり千賀さんが声を荒げた。
「いつまで名字で呼ぶつもりなんだ」
憎々しげに吐き捨てられる。初めて感情を剥き出しにした千賀さんに、不安と驚きと、こんなときなのにほんの少しの喜びがない交ぜになった。
「安易な結婚の提案を安易に受け入れた。灯里ちゃんにとってはその程度のことなんだろうが」
鋭いナイフで切りつけられたような気がした。千賀さんは何を言っているのだろう。
「この先ずっと、千賀さんで通すつもりか?」
この先? ずっと? 逆に問いたい。あなたはこれからの長い人生で、私を自分の妻として傍らに置けるの?
「千賀さんも、同じじゃないですか」
ひとりでに唇から零れていた。
「あなたも灯里ちゃんじゃないですか」
逸らされない視線が僅かな動揺を伝えてくる。
「彩華、悠斗、にはなれないじゃないですか」
ひゅっと息を呑む千賀さん。口元を片手で覆い切れ切れに呻く。
「灯里ちゃん、君は、まさか……」
私は否定も肯定もしなかった。ただこれだけは分かって欲しくて言葉を紡ぐ。
「安易に受け入れたんじゃありません」
千賀さんには安易な結婚の提案でも、その時点ではまだ私にはプロポーズに等しいものだった。
「私は千賀さんのことが……好きでした」
だらんと腕を下ろして千賀さんは瞠目する。
「最初に好きになったのは高校生の頃です」
「高……校?」
「私は千賀さんの後輩でした」
高校一年生の夏休みだった。夏期講習を受けた帰り、運動部の部員に遊び半分で絡まれた。グラウンド脇の水飲み場で、Tシャツを脱いで汗を拭いていた彼らにびっくりして、足早に通り過ぎようとしていたときのことだ。
「逃げなくてもいいでしょ」
相手は三人で、嫌悪感が沸くような相手ではなかったけれど、慣れない男の子と話すのは特に抵抗がある私が、困っておろおろする姿が面白かったらしい。
「やめとけ、そんなガキ。お前らの男振りが半減するぞ」
そのとき私と彼らの間に割り込んだのが、私より頭一つ分背の高い男の子だった。その人も夏期講習に参加したのか、私と同じように制服を着ていた。
「帰れ」
さり気なく振り返った彼は、口の動きと顎をしゃくる仕草でそう伝えた。感情が伺えない冷たい表情をしているのに、白いシャツと色素の薄いさらさらの髪が、吸い込まれそうな青い空に似合っていた。
素直に頷いて私はその場を去った。それ以来校内のどこにいても、名前も学年も知らない彼を目で追うようになった。彼の方では助けた意識はなかったのか、私のことなど憶えてもいないようだった。なのに偶然廊下ですれ違っただけで、馬鹿みたいに真っ赤になって俯く私。
「二年生の千賀悠斗さんというんだって」
彼を眺めるしかできない私に、痺れを切らした友達が調べてくれたけれど、だからといって行動に移せるわけもなく、私はその名前を心の中でこっそり繰り返しては、一人温かな気分に浸っていた。
そうして想いを告げることも叶わぬまま、巡る季節に彼は卒業していった。友達の輪の中にいてもどこか寡黙で、ふとした瞬間に一人佇んでいた彼。それは特別教室棟の窓辺であったり、図書室の隅であったり。
ーー彼はいつも何を考えていたのだろう。
もうそんな姿を見かけることもないのだと分かったとき、私は初めてこの恋が思い出と化すのを自覚した。
だが突然の再会によって、二度目の恋は三度目の恋へと生まれ変わり、そして皮肉にも永遠の幸せを象徴する、結婚という形で幕を閉じようとしている。
「少なくとも私は、千賀さんの隣をずっと歩いてゆこうと思っていました」
彩華との過去を知るまでは。
「どうして私と結婚したんですか」
答えられずに千賀さんは唇を噛む。いっそのこと切り捨てられたら楽なのに、私はあなたも彩華も嫌いになれない。千賀さんの想い人が彩華でなかったら、赤の他人だったら、私は見知らぬ誰かを妬むだけで済んだのに。友達と形だけの夫の関係を疑って、そのくせ二人を失いたくないという、こんな醜い自分に気づかなくて済んだのに。
「あなたは夫ではなく、いつまで経っても友達の恋人でしかないんですね」
力なくソファに腰を下ろした千賀さんと入れ替わるように、私は立ち上がってバスルームに向かった。長めにシャワーを浴びて戻ると、リビングに彼の姿はなかった。
「邪魔したな、千賀。楽しかったよ。彩華も料理美味かったぞ。お前はいい奥さんだな」
既に視界から私を追い出した同僚達は、ぞろぞろと連れ立って玄関を出てゆく。
「おいおい、彩華は俺の恋女房なんだけど」
上原さんの冗談のおかげで、辛うじて明るいムードを保ったけれど、その彼も決して笑ってはいなくて。自分の不手際のせいで、上原さんに迷惑をかけたことが心苦しかった。
「ごめんね、灯里。ありがとう」
そう彩華が耳打ちしてくれたのに、気にしないでと返すのが精一杯だった。
「またリビングで寝るのか」
頭上から抑揚のない声が落ちた。お風呂上がりの濡れ髪もそのままに、千賀さんが私を見下ろしている。
「ご、ごめんなさい」
みっともない姿を晒していた私は、慌ててがばっと起き上がった。
「俺に言いたいことがあるんじゃないのか」
双眸には明らかな苛立ちが滲んでいる。同僚を不快にさせたことを怒っているのだろう。
「あの、ごめんなさい」
「何を謝っている」
「だって千賀さんは」
「灯里ちゃんも千賀だろう!」
いきなり千賀さんが声を荒げた。
「いつまで名字で呼ぶつもりなんだ」
憎々しげに吐き捨てられる。初めて感情を剥き出しにした千賀さんに、不安と驚きと、こんなときなのにほんの少しの喜びがない交ぜになった。
「安易な結婚の提案を安易に受け入れた。灯里ちゃんにとってはその程度のことなんだろうが」
鋭いナイフで切りつけられたような気がした。千賀さんは何を言っているのだろう。
「この先ずっと、千賀さんで通すつもりか?」
この先? ずっと? 逆に問いたい。あなたはこれからの長い人生で、私を自分の妻として傍らに置けるの?
「千賀さんも、同じじゃないですか」
ひとりでに唇から零れていた。
「あなたも灯里ちゃんじゃないですか」
逸らされない視線が僅かな動揺を伝えてくる。
「彩華、悠斗、にはなれないじゃないですか」
ひゅっと息を呑む千賀さん。口元を片手で覆い切れ切れに呻く。
「灯里ちゃん、君は、まさか……」
私は否定も肯定もしなかった。ただこれだけは分かって欲しくて言葉を紡ぐ。
「安易に受け入れたんじゃありません」
千賀さんには安易な結婚の提案でも、その時点ではまだ私にはプロポーズに等しいものだった。
「私は千賀さんのことが……好きでした」
だらんと腕を下ろして千賀さんは瞠目する。
「最初に好きになったのは高校生の頃です」
「高……校?」
「私は千賀さんの後輩でした」
高校一年生の夏休みだった。夏期講習を受けた帰り、運動部の部員に遊び半分で絡まれた。グラウンド脇の水飲み場で、Tシャツを脱いで汗を拭いていた彼らにびっくりして、足早に通り過ぎようとしていたときのことだ。
「逃げなくてもいいでしょ」
相手は三人で、嫌悪感が沸くような相手ではなかったけれど、慣れない男の子と話すのは特に抵抗がある私が、困っておろおろする姿が面白かったらしい。
「やめとけ、そんなガキ。お前らの男振りが半減するぞ」
そのとき私と彼らの間に割り込んだのが、私より頭一つ分背の高い男の子だった。その人も夏期講習に参加したのか、私と同じように制服を着ていた。
「帰れ」
さり気なく振り返った彼は、口の動きと顎をしゃくる仕草でそう伝えた。感情が伺えない冷たい表情をしているのに、白いシャツと色素の薄いさらさらの髪が、吸い込まれそうな青い空に似合っていた。
素直に頷いて私はその場を去った。それ以来校内のどこにいても、名前も学年も知らない彼を目で追うようになった。彼の方では助けた意識はなかったのか、私のことなど憶えてもいないようだった。なのに偶然廊下ですれ違っただけで、馬鹿みたいに真っ赤になって俯く私。
「二年生の千賀悠斗さんというんだって」
彼を眺めるしかできない私に、痺れを切らした友達が調べてくれたけれど、だからといって行動に移せるわけもなく、私はその名前を心の中でこっそり繰り返しては、一人温かな気分に浸っていた。
そうして想いを告げることも叶わぬまま、巡る季節に彼は卒業していった。友達の輪の中にいてもどこか寡黙で、ふとした瞬間に一人佇んでいた彼。それは特別教室棟の窓辺であったり、図書室の隅であったり。
ーー彼はいつも何を考えていたのだろう。
もうそんな姿を見かけることもないのだと分かったとき、私は初めてこの恋が思い出と化すのを自覚した。
だが突然の再会によって、二度目の恋は三度目の恋へと生まれ変わり、そして皮肉にも永遠の幸せを象徴する、結婚という形で幕を閉じようとしている。
「少なくとも私は、千賀さんの隣をずっと歩いてゆこうと思っていました」
彩華との過去を知るまでは。
「どうして私と結婚したんですか」
答えられずに千賀さんは唇を噛む。いっそのこと切り捨てられたら楽なのに、私はあなたも彩華も嫌いになれない。千賀さんの想い人が彩華でなかったら、赤の他人だったら、私は見知らぬ誰かを妬むだけで済んだのに。友達と形だけの夫の関係を疑って、そのくせ二人を失いたくないという、こんな醜い自分に気づかなくて済んだのに。
「あなたは夫ではなく、いつまで経っても友達の恋人でしかないんですね」
力なくソファに腰を下ろした千賀さんと入れ替わるように、私は立ち上がってバスルームに向かった。長めにシャワーを浴びて戻ると、リビングに彼の姿はなかった。
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