文月帳〜短編&番外編〜

文月 青

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サブキャラ編

鬼畜と親分(とらぶるチョコレート)

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自慢じゃないが、俺は女に好きだの愛してるだのいう言葉を吐いたことはない。それらしいことを匂わせたことはあるが、はっきり伝えたい程の相手はこれまでの人生の中にいなかったし、おそらく今後も現れないだろうと思っていた。そう言い切れるくらいには俺は誰も求めていなかった。

「遅いぞ、橋本はしもと

で、このクソババアの登場である。藪瞳やぶひとみ三十二歳。通称親分。俺より六歳年上の超がつくほど口の悪い女。週末を利用して俺に会いに来た筈の今日も、緑地公園のグラウンドで近所のガキどもとサッカーに興じている。

「うるせえ、俺は仕事帰りだぞ」

文句をたれながらも既に駆け出している俺。藪がこの地に住んでいた頃は、こんな光景が当たり前だった。スーツが汚れるのも構わずに走り回る無邪気な大人と、サッカーが大好きな子供達が、夕暮れのほんのひと時に本気で遊ぶ。

「副隊長、早く早く!」

いつのまにやら引きずり込まれ、気がついたら副隊長などと呼ばれ、藪とガキどもとのつきあいがすっかり日課になっていた。

「ようし、久々に全員対橋本で行くよ!」

「だから俺は疲れてるんだっつーの」

そう言いつつもドリブルでゴールへと突っ込んでゆく俺を、全員がそれは楽しげに追いかけてくる。シュートを決めてやると、やられたと喚きながら誰の顔も綻んでいた。

「ああ、気持ちよかった。体を酷使しまくったよ」

半ば本気で試合に取り組んだ後、ガキどもを家に帰した藪は、その場にごろんと寝転がって伸びをした。休日スタイルのシャツとジーンズのみならず、長い髪まで砂だらけだ。

「老体を冷やすぞ、ばばあ」

四月に入ったとはいえ、まだ朝晩は冷え込むことがある。一応心配してやったのに、藪は隣に腰を下ろした俺の足を蹴った。

「どこが老体だ、クソガキ」

怒っている節もなく、かっかっかと相変わらずじいさんみたいな笑い方をする。最初に揶揄したのは俺だが、単なる口癖なのにクソガキとこき下ろされると非常に面白くない。さすがに小学生とは住み分けができているだろうが、年齢差故に子供扱いされている感は否めない。

「息切れは落ち着いたか? そろそろ帰るぞ」

苛々と額を軽く叩くと、へいへいと藪は起き上がった。

「ったく、一番手がかかるじゃねーか」

髪や背中に付いた砂を払う俺に、藪がふいに振り返る。

「ありがとな」

素直に礼を口にした笑顔に、悔しいほど心臓が跳ねた。うっかりこの場で藪を抱き締めそうになって、慌てて強く拳を握る。今までどんな女に対しても、こんな衝動が起きた試しがなかった。

「橋本?」

問うてくるその声にさえ、甘い痺れを感じてしまう。後輩のワンコ茂木もぎ曰く百戦錬磨の俺が、ワンコの彼女の奈央なお曰く鬼畜の俺が、らしくもなく振り回されている。

「何でもねーよ。行くぞ」

戸惑う自分に抗うように、俺は藪を伴って六畳一間のアパートに向かった。




藪の作った飯を食ってまったりしながら、てきぱきと使った食器を片付ける後ろ姿を盗み見る。かつて他の男との結婚を考えていた藪は、がさつな雰囲気とは裏腹に家事が得意だった。料理も奇抜な物は作れないと言っていたが、俺は普通に美味いと思っている。

知り合ったのは昨年の五月。ワンコの引っ越しの手伝いをしたのがきっかけだった。

「ちょっと邪魔だよ、兄ちゃん」

第一声から想像に難くないが、最初は犬猿の仲だった。顔を合わせれば「クソガキ」「クソババア」といがみ合っていた。紆余曲折あって親しくなった矢先、引き止めたのも虚しく、藪がこの街を出て行ったのが昨年の夏。

肝心な言葉は一切交わさず、曖昧な関係のまま去った藪の面影を、ガキどもとサッカーをしながら紛らわせて、そして会いたさを募らせていた。

再会したのは今年の二月。俺のことなどもう忘れたかと諦めかけた頃、チョコレートの代わりに洗面器を携えて、連絡もなしに仕事中の俺の前に姿を見せたのだ。

「そろそろここも手狭になったし、広い部屋を借りようかと思うんだが」

片づけを済ませた藪がコーヒーを二つ持って座った。ちょうど欲しいタイミングで淹れてくるのは、たまたまなのか波長が合うからなのか。

「私の荷物が増えたな。少し引き上げようか?」

なのに変なところで察しが悪い。性格上本当に引っ越すと決めたら、俺は反対されようがとっとと新居に移る。わざわざ藪に相談していること、あえて広い部屋と強調している事実に、何故この女は気づかない。

「そういう意味じゃねーよ」

昔なら女の痕跡を自分の領域に残されるのは真っ平だったが、初めて藪が泊まった翌朝、俺の物と並べて置かれた歯ブラシに、訳もなく擽ったさを感じてしまった。自分でも驚いたが、藪の私物が増えるのはやぶさかでない。その理由を突き詰めると、辿り着く答はたった一つ。

「ばばあはこっちに戻って来ないのか?」

現在藪は隣の隣の市に住んでいる。車でなら二時間弱だが、電車の連絡が良くないせいで、一本遅らせると三時間から四時間かかる。当然俺の部屋から通勤するのは不可能だ。

「誰がばばあだ、クソガキ」

「クソガキじゃねえ、クソババア」

「口の利き方を知らない男だね」

しょうがないねというふうに、藪が肩を竦めて笑った。

「仕事もあるし、実家には姉の家族もいるからね。簡単には戻れないな」

だから何故そこで俺と暮らすという発想が浮かばない。お互いの職場の中間点に部屋を借りれば、何の問題もないであろう。しょうがないのはお前だ。ボケ。

そもそも藪に焦りはないのだろうか。三十六といえば出産にも響く年齢だ。女の方が色々と深刻にならざるを得ない筈。それとも俺ではそういう対象にはならないのだろうか。

「明日は帰るんだよな」

自然に洩れるため息にうんざりしていると、能天気ばばあが当たり前だろと笑い飛ばす。たまには離れたくないとでも言えば可愛いものを。つくづく藪が帰る場所は俺の元ではないらしい。




再会した日、俺と藪は男女の仲になった。なったが今思い返してみると、体を重ねた事実はあっても、気持ちを伝えるような言葉は結局一切なかった。つまりいまだに好きも愛も口にしていない。

時々両親の様子を見たいからと、二月から月に一度のペースで藪がうちに泊まりにきているが、人手不足で連休が取りづらい俺は、藪が一人で暮らす街に出向いたことはない。二人とも用がなければ無駄に連絡も取らないので、この二ヶ月の間に会ったのはたったの三回。

これは恋愛事においての「つきあっている」の範疇に入るのだろうか。それ以前に藪は俺のことを、俺達の関係をどう思っているのだろう。良くて年下の友人、悪くて無銭宿の主人なんてことは……。

「は……しも、と?」

隣でぐっすり眠っていた藪が、掠れた声で俺の名前を呼んだ。仕事とは違う疲れで瞼を上げられずにいる。年上らしからぬ無防備な素顔が、まあ、何だ、妙に初々しいというか……。

「藪」

我慢できなくて細い体を力一杯抱き締める。

「ど、した?」

そっと背中に腕が回された。まるで徒競走の合図のように俺は藪の唇を食む。

ーー愛しい。

本当にどうしてくれよう、この女。がさつなばばあのくせに、翻弄されっ放しで悔しいのに、身の内から溢れ出るのは愛しさばかりとは。

こうなると周囲を憚ることなく、奈央に好き好き言い寄るワンコが羨ましい。残念ながらオレの性分ではそれは無理だ。でも女は言葉を欲しがる生き物。きっと藪とて同じだろうに、こいつは俺に何も強請らない。もとより俺はその程度の存在か?

「藪、俺」

「ん?」

ずっとお前と一緒にいたい。そう告げたいのにできない。相手の望みが分からないことが、これ程までに不安を覚えるものだとは。

「橋本」

続きを言いあぐねている俺に、藪がその名の通り綺麗な瞳を向けた。

「好きな人、できたのか?」

けれど穏やかに発せられた質問は、俺から全ての温度を奪うに等しいものだった。




「橋本さん、元気ないですね」

茂木に声をかけられて、俺ははっとして顔を上げた。昼飯を早めに済ませ、休憩室で時間を潰しているうちに、物思いに耽っていたらしい。

「せっかく薮さんが帰ってきてるのに」

「ここのところ忙しいからな」

もっともな理由を盾に、ゆっくりと両手を伸ばす。今頃藪は実家と清水ファミリーの元を訪れていることだろう。そしてその足で自分の家へと帰る。

考えてみれば俺も酷い男だ。いくら仕事だとはいえ、せっかく藪が来てくれても、一緒に外出するでもなく、食事に連れてゆくでも無く、ましてや車の運転なんてお手の物なのに、家まで送ってやるでもなく。

恋人めいたことといえば、体を重ねるだけ。藪は一人でこの街に来て、俺に抱かれて、一人で自分の住処へ戻る。こんなつきあいに満足する女などいないだろう。

「なあ、ワンコ。お前はまだ奈央と結婚しないのか?」

茂木が清水家に同居してそろそろ一年。詳細は知らないが、奈央の心中を慮って選んだのが、彼女を縛らずに傍にいることだった。

「したいですよ。今すぐにでも。けれど奈央さんに無理強いするのだけは嫌なんで」

「奈央はまだ何か吹っ切れないのか?」

「どうでしょうねえ。最近そういう話はしていませんし、むしろ店長とあやめさんが気を揉んでいる感じです」

苦笑しながらも茂木に不満はなさそうだ。やはり共に暮らしている余裕だろうか。

「余裕なんてありませんよ! 最近奈央さん目当てのお客さんが増えるわ、俺がいるのにお見合い写真は届くわ、ほんと泣きたいです」

しょんぼりと項垂れる茂木。こいつとつきあうようになってから、目に見えて奈央は綺麗になった。大切に想われているが故の、茂木がいるからこその変化なのだが、奈央を変えた張本人は相変わらず自信が持てないようだ。

「けっ! お互いしか目に入ってねー奴らが、何をほざいてやがる」

「橋本さん、俺は職業で振られた経験がある男ですからね?」

「そうだったな」

したり顔の茂木に吹き出すと、奴も肩を竦めて息を吐いた。

「奈央さんの気持ちを疑っているわけじゃないんです。でも世間からすれば、俺は彼氏で同居人かもしれませんが、奈央さんの人生に口を挟める、一緒に背負うのを許された立場にないんですよね」

以前は紙切れ一枚で縛られる、そうまでして拘束し合う連中の気が知れなかった。人を好きな気持ちなど簡単に消える。いつまでも想いが持続するわけじゃない。いずれ泥沼にはまるなら、後腐れのない関係が一番楽だ。

「橋本さんにはたかが書類と鼻であしらわれそうですが、俺はいつでも奈央さんの傍らにいる男として認められたいです」

驚いた。奈央に一途なのは知っていたが、ここまでしっかり彼女を守ろうとしていたとは思っていなかった。

「なーんて、本当は堂々と俺のものにしたいだけだったりして」

ペロッと舌を出す姿はいつもの可愛いワンコで、俺は後輩の茶目っ気に不思議と癒された。

たかが紙切れ、されど紙切れ。その紙を提出することで、二人の結びつきを確固たるものにできるならば。ええい、ぐだぐだするのは性に合わん。そんなもんは奈央の専売特許だ。

「橋本さん? まだ昼休み終わっていませんよ?」

突然立ち上がった俺に、茂木がきょとんと首を傾げる。

「役所に行ってくる」

「何をしに?」

「婚姻届を貰いに」

「はい。行ってらっしゃ……いーっ?」

背後で茂木が素っ頓狂な声を上げる。正しくワンコの遠吠えに俺はくっと喉を鳴らした。




てっきり奈央のところで寛いでいると踏んで、一緒に早番だった茂木と二人で菓子店を訪ねると、藪は既に去った後だった。

「今日は常連さんが多かったからな。親分のことだ、気を使ったんだろう」

店内にお客がいたので、店長がこっそり耳打ちしてきた。藪なら充分ありえる。いつも使う電車の時間にはまだ早いので、どこかぶらついているに違いない。連絡の一つも寄越せば途中で拾ってやるものを、妙なところで遠慮しやがる。

「て、店長。それどころじゃないんですよ」

慌てながらも潜めた声で、隣の茂木が訴える。

「橋本さんが、橋本さんが!」

「どうした湊」

話したいのに上手く口が回らない茂木を、店長がどうどうと馬にするように宥めているのが笑えた。

「茂木さん、鬼畜に何かされたんですか?」

店の奥から顔を出した奈央が人聞き悪いことを言う。

「これからされるんですよ!」

支離滅裂なワンコに、あやめさんがやだあと体をくねらせる。

「先輩後輩ズラブ?」

そんなジャンル知らん。つくづく似たものばかりが集まった一家だ。よく会話が成り立つものだ。

「じゃ、俺はこれで」

軽く会釈をして俺は踵を返した。コントにつきあっている間に藪が帰ってしまうかもしれない。何としても捕まえなければ。

「えーっ! 結婚!」

ドアを閉めたにも関わらず、カウベルの音を掻き消すような悲鳴が上がった。従業員が揃って営業妨害してどうするんだか。呆れながら俺は車に乗り込んだ。とりあえず緑地公園の駐車場に入ると、川べりでぼんやり座り込んでいる藪を見つけた。

今日は高校性がグラウンドを使用しているので、ガキどもの姿もない。普段は威勢のよさからやけに大柄に感じる藪だが、こうして眺める背中は酷く小さくて心細げだ。一心に川面をみつめる彼女の長い髪を、春の風がゆらゆらとなだらかに揺らしている。

「藪」

名前を呼んで隣に腰を下ろす。藪は驚いたように数回瞬きをした。

「何で、橋本がここに。仕事は?」

「早番だって言ったろ。ちゃんと終わらせてきた」

「そうか」

安堵する藪に俺は片眉を上げる。俺が藪を送迎しない理由の一つは、彼女が俺の仕事や余暇の邪魔をするのを厭うからだ。仕事をさぼるならいざ知らず、よほど無謀でなければ、前もって時間の調整をつけることは可能だし、邪魔でも何でもないのだが、藪は足を引っ張るとでも思っているようだ。

「これ書け」

俺は自分の署名捺印済みの、たかが紙切れとボールペンを差し出した。

「何だ?」

呑気に受け取って藪は目を剥いた。

「あ、あんた、これ、けっ、こっこっ」

「鶏か」

笑う俺の足を勢いよく蹴っ飛ばす。

「いってーな、クソババア。暴力振るってる暇があるなら、とっとと書きやがれ」

「血迷ったか、クソガキ」

「いや、大真面目だ」

「後腐れのない関係が一番だったんじゃないのか」

「昔はな」

「百戦錬磨のつわものはどうした」

「真に受けるな、そんなもん」

珍しく食ってかかる藪に、俺は嘆息してからゆっくり告げた。

「藪一人で俺の一生分持つから、他の女は要らねーんだよ」




頑として婚姻届を書こうとしない藪を、俺は無理矢理自分のアパートに連れ帰った。どうせ明日は仕事が休みだ。夜が更けていようが早朝だろうが、俺が送っていってやればいいだけだ。

「何が引っかかってんだ」

テーブルの前で婚姻届を睨みつける藪に確かめる。しかも正座だし。

「年齢か、仕事か、収入か、つきあっていた期間が短いことか」

「違う。重要事項は別だ」

「俺が嫌いか?」

「違う! 違わないけど違う。いややや、そういう問題ではなくてだな」

「言葉が変だぞ、藪」

「誰のせいだ」

したり顔で口を尖らせた後、藪は腹を括ったのか正面から俺を見据えた。

「好きな人ができたんじゃなかったのか?」

昨夜と同じ質問を繰り返す。何を根拠にそんな結論に至ったのかは知らないが、ベッドの中での台詞としては相当無神経だ。

「とっくにできてるな。あんただろ」

「は?」

ぽかんと口を開ける藪。おいおい、よもや俺が遊びでつきあっていたとでも思ってんじゃねーだろうな。どんだけ鬼畜扱いしてんだよ。

「自慢じゃないがずっと誰にも本気にならなかったし、なれなかったんだぞ、俺は」

「ああ、奈央ちゃん以外はな」

「頭沸いてんのか、クソババア」

この期に及んで奈央の話題を持ち出されるとは、藪は本当に俺の真意に気づいていないらしい。身から出た錆とはいえさすがにやり切れない。

「じゃあ何で俺に抱かれた」

責めるつもりは毛頭なく、お手上げで投げやりにぼやいただけだった。

「何でって……」

あの藪が困ったように言い澱み、首筋をほんのりと染めた。男女の仲である俺の前ですら、女を意識させる言動を取らない藪が、である。

「どうでもいい男に抱かれる程、私は暇じゃない」

婚姻届に視線を落として、不機嫌に呟いてくれる。膝の上で握られた拳が震えているのを見ると、不安と羞恥に塗れているのだろう。世間ではこれを素直じゃないと評するのだろうが、俺にはツボであり可愛いのだから如何ともしがたい。

「俺だってどうでもいい女と結婚する程、暇でもいかれてもいねーんだよ」

眉を八の字に下げたまま、藪はそれでも胡散臭そうに俺を窺う。

「相手が俺なんだ。観念しろ」

腕を組んできっぱりと告げたら、藪はようやく口元に笑みを浮かべた。

「そんなプロポーズあるか」

「うるせー、ぐだぐだすんのは奈央とワンコだけで充分だ」

確かにと頷いて、紙切れの上でボールペンを滑らせる。はっきりと書かれた力強い文字は藪そのものだ。

「善は急げだ。藪ん家への挨拶はどうする? いきなりこれからじゃ失礼だし、来週時間取れるか?」

「性急過ぎるぞ、橋本。急いては事を仕損じる」

「悪いか。これでも焦ってんだよ。早く藪が俺のものだという烙印を押したくて」

うっかり洩らした本音に、藪はボールペンをぽとりと落とした。慌てて拾って続きを書こうとするが、首筋どころかペンを持つ手も顔も真っ赤になっている。

「ばばあのくせに恥じらうな、ボケ」

藪の動揺がこっちにまで伝染して、憎まれ口を叩かないとやっていられない。

「で、来週帰ってくんのか?」

とりあえず話を本筋に戻すと、藪は更に赤みを増して首をすくめた。

「明日」

「あ?」

「明日、仕事休みだ。有給取ってる」

俺は目を瞬いた。昨夜も今朝もそんな話は聞いていない。仕事が休みでしかも有給。それはもしかしなくても俺の休みに合わせたんじゃないのか。なのに隠して帰ろうとするとは。

「何で黙ってた」

「予備日だ、予備日」

「ナイターの雨天振替じゃねーんだぞ」

「橋本に帰るのを引き留められたら、残留する予定を立てていただけだ」

ったく、クソババアはどこまでも俺を翻弄する。離れたくなかったのなら初めから甘えればいいものを、健気というかいじらしいというか。もう何とかしてくれこのギャップ。




「怒涛の一日だったな」

風呂から上がって缶ビールを煽ると、藪はふうっと気持ちよさげに息を吐いた。頭のてっぺんで纏めた長い髪の後れ毛が、項の白さを際立たせる。こんなとき藪は大人の女なんだと思う。

「油断するなよ。明日は役所に婚姻届を出して、その足で指輪を買いに行くぞ」

先に風呂を済ませていた俺は、冷蔵庫から二本目のビールを取り出して、藪の隣に片膝を立てて座った。

「さすがに明日は早過ぎないか?」

「怖気づいたか」

「実感が湧かないんだよ」

テーブルにビールを置いて、藪は少しだけ照れ臭そうに頬を掻いた。

「一生独身ひとりかもしれないと、何処かで思っていたからな」

「前の男に未練はなかったんだよな?」

「ない。こんながさつな奴を選ぶ物好きは現れない、自他共にそう認めていただけだ」

言葉遣いや態度のでかさとは裏腹に、自分がどれだけ女らしいかこいつは自覚していない。相手を慮る振る舞いは控えめ以外の何者でもない。

「それにしても奈央ちゃん達の反応、おかしかったな」

「てめえが余計なこと言うからだろ」

肩を小刻みに揺らす藪に、俺は不機嫌な声を浴びせる。

「本当に鬼畜と結婚しちゃうんだ」

いろいろと我慢の限界が近かった俺は、日曜日が終わる前に両家への仮の報告を済ませ、ついでに閉店して自宅で寛いでいる清水家の面々を襲撃した。店長夫妻と茂木は驚きつつも祝福してくれたが、藪大好き奈央だけは幾分拗ねていた。

「親分が勿体ない」

「喧嘩売ってんのか。お前はワンコで我慢しろ」

けっと毒づくと、睨みつける奈央の代わりに、我慢なんて酷いと茂木がしょげた。店長とあやめさん、おまけに藪までが追い打ちをかけるように笑っている。

「鬼畜とプロポーズなんて結びつかない。脅迫まがいの言葉でも吐いたんじゃないでしょうね」

最近奈央は余計な方向に強くなった。茂木の愛情が真っ当に届いているのか甚だ疑問だ。

「ねえ、親分。何て言われたの?」

こそこそと耳打ちしているつもりらしいが、一言一句違わずに駄々漏れ中。

「これ書け」

躊躇せずに答えた藪に奈央が眉を顰める。

「婚姻届を渡されて、これ書けって」

そこで一斉に清水ファミリーの視線が俺に集中する。苦笑する店長、頭を抱える茂木、手を取り合って信じられないと喚く奈央とあやめさん。

「キューピーさん、それは駄目よ。性格なのは分かるけど、一生に一度の女の子の夢よ?」

「女の子って年じゃないからねえ」

諭すあやめさんに見当違いな慰め方をする藪。続けてかっかっかとじーさん笑いをして更に嘆かれている。

「まあ、初めてじゃないかもしれんがな」

美味そうに晩酌している店長が、俺にだけ聞こえるように呟いてにやりと唇の端を上げた。このおっさんは相変わらず性質が悪い。

「橋本は平気なのか?」

「顔も名前も知らない相手なんで妬きようがないですね」

六歳の年齢差と、藪が年上だということと、彼女が結婚まで考えた昔の男がいるーーこの三点セットは努力して解消できることではない。たぶん各々が割り切って受け入れるしかないのだ。縮まらない年齢差を苦にするより、気持ちや考え方、要は意識を近づけてゆく方がよほど有意義だ。

「藪も未練は残していないので、俺もそのつもりでいます」

後は年齢差を感じなくなる頃まで、クソガキ、クソババアと罵り合ってゆくのだろう。案外それも俺達らしくて面白い。

「幸せにするなんて、歯の浮くような台詞を宣うのはご免ですが、後悔はさせません」

「そこまで言い切るなら大丈夫だな。まあ月並みだが、二人で末永く仲よくやれ」

うんうんと一人で納得して、店長は酒を飲みつつ、目を細めて自分の家族を眺めていた。

ーー瞳ちゃんを頼んだぞ。

空耳と間違いそうな小さな願い。店長にとっては藪も大事な家族なのだろう。俺はその背中にそっと頭を下げた。

「橋本には驚かされるよ」

これ書けなんてプロポーズをするのは、日本中探してもあんたしかいないと、藪は今頃思い出し笑いをしている。感動も何もあったもんじゃない。

「抜かせ。初対面のときのあんたを超える衝撃があるか。いきなり邪魔だよ、だぞ? 」

「確かに」

やがて笑いを収めた藪は、真剣な面持ちで俺をみつめた。

「橋本のことだから、決めた以上迷いはしないだろうし、本当に私でいいのかなんてのは、愚問でしかないだろう?」

「当たり前だ」

藪が欲しいから結婚するのだ。今更の馬鹿げた質問は全て却下だ。

「だから一つだけ。私は結婚式も指輪もなくて構わない」

藪の口からそんな台詞が出たことに正直驚いた。

「ど派手なことはできねーが、普通に蓄えはあるつもりなんだが」

もっとも藪にしてみれば、自分より遅くに社会の仲間入りした男が相手だ。金銭面でも精神面でも心許ない部分はあるだろう。

「勘違いするな」

ところが藪は真面目に俺を叱った。

「世間に見せている程、橋本がチャラくも鬼畜でもないことは分かっている」

褒めるなり庇うなりしてくれているのだろうが、選んだ文言のせいで非常に複雑なんだが。

だが眉間に皺を寄せる俺に、藪は慈しむような母性に満ちた笑みを浮かべた。
 
「最期の瞬間ときでいい。好きだと言って見送ってくれ」

それだけであんたと生きた甲斐がある筈だ……そう繋げられ、俺の体中の全ての機能が停止しそうだった。たぶん藪にとっては俺の性格を理解した上での、最大でたった一つの我儘。本当に何て女だ。

「ふざけんな」

俺はやおら藪を抱き締めた。

「誰彼構わず吐く為に、俺の言葉はあるんじゃねーんだよ」

偉そうにしながら、お互いの顔を見えないようにしているところが情けない。

「よく聞け。お前にしか言わない」

そうして耳元で愛しさを込めて囁いた言葉に、藪はゆっくり頷いて俺にしがみついたのだった。





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