文月帳〜短編&番外編〜

文月 青

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サブキャラ編

ケンケン&柚ぽん(これは一つの結婚同盟)

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外見のふわふわとした可愛らしさとは裏腹に、彼女はしっかりはっきりきっぱりした性格だ。仕事にも人付き合いにもそれはよく表れていて、ぐだぐだと適当に捌くことはしない。そのくせ友達思いでちょっぴり泣き虫で、普段隠されているそんな一面に触れたら、惚れるなという方が無理だろう。

「柚ぽん、終わったか?」

仕事が一段落ついたところで経理課に足を運ぶと、デスクでパソコンを睨んでいた柚ぽんこと村上柚むらかみゆずが、無言で険しい表情をこちらに向けた。

「その呼び方はやめて頂けます? 坂本さかもとさん」

私はあなたの所有物ではありませんので、と更に凄まれる。分かっていない。怖さの欠片もない、その素っ気なさがツボだというのに。俺にとっては逆効果にしかならない姿に、この場で身悶えてしまいたくなる。

「本田には連絡したのか?」

金曜日である今日の仕事帰り、柚ぽんの友人の本田千歳ほんだちとせと、その夫であり俺の後輩でもある柴崎朗しばさきろうの家を一緒に訪ねることになっている。いくら誘っても食事も飲みも断られ続けている俺としては、正真正銘デートと同じ意味を持つ。おかげで朝からそわそわしっ放し。

「あと三十分くらいかかるって電話したわよ」

不穏な気配が漂ったのか、柚ぽんは用件だけ告げて、しっしっと追い払うように片手であしらう。俺は犬か。

「だってケンケンでしょ」

内心を察してにやりと唇の端を上げるのが小面憎い。憎いのにそれを百倍も千倍も上回る愛しさ。ケンケンでもコンコンでも好き勝手呼んで構わないから、俺の女になってくれればいいのに。よもや三十にもなってこんな苦労を味わうとは。ちなみにケンケンとは名前の健太けんたからきている。

俺達のやり取りに慣れた経理課の面々は、課長を筆頭にくすくす笑っている。彼らの中での俺は、本田に振られて柚ぽんに走った節操無しになっていることだろう。事実は違うがせっかくの好意的な雰囲気。これを壊してまでいい人になろうとは思わない。

「じゃあ、また後でな」

「了解」

一見態度がきつかろうと柚ぽんは本気で俺を拒絶しない。好きだ、つきあってという台詞を冗談めかして吐いても、真面目に気持ちを打ち明けたことがない俺の真意を、ちゃんとどこかで感じ取ってくれている気がする。だから傷つけるような真似はしてこない。彼女の本心は測りようが無いが、どれだけ邪険にされたとしても、根底にある優しさに俺の胸はいつも温かくなるのだ。




仕事を終えて柚ぽんと会社を出ると、少し前を同じ営業課の越智おちさやかが歩いていた。彼女は俺に気づくと軽く会釈したが、隣の柚ぽんのことは明らかに無視していた。

「放っておきなさいよ。私は別に気にしていないから」

一言注意しようとした俺を柚ぽんがいなした。

「元はケンケンが蒔いた種でしょ」

「ごもっともです」

言い訳のしようがなくて口ごもる。そもそも俺達の関係は複雑だ。単なる片想いの追いかけっこと評してしまえばそれまでだが、以前俺が好きだったのが越智で、越智が好きだったのが柴崎、柴崎が好きだったのが本田。しかも越智は柴崎と交際していた過去があり、柴崎と本田の結婚は偽装から始まっていた。

今となっては本田に自覚がなかっただけで、柴崎とは気持ちが通じ合っていたのだが、それを知らなかった俺は越智を救いたいあまり、本田を好きな振りして近づき、二人の仲を壊そうと試みたのだ。結果望み通り柴崎と本田は離婚し、その後本田の妊娠が発覚した。

「柴崎には知らせないで」

切迫流産で入院することになった本田は、自身も不安で仕方がないだろうに、柴崎には決して連絡するなと釘を刺した。柴崎は離婚後すぐに研修の為に支社に赴任しており、ステップアップを目指す彼の足枷になりたくないという。そのとき初めて俺は本田千歳という人物を見誤っていたことを悟った。同時に自分がどれ程の間違いを犯したのかも。

「千歳も柴崎くんも自覚がなくて遠回りしただけなのよ。特に千歳は大学時代にいろいろあって、男の人ととつきあうことに躊躇していたし。だから同期は全員、もどかしい思いで二人を見守ってきたのに。あなたは何てことをしてくれたの」

病院を出た後、静かに怒りを滲ませる柚ぽんに返せる言葉などなかった。

「済まない」

「坂本さんの謝罪なんて、千歳の入院費の足しにもならないわ。第一千歳がそんなことされて喜ぶと思うの?」

「いや、でも」

「本当に男ってしょうもないわね。反省しているなら行動で示しなさい。千歳はこれから大変なのよ? 謝る暇があるなら力になりなさい!」

ただ可愛いだけだと認識していた女の口から、勢いよく飛び出す数々のお叱りに俺はたじろいだ。確かに病室でも柴崎からお金を搾り取れと喚いていたが、その憤怒の形相もさることながらこれはなかなかに凄まじい。

「それから越智さやかを絶対に千歳に近づけないで」

けれど俺はまたしても勘違いをするところだった。柚ぽんの双眸は潤んでいた。涙が零れないように必死で歯を食いしばっていた。友人の為に何もできない不甲斐なさに、他の誰でもない自分に一番腹を立てていたのだ。

凛々しさといじらしさがせめぎ合う。非常時なのに俺は柚ぽんに見惚れた。そして言い訳を並べる前に、彼女と共に本田の為にできることをしようと決めた。罪滅ぼしと言うと二人は嫌がるだろうけれど。

「私は越智さんなんて眼中にないわ。千歳に関わらないでくれたらそれでいいの」

約束を守ってくれてありがとうと、やんわり微笑む柚ぽん。胸がじーんとしてつい頭を撫でると、余韻に浸る間もなく払い落とされる。慣れるとこれも嬉しく感じるのだから困ったものだ。




五月に産まれた本田と柴崎の子供は、男の子で名前をそうという。四ヶ月になった現在は、面白いくらいころんころんと寝返りをしている。最近では纏まって眠ってくれる日もあり、本田の寝不足も少し解消されたらしい。

「赤ん坊が三時間おきに泣くなんて知らなかったからな。ここに来ると勉強になる」

蒼の小さな手を握るとひとりでに笑みが零れる。特に子供好きではないが、本田の妊娠が分かったときから、柚ぽんと一緒にお腹に話しかけていたせいか、到底他人とは思えない。

「結婚の約束もしていないのに、何の勉強ですか」

そんな俺に柴崎が苦笑した。

「黙れ、通い夫」

柴崎は現在も支社勤務なので、本田は妊娠中同様自分の実家に身を寄せている。退職して出産も無事終えたので、夫の赴任先に引っ越す話も出たが、それを強硬に反対したのは柴崎だった。

「俺は日中は留守にするし、初めての環境で慣れない育児をするのは、千歳に負担がかかるよ」

そのくせ仕事がどんなに忙しくても、妻と子供会いたさに毎週帰省するのだから、どれだけ本田にべた惚れなのか分かろうものだ。

「蒼ちゃんもいるんだし、いつまでも旧姓で呼ぶのは変じゃない?」

ちなみに以前柚ぽんにそう指摘されたので、彼女に倣って千歳と呼んだら、当の本田は抵抗を示さないのに、柴崎からは絶対呼ぶなと釘を刺された。

「俺はちゃんと村上さんと呼んでるでしょ」

そうしたらどっちも柴崎だろうが。狭量なうえに面倒くせえ。で、結局本田のままなのだ。

「坂本さんはまだ柚からOK貰えないの?」

蒼を寝かしつけていた本田の代わりに、彼女の母親が夕食を用意してくれたので、それを頂きながら俺はぼやいた。

「そうなんだよ。ったく、難攻不落もいいとこ」

すっかり馴染んだ本田の部屋で、テーブルを挟んで向かい合う。もちろん隣には柚ぽん。残り二名は夫婦なのだから並ぶのは当然だが、それでも彼女が自然に俺の横に来てくれるのが嬉しい。ぶっちゃけ俺もべた惚れだな、うん。

「あら、ケンケンには越智さんがいるでしょう。彼女は営業の花だし、誰かさんもおつきあいしていたものね」

いきなり自分にも矛先が向いたので、柴崎は危うく味噌汁を吹き出しそうになった。もうやめて下さいと泣きそうな表情で眉を下げる。俺はやれやれとため息をついた。

柚ぽんは本田に起こった一連の出来事に対して、決して根に持っているわけじゃない。むしろ終わったことだと割り切っている。

「私の曖昧な態度が、柴崎も坂本さんも越智さんをも苦しめた。だから誰も悪くない」

だが本田がしばらく自責の念に駆られていたので、あえて罪悪感を取り除く為に、たまにちくちくと俺と柴崎を突くのだ。もっとも柚ぽんにとっても越智にとっても、俺はある意味裏切り者でしかない。だから好きになってもらえる日など、永遠に来ないのかもしれない。

「柚のどこに惹かれたのか聞いてもいい?」

母親の顔をした本田に問われ、俺は一旦箸を置いた。

「可愛くてスタイルがよくて意思が強くて行動力があって適度に毒もあって」

改まると些か照れ臭いので、わざと早口で捲し立てる。柚ぽんと柴崎が半眼で呆れていたが、嘘は言っていないし美点を上げればきりが無い。でも一番俺の心を占めたのはーー。

「なりふり構わず、本田を守ろうとしていたところだ」

隣で息を呑むのが分かった。自嘲気味に目を伏せる。

「きっと周りを敵に回しても、柚ぽんだけは本田の味方でいると思えた。それが羨ましくて、自分にも向けて欲しくて。そして柚ぽんが疲れたとき、罵倒されてもいいから真っ先に思い出す存在になりたかった」

うっかり本気で続けてから、

「なーんてな」

沈黙に耐えかねて茶化してみる。らしくないと舌打ちしたくなったとき、本田が心底嬉しそうな笑みを口元に湛えた。

「ありがとう、坂本さん」

俺はゆるゆると首を振った。お礼を言うのはこちらの方だ。散々酷いことをしたのに許してくれて、何より柚ぽんに出会わせてくれて……ありがとう。




本田家を辞したのは二十一時を過ぎた頃だった。赤ん坊のいる家庭にこんな時間まで居座るのは迷惑だろうが、むしろ本田の息抜きになると、彼女の両親からは歓待されている。

「仕事で忙しい最中に、千歳を支えてくれた」

柴崎と再会するまでの間、頑なに一人で子供を産むと頑張る本田に寄り添っていたことを、現在も感謝してくれているらしい。柚ぽんはともかく、俺は何もしていないけれど。

「ケンケン」

最寄り駅まで無言で歩いていた柚ぽんが、夜空を見上げながら徐に口を開いた。彼女のアパートはここから一駅と近い。俺は更に二駅先だ。

「もう越智さんのことは、本当に何とも想っていないの?」

その質問に一気に脱力する。俺の本気はまだまだ伝わっていないらしい。

「無いな。精々職場の後輩ってとこだ」

「そんなに簡単に忘れられるもの?」

浮気性だと暗に匂わされているようで、すこぶる面白くない。

「本田と柴崎を別れさせたときには、もう越智への未練はなかったよ」

言葉がぞんざいだったせいか、珍しく柚ぽんの表情が翳った。でも事実だった。あれは最早意地での行動でしかなかった。

越智を意識し始めたのはいつだったか。営業に配属された頃は整っている顔立ちとは裏腹に、実に愛想のない後輩だった。けれど仕事には手を抜かないし、女を理由に無駄に助けを求めることもない。けれどそんな姿が好ましいと感じたときには、越智の目はずっと柴崎を追いかけていた。

やがて二人はつきあうようになり、営業課全体でこの恋人同士を見守る傍ら、俺は先輩として越智の相談に乗るようになっていた。辛くないと言えば嘘になるし、越智が幸せならばという自己犠牲の精神も持ち合わせていない。俺にとっては柴崎も大事な後輩だから、単純にいざこざを起こしたくなかったのだ。

徐々に諦めがついたところをみると、越智への気持ちはほんのりとしたものだったのだろう。柴崎の前で女の表情をする彼女を目にしても、息苦しさは微塵も感じなくなった。なのにそろそろいい先輩もお役御免といくかと、身も心も清々しくなったのを笑うように、越智からの暗い相談は増えていった。

「朗さんはあの人が好きなんじゃないかと」

あの人とは言わずと知れた本田千歳。柴崎の同期で常につるんでいるがさつな女。入社してから彼氏がいた試しがなく、柴崎との会話を耳にしても男女の仲とは程遠い。社内で評判の美人の友人に持ちながら、本人は不細工ではないものの明らかに十人並みで、仕事でも優秀だという話はついぞ聞かない。

「越智の敵ではないだろう」

たかを括っていた矢先、越智と柴崎が別れたとの報告がもたらされた。しかも柴崎はあの本田と結婚するという。今更の破局話に俺の気持ちを返せと喚きたいくらいだった。

「諦めきれません」

二人が結婚してからも、越智は秘かに柴崎を想い続けた。反面本田への憎しみが募ったのだろう。直接手を下すことはなかったが、柴崎の配偶者に対する嫌味や暴言が悪化していた。

またそれを慰め、越智とは違った形で本田を攻撃し続ける俺も、こんなことなら惚気を聞かされた方がましだったと、やはりどこかで鬱屈していった。

「柴崎と本田の新居を知らない?」

一年間の支社勤務を終え、本社の営業課に戻ったある日、同僚の一人にさり気なく柴崎夫妻について探りを入れると、とんでもない答えが返ってきた。

「ああ。特に話題にも上らないし」

越智は外見上は変化がなかったが、精神的にはかなり窶れていて、見ている方が目を逸らしたくなる状態だった。

「あいつら元々同期で仲よかっただろ。今でもあのまんまだぞ。色気も甘い雰囲気も一切ない」

実際久し振りに再会した本田は、初々しい新妻を想像させるものは全く備えていなかった。あまりの無防備さに呆れていると、何故か柴崎が威嚇してくるのを感じた。初めは俺が経理課まで足を運んで本田を構うので、嫉妬しているのだろうと踏んでいた。

ーーだがそれは明らかな怖れ。

そのことに気づいてから、俺は柴崎と本田の周囲をうろつきまくった。弁解するわけではないが、本気で二人の離婚を画策したのではない。ただこのままでは越智が気の毒で、どんな形にせよ決着をつけさせてやりたかった。

結果偽装結婚を暴くことに成功したが、越智はより一層柴崎に執着するようになった。皮肉にもそれが愛情からなる結婚だと知ったのは、柴崎と本田が離婚した後だった。

「最低だ、私」

四角関係の顛末が明るみになった際、本田は柴崎にそう洩らしたという。誰も傷つけたくなくて取った筈の言動が、関わった全員を不幸にしてしまったと。

だが最低なのは俺だ。守ったのは自分の意地のみ。越智も本田の友人というだけで、現在も柚ぽんに辛く当たっているが、彼女をそこまで追い込んだのも結局俺だ。

「なあ、柚ぽん。好きにならなくてもいいから、傍にいることだけは許してくれな」

己の身勝手さに吐き気がする。けれど柚ぽんを失いたくなかった。彼女なら俺が過ちを犯しても、突き放すのではなく、正面から糺してくれる筈だから。

「馬鹿ね、ケンケン」

したり顔でため息をつく柚ぽんに目を瞬く。

「嫌いなら面と向かって断言するし、とっくに足蹴にしてるわよ」

私を誰だと心得てるのと、ぱあっと笑みを花開かせる。そんなことない、気にしないでといった、一時的に優しさを醸す言葉でその場を凌がない。やはり惚れずにいるのは無理だとしみじみ思った。




オフィス街から離れているせいか、最寄駅のホームは人も疎らだった。並んで電車を待っていると、柚ぽんが前後の脈絡なく語り出した。

「自分で言うのも何だけど、私の性格は外見を裏切っているでしょう?」

返事が欲しいわけではないのか、彼女は無言の俺に構わず話を進める。星の出ていない暗い夜空は、周囲の闇と一体化して妙な圧迫感を生む。

「男女問わず親しくなればなる程、比例するようにがっかりされるから、可愛いと言ってくる人との距離が縮まるのが怖い時期があったの」

「柚ぽんが?」

「意外? でもあえて地味に努めたりもしていたのよ」

ふふっと悪戯っぽく笑う柚ぽんからは想像できない。第一俺はそのギャップも含めて惹かれている。

「友達になれたと喜んだら、疎遠になるのを繰り返すんだから、いい加減疲れちゃってたんでしょうね。もう一人でいいと無理に思い込もうとしていた矢先、ただの同期のがさつ女子に言われたの」

がさつ女子の一言で、それが誰を指しているのかすぐに分かった。

「私はあんたのはっきりしているところ、かなり買ってるんだけど。そのときはどうあれ、後々まで誰かに深傷を負わせることは絶対ないじゃん。そっちの方がずっと優しいよ」

可愛らしさとは無縁で、昼休みには一人で屋上で煙草を吸っているような女。

「だから複雑なわけよ。あんたの良さを皆に理解して欲しいけど、でも私だけが知っていたいような。これはあれだな、恋だ」

真面目に悩んでいる女の戯言に、馬鹿なことをと眉を顰めたつもりが、何故か頬に一筋の雫が流れていた。

「彼女だけは何があっても、逆に私の外見がどうあろうとも、柚は柚だと一貫して態度を変えなかった。それが凄く嬉しかった」

柚ぽんが必死になって本田を守ろうとしていた理由が、ようやく分かったような気がした。友人だからと安易に済ませられない、本田を大切に思う気持ちが根底にあったのだ。

「それ以来、安心して外見を磨いて毒を吐けるようになったの」

本田という拠り所が柚ぽんに自信を与えたのだろう。やがてホームにゆっくり電車が滑り込んでくる。

「さっきのケンケンの言葉、あのときの千歳の声と重なって聞こえた」

唸りの中での小さな呟きは、確かに俺の耳に届いた。

「信じても、いいのかな」




同じ電車に揺られながら、灯りが灯る窓の外を眺めていた。この界隈は景色を遮る建物が少なく、日中は家々の屋根が連なって見える。そんな住宅街を抜けたら、柚ぽんが降りる駅に辿り着く。

もう少し一緒にいたい。別れ際には幾度もそう思う。けれど一緒にいる時間が長くなると、更に離れがたくなる。俺は我儘で矛盾だらけだ。

「じゃあ、また月曜日に」

電車の速度が緩んだ。土、日は仕事が休みだ。二日も会えない。

「おやすみなさい」

柚ぽんはゆっくり立ち上がり、停車したドアからホームに降りる。いつものように見送る為に振り返った瞬間、俺はとっさに飛び出していた。

「ケンケン?」

驚く柚ぽんと俺の背後でドアは閉まり、電車は何事もなかったように夜を縫って走ってゆく。

「ごめん、柚ぽん。我慢できなかった」

細い肩を抱き寄せてしまいそうになって、慌てて拳をきつく握り締めた。

「あと一分だけでいい、俺にくれ」

そうしたら帰るから。

「カップラーメンを作るにも足りない時間ね」

誰もいなくなったホームで、柚ぽんがくすくす笑う。会社では見られない、眦を下げた柔らかい表情に、俺の体は制御不能に陥った。気づけば柚ぽんの唇に、ガキの如くかすめるようなキスをしていた。

「おやすみの、挨拶」

苦しい言い訳だ。俺はすっと視線を逸らした。この年になっての衝動的な行動が我ながら恥ずかしい。しかも拙いことに全身で柚ぽんを求め始めている。

「気をつけて帰れよ」

アパートが駅から近いとはいえ夜道だ。本来なら送りたいところだが、そこまで紳士でいられる自信がない。ところが柚ぽんからは何の返しもなく、さすがに怒らせたかと不安に駆られて彼女を窺えば……。

「柚ぽん、真っ赤」

困ったように頬を上気させる女の姿。笑顔も泣き顔も憤りを顕にした顔も、澄まし顔も意地悪を口にする顔も、一通り知っていると思っていたが、最後の最後でこんな隠し球は狡いだろう。

「ち、違うわよ。これはあ、暑いからで」

誤魔化しているつもりなのか、手を団扇がわりにして必死で仰いでいるが、動揺しているのが丸わかりで、本田の柴崎評ではないが可愛い兎にしか見えない。これでは食べてくれと言っているようなものだ。到底野放しにはしておけない。

「柚ぽん、明日の予定は?」

「特に、ないけど」

「なら問題ないな」

俺は柚ぽんの手首を掴んだ。華奢なそれに理性が弾けそうになるのを無理矢理抑える。

「ちょ、ちょっとケンケン? 離して」

「誰が逃がすか。狼の群れになんか」

「意味が分からないんだけど」

電車のライトがちらちらと光った。ガタゴトとレールを軋ませる音が近づいてくる。

「俺の家に行くぞ」

「な、どうして」

「予定はないんだろう? 今夜は帰さない」

普段の勇ましは何処へやら、そこでぽーっと蒸気を上げるが如く、熱を帯びてゆく柚ぽん。何が性格が外見を裏切るだ。中身だって可愛い女の子そのもののくせに。

「待って、あの、私、その」

焦ってしどろもどろ気味になる柚ぽんに、今日は俺が意地悪をしかける。

「嫌だったら、俺は一人で電車に乗る」

そんなつもりはさらさら無いが、もちろん無理強いするつもりもない。掴んでいる手の力を緩めると、柚ぽんは双眸に僅かに不安を滲ませた。それだけで意思表示は充分だった。

「どうして……」

「柚ぽんの全てが欲しいから」

不安を払拭してやると、柚ぽんは林檎状態で絶句した。

満たされた想いで電車の到着を待っていると、ポケットの中のスマホがメールの着信音を奏でた。確認して苦虫を噛み潰したような気分になる。

「避妊は忘れずに」

偉そうにお前が言うな、柴崎。




コーヒーの準備をして寝室に戻ると、柚ぽんはまだベッドの中で微睡んでいた。大分手加減した筈が、華奢な彼女には堪えたようだ。一年分の想いを放出したのだから、そこは勘弁してもらおう。

「ん……ケンケン?」

カーテンを開けて目覚めを促す。瞼を擦る仕草が幼くて、つい頭を撫でてしまう。さすがに今日は払い落されない。

「おはよう、柚」

そう言って朝の挨拶を口にすれば、昨夜のことが蘇ったのか、柚ぽんは一気に掛け布団を引き寄せ、顔の下半分を隠してしまう。それでも火照っているのはバレバレだ。

「おはよう……」

この気恥ずかしそうな初々しさが堪らない。

「あー、本田の気持ちが分かるわ、俺」

ベッドの足元に腰かけて苦笑する。

「千歳?」

「柚ぽんの良さを皆に理解して欲しいけど、でも自分だけが知っていたいようなってやつ」

柚ぽんを傷つけた連中に、彼女の本来の姿をを見せびらかしたい。だが逆に虜になられても困る。特に男。

「コーヒー飲むか?」

問うとこっくりと頷く。

「あの、私の服は」

「洗濯中。とりあえず俺のシャツでも羽織ってろ」

掲げたのは無地の白いシャツ。明らかに透けるであろうそれに、柚ぽんは涙目で俺を睨んだ。

「ケンケン!」

「うん。ベッドでケンケンも悪くなかったぞ?」

「馬鹿! 人でなし!」

頭まですっぽり布団を被った柚ぽんに笑いが溢れる。

「嘘だって。ちゃんとそのままにしてある。さっきのはあくまで俺の希望だ」

布団の上から再び頭をぽんぽん撫でると、ふいに中からおずおずと手が伸びてきた。辺りを無造作に触った挙句、俺のシャツを掴んで引きずり込んでゆく。

すぐにこんもりとした膨らみが、がさごそと動き出すのを目の当たりにし、俺は必死で吹き出さないよう努めた。この天邪鬼な可愛い生き物は、俺の希望を叶えようとしているに違いない。

それでも出てくるきっかけがないのだろう。動きが止まってからしばらく沈黙する布団を、俺は勢いよく引き剥がした。

「やだ、ケンケン」

驚いて飛び起きた柚ぽんは、素肌の上に俺のシャツを着ていた。当然サイズが大きいので緩いが、襟元から覗く鎖骨と裾を引っ張っても隠せない白い足は、想像など木っ端微塵にする破壊力だった。

「逆効果だよ、柚」

両腕で自身の体を覆う柚ぽんに、ごくりと喉が鳴った。先程までの余裕はどこへやら、俺は何かに突き動かされるように、遮二無二彼女を抱き締める。

「ケンケン?」

「健太」

「け、健太?」

上目遣いにこちらを窺うのがまたツボに入り、脳内欲望が呆気なく発動された。

「え、コーヒーは?」

「んなもん後だ」

押し倒されてじたばたする柚ぽんをキスで黙らせる。

「野獣!」

唇が離れるなり息も絶え絶えに詰られるが、余計に煽るだけだと何故気づかない。

「柴崎と同列というのが気に食わないが、姫がお望みとあらば」

「カーテン開いてる!」

「朝だからな」

「嫌い!」

「俺は好きだぞ?」

言葉を失った柚ぽんに今度はゆっくりと口づける。

「好きだ」

愛しい女にもう一度告げて、俺は土曜日の朝の幸せに身を浸した。




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