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「灯里、どうしたの?」
ウエディングドレスを脱ぎ、普段は絶対しないであろう鮮やかなメイクを落とした私の顔を、留袖に身を包んだ母が心配そうに覗き込んでいた。
「もう幸せボケなの」
心ここにあらずの私に、友達も笑いながら肩を突いてくる。我に返った私はぼんやりと周囲を見回した。ここは何度も足を運んだ結婚式場の控室だ。
「終わったんだっけ」
ぽけっと呟いた途端爆笑が巻き起こる。そう、私と千賀さんの結婚式は既に終了していた。これから二次会に流れる人、仕事の都合で帰途に着く人に別れて移動する。
「気持ちは分かるわ。全体的にあったかい披露宴だったもの」
「特に千賀さん。冷やかされても動じないのに、灯里を見るときだけは表情が柔らかくなるんだもの。参っちゃう」
友達は口々に囃し立てるけれど、私は苦笑を返すことしかできない。正直千賀さんのそんな姿は想像できないし、そもそも私は誓いの言葉も上の空だった。忙しい中出席してくれた友達には悪いが、一生に一度の結婚式なのに何の感動もなかったのだ。私にとっての今日は記念日ではなく、単なる十月の大安吉日に過ぎない。
「そろそろ行かない?」
ひょこっと彩華が顔を出した。ラベンダー色のシンプルなワンピースが、彼女の華やかさをより引き立たせている。ハーフアップにアレンジされた髪型もよく似合っていた。隣には先月伴侶となった上原さんと、今日の主役の一人である千賀さん。皮肉にもここには二年前の食事会のメンバーが揃っていた。
「出た。もう一組の幸せボケコンビ」
「あんた達のお陰で金欠よ、全く。二ヶ月連続で結婚式だなんて」
賑やかに控室をぞろぞろ後にする人達の一番後ろで、上原さんが意味ありげに私を振り返った。同病相憐れむといった苦みにも似た視線に、私は居たたまれなくなって目を逸らした。あのとき出会わなければ、こんな結果を招くことはなかったのだろうか。
「灯里ちゃん?」
歩こうとしない私に千賀さんが声をかけた。不審がっているのが伝わってくる。
「上原と、何かあったの?」
「上原さん? どうしてですか?」
とぼけると彼はそれ以上追及せず、先に立って一人歩き出した。これが私達の距離。姿は見えるのに重なることはない。遠すぎず近すぎず、そしてこれ以上縮まることも決してない。悪戯に腰まで伸びた長い髪を持て余しつつ、私はいつまでも追いつけない人の背を眺めた。
「あの二人、恋人同士だった」
上原さんに突然そう告げられたのは、結婚式の二日前だった。最終確認の為に一人式場に赴いていた私は、勤務時間中にも関わらず場違いな所に現れた彼に驚いた。
「あの二人?」
私の元を訪れるならもちろん彩華と千賀さんのことだろう。立ち話で済む話ではなさそうなので、私は誘われるまま式場であるホテルに併設されたカフェに行った。
「これを」
席に案内されるなり上原さんがスマホを差し出した。とりあえず飲物を二人分注文してから私はそれを受け取った。いつ頃の写真だろう。そこには現在よりも少し幼い彩華と千賀さんがいた。
「彩華が入社して間もない頃のものだそうだ」
ではまだ二十歳。友達なんだから一緒に写真を撮るくらいーー笑って答えようとしたけれど、口の中がからからに乾いて上手く誤魔化すことができなかった。だってただの友達と呼ぶには、二人はあまりにも幸せそうに寄り添っていたからだ。
「社内で知っている人間は殆どいないらしい」
この写真は上原さんが会社で使用している、個人のパソコンに送られてきたのだそうだ。相手が所在を明らかにしていたので、彼が目的を説明するよう直接要求すると、彩華の同期だという女性は抵抗なく明かした。
「彩華は当時千賀さんとつきあっていました。その写真からも分かる通り、二人はこちらが羨むくらいとても仲睦まじかったのです」
けれど彩華は千賀さんの元の彼女であった先輩社員に、嫉妬というには度が過ぎる嫌がらせを受けるようになった。彩華の周囲に慕われる性格をも憎んだのか、千賀さんや事情を知る一握りの友人が庇えば庇うほど、それはエスカレートしていった。
仕事の足を引っ張るだけではなく、誰にも知られぬよう陰で行われた所業はあまりにも酷く、また千賀さんの立場を慮って彩華が白日のもとに晒すのを拒んだ為、彼は大切な人の身を守るべく別れを決断したのだという。
実際その頃彩華は足首を痛めたり、腕に度々青痣を作っていたが、本人からは出退勤の途中で躓いたり、自宅で転んだと聞いていた。程度の差はあれどそういったことが頻繁に起きていたらしい。
別れたことで嫌がらせは止んだが、元の彼女が会社に在籍している以上、二人の仲が元に戻ることはなかった。けれどお互いを想いあっていることは明白で、友達としてのもどかしい状態を続けた後、どんな経緯からかやがて彩華は上原さんとつきあって結婚した。
「彩華が幸せならいいんです。でも女性との噂すらなかった千賀さんまで結婚すると聞いて……。二人が無理に離れようとしているんじゃないかと心配になって。波風を立てるつもりはありませんでした。でも彩華が痛々しくて。すみません、上原さん」
本気で彩華を心配している同期の女性と、隠されていた妻と友達の関係に、上原さんは愕然とするしかなかった。
ウエディングドレスを脱ぎ、普段は絶対しないであろう鮮やかなメイクを落とした私の顔を、留袖に身を包んだ母が心配そうに覗き込んでいた。
「もう幸せボケなの」
心ここにあらずの私に、友達も笑いながら肩を突いてくる。我に返った私はぼんやりと周囲を見回した。ここは何度も足を運んだ結婚式場の控室だ。
「終わったんだっけ」
ぽけっと呟いた途端爆笑が巻き起こる。そう、私と千賀さんの結婚式は既に終了していた。これから二次会に流れる人、仕事の都合で帰途に着く人に別れて移動する。
「気持ちは分かるわ。全体的にあったかい披露宴だったもの」
「特に千賀さん。冷やかされても動じないのに、灯里を見るときだけは表情が柔らかくなるんだもの。参っちゃう」
友達は口々に囃し立てるけれど、私は苦笑を返すことしかできない。正直千賀さんのそんな姿は想像できないし、そもそも私は誓いの言葉も上の空だった。忙しい中出席してくれた友達には悪いが、一生に一度の結婚式なのに何の感動もなかったのだ。私にとっての今日は記念日ではなく、単なる十月の大安吉日に過ぎない。
「そろそろ行かない?」
ひょこっと彩華が顔を出した。ラベンダー色のシンプルなワンピースが、彼女の華やかさをより引き立たせている。ハーフアップにアレンジされた髪型もよく似合っていた。隣には先月伴侶となった上原さんと、今日の主役の一人である千賀さん。皮肉にもここには二年前の食事会のメンバーが揃っていた。
「出た。もう一組の幸せボケコンビ」
「あんた達のお陰で金欠よ、全く。二ヶ月連続で結婚式だなんて」
賑やかに控室をぞろぞろ後にする人達の一番後ろで、上原さんが意味ありげに私を振り返った。同病相憐れむといった苦みにも似た視線に、私は居たたまれなくなって目を逸らした。あのとき出会わなければ、こんな結果を招くことはなかったのだろうか。
「灯里ちゃん?」
歩こうとしない私に千賀さんが声をかけた。不審がっているのが伝わってくる。
「上原と、何かあったの?」
「上原さん? どうしてですか?」
とぼけると彼はそれ以上追及せず、先に立って一人歩き出した。これが私達の距離。姿は見えるのに重なることはない。遠すぎず近すぎず、そしてこれ以上縮まることも決してない。悪戯に腰まで伸びた長い髪を持て余しつつ、私はいつまでも追いつけない人の背を眺めた。
「あの二人、恋人同士だった」
上原さんに突然そう告げられたのは、結婚式の二日前だった。最終確認の為に一人式場に赴いていた私は、勤務時間中にも関わらず場違いな所に現れた彼に驚いた。
「あの二人?」
私の元を訪れるならもちろん彩華と千賀さんのことだろう。立ち話で済む話ではなさそうなので、私は誘われるまま式場であるホテルに併設されたカフェに行った。
「これを」
席に案内されるなり上原さんがスマホを差し出した。とりあえず飲物を二人分注文してから私はそれを受け取った。いつ頃の写真だろう。そこには現在よりも少し幼い彩華と千賀さんがいた。
「彩華が入社して間もない頃のものだそうだ」
ではまだ二十歳。友達なんだから一緒に写真を撮るくらいーー笑って答えようとしたけれど、口の中がからからに乾いて上手く誤魔化すことができなかった。だってただの友達と呼ぶには、二人はあまりにも幸せそうに寄り添っていたからだ。
「社内で知っている人間は殆どいないらしい」
この写真は上原さんが会社で使用している、個人のパソコンに送られてきたのだそうだ。相手が所在を明らかにしていたので、彼が目的を説明するよう直接要求すると、彩華の同期だという女性は抵抗なく明かした。
「彩華は当時千賀さんとつきあっていました。その写真からも分かる通り、二人はこちらが羨むくらいとても仲睦まじかったのです」
けれど彩華は千賀さんの元の彼女であった先輩社員に、嫉妬というには度が過ぎる嫌がらせを受けるようになった。彩華の周囲に慕われる性格をも憎んだのか、千賀さんや事情を知る一握りの友人が庇えば庇うほど、それはエスカレートしていった。
仕事の足を引っ張るだけではなく、誰にも知られぬよう陰で行われた所業はあまりにも酷く、また千賀さんの立場を慮って彩華が白日のもとに晒すのを拒んだ為、彼は大切な人の身を守るべく別れを決断したのだという。
実際その頃彩華は足首を痛めたり、腕に度々青痣を作っていたが、本人からは出退勤の途中で躓いたり、自宅で転んだと聞いていた。程度の差はあれどそういったことが頻繁に起きていたらしい。
別れたことで嫌がらせは止んだが、元の彼女が会社に在籍している以上、二人の仲が元に戻ることはなかった。けれどお互いを想いあっていることは明白で、友達としてのもどかしい状態を続けた後、どんな経緯からかやがて彩華は上原さんとつきあって結婚した。
「彩華が幸せならいいんです。でも女性との噂すらなかった千賀さんまで結婚すると聞いて……。二人が無理に離れようとしているんじゃないかと心配になって。波風を立てるつもりはありませんでした。でも彩華が痛々しくて。すみません、上原さん」
本気で彩華を心配している同期の女性と、隠されていた妻と友達の関係に、上原さんは愕然とするしかなかった。
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