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1巻
1-2
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「カスリーン、どうしたの?」
久しぶりに聞くその声は、ダリーのものだった。わたしはびっくりして顔を上げる。
そこは以前ダリーと会っていたのと同じ、真っ暗な空間だった。きっとこれは夢で、わたしは泣きながら寝てしまったのだろう。
そして、目の前にダリーがいる。わたしは涙を拭きながら声をかけた。
「ダリー」
「……うん」
「ダリー」
「うん」
「本当にダリーなのね」
「久しぶりだね、カスリーン」
「ずっと来られなかったの。何度も『ここに来たい』って思いながら寝たのに、来られなかったの」
ダリーは最後に会ったときより大人っぽくなっていた。はじめて見たときは女の子と間違えるほど可愛らしかったけど、今はまったく違う。
黒い目を伏せて、ダリーは少し寂しそうに言った。
「私は君とあまり関わるべきではない。そう思っていたから、会えなくなったんだと思う」
「どうしてそんな風に思うの? ずっと一緒だったじゃない」
「そうだね。ずっと一緒だった。君といる時間が楽しくて、甘えていたんだ。本当はもっと前に会うのをやめなければならなかったのに、君がデビュタントの年頃まで会い続けてしまった。それではいけないと思ったんだ。君が結婚したら、相手の男に失礼になるだろう?」
彼の言葉にハッとした。やっぱりダリーは実在するのかもしれない。だって夢の中だけの人なら、現実世界の結婚相手のことなんて、気にするはずがない。
本当は、前から思っていた。ダリーは現実に存在しているのかもしれないって。彼が親友のことを話してくれたときに、そんな気がしたのだ。
ダリーがもし現実にいるのなら、会いたい。会って話がしたい。わたしも彼に会うことはできないかしら。
「前に話してくれた親友とは、今も会ってるの?」
「……うん。たまにだけど、会いに来てくれるよ。彼は昔も今も変わらず、私の親友でいてくれている」
ふと、今朝夢で見たダリーの姿を思い出した。大きなベッドで眠る、青白い顔をした幼い頃のダリー。あの夢はなんだったのだろう。
「……ねぇ、ダリーって、重い病気になったことがある?」
勇気を出して聞いてみる。するとダリーはスッと目を逸らした。
「……あぁ、そうだ、君にも親友ができたんだよね? スーザンと言ったかな」
唐突に話を変えたダリーに、わたしは目を丸くする。
わたしの質問に答えたくないか、答えられないか。どちらかわからないが、否定しないことが引っかかる。彼が実在しないのならば、病気にだってかからないだろうから、答えない理由はないだろうに――
わたしは追及するのはやめ、ダリーの話題に乗ることにする。
「そう、スーザンよ。彼女が恋しいわ。もう二年も会ってないの」
「もしかして、カスリーンはスーザンに会いたくて泣いていたの?」
「ううん、違う。実は、殿下が正妃を迎えることになって……。そうなれば、わたしは側妃になれるかもしれないと思っていたんだけど、そのつもりはないとハッキリ言われたの」
わたしの話を、ダリーは黙って聞いてくれる。わたしは彼の目を見つめて、決意を告げた。
「でも、決心したわ。殿下とは別れることにする。それがわたしにとっても殿下にとっても、最善だと思う」
「……それでいいのか? 泣いていたのは、殿下に未練があるからなんじゃないのか?」
「違うわ。未練を残さないために泣いたの。殿下の結婚準備が進む前に――すぐにでも、城を出ることに決めたわ」
「殿下が結婚か……。彼にがっかりさせられることになるとは、思わなかったな」
ダリーが寂しそうな顔で呟いた。
「殿下が悪いわけではないの。わたしが馬鹿だったの。彼とわたし、それぞれの立場を理解していなかったのよ」
ダリーの暗い顔を見ていたくなくて、思わず強がりを言ってしまう。それを聞いて苦笑するダリーに、もっと気の利いたことが言えたらいいのにと歯がゆく思った。
「殿下の結婚が決まったのなら、城を出ることには賛成だ。まっすぐ家に帰るんだよ」
「うーん、それは無理かな。父様に勘当されたもの。二年間、一度も連絡を取っていないわ」
わたしが皇太子の愛妾になると言うと、父様は反対した。『愛妾だなんて、幸せになれるわけがない』と断言し、『カスリーンがどうしても愛妾になるなら勘当する』と言ったのだ。
きっとわたしに、愛妾になるのを諦めさせたかったのだろうけど、わたしは反対を押し切って城にやって来た。それ以来、家族とは手紙のやりとりすらしていない。
城を出て家族を頼るのは、さすがに虫がよすぎるだろう。
「ずっと勘当されたままなの?」
「そうなの。だから、スーザンのところに行こうと思っているの」
「スーザンとも、二年間会っていないんだろう?」
「そうなんだけど……あっ、誰かが呼んでるみたい。また……」
身体が目を覚ましたり、現実世界で誰かに起こされたりすると、わたしはこの世界にはいられない。
呼び戻される瞬間が、悲しくて仕方ない。ダリーと話したいことがまだあるのに。また二年も会えなかったらどうしよう。不安になりながら、わたしは目を覚ました。
「カスリーン様、昼食です」
起こしてくれたのは、侍女のバニーだった。
夢から覚めてしまったことが悲しくて、わたしは返事もできずにただ頷く。
昼食が出るということは、今日は夕食がないということだ。ただし、それはバニーが嫌がらせをしているということではない。彼女はいつも事務的な態度だし口調もキツいところがあるけど、わたしの食事を抜くようなことはしない。これは彼女の勤務時間に関係していて、昼勤務の日は夜に別の侍女に仕事を引き継いでいるのだ。その場合、夕食は必ずと言っていいほど持ってきてもらえない。
バニーが休みの日は、他の侍女が一日に一食だけ食事を運んでくる。また、食事を持たずにわたしの様子を覗きにくるだけの侍女もいる。皇太子殿下の愛妾であるわたしを、ただ見にくるのだ。ときには、心ない言葉もぶつけられる。
愛妾はこういういじめを受けるということを、この立場になってはじめて知った。正妃が決まれば、嫌がらせはもっとひどくなるかもしれない。
今日の昼食はサンドイッチと冷めたスープだった。ユーリ殿下が一緒のときは豪華な食事が出るが、彼が来ないと冷めたものばかり。冬にはスープが凍っていることもあった。そのときは、暖炉のそばに持っていき、溶かして飲むのだ。
わたしがユーリ殿下に報告しないから、嫌がらせが続いているのだろう。しかし、みじめすぎて彼に話すことはできなかった。
サンドイッチを食べてみると、ものすごくパサパサしているし、あまり味もしない。何日か前に焼かれたパンが使われているようだ。しかし、これはまだいい方。一度、パンにカビが生えていたこともある。
あのときはいつもと違い、侍女が三人やって来て、わたしが食べ終えるのを待っていた。そしてわたしがカビの生えたパンを気づかずに食べ、吐き出す姿を見て、彼女たちはクスクスと笑ったのだ。
一月ほど前には、食べられない物を出されたことまである。思い出したくないほど最悪な出来事だった。
今日のサンドイッチは、少なくともカビていない。美味しいとは思えないけれど、残さず食べた。最近はどんな味を美味しいと感じるのかも思い出せなくなっている。
食べ終えるとバニーが食器を下げ、部屋から出て行こうとした。
わたしは彼女に声をかける。
「いろいろありがとう」
バニーは「いえ」とだけ言って出て行く。
そこでわたしは、ふと一年前の出来事を思い出した。
――その日、バニーはガチャガチャと音を立てて食器を並べていた。いつもは音を立てずに皿を並べる彼女にしては、珍しいことだ。
どうしたのだろうと思って眺め、彼女の腕に包帯が巻かれていることに気づいた。
「バニー、怪我をしてるの? 今日は休めばよかったのに」
彼女が休めば、代わりに、ひどい嫌がらせをする侍女が食事を持ってくることになる。けれど、怪我をしている人を働かせたくはない。
「いえ、わたしはあなた様と違って、働かないと家族への仕送りに困りますから」
明らかに、愛妾をしているわたしに対しての嫌味だ。はじめのうちは気にしていた嫌味も、その頃には聞き流すようになっていた。それに、嘘は言われていない。
それはともかく、仕送りに困るという話を聞いては、放っておくこともできない。
「腕を見せて」
「えっ?」
バニーが訝しげな顔をしたが、わたしは構わず手を差し出した。
「腕を見せなさい」
わたしが命令口調に変えたので、バニーはしぶしぶ腕を出す。包帯を取ると、火傷の痕が腕全体に広がっていた。包帯は火傷を隠すために巻いていたようだ。
「これはひどいわ。城のお医者様には診てもらったの?」
バニーは首を横に振って答える。
「治療費を払えませんから」
「このままでは痕が残るし、腕が使えなくなる恐れもあるわ。診てもらった方がいいわよ。就業時間中の怪我だったら、お金はかからないって聞いたけど」
「誰に見せてもわかるでしょう。これは侍女の仕事でできる火傷ではありません」
嘘をついたら解雇される、とバニーは怯えていた。でもこのまま何もしなければ悪化するだろう。腕が使えなくなったら、侍女として働けなくなってしまう。
そこでわたしは、治癒魔術を使うことにした。わたしが比較的得意な魔術。
攻撃魔術はあまり得意ではない。威力が強くなりすぎてしまうのだ。制御が上手にできなくて、いつも失敗しては父様に叱られていた。
火をおこすだけの魔術を使おうとして、屋敷の裏にあった小さな山の木を半分くらい燃やしたこともある。あのときはさすがに落ち込んだものだ。
バニーの腕に手をかざすと、淡い緑の光が腕を包み、火傷を治していく。数秒で、元の綺麗な肌に戻った。
「これなら休まなくてもいいわね」
「あ、ありがとうございます」
バニーは目を見開いて、自分の腕を見ていた。
心のこもったお礼の言葉ではなかったけれど、あの日からバニーは嫌味を言わなくなったのだった。
バニーは、なぜか治癒魔術のことを誰にも言わなかったようだ。わたしは誰からも、魔術について尋ねられていない。そのことにホッとした。
実は、治癒魔術を使える人は多くない。わたしが治癒魔術を使えることは、家族だけの秘密にする約束なのだ。
わたしの曾祖母は、この魔術のせいで死んでしまった。実家のある街で災害が起きたとき、みんなが曾祖母に助けを求めたらしい。彼女は怪我人を助けるために魔力を使い、最後には魔力切れで亡くなったそうだ。
曾祖父が男爵になれたのは、曾祖母の功績によるという。しかし彼は、『貴族になんかなれなくてもいいから、妻に帰ってきてほしい』と、亡くなる直前までずっと言っていたと聞いたことがある。
父様には、家族以外に話さないようにと、厳しい声で何度も言われてきた。特に二十歳になるまでは――という話だったので、ユーリ殿下にも言っていない。二十歳になったら彼にこっそり打ち明けようと思っていたのだ。
治癒魔術のことは秘密だとわかっていても、バニーを見捨てることはできなかった。彼女はわたしに優しいわけではないけれど、この二年間でまともに接してくれた数少ない人の中の一人なのだ。
彼女は少なくとも、わたしの世話をしてくれた。誰もが嫌がって避けている、わたしの世話を。
バニーが去ったことを確かめてから、ここを出る支度をはじめる。
本当はユーリ殿下と話し合うべきだろうけれど、今は冷静に話ができる気がしない。それに、彼に言いくるめられ、今以上に囲われるかもしれないと思うと恐ろしい。決意が鈍らないうちに、できるだけ早く出て行こう。
まずは鞄を取り出す。この鞄は、見た目は小さいけれどいくらでも入る魔術が施されたもの。大きな鞄だと、出て行くときに怪しまれる可能性があるので、こういうときは便利だ。この鞄はわたしが小さい頃に祖父がくれたものだった。
ここに住むようになったときも、この鞄だけ持って、たった一人でここへ来た。
「でも、持っていくものって、あまりないのよね」
二年前から鞄に入れたままの宝石や舞踏会用のドレスは、そのままでいいだろう。宝石は祖母の形見で、ドレスは実家から持ってきたものだ。舞踏会に出席できないわたしには必要ないものだから、二年間、鞄から取り出さなかった。
この鞄から取り出したものは、貯めていたお金と普段着用のドレス、あとは化粧品だけ。
愛妾というのは贅沢三昧できると思っている人もいるだろうが、そうではないことを身をもって知った。
舞踏会に行けないからか、ドレスや宝石をもらったことはない。家からあまり出ないように言われていて、外出といえば、侍女に頼んでたまに城下街へ連れて行ってもらったくらい。城下街を歩く際に周囲から浮かない服は、男爵家にいたときに貯めていたお金で買った。一年前にそのお金が底をついて以降、城下街には行っていない。
お金を使い果たしたとき、祖父が亡くなった際に形見分けでもらった祖母の宝石を売ることも考えた。けれど愛妾が宝石を売るなんて、たとえ殿下からもらったものでなくても、噂になったら困ると考えて、やめたのだ。
「どこで暮らすにしてもお金が必要になるから、いよいよ手放すことになりそうね……」
鞄から取り出した宝石を眺めて呟く。宝石を買い取ってくれる店は以前、城下街に遊びに行ったときにバニーに教えてもらった。
この宝石を売って、親友のスーザンに会いに行きたい。
そしてできるなら、ダリーを探したい。もし彼が困っていたら、助けたいのだ。彼には絶対に何か事情があると思うから。
でもスーザンと違って、夢の中でしか会ったことのないダリーの居場所はわからない。黒髪に黒い瞳、貴族のような格好をしていたので、きっと他国の貴族だと思うのだけれど。
スーザンは各国の紋章に詳しいから、あの夢で見た紋章について聞いてみよう。
「スーザンに会いたい」
スーザンは、ダリーの次に友達になった子だ。わたしが殿下の愛妾になると知ったとき、彼女はとても驚いていた。そして、不幸になるからと大反対した。
とはいえ、男爵令嬢に皇太子からの求愛を断れるわけがないこともわかっていたのだろう。最後に会ったときには、優しくこう言ってくれた。
「カスリーンが愛妾になったら滅多に会えなくなるけど、困ったことがあったらいつでも言ってね」
少なくともスーザンだけはわたしの味方でいてくれる。彼女の言葉に心底ホッとしたのだ。
その後スーザンは、婚約者のヴィック・マーチ子爵と結婚したと聞いた。お祝いの手紙を送ったが、返事は受け取っていない。手紙を出すときにバニー以外の侍女に頼んだので、届けてもらえなかったのかもしれない。
「ヴィックのことはわたしも知ってるし、会いに行っても追い返されることはないわよね」
会いに行って、話を聞いてもらおう。彼女には昔、ダリーの話をしたことがある。彼女はわたしの夢の話を馬鹿にしないで聞いてくれたから、きっと一緒に考えてくれるはず。
鞄には自分が持って来たドレスを数着だけ入れた。この家での思い出の品を持って行こうと思ったけれど、持って行けるものは何もなかった。
ここに来たばかりの頃、ユーリ殿下が贈り物をしてくれたことがある。チョコレートや花、クマのぬいぐるみだった。嬉しくて、わたしはチョコレートを一日に一個ずつ大切に食べた。
でもそれらの贈り物は、数日でどこかに消えた。この部屋に出入りできる鍵を持っているのは、ユーリ殿下以外は侍女だけだから、侍女に捨てられたのだろう。
あのクマのぬいぐるみも、箪笥の上に飾らずにこの鞄の中に入れていたら、侍女に捨てられることもなかったのに。
気持ちは沈んだが、思い出の品なんてなくてよかったと思い直す。だって、未練が残るもの。
ユーリ殿下とのことは、もう過去のこと。これからはお話しするときも殿下と呼ぶようにしないといけないんだわ。
荷物の整理を終えると、城下街散策用に二年前に買ったドレスに着替える。これなら、愛妾だとバレて城の門で止められることもないだろう。
鞄を肩にかけ、二年間暮らした家を後にした。
城を出るときはドキドキした。でも、入るときほど厳しい検査はなく、あっさりと通された。
あまりにもあっけない対応に、こんなことで大丈夫なのかしらと思ったくらいだ。
一年ぶりの城下街は、あまり変わっていなかった。秋らしい冷たい風が吹く中、石畳の上を早足で歩いていく。
バニーに聞いた、宝石の買い取りをしている店はすぐに見つかった。そこの店主に宝石を何個か渡したところ、金貨六十枚に換えてもらえるという。
バニーと城下街で買い物をしたとき、金貨一枚で平民の三人家族が一ヶ月は生活できると聞いたことがある。六十枚もあれば、スーザンのところへ行く費用を払っても、当分お金に困ることはない。
わたしは換金をお願いし、このお金で旅の支度をすることにした。
スーザンの住む街ガレーンに行くには、乗合馬車を使う必要がある。数日かかる場所のはずだから、その間の食べ物は自分で用意しないといけない。
まずパン屋で、美味しそうなハチミツパンを買う。そしてパン屋の隣にある服屋で、フード付きのマントを買った。これなら万が一、馬車で寝ることになっても、布団がわりにできる。
その他にも細々としたものをいくつか買い、乗合馬車の切符売り場に並ぶ。思ったよりもお客が少ないようだ。
切符売り場のおばさんいわく、ガレーンの街へは馬車を乗り継いで夜通し進んでも、四日かかるらしい。
わたしが一人で旅をすると知ると、おばさんは「夜は宿に泊まる方がいい」とすすめてくれる。そうすると七日もかかるけど、女の一人旅は危険だと言われたのでおばさんの忠告に従うことにした。
それに、最近はガレーンに行く街道に山賊が出るという。そのため、みんな遠回りをして行くそうだ。遠回りをする乗合馬車は、今日の便がもうないと言われた。切符売り場に人が少なかったのは、そのせいだろう。
その話を聞いて、わたしは焦った。
今日のうちに出発しないと、ユーリ殿下に見つかり、城に連れ戻されてしまうかもしれない。
「どうしても今日、帝都を出発したいのです。何か方法はありませんか?」
そうおばさんに迫ると、彼女はしばらく考えた後、「少しばかり危険だけど、それでもよければ」と、隣街まで行く冒険者一行の馬車を紹介してくれた。
さらにおばさんは、その街からガレーンまでの馬車の乗り継ぎ方法から、宿の泊まり方、評判のいい宿まで親切に教えてくれた。結局この切符売り場では何も買わないことが、申し訳なくなる。
「よくしてくださって、ありがとうございます。何も買わずに申し訳ありません」
「いいよ、いいよ。普段はここまでおせっかいはしないんだけどね。なんだかお嬢さんは危なっかしくて、見ていられなくてね」
そしておばさんは、「いい旅を」と笑顔で言ってくれる。
そういえば、一人旅ははじめてだ。生まれ育った街から帝都へは、家族と一緒に馬車に乗って来た。社交界デビューのためだったが、まさかそこでユーリ殿下に見初められることになるなんて、夢にも思っていなかった。
するとそのとき、遠くから声が聞こえ、街は一気に騒がしくなった。
「皇太子殿下が通られるぞ」
その言葉に、鼓動が大きく跳ねる。
まさか、わたしが城を出たことをユーリ殿下に気づかれたのだろうか? それで、捜しに来たの?
馬の蹄の音が聞こえてくると、歓声が湧き上がった。
切符売り場のおばさんも、背伸びをして様子を眺めている。
「何が起きているのですか?」
おばさんにおそるおそる尋ねると、彼女は少し驚いたように教えてくれた。
「あんた、知らないのかい。皇太子様は時々、こうして城下を見回りしてくれるのさ。城壁の確認や城の結界が綻びてないかを確認するために出かけるときの、ついでみたいだがね」
ユーリ殿下がそんなことをしているなんて、まるで知らなかった。
殿下に気づかれないように、わたしは買ったばかりのマントのフードを深く被る。そうして、群衆の中から彼の姿を見た。
「ユーリ殿下!」
若い女の子たちが、黄色い声で彼の名前を叫んでいる。
正装したユーリ殿下は、わたしには見せたことのない笑顔で、手を振って歓声に応えた。
「キャー!」
わたしは今まで殿下という男性のことを何も見ていなかったのだと気づかされ、愕然とした。よく考えればこの二年間、彼の正装姿すら見たことがない。
わたしはあそこで歓声を上げている彼女たちよりも、ユーリ殿下のことを知らないのかもしれない。
そのことに気がついても、わたしは悲しみすら感じなかった。
殿下はわたしに気づくこともなく去って行く。
彼の顔を見たら離れる決心が鈍るかもと思っていたけれど、実際には背中を押される形となった。
「お嬢さん、急がないと馬車が出てしまうよ」
去っていくユーリ殿下を見つめていると、おばさんが声をかけてくる。
「おばさん、親切にしてくれて本当にありがとうございました」
お礼を言って、馬車が停まっているという方向に走った。馬車に乗れば、すべてが終わる。これでよかったのだ。
切符売り場のおばさんが紹介してくれた馬車は、すぐに見つけることができた。
その馬車は冒険者たちが隣街へ行く道に出る山賊を退治するために乗るものだという。そういったことは騎士団の仕事だと思っていたが、冒険者も依頼があれば行うらしい。
彼らはこの馬車を、山賊をおびき寄せるための囮にするのだという。一般女性が乗ることで囮らしくなるし、わたしが防御魔術を使うという条件で、無料で隣街まで連れて行ってもらえることになった。
中には、たくさんの荷物と十数人の人が乗っている。山賊を騙すためにいろいろな品物を載せていて、これらを無事に隣街まで持って行くのも仕事の一部らしい。
一緒に乗る人たちはみんな冒険者だと聞いたけれど、とてもそのように見えない。確かに体格のいい無骨そうな人が多いが、十歳くらいの子供もいる。あの子も冒険者なのかしら?
久しぶりに聞くその声は、ダリーのものだった。わたしはびっくりして顔を上げる。
そこは以前ダリーと会っていたのと同じ、真っ暗な空間だった。きっとこれは夢で、わたしは泣きながら寝てしまったのだろう。
そして、目の前にダリーがいる。わたしは涙を拭きながら声をかけた。
「ダリー」
「……うん」
「ダリー」
「うん」
「本当にダリーなのね」
「久しぶりだね、カスリーン」
「ずっと来られなかったの。何度も『ここに来たい』って思いながら寝たのに、来られなかったの」
ダリーは最後に会ったときより大人っぽくなっていた。はじめて見たときは女の子と間違えるほど可愛らしかったけど、今はまったく違う。
黒い目を伏せて、ダリーは少し寂しそうに言った。
「私は君とあまり関わるべきではない。そう思っていたから、会えなくなったんだと思う」
「どうしてそんな風に思うの? ずっと一緒だったじゃない」
「そうだね。ずっと一緒だった。君といる時間が楽しくて、甘えていたんだ。本当はもっと前に会うのをやめなければならなかったのに、君がデビュタントの年頃まで会い続けてしまった。それではいけないと思ったんだ。君が結婚したら、相手の男に失礼になるだろう?」
彼の言葉にハッとした。やっぱりダリーは実在するのかもしれない。だって夢の中だけの人なら、現実世界の結婚相手のことなんて、気にするはずがない。
本当は、前から思っていた。ダリーは現実に存在しているのかもしれないって。彼が親友のことを話してくれたときに、そんな気がしたのだ。
ダリーがもし現実にいるのなら、会いたい。会って話がしたい。わたしも彼に会うことはできないかしら。
「前に話してくれた親友とは、今も会ってるの?」
「……うん。たまにだけど、会いに来てくれるよ。彼は昔も今も変わらず、私の親友でいてくれている」
ふと、今朝夢で見たダリーの姿を思い出した。大きなベッドで眠る、青白い顔をした幼い頃のダリー。あの夢はなんだったのだろう。
「……ねぇ、ダリーって、重い病気になったことがある?」
勇気を出して聞いてみる。するとダリーはスッと目を逸らした。
「……あぁ、そうだ、君にも親友ができたんだよね? スーザンと言ったかな」
唐突に話を変えたダリーに、わたしは目を丸くする。
わたしの質問に答えたくないか、答えられないか。どちらかわからないが、否定しないことが引っかかる。彼が実在しないのならば、病気にだってかからないだろうから、答えない理由はないだろうに――
わたしは追及するのはやめ、ダリーの話題に乗ることにする。
「そう、スーザンよ。彼女が恋しいわ。もう二年も会ってないの」
「もしかして、カスリーンはスーザンに会いたくて泣いていたの?」
「ううん、違う。実は、殿下が正妃を迎えることになって……。そうなれば、わたしは側妃になれるかもしれないと思っていたんだけど、そのつもりはないとハッキリ言われたの」
わたしの話を、ダリーは黙って聞いてくれる。わたしは彼の目を見つめて、決意を告げた。
「でも、決心したわ。殿下とは別れることにする。それがわたしにとっても殿下にとっても、最善だと思う」
「……それでいいのか? 泣いていたのは、殿下に未練があるからなんじゃないのか?」
「違うわ。未練を残さないために泣いたの。殿下の結婚準備が進む前に――すぐにでも、城を出ることに決めたわ」
「殿下が結婚か……。彼にがっかりさせられることになるとは、思わなかったな」
ダリーが寂しそうな顔で呟いた。
「殿下が悪いわけではないの。わたしが馬鹿だったの。彼とわたし、それぞれの立場を理解していなかったのよ」
ダリーの暗い顔を見ていたくなくて、思わず強がりを言ってしまう。それを聞いて苦笑するダリーに、もっと気の利いたことが言えたらいいのにと歯がゆく思った。
「殿下の結婚が決まったのなら、城を出ることには賛成だ。まっすぐ家に帰るんだよ」
「うーん、それは無理かな。父様に勘当されたもの。二年間、一度も連絡を取っていないわ」
わたしが皇太子の愛妾になると言うと、父様は反対した。『愛妾だなんて、幸せになれるわけがない』と断言し、『カスリーンがどうしても愛妾になるなら勘当する』と言ったのだ。
きっとわたしに、愛妾になるのを諦めさせたかったのだろうけど、わたしは反対を押し切って城にやって来た。それ以来、家族とは手紙のやりとりすらしていない。
城を出て家族を頼るのは、さすがに虫がよすぎるだろう。
「ずっと勘当されたままなの?」
「そうなの。だから、スーザンのところに行こうと思っているの」
「スーザンとも、二年間会っていないんだろう?」
「そうなんだけど……あっ、誰かが呼んでるみたい。また……」
身体が目を覚ましたり、現実世界で誰かに起こされたりすると、わたしはこの世界にはいられない。
呼び戻される瞬間が、悲しくて仕方ない。ダリーと話したいことがまだあるのに。また二年も会えなかったらどうしよう。不安になりながら、わたしは目を覚ました。
「カスリーン様、昼食です」
起こしてくれたのは、侍女のバニーだった。
夢から覚めてしまったことが悲しくて、わたしは返事もできずにただ頷く。
昼食が出るということは、今日は夕食がないということだ。ただし、それはバニーが嫌がらせをしているということではない。彼女はいつも事務的な態度だし口調もキツいところがあるけど、わたしの食事を抜くようなことはしない。これは彼女の勤務時間に関係していて、昼勤務の日は夜に別の侍女に仕事を引き継いでいるのだ。その場合、夕食は必ずと言っていいほど持ってきてもらえない。
バニーが休みの日は、他の侍女が一日に一食だけ食事を運んでくる。また、食事を持たずにわたしの様子を覗きにくるだけの侍女もいる。皇太子殿下の愛妾であるわたしを、ただ見にくるのだ。ときには、心ない言葉もぶつけられる。
愛妾はこういういじめを受けるということを、この立場になってはじめて知った。正妃が決まれば、嫌がらせはもっとひどくなるかもしれない。
今日の昼食はサンドイッチと冷めたスープだった。ユーリ殿下が一緒のときは豪華な食事が出るが、彼が来ないと冷めたものばかり。冬にはスープが凍っていることもあった。そのときは、暖炉のそばに持っていき、溶かして飲むのだ。
わたしがユーリ殿下に報告しないから、嫌がらせが続いているのだろう。しかし、みじめすぎて彼に話すことはできなかった。
サンドイッチを食べてみると、ものすごくパサパサしているし、あまり味もしない。何日か前に焼かれたパンが使われているようだ。しかし、これはまだいい方。一度、パンにカビが生えていたこともある。
あのときはいつもと違い、侍女が三人やって来て、わたしが食べ終えるのを待っていた。そしてわたしがカビの生えたパンを気づかずに食べ、吐き出す姿を見て、彼女たちはクスクスと笑ったのだ。
一月ほど前には、食べられない物を出されたことまである。思い出したくないほど最悪な出来事だった。
今日のサンドイッチは、少なくともカビていない。美味しいとは思えないけれど、残さず食べた。最近はどんな味を美味しいと感じるのかも思い出せなくなっている。
食べ終えるとバニーが食器を下げ、部屋から出て行こうとした。
わたしは彼女に声をかける。
「いろいろありがとう」
バニーは「いえ」とだけ言って出て行く。
そこでわたしは、ふと一年前の出来事を思い出した。
――その日、バニーはガチャガチャと音を立てて食器を並べていた。いつもは音を立てずに皿を並べる彼女にしては、珍しいことだ。
どうしたのだろうと思って眺め、彼女の腕に包帯が巻かれていることに気づいた。
「バニー、怪我をしてるの? 今日は休めばよかったのに」
彼女が休めば、代わりに、ひどい嫌がらせをする侍女が食事を持ってくることになる。けれど、怪我をしている人を働かせたくはない。
「いえ、わたしはあなた様と違って、働かないと家族への仕送りに困りますから」
明らかに、愛妾をしているわたしに対しての嫌味だ。はじめのうちは気にしていた嫌味も、その頃には聞き流すようになっていた。それに、嘘は言われていない。
それはともかく、仕送りに困るという話を聞いては、放っておくこともできない。
「腕を見せて」
「えっ?」
バニーが訝しげな顔をしたが、わたしは構わず手を差し出した。
「腕を見せなさい」
わたしが命令口調に変えたので、バニーはしぶしぶ腕を出す。包帯を取ると、火傷の痕が腕全体に広がっていた。包帯は火傷を隠すために巻いていたようだ。
「これはひどいわ。城のお医者様には診てもらったの?」
バニーは首を横に振って答える。
「治療費を払えませんから」
「このままでは痕が残るし、腕が使えなくなる恐れもあるわ。診てもらった方がいいわよ。就業時間中の怪我だったら、お金はかからないって聞いたけど」
「誰に見せてもわかるでしょう。これは侍女の仕事でできる火傷ではありません」
嘘をついたら解雇される、とバニーは怯えていた。でもこのまま何もしなければ悪化するだろう。腕が使えなくなったら、侍女として働けなくなってしまう。
そこでわたしは、治癒魔術を使うことにした。わたしが比較的得意な魔術。
攻撃魔術はあまり得意ではない。威力が強くなりすぎてしまうのだ。制御が上手にできなくて、いつも失敗しては父様に叱られていた。
火をおこすだけの魔術を使おうとして、屋敷の裏にあった小さな山の木を半分くらい燃やしたこともある。あのときはさすがに落ち込んだものだ。
バニーの腕に手をかざすと、淡い緑の光が腕を包み、火傷を治していく。数秒で、元の綺麗な肌に戻った。
「これなら休まなくてもいいわね」
「あ、ありがとうございます」
バニーは目を見開いて、自分の腕を見ていた。
心のこもったお礼の言葉ではなかったけれど、あの日からバニーは嫌味を言わなくなったのだった。
バニーは、なぜか治癒魔術のことを誰にも言わなかったようだ。わたしは誰からも、魔術について尋ねられていない。そのことにホッとした。
実は、治癒魔術を使える人は多くない。わたしが治癒魔術を使えることは、家族だけの秘密にする約束なのだ。
わたしの曾祖母は、この魔術のせいで死んでしまった。実家のある街で災害が起きたとき、みんなが曾祖母に助けを求めたらしい。彼女は怪我人を助けるために魔力を使い、最後には魔力切れで亡くなったそうだ。
曾祖父が男爵になれたのは、曾祖母の功績によるという。しかし彼は、『貴族になんかなれなくてもいいから、妻に帰ってきてほしい』と、亡くなる直前までずっと言っていたと聞いたことがある。
父様には、家族以外に話さないようにと、厳しい声で何度も言われてきた。特に二十歳になるまでは――という話だったので、ユーリ殿下にも言っていない。二十歳になったら彼にこっそり打ち明けようと思っていたのだ。
治癒魔術のことは秘密だとわかっていても、バニーを見捨てることはできなかった。彼女はわたしに優しいわけではないけれど、この二年間でまともに接してくれた数少ない人の中の一人なのだ。
彼女は少なくとも、わたしの世話をしてくれた。誰もが嫌がって避けている、わたしの世話を。
バニーが去ったことを確かめてから、ここを出る支度をはじめる。
本当はユーリ殿下と話し合うべきだろうけれど、今は冷静に話ができる気がしない。それに、彼に言いくるめられ、今以上に囲われるかもしれないと思うと恐ろしい。決意が鈍らないうちに、できるだけ早く出て行こう。
まずは鞄を取り出す。この鞄は、見た目は小さいけれどいくらでも入る魔術が施されたもの。大きな鞄だと、出て行くときに怪しまれる可能性があるので、こういうときは便利だ。この鞄はわたしが小さい頃に祖父がくれたものだった。
ここに住むようになったときも、この鞄だけ持って、たった一人でここへ来た。
「でも、持っていくものって、あまりないのよね」
二年前から鞄に入れたままの宝石や舞踏会用のドレスは、そのままでいいだろう。宝石は祖母の形見で、ドレスは実家から持ってきたものだ。舞踏会に出席できないわたしには必要ないものだから、二年間、鞄から取り出さなかった。
この鞄から取り出したものは、貯めていたお金と普段着用のドレス、あとは化粧品だけ。
愛妾というのは贅沢三昧できると思っている人もいるだろうが、そうではないことを身をもって知った。
舞踏会に行けないからか、ドレスや宝石をもらったことはない。家からあまり出ないように言われていて、外出といえば、侍女に頼んでたまに城下街へ連れて行ってもらったくらい。城下街を歩く際に周囲から浮かない服は、男爵家にいたときに貯めていたお金で買った。一年前にそのお金が底をついて以降、城下街には行っていない。
お金を使い果たしたとき、祖父が亡くなった際に形見分けでもらった祖母の宝石を売ることも考えた。けれど愛妾が宝石を売るなんて、たとえ殿下からもらったものでなくても、噂になったら困ると考えて、やめたのだ。
「どこで暮らすにしてもお金が必要になるから、いよいよ手放すことになりそうね……」
鞄から取り出した宝石を眺めて呟く。宝石を買い取ってくれる店は以前、城下街に遊びに行ったときにバニーに教えてもらった。
この宝石を売って、親友のスーザンに会いに行きたい。
そしてできるなら、ダリーを探したい。もし彼が困っていたら、助けたいのだ。彼には絶対に何か事情があると思うから。
でもスーザンと違って、夢の中でしか会ったことのないダリーの居場所はわからない。黒髪に黒い瞳、貴族のような格好をしていたので、きっと他国の貴族だと思うのだけれど。
スーザンは各国の紋章に詳しいから、あの夢で見た紋章について聞いてみよう。
「スーザンに会いたい」
スーザンは、ダリーの次に友達になった子だ。わたしが殿下の愛妾になると知ったとき、彼女はとても驚いていた。そして、不幸になるからと大反対した。
とはいえ、男爵令嬢に皇太子からの求愛を断れるわけがないこともわかっていたのだろう。最後に会ったときには、優しくこう言ってくれた。
「カスリーンが愛妾になったら滅多に会えなくなるけど、困ったことがあったらいつでも言ってね」
少なくともスーザンだけはわたしの味方でいてくれる。彼女の言葉に心底ホッとしたのだ。
その後スーザンは、婚約者のヴィック・マーチ子爵と結婚したと聞いた。お祝いの手紙を送ったが、返事は受け取っていない。手紙を出すときにバニー以外の侍女に頼んだので、届けてもらえなかったのかもしれない。
「ヴィックのことはわたしも知ってるし、会いに行っても追い返されることはないわよね」
会いに行って、話を聞いてもらおう。彼女には昔、ダリーの話をしたことがある。彼女はわたしの夢の話を馬鹿にしないで聞いてくれたから、きっと一緒に考えてくれるはず。
鞄には自分が持って来たドレスを数着だけ入れた。この家での思い出の品を持って行こうと思ったけれど、持って行けるものは何もなかった。
ここに来たばかりの頃、ユーリ殿下が贈り物をしてくれたことがある。チョコレートや花、クマのぬいぐるみだった。嬉しくて、わたしはチョコレートを一日に一個ずつ大切に食べた。
でもそれらの贈り物は、数日でどこかに消えた。この部屋に出入りできる鍵を持っているのは、ユーリ殿下以外は侍女だけだから、侍女に捨てられたのだろう。
あのクマのぬいぐるみも、箪笥の上に飾らずにこの鞄の中に入れていたら、侍女に捨てられることもなかったのに。
気持ちは沈んだが、思い出の品なんてなくてよかったと思い直す。だって、未練が残るもの。
ユーリ殿下とのことは、もう過去のこと。これからはお話しするときも殿下と呼ぶようにしないといけないんだわ。
荷物の整理を終えると、城下街散策用に二年前に買ったドレスに着替える。これなら、愛妾だとバレて城の門で止められることもないだろう。
鞄を肩にかけ、二年間暮らした家を後にした。
城を出るときはドキドキした。でも、入るときほど厳しい検査はなく、あっさりと通された。
あまりにもあっけない対応に、こんなことで大丈夫なのかしらと思ったくらいだ。
一年ぶりの城下街は、あまり変わっていなかった。秋らしい冷たい風が吹く中、石畳の上を早足で歩いていく。
バニーに聞いた、宝石の買い取りをしている店はすぐに見つかった。そこの店主に宝石を何個か渡したところ、金貨六十枚に換えてもらえるという。
バニーと城下街で買い物をしたとき、金貨一枚で平民の三人家族が一ヶ月は生活できると聞いたことがある。六十枚もあれば、スーザンのところへ行く費用を払っても、当分お金に困ることはない。
わたしは換金をお願いし、このお金で旅の支度をすることにした。
スーザンの住む街ガレーンに行くには、乗合馬車を使う必要がある。数日かかる場所のはずだから、その間の食べ物は自分で用意しないといけない。
まずパン屋で、美味しそうなハチミツパンを買う。そしてパン屋の隣にある服屋で、フード付きのマントを買った。これなら万が一、馬車で寝ることになっても、布団がわりにできる。
その他にも細々としたものをいくつか買い、乗合馬車の切符売り場に並ぶ。思ったよりもお客が少ないようだ。
切符売り場のおばさんいわく、ガレーンの街へは馬車を乗り継いで夜通し進んでも、四日かかるらしい。
わたしが一人で旅をすると知ると、おばさんは「夜は宿に泊まる方がいい」とすすめてくれる。そうすると七日もかかるけど、女の一人旅は危険だと言われたのでおばさんの忠告に従うことにした。
それに、最近はガレーンに行く街道に山賊が出るという。そのため、みんな遠回りをして行くそうだ。遠回りをする乗合馬車は、今日の便がもうないと言われた。切符売り場に人が少なかったのは、そのせいだろう。
その話を聞いて、わたしは焦った。
今日のうちに出発しないと、ユーリ殿下に見つかり、城に連れ戻されてしまうかもしれない。
「どうしても今日、帝都を出発したいのです。何か方法はありませんか?」
そうおばさんに迫ると、彼女はしばらく考えた後、「少しばかり危険だけど、それでもよければ」と、隣街まで行く冒険者一行の馬車を紹介してくれた。
さらにおばさんは、その街からガレーンまでの馬車の乗り継ぎ方法から、宿の泊まり方、評判のいい宿まで親切に教えてくれた。結局この切符売り場では何も買わないことが、申し訳なくなる。
「よくしてくださって、ありがとうございます。何も買わずに申し訳ありません」
「いいよ、いいよ。普段はここまでおせっかいはしないんだけどね。なんだかお嬢さんは危なっかしくて、見ていられなくてね」
そしておばさんは、「いい旅を」と笑顔で言ってくれる。
そういえば、一人旅ははじめてだ。生まれ育った街から帝都へは、家族と一緒に馬車に乗って来た。社交界デビューのためだったが、まさかそこでユーリ殿下に見初められることになるなんて、夢にも思っていなかった。
するとそのとき、遠くから声が聞こえ、街は一気に騒がしくなった。
「皇太子殿下が通られるぞ」
その言葉に、鼓動が大きく跳ねる。
まさか、わたしが城を出たことをユーリ殿下に気づかれたのだろうか? それで、捜しに来たの?
馬の蹄の音が聞こえてくると、歓声が湧き上がった。
切符売り場のおばさんも、背伸びをして様子を眺めている。
「何が起きているのですか?」
おばさんにおそるおそる尋ねると、彼女は少し驚いたように教えてくれた。
「あんた、知らないのかい。皇太子様は時々、こうして城下を見回りしてくれるのさ。城壁の確認や城の結界が綻びてないかを確認するために出かけるときの、ついでみたいだがね」
ユーリ殿下がそんなことをしているなんて、まるで知らなかった。
殿下に気づかれないように、わたしは買ったばかりのマントのフードを深く被る。そうして、群衆の中から彼の姿を見た。
「ユーリ殿下!」
若い女の子たちが、黄色い声で彼の名前を叫んでいる。
正装したユーリ殿下は、わたしには見せたことのない笑顔で、手を振って歓声に応えた。
「キャー!」
わたしは今まで殿下という男性のことを何も見ていなかったのだと気づかされ、愕然とした。よく考えればこの二年間、彼の正装姿すら見たことがない。
わたしはあそこで歓声を上げている彼女たちよりも、ユーリ殿下のことを知らないのかもしれない。
そのことに気がついても、わたしは悲しみすら感じなかった。
殿下はわたしに気づくこともなく去って行く。
彼の顔を見たら離れる決心が鈍るかもと思っていたけれど、実際には背中を押される形となった。
「お嬢さん、急がないと馬車が出てしまうよ」
去っていくユーリ殿下を見つめていると、おばさんが声をかけてくる。
「おばさん、親切にしてくれて本当にありがとうございました」
お礼を言って、馬車が停まっているという方向に走った。馬車に乗れば、すべてが終わる。これでよかったのだ。
切符売り場のおばさんが紹介してくれた馬車は、すぐに見つけることができた。
その馬車は冒険者たちが隣街へ行く道に出る山賊を退治するために乗るものだという。そういったことは騎士団の仕事だと思っていたが、冒険者も依頼があれば行うらしい。
彼らはこの馬車を、山賊をおびき寄せるための囮にするのだという。一般女性が乗ることで囮らしくなるし、わたしが防御魔術を使うという条件で、無料で隣街まで連れて行ってもらえることになった。
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一緒に乗る人たちはみんな冒険者だと聞いたけれど、とてもそのように見えない。確かに体格のいい無骨そうな人が多いが、十歳くらいの子供もいる。あの子も冒険者なのかしら?
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