文月帳〜短編&番外編〜

文月 青

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読み切り編

嫌いになりたい

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隣に住む東蓮ひがしれんとは同じ年の同じ月に生まれた。けれどよくある幼馴染のような、特に親しい間柄ではない。親同士が他のご近所の住民と変わらない、通り一遍のつきあいしかしていなかったのと、蓮自身が子供の頃から私を見下していたからだ。

成績も運動神経も面構えもそこそこいい人目を引く蓮と、何をやらせても普通を絵に描いたような平凡女の私では、そもそも同じ土俵に立つこと自体無理があったのだ。元々お互いの家を行き来することはなかったが、小学校の中学年に差しかかる頃には、ろくに口をきくこともなくなっていた。

「女ばっかり押しつけてきてりんはうざい」

既に女子からの人気が高かった蓮との仲立ちを頼まれ、せっせとバースデイプレゼントやバレンタインチョコを運んでいた私を、彼は心底煙たがっていたのだろう。そのあたりから話しかけられなくなった。

だから家が隣だと知った人には大抵驚かれる。幼稚園入園から高校卒業まで、十年以上も同じ学び舎に通っていながら、接触している姿を目撃したことがないと。事件の被害者と犯人じゃないんだからね?

「お互いの部屋に顔パスで入れるとか、実は長年の秘めたる想いがあるとか」

同級生は嫉妬半分でそんな妄想を掻き立てているけれど、断言します。私と蓮の間に恋愛感情は全く無い。ついでに友達以上恋人未満の焦れったさや、とにかくそういう甘やかなものは一切存在しない。ご安心めされ、皆の者。

こんな話題が上るのには理由がある。蓮は頑なに彼女を作ろうとしない。本来口数が少ないせいも手伝って、男子の中にいても聞き役の方が多いが、これが女子相手だと更に顕著で、必要に迫られない限りまず喋らない。なのでこの際私相手でもいいから、女子に興味があると証明して欲しかったらしい。失礼極まりない。

そういえば一度だけ。高校に入学したばかりの頃だったろうか。友達を家に連れてきた蓮と、たまたま帰宅した私が鉢合わせたことがあった。何を血迷ったかその友達は私を気に入ってしまい、しばらくつきまとわれる羽目になったのだが、それ以来蓮は家に友達を招かなくなった。

「俺の友達に手を出すな」

そのときに吐き捨てられたのが、久し振りであり最後にもなったこの台詞。蓮はやはり男子に興味があるのではと本気で疑った。

大学はさすがに別々になり、顔を合わせる機会は格段に減った。その後就職と同時に蓮が一人暮らしを始めたので、会うどころか縁は切れたものと思っていた。

ーーそれがどうしてこんな次第になっているのだ?

隣でシーツに包まって眠る、紛れもない隣家の息子に、すっぽんぽんの私は狐につままれたような気分で首を傾げていた。




事の起こりは数時間前。会社の送別会を終えて帰る途中だった。異動の季節である三月の、忙しないながらも物悲しい夜の道を歩いているとき、私を追いかけてきたらしい、さほど親しくない先輩社員からさらっと告げられた。

みなみさん、俺とつきあわない?」

総務部の私と商品開発部の彼では、所属も違うし仕事上の関わりも殆どない。今日はたまたま会場が隣り合わせただけで、正直この人の名前すら知らない。

「それとも噂通り彼氏がいるの?」

「噂?」

勝手に並んで駅に向かいながら、彼は身に覚えのない話を吹き込んできた。

「南さんの同期だったかな。営業の藤井ふじいって奴。あいつが流してる」

私は舌打ちしそうになった。同期の男性社員の中では親しい部類に入るが、私を姉のように慕うあまり、近寄る男を悉く蹴散らすのが藤井だった。おかげで就職して二年。私には彼氏どころか、果敢にアタックしてくる男さえいなくなった。

「彼氏なんていません」

「案外その藤井とか?」

「絶対ないから、絶対」

忌々しげに訴える私に、彼は面白そうに口元を緩めた。

「じゃあ問題ないね」

「大ありです。あなたは一体どなたですか」

不躾に言い放つ。彼のせいではないけれど、せっかくのほろ酔い気分が台無しだ。

「自己紹介がまだだったね」

もっとも彼は機嫌を損ねるどころか、くすくす笑って名乗ろうとする。変な人だなと眉を顰めていたら、唐突に背後から後頭部を叩かれた。

驚いて勢いよく振り返った私の前に、スーツ姿の背の高い男が立っていた。型は変わっていたが、手を加えていない自然なさらさらの髪と、何を考えているか分からない仏頂面が昔のまま。

「蓮?」

洩らした声には反応せず、彼は闖入者にもゆったり構えている先輩社員に視線を合わせた。

「こいつは俺の下僕なんで」

「それはそれは」

三秒ほど睨み合ったところでやおら私の手を握ると、余裕の笑みを絶やさない先輩社員を置いて歩き出した。

「ちょっと蓮。誰が下僕だって?」

半ば引きずられながら、久しぶりに現れた幼馴染に喚くと、

「黙れ」

蓮はそう一括して、どんどん人気のない裏道を辿る。仕方なく無言で着いていった私は、とある建物の前で足を止めた蓮に顔を引きつらせた。

そこは私と蓮には無縁な筈の、所謂ラブホテルだった。




何がそんなに楽しいのか、私が出勤するなり藤井はにやにやしながら纏わり付いてきた。懐くなと邪険にしたところで少しも堪えたふうもなく、今日はどこに外回りにいくの、今月の業績がどうのと喋りまくっている。こんな空気の読めない男の配属先が営業でいいのか。

「嘘の情報を流してるんだって?」

受付の前を通り過ぎたところで、私はそれらを遮ってぎろりと睨みつけた。藤井はぴたっと口を閉じる。

「どんな恨みがあって、私の恋路を邪魔する」

「えー、だってさ」

彼氏ができたら一緒に遊べなくなるじゃん。ぶちぶち愚痴る藤井だが、彼は私に恋愛感情を抱いているわけでも、そんなにしょっちゅう連んでいるわけでもない。あくまで同期として接しているだけだ。なのにその無駄な行動は何なのだ。

「昨日とは服が違うね」

藤井と二人でエレベーターを待っていると、昨日の先輩社員がすっと隣に立った。爽やかスマイルでおはようと挨拶する。ここにも無駄に愛想を振りまく男がいたか。

「てっきりお持ち帰りされたのかと。嬉しい誤算だったかな」

秘かに冷や汗を掻きつつも、私はあくまで平静を装う。反対側では藤井が気まずそうにこちらを窺っている。嘘なんかつくからだ馬鹿たれ。

「どうでしょう。一旦家に帰って着替えてきたのかもしれませんよ?」

「そういう意地悪しないの。これでも堪えてるんだよ?」

こつんと軽く私の頭を小突いて、先輩社員は苦笑する。

「酷いなぁ、南さん。俺は返事をもらう前に、トンビに油揚げを攫われたのに」

その台詞で今の今まで忘れていた事実を思い出した。そうだ。本気かどうかはともかく、この人は私につきあわないかと問うていたではないか。正直悪いのは蓮だけれど、ええもう絶対蓮だけれど、置き去りにした挙句、その存在をすっぱり忘れていた私もかなり鬼だ。

「すみませんでした」

とにかく謝らなければと慌てて頭を下げた。

「別に怒ってないよ。君も驚いていたようだから、不意打ちだったんでしょ? 彼のことも聞きたいし、今度仕切り直しさせて」

「仕切り直し?」

「とりあえず食事でもどう?」

この人は女性を誘うことに慣れているのだろう。全く躊躇しない姿に私はげんなりした。

「お断りします」

「何故?」

「自分がモテると分かっている人間は苦手なんです」

申し訳ないことをしたと反省する気持ちはある。お詫びに食事をご馳走するのもやぶさかではない。でも何故あなたが仕切る? 彼のことも聞きたい? 関係ないだろう。

自分に自信があるのはいいことだ。羨ましい。けれどできる人間は頭の回転が早すぎて、私のような凡人を平気で振り回す。

ーー昨夜の蓮のように。

「失礼します」

私はもう一度頭を垂れて、ちょうど降りてきたエレベーターには乗らずに一人階段で移動した。




誰でも一度は聞いたことがあろう飲料メーカーが私の勤務先だ。といっても私は支社に配属されている上に、仕事が総務なので直接開発にも販売にも携わっていない。けれど社員を支える縁の下の力持ちというポジションは、私の性にはとても合っていて不満はない。

手塚てづかさんと昨日何かあったの?」

今月は退職者が多く、猫の手も借りたいほど忙しいというのに、外回りから戻った藤井が総務に顔を出した。

「何も」

提出してもらった書類に不備がないか、逐一チェックしながら生返事をする。私が間違えば再び社員の手を煩わせることになってしまうのだ。会社の損失にはならなくても慎重になるのは当然だ。馬鹿の相手をしている暇はない。

「でも」

「ごめん。それ以前に手塚って誰?」

「さっき服がどうとか言っていた人」

不服そうに藤井が零す。

「あのモテ男先輩が何?」

手塚さんとやらに限らず、独身男性社員と接触する度に拗ねるのはやめてくれ。最近では同期の集まりでも牽制しまくりで、私は若干二十四歳にして、嫁き遅れのお局に決定されている。迷惑も甚だしい。これで藤井に彼女ができたら、本気で蹴りを入れてやる。

「あの人は今までの男達と違う気がする。南が食われそうで嫌だ」

それは見当違いだ、藤井。私は昨夜一番予想外の男に食われたから……とはさすがに口が裂けても言えない。

「考え過ぎ。女に不自由してなさそうだから、毛色が違う私にちょっかい出したくなったんでしょ」

「ちょっかいって、やっぱり?」

泣きそうな表情の藤井に、私はあからさまにため息をついた。既に十二時を回っているので、仕事をしろと追い払うわけにもいかない。

「つきあわない? だって」

切りのいいところで一旦手を止め、私は昼食を取るべく書類を片付けた。

「断ったんだよね?」

「もちろ……」

恐る恐る確認する藤井に、当然のように頷こうとしたところで、私ははたと言葉を切った。

「……ってない」

呆然と呟く。そうだ。話の途中でトンズラした非礼は詫びたが、返事そのものはしていない。今朝の一件でもう関わることはないと、勝手に決め込んでいた私は、藤井と二人でムンクの叫び状態になっていた。




藤井の予想通り、手塚さんは私を捕獲すべく会社のエントランスで待っていた。しかも私は残業したので終業時刻など測れなかっただろうに、仕事の疲れも見せずに営業スマイルを浮かべている。ようやるわ。怒る気も失せた。

「南、帰るんだよね?」

適度な距離を保って足を止めた私の腕を、相変わらず纏わりついている藤井が、行かすまじと言わんばかりに掴んでいる。確かに本来なら絶対相手にしたくないタイプではあるけれど。

「たまには流されるのもいいのかな」

少なくとも手塚さんは私の嫌がることはしてこないし、二歳しか年が違わないのにこちらの無礼を許す余裕もある。何より昨夜の蓮との記憶を消してしまいたい。

「食事が駄目なら、飲みに行くのはどう?」

動かない私に手塚さんがゆっくり爪先を向ける。そうだ。これはチャンスだ。この先も藤井の妨害を掻い潜って、私に告白してくる奇特な男が現れる保証はない。いろんな意味で相性が悪かったら、そのときに考えても遅くはない。

「私は強いですよ?」

藤井の手を振り切って自ら手塚さんに近づく。

「残念。酔っぱらって……という展開には持ち込めそうにないな」

そこでどちらともなく吹き出した。意外と面白い人なのかもしれない。私は引き止める藤井を無視して、手塚さんと並んで歩き出した。

「もしもし、拙いぞ! 早く……え?」

焦った声に背後を振り返れば、誰に連絡を取っているのか藤井がスマホを耳に当てて喚いている。つくづく煩い男だ。

「手塚さん、受付の木村さんが呼んでいますよ。課長から伝言を預かっているそうです」

ところが会社を出てすぐ当の藤井が追いかけてきた。何を慌てているのか、いつも撫でつけている髪が珍しくはらりと落ちて幼く見える。おかしいな。今の彼に似ている人に、以前会ったことがあるような気がする。

「課長から?」

怪訝な表情で手塚さんはスーツのポケットからスマホを出した。

「何も連絡はないが。何故受付に?」

不思議そうに呟いてからにこっと私に微笑む。

「ごめんね、南さん。確認したらすぐ戻るから」

そうして颯爽と社屋に駆けてゆく。凄いな、この人。藤井なんかよりよほど営業に向きそうだ。

「帰るぞ、凛」

一人で半ば感心していると、押し殺したような低い唸りを聞いた。いつからここにいたものやら、ひんやりとした手に首根っこを引っ掴まれる。驚きと冷たさで身を捩れば、超絶不機嫌な猫の飼い主、もとい連がこちらを見下ろしていた。

「お前は俺の下僕だと言った筈だ」

承知した覚えはございません。

「他の男の元に行くなど許さない」

蓮にそんなことを宣う権利もございません。そもそも私は誰のものでもございません。あしからず。

「来い」

無言を貫く私に業を煮やしたのか、蓮は掴む場所を首から右手に変え、まるで私を会社から遠ざけるように引きずってゆく。昨夜の再現のようで、私は足をもつれさせながら喚いた。

「ち、ちょっと蓮、どこ行くのよ? 私はこれから約束が」

「そんなもの認めない」

その一言でばっさり切られ、星の瞬きなぞ全くない夜空の下、私は会社の最寄り駅へと連れ去られ、自宅とは反対方向の電車に揺られていたのだった。車内に並んで座ってからも、蓮は私の手を離さなかった。犯人逮捕のつもりなのか、逃すまじといった気迫が滲んでいる。そのくせ目は窓の外の景色を追い、さっきの問いに答える素振りもない。

一度ならず二度までも。手塚さんごめんなさいと心中で謝っていると、やがて到着したのは私の勤務先から程近い場所にある、単身者向けと思しきワンルームのアパート。その二階の一室に私を放り込むと、蓮はしっかり施錠してからふーっと息を吐いた。

「あの男と何をするつもりだった」

まるで尋問だ。ネクタイを緩めながら、蓮は着替えもせずにフローリングの床に腰を下ろす。私も彼に倣って隣で膝を抱えた。散らかっているわけではないが、きっちり整頓されていないことで、どこかほっとする雰囲気の室内を眺めていたら、蓮はいきなり私の頭を叩いた。

「質問に答えろ」

「だって、初めてだから」

実家の自室にはお互い踏み入ったことがないので、隣人であり幼馴染でもあるとはいえ、私が蓮の部屋に入ったのは、正真正銘今が一回目。そういえば気安く頭を叩かれたのも初めてだ。

「男の部屋なんて初めてじゃないだろ」

「それはそうだけど」

うっかり肯定した途端、気温が一気に十度くらい下がったような、さっきの蓮の手よりひやりとしたものを感じた。きっと春先だからだ。うん。きっとそうに違いない。

「私に用でもあるの?」

気を取り直して訊ねる。蓮の台詞の矛盾を追及したいのは山々だが、飲む気分は既に消滅していても、おそらく私を探しているであろう手塚さんに、せめて一言お詫びをしたい。その為にも正直早く解放して欲しい。第一とっくの昔に縁は切れた筈なのに、何故昨日からこうも接触してくるのか謎。

「好きなのか?」

渋面を作った蓮がぼそっと呟いた。意味が分からずに首を傾げると、チッと大きく舌打ちする。

「凜はあの男が好きなのか?」




私がうんともすんとも言わないので、蓮はコーヒーでも飲むかとぼやいた。正直喉は乾いていたが、そんなもんご馳走になっていたら、更に帰宅時間が遅れてしまう。それ以前に終電を逃したら、二日続けて外泊になる。この近辺に友人は住んでいないし、ビジネスホテルに泊まったとしても、着替えがないので懲りずに朝帰り。さすがに親も黙ってはいないだろう。

「手塚さんは会社の先輩」

話が簡潔に済むよう余計な情報は端折って、私は訊かれたことにのみ答えた。

「個人的なつきあいがあるのか?」

「あったら何だって言うの」

腕時計で時刻を確認しつつ、目的の計れない質問を繰り返す蓮に、内心で盛大にため息をつく。私を嫌っていた筈の人間が、いきなりプライベートに首を突っ込んでくるのは何故だ。

昨夜だってそうだ。強引にホテルに連れ込んだと思ったら、一言の断りもなく当然のように抱いた。優しくされるでもがっつかれるでもなく、妙に淡々と私に触れている蓮に、火照る体とは裏腹に心は冷えた。

好きだの愛してるだのほざかれても、嘘くさすぎて却って白けただろうし、ただの欲求不満の捌け口にされるのも真っ平だ。でも蓮の双眸は冷静に私の反応を観察していて、初心ではなくてもそんな扱いは傷つく。

「じゃ」

朝目覚めてからもまともな会話はなく、気まずさとほんの僅かな気恥ずかしさの中、無言で身支度を整えた後、ホテルの前で別れてそれきり。こうして二十四時間以内にまみえても、まるで何事もなかったように振る舞われる。

「他に用がないなら、遅いから帰る」

遅いからの部分を強調して、私はゆっくり立ち上がった。しかしすかさず蓮が私の前に回り込んだ。 

「遅いのに帰るな」

鋭く睨めつけて、またしても意味不明な発言をする蓮。

「退いて」

「あの男の所に行くのか」

「蓮には関係ないでしょ」

「お前は俺の下僕だ」

吐き捨てるなりぐっと私を引き寄せる。

「俺の言うことだけ聞いていろ」

ぎりぎりと締めつける腕の強さに、私は下僕じゃないと抵抗することもできなかった。

「ちょ、何を」

昨夜に引き続き、有無を言わさずベッドに押し倒された私は、混乱を極めながらも待ったをかけた。この行動に出る蓮の心理が本当に理解できなかった。

「煩い」

けれど蓮は一喝するなり、私の唇を塞ぎにかかる。苦しくて胸元を両手で叩くも、簡単に手首を押さえ込まれ、悪戯に深くなるキスに翻弄されるばかり。愛も欲もない、子孫繁栄の為だけの行為を、恋人でも夫婦でもない相手としている私達は、何て滑稽なのだろう。

ーーせめてそのときだけでも慈しんでくれたら救われるのに。

ふと脳裏を過ぎった考えに愕然とする。私は蓮に慈しんで欲しいの? 大切にされたいの?
そんな筈はない。だって蓮は子供のときから私を見下していて、口もろくにきかなくて、何より誰よりも大嫌い……。

「あの男のことを考えているのか? 」

抵抗しなくなった私に、蓮は自嘲気味に笑んだ。返事をできずにいると、

「くそっ!」

蓮は貪るようにキスを再開する。結局自分自身に困惑したまま、私は今夜も蓮に抱かれた。 日付が変わった頃、何も考えられなくて、虚ろな目で天井をみつめていたら、背中が徐々に温もってくるのを感じた。

「蓮?」

驚いたことに、蓮が背後から私にそっと抱き着いていた。昨日は終わるなり、用はなしとばかりに背を向けたのに。

「私は蓮の玩具じゃないんだよ」

慈しんで欲しいと思いながら、いざ労わるように触れられると、心が伴わない優しさに心臓が絞られる。

「どうして凛はいつも……!」

それは私の台詞だ。嫌いなら放っておいてくれたらよかったのに。そうしたら余計なことに気づかなくて済んだ。蓮との行為そのものではなく、そこに彼の想いがないことが辛かったことに。

「嫌いになりたい」

唇から零れた言葉が蓮の声と重なった。振り返る私と、覆い被さってきた蓮の視線が絡まる。

「蓮は元々私が嫌いだよね?」

腑に落ちなくて訊ねる。蓮は憤慨したように目を瞠る。

「俺を嫌いだったのは凛だろ?」

「違うよ」

「ずっと俺を避けていたじゃないか」

「蓮こそ、話しかけられるのも迷惑そうだったよ?  最後に言われたのは、俺の友達に手を出すな、だからね?」

「それは他の奴に靡かれたくなくて……あっ!」

しまったと言わんばかりの表情で、蓮は顔を逸らした。信じられないことに目の淵が赤い。

「凛は俺から逃げる」

やがてぼそぼそと呟く。

「俺は凛と遊びたかったのに、お前は他の女を当てがおうとしてただろ」

他の女も何もそれは小学生時点の話だ。しかも単なるプレゼントの運び屋。女の子を斡旋したわけじゃない。

「もっと喋ったり、勉強したり、凛の部屋にも行きたかった」

くどいが避けていたのは蓮だ。勉強どころかうちに寄り付くこともなかったではないか。一言で済む用事も母親経由にしてまで。

「俺はずっと凛と一緒にいたかった」

苦渋に顔を歪めて唇を噛む蓮。本人にそんなつもりはないのだろうが、怒っていると勘違いさせる様相だ。

「今更どうすればいいのか分からなかった。凛がどんどん大人びて、実際綺麗になって、誰かのものになってしまうのが怖くて……」

手が届かなくなる前に強引に自分のものにした、と小さな声で零す。

「ごめん。でも凛はやっぱりあの男がいいんだろ?」

「別に、そういうわけじゃ」

「体だけ繋げても、心までは繋がらない」

それぞれ別の大学に進み、どんどん縁が薄くなってゆくのに、親同士の会話から私の異性との交友関係を知らされ、やり切れなくて就職後は一人暮らしを始めたのだという。

俯く蓮の姿に胸が痛くなった。こんな弱気な蓮を初めて見た。ううん。果たして私は本来の蓮を知ってなどいただろうか。その身は近くにありながら、誰よりも遠かった蓮のことを。

「頭いいくせに、馬鹿なんだから」

ぽんと蓮の後頭部に自分の手を乗せた。びくっと肩を揺らした蓮がおずおずと面を上げる。

「私だって、ずっと蓮に優しくして欲しかったよ」

不安に揺れる双眸が、何故二人がここまですれ違ってしまったのかを知らせる。

好きであればあるほど、近くにいればいるほど、拒絶という形で存在を否定されるのが怖くなる。だから私達は偶然にも嫌われているという状況を作り上げた。初めから嫌われているなら傷つく必要がないから。

「抱かれているときも、冷静に観察されて愛情なんて感じなかったし」

「違っ、あれは、自信がなくて」

焦ったように蓮は視線を泳がせる。

「凛に下手くそなんて言われたら、絶対立ち直れないから……。心配で反応を窺っていたんだ」

この期に及んでもプライドが幅をきかせるのが男なのだろうか。

「喧嘩もしていないのに、学校にすら一緒に行けなかった私はどうなるの。どこにいても蓮の後ろ姿ばかり見てたんだよ?」

一度も振り返られることもなく。

「ほん……とに?」

目尻から涙を零しているのは私なのに、むしろ蓮の方が泣いているようだ。黙って頷くと蓮は私の首筋に顔を埋めた。

「凛、俺のこと、好き?」

そこにはさっきまでの暴君はいなかった。真っ直ぐに私を求める男の子だけ。

「うん」

私はもう一度深く頷いて、震える蓮の背中に両腕を回した。




翌朝、元気な蓮とは別人のように、眩しいお日様の下で疲れ切っていた私に、藤井がやれやれといった体で肩を竦めた。

「ようやく俺は解放されるんだな。ったく、無駄に拗れやがって」

会社の最寄駅の前でぼやく藤井に、いつもの人懐こさは微塵もない。何この突然のキャラ変更。私に怒られていた男は誰だったのだ。

「まだ思い出さない? 凛ちゃん」

ふいに藤井が悪戯っぽく笑う。ちゃん付けするなと睨むと、

「これでも俺、高校生の頃凛ちゃんを気に入っていた男だよ」

ついでに蓮に邪魔されたけどと苦笑する。あんぐりと口を開けて二人を見比べれば、蓮はしたり顔で藤井を睨みつけた。ということは手を出すなと釘を刺された友達が藤井。

「傷つくなあ」

あの頃は蓮に連なるものは殆どシャットアウトしていたので、正直顔も名前も全く憶えていなかった。何でも入社して偶然私に再会した藤井は、蓮の為に私に虫がつないよう協力していたらしい。確かに立派にガードしていましたとも。

「傷ついたのはこっちだよ?」

そのとき背後からリズミカルな足音と楽し気な台詞が届いた。通勤時の混雑した駅前にいるのに、何故かそれだけを聞き分けてしまった三人は、気まずさとうんざりと怯えの中で足を止めた。

「おはよう、南さん」

回り込んで無駄に爽やかに微笑む手塚さん。私は居たたまれなさに頭を下げる。

「おはようございます。あの、度々すみませんでした」

二日続けて置き去りにしたことを詫びると、彼は機嫌を損ねたふうもなく歌うように答えた。

「南さんのせいじゃないよ。ね? 藤井くん」

矛先が余所に向いたのを訝しんでいると、苦り切った表情の藤井の頭が隣に降りた。

「誰にだって間違うことはあるからね。課長からの伝言とかね」

課長の一言で昨日の帰り際のことだと察しはついたが、藤井が何を間違ったのかが皆目分からない。

「凜ちゃんから手塚さんを引き離す為に、咄嗟に嘘ついたんだよ。ちょうど蓮が会社まで来てたって言うから」

頭を下げたままこっそり耳打ちされて合点がいった。そういえば藤井は私達の後ろでいきなり電話を始めたが、その相手が蓮だったのだろう。しかし相手が悪い。友達のためとはいえ、手塚さんから徐々に黒いオーラが滲み出ているのを感じる。

「おや」

ふいに誰かの指が首筋に触れた。身を硬くする間もなく指は離れ、苛立った蓮の声が被さる。

「何の真似だ」

「青いな。この程度のマーキングじゃ牽制にもならないよ。少なくとも俺はね」

首を押さえて顔を上げれば、ひらひらと手を振りながら会社へと向かう手塚さん。私と蓮に起こったことがお見通しでも、堪えたふうが微塵もない。あの余裕はどこからくるのだろう。

「こっわ。あの人、敵に回したくねーわ」

鳥肌でも立ったのか藤井は自分の両腕を勢いよく擦った。

「藤井、凜を守れよ」

「冗談だろ? 俺いつまで経っても彼女できないじゃん。というか守るのはお前の仕事だ」

わなわなと拳を震わせる蓮と、勘弁してくれと項垂れる藤井。おかしくて自然に口元が綻ぶ。まだまだ安穏とした日々は遠いけれど、例年と違った春の訪れに胸を弾ませる私だった。


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