友達の恋人

文月 青

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前日に続きリビングのソファで眠ってしまった私は、自分も仕事だということもあり、早起きして朝食と頼まれもしないお弁当を準備した。着替えが寝室なので、パジャマにエプロンなのが今一つ締まらないが、とりあえず寝坊は免れたから良しとしよう。

「おはよう」

身支度を済ませた千賀さんが、洗面所からしゃきっとした表情で現れた。起き抜けだったらしい昨日の朝も、寝癖すらついていない様子だったが、今朝のスーツ姿も既に出勤モード。

「おはようございます。ところで千賀さん、お弁当を」

「要らない」

作ったんですが、とは最早言えなかった。まあいいけれど。どうせ今後も必要ないのだろうし、自分のお弁当だけなら残り物の再利用で充分だ。うん、楽できていいと思おう。

「行ってくる」

ノルマのように胃にご飯を詰め込み、昨日よりも大分早目に千賀さんは家を出る。早朝会議があるとか、帰りは遅くなるとか、予定めいたことは一切口にしない。

私の方が出勤時間が遅く帰宅が早いので、知らされなくても不都合はないのだろうが、最初のうちは勝手が分からないので、教えて貰えると余裕が持てて助かる。

「行ってらっしゃい」

振り向きもしない大きな背中は、まるで見送りを拒否するかのように、あっという間にドアの外に消えた。慌てているわけではないのに、一つ一つの動きが素早くて、もたもたしていると全てが後手に回ってしまう。

「しっかりしなくちゃ」

私は両手で頬を軽く叩いて、残りの家事と出勤準備に取りかかった。




「結婚三日目の感想はどう?」

会社の事務室で郵便物のチェックをしていると、ベテラン事務員の青木あおきさんがにやにやしながら近づいてきた。

「どうもしないんですよね、これが」

彼女は中学生と高校生の子供を持つお母さんだ。四十歳を過ぎているが、いつも溌剌としていて職場を元気にする。

「何なの、その通常運転。寝不足でもなさそうだし」

「ぐっすり眠ってますから」

宛名ごとに仕分けして、新たにデスクのパソコンに届いたメールを確認する。

この会社は主に乳製品の製造と販売を手がけている。創業者が牧場を経営していたことが始まりらしく、規模はさほど大きくはないが、その分アットホームで働きやすい。

販売部長と私の父が知り合いで、パソコンができる人材を探していたことから、私に白羽の矢が立ったのだが、子供の頃から親しんでいた牛乳やヨーグルトに囲まれる仕事は、忙しいけれどやりがいがある。

「眠ってるのはおかしいでしょ」

胡乱な目つきで青木さんがぼやく。でもさすが彩華と言おうか、彼女が選んだリビングのソファは、座り心地もいいが寝心地もいいのである。

同じ家の中に千賀さんがいるので、常に緊張を強いられているのも原因だと思うが、横になるといつのまにか睡魔に襲われて、冷んやりした気配を感じるまで目を覚ますこともない。風邪をひくといけないので、今夜からは薄手の毛布を準備しよう。

「どうしたの? 灯里ちゃん」

ふいに口を噤んだ私の顔を、青木さんが不思議そうに覗き込んだ。

「家政婦さんみたいだなって」

間違いなく結婚したというのに、私は当然のようにリビングで休むことを考えている。食事を用意して、掃除と洗濯をして、夜の生活は別。

「枯れてるわね、新婚さんが。つきあっているときに盛り上がり過ぎたかな?」

向かいのデスクに戻って請求書を纏めつつ、青木さんは苦笑した。ちょうど電話がかかってきたので、彼女は一旦会話を止めて受話器に手を伸ばした。

枯れている、か。それ以前に私達の間には花が咲いていないから枯れようがない。

彩華との過去が明らかになったとはいえ、私はまだ千賀さんのことが好きだ。彼が傍にくれば心臓がどきどきと高鳴るし、偶然肩が触れ合えば指先が小刻みに震える。共に暮らしていれば、私を見てくれる日がくるのではないかと、淡い期待もどこかで抱く。

でも千賀さんはそれを悉く蹴散らす。無視も避けることもしないのに、そのよそよそしさは家中に充満していて、私を受け入れようとしない空気は、

「お前は他人」

と断定されているようで居たたまれない。

特に寝室は顕著だ。着替えや掃除の際に仕方なく足を踏み入れるが、半分だけ使われた広いベッドは、まるで隣に彼の人が訪れるのを焦がれている証のようで、女としても必要とされていない私は直視する度胸が軋む。

触れ合いたいのに触れられたくない。触れられたいのに誰かの代わりにはなりたくない。

この矛盾した気持ちに押し潰されそうで、私はどうしても千賀さんがいる夜の寝室に行けない。そして彼もまた私を求めていないから、一人で夜を過ごしているのだ。

つきあっているときも結婚してからも、実ることのない片想い。その身はずっと近くにあるのに、遠くから眺めていただけの高校時代より、遥か手の届かない場所に千賀さんはいる。今後もこの生活を維持していくつもりがあるのかは謎だが、どんなに努力をしても、千賀さんが私を振り向かないことだけは知っている。

ーーきっと彩華がいる限り。



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