†魔剤戦記†

ベネト

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第2章 剤と愛に飢えし者たち

第4話 狩人の胎動

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クリスマスを三日後に控えた、剤皇街から数キロメートル離れた地であるこのエデンで、間諜に勤しむ二つの人影があった。

 その体躯を容易に覆い尽くすほどの鶯色のフードを目深に被り、猫背気味に頭を垂れながら、獲物を物色するかの様に、右へ、左へ、頸を回して視界に飛び込んでくる事象の悉くを鋭く睨むのは、真西魔沙斗であった。

 その後方には悠々と腕を頭部の後ろで組み、大股で堂々と闊歩する神次。

「相変わらず酷い有様だな。」

「あぁ!?わりぃ魔沙斗、もっかいいってくれ!」

 クリスマスという騒擾の日が近いということもあり、あちらこちらで乱痴気騒ぎが繰り広げられている。あたり構わず飛び交う罵声や、キチガイじみた色彩を帯びた甲高い奇声の弾幕に身を晒していた二人にとって、声量を下げる必要など微塵もなかった。むしろ、通常の声量ではこうして意思疎通に困難を感じるほどである。

「終わってるってことだ」

 茂みの中に放置されている、小鹿と思しき生物の切断された生首を認知した魔沙斗が、疲労が色濃く滲み出ている声色で憎々しげに絞り出す。なにせエデンは伏魔殿からは六キロメートルほど隔たっている。当然、公共交通機関などはほとんど機能しておらず、護衛を務める器が、その安全の保障と引き換えに膨大な金銭を徴収する阿漕な旅客運送のサービスが交通を独占している。彼らに払うのに十分な金などは持っていないし、そもそも例え比類なき大金を所持していたとしても、魔沙斗は彼らに対してはびた一文支払う気はなかった。

 そのため、数キロメートルに渡る道のりを徒歩でやってきたのだ。特筆するほど長大な距離ではなかったが、道中にて邂逅する、酔っ払いや目をギラギラに光らせた物乞いなど、取るに足らない如何わしい羊達を時には軽くいなし、時には灸を据えてノシながらの旅路は決して楽なものではなかった。その証拠に、エデンに着いた頃には両者とも重い倦怠感が肩にずっしりとのしかかっていた。

「羊に学ぶ権利を!羊の尊厳を守り、暴虐の器たちを打ち倒せ!」

 先ほどよりも一つ一つの発音をはっきりと、母音を強調して発音した魔沙斗の声であったが、後方を歩く神次の耳にこそ届くことはなく、それはエデンの構内の十字路における一角を占拠している集団が発した、メガホンを通して拡大された罵声で掻き消された。

 エデンの正面入り口から歩く事一分ほどの十字路の中心付近、数多もの落伍者や無頼が行き交う往来の結節点。常に発火する可能性を孕んだ魔と魔が出逢う、死の十字路。
そこに立ち、メガホンを握って意気揚々と演説を行っている人間の隣には、神次と似た雰囲気を漂わせる筋肉の塊のような巨大な陰が起立していた。

 魔沙斗にとってはこの集団が高らかに語る理想が滑稽で滑稽で仕方がなかった。羊の権利と器の打倒を謳っておきながら、その背後に聳え立っている巨軀の正体は、間違いなく用心棒であり、器であろう。

 器の根絶を理想として語りつつ、その実器に身の安全を保障してもらっているのだ。用心棒と思しき大男が背後で炯々と目を光らせているという、ただそれだけが故にこの羊はこの人外の魔境において無事にその生を保っているのだろう。さもなければ、すぐにでもエデンに犇く怪魔の如き器たちの欲望の捌け口となっているだろうに。

 そう思うと、どこまでも人任せで、欺瞞と矛盾に満ちたこの男に対しての憤怒がふつふつと湧きあがるのを感じた魔沙斗であった。権利とは、与えられるのを待つのではなく勝ち取るものだ。
 そう忌々しげに心の中で呟くと、魔沙斗はフードより侮蔑の一瞥を投げかけるだけでその場を後にした。

 今己にとって最も肝要たる使命は、『ソロモンの鍵』の力を宿した強力無比なる器の抹殺。そして、そのための土台である、己の血液という特効武器のデモンストレーション。
 言ってしまえば器の力を宿した人間の抹殺という行為の予行練習である。羊などを相手にしているだけ時間の無駄だ。

 コンラートがやってくるというクリスマスの日、その真偽は定かではないものの、仮にファウストでの書き込み通りに奴がこの混沌の渦中に包まれる聖日のエデンにくるとなれば、間違いなく事が大きく動く。そんな予感を確かに抱いていた。

「なぁ、本当にそれらしきやつなんているのか?」

 騒音による会話の難儀さに痺れを切らした神次が、首を前に突き出すと、魔沙斗の耳元に顔を近づけて聞いた。

「いるんじゃなくて、探すんだ。手頃な器を見つけ出して、葬る。俺は自らの血を以って戦わないといけないからな。あまり滅多に戦うことはできないし、極力戦いは避けないとならん」

「じゃあ、なんでこうも戦いに飢えてます!みたいな感じなんだ?」

「散々話しただろうが。血を使った戦闘なんてまず思いつかない。一度やってみないと要領が掴めないからだ」

 耳元で行われている会話すら掻き消すほどの喧騒が、無遠慮にあちこちで木霊しているのと、同じことを再度説明しなくてはならない煩わしさに苛立ちを感じていた魔沙斗であったが、ふと後方より罵詈雑言の嵐をつんざくように轟いた声に意識を取られた。

「ド腐れ羊野郎が!この世は弱肉強食なんだよ!」

 先ほどの演説を行っていた羊に向けられたものだろう。訳アリ共が這い回る庭と化したエデンの構内では、風が吹き荒ぶ音や罵り合いや暴言などは至極当たり前のbgmであったが、その荒々しい物言いは先ほどまでの落伍者や社会不適合者共のものとはまた違う、傍若無人さを漂わせる色彩を帯びていた。

「おい、見ろよ魔沙斗!めっちゃバチバチだぞ?」

「どうせ悪魔崇拝者の集団だろ。放っておけ」

 振り返るまでもない。それが僅か一、ニ秒のうちに魔沙斗の下した決断であった。好奇に満ちた提案を軽く一蹴され、神次が不満げに口を尖らせる。

 どうせ衝突や騒擾の類が勃発したのだろう。その証拠に激しい奇声と悲鳴に混じり、骨が砕ける様な歪な音が後方より響いて、鼓膜を震わせた。何も驚く様な事でもなかった。魑魅魍魎が往来する十字路の交差点において、その主張を異にする過激な集団があいまみえれば、それが二つの火打ち石のように対立の火種を飛ばすことは火を見るよりも明らかだからだ。

 恨むのならば、己の愚かさでも悔いていろ──

 散らされた火花の中、必然的に発生するその敗者に向けてそう心の中で嘲弄する。いや、勝者すらにも等しくその侮蔑は向けられていた。

 衝突の経緯やその結果など、取るにならない些末な事項であった。この場において最優先されるのは、餌食となる哀れな器ただ一人の捜索。。羊でもなければ、強大な器でもない。

先ほどの羊や悪魔崇拝者の集団は、深く思考を巡らせるまでもなくこれらの条件から除外された。それは即ち、彼らは魔沙斗にとっての興味関心の埒外に置かれたことを意味する。

 狙いを定める対象は、ただ一種類のみだ───

 所々が畑の畝の如く抉れたアスファルトの床に散乱する魔剤の潰れた空缶や、やさぐれだった者たちからすれ違い様に投げかけられる敵愾心に満ちた視線をどこ吹く風に、ずんずんと空を切り拓くような前のめりな猫背のまま、構内の薄汚れた路地を直進してゆく魔沙斗。

 かつては羊として、自衛という目的のみで護身の術や、殺戮に巻き込まれないための世渡りの術のみを専らにしてきた魔沙斗にとって、はじめて、己の手で器を殺めるという計画は凄まじい重みを持つものであり、剤皇街警察署で砕かれたそのアイデンティティを、決定的に崩壊せしめる境界線であった。そして今、その境界線の向こう側の住人となるために、ハイエナの如き殺意に満ちた視線を辺り一帯に、遺漏なくかつ明敏に巡らせている。
 
 睨めつけるようなその瞳の奥に宿るのは、恐怖。そして同時に、尋常ならざる高揚感。
 その昂りと言ったら、生物としてDNAに刻まれた狩猟本能を直に刺激し、悦びから危うく射精してしまうところであった。

 上着のポケットから持参したエクソダスの小瓶を取り出すと、気付けとしてそのまま直にぐいと一口煽る。焼けつくような刺激が喉を枯らし、疲労で鈍くなった思考と本能を強制的に冴え渡らせる。

 ("去勢された羊”でもない。獅子の如く取り繕って生きる、”虚勢の羊”でもない。俺はまさにいま、獅子そのものとなって器を狩るーー)

 突如、はっきりと見定めていたはずの視界が強い衝撃と共に左斜めに激しく揺さぶられ、手に持っていたエクソダスの小瓶が落下、そして右腕に感じる痛み、瓶が割れる軽快な音...

「ちっ、ッてぇ...!」

 魔沙斗の浮ついた妄想の世界に水を刺した存在は、魔沙斗の負傷した右手を突き飛ばしたことなど目にも暮れず、一目散にエデンの構内の袋小路へと疾風の如く走り抜けていった。

 その瞬間、魔沙斗は双眸に嗜虐の炎を抱かせた。一つ、あの男は俺に大義を与えた。痛みを与えたものは、相応の痛みを受けるべきだ。包帯の中でズキズキと痛む右腕を押さえつけながらも、魔沙斗の内心には報復という大義を与えられたことによる充足感が芽生えていた。

「待てッ...!そのカバンには僕の素晴らしい研究成果が入ってるんだ!君みたいな凡夫の器に渡していいものではないんだよ!?」

 遅れて、矮躯を疲労で震わせながら、ぜぇぜぇと肩で息をしつつ追いかける人影が、すでに先はどの男の姿などとうに消え失せた虚空へと叫ぶ。
 明らかに速さが釣り合っていない。先ほどの男がサバンナを生きる生物のように素早く、迷いのない走りを見せていたのに対し、それを追いかけて駈けてくる男の走りはフォームも体幹もぎくしゃくとしている。見るからに運動といったものに慣れていないと言った感じだ。

「あのヤロウ、オレの財布をくすねやがった!」

 後ろから、神次が獰猛な獣性を孕んだような怒声が聞こえた。

 二つ、続いて確信する。先ほどの男はひったくりであり、今自らの横を駆け抜けたこの眼鏡をかけた男と神次の荷物を奪ったということだ。それは何を意味するか。ひったくりという姑息な手段に訴えるほどの非力な存在であるということ。そして、その後を必死に追いかける男の発した、器という言葉。
 瞬時に情報のピースが脳内で組み上がり、衝動的な計画の青写真を描く。
 おそらくあれは、直接奪い取るだけの力を持たない、器の中でも最下層に置かれる存在。

 条件はこれ以上ないほどに揃った。記念すべき初の獲物にして初陣。

「神次、追いかけるぞ!」

「おう!あの先行き止まりだからな!!軽くぶちのめしてやるか!」

 獲物を捕捉した肉食獣の如く、バネのようにしなやかにその軀を駆動させた神次が、瞬く間に加速し、消えた男の影を追尾する。

 痛みの残る右腕を抑える左腕を離し、より効率的に空気を裂き、推進力へと変換するために大きく振りかぶる。陸上選手のようなフォームとなった魔沙斗も加速度的にその速度を上げてゆき、既に後塵を拝することとなってしまった神次の幻影を追尾する。

「僕のかき集めた優れた資料資材の数々は、君なんかの低級の器の手には余る!」

 その後ろを、息を切らしながらへろへろと追ってくるもう一人の被害者と思しき男。己自身の肉体ではなく、機構か何かでも操作しているかのようなぎごちない素振りからは、追尾しようとする気概といったものが全く感じられない。威勢のいい言葉を吐いてはいるものの、その容態を眺めてみると、その強い語気を孕んだ言葉はむしろ滑稽さを演出するためのギャップかのようにも思える。

 最早完全にバテている男を放って駆けているうち、やがて暗黙の喫煙スペースとなっている裏路地の区画に辿り着く。逃げた男が神次らの荷物を盗んだことなどは魔沙斗にとってどうでもよい些末なディテールであった。思考の向けられる先はただ一つ。
 
 そこには神次によってその首根っこをひっ捕まえられ、哀れにも密猟者の放った毒矢に当てられ、もがく小鹿のような哀れな男がいた。

「ほら魔沙斗、やるんだろ?」
 
 魔沙斗の姿を認識した神次がにやりと笑うと、乱暴にその閃光を帯びた手を男から放した。床面に投げ出された男がぜえぜえと呼吸を乱しながら、恐怖に引き攣った目線を神次に向け、額を擦り付けて懇願している。

「ゆ、許してくれ!このしばらく魔剤が飲めていなくて、死にそうなんだ!」

 だが、魔沙斗にとってその縋るような命乞いなど、まるで関心になかった。それはその度合いが弱かったとか、真西魔沙斗が血に飢えた生粋の戦闘狂であるとか、ひったくりという姑息な手段を用いる輩を許せなかったとか、決してそういった類ではない。

 己に降り掛かった魂消るような観念。それを振り祓うためには、『ソロモンの鍵』の力を持つ器を殺さなくてはならない。

 きっと、そのためには比類なき規模の血と臓物、暴力、そして殺戮が俺を阻むのだろうーーーーと、本能的に、これから起こりうる恐ろしい予感の数々を、冷え冷えとする感触と共に背に感じた魔沙斗にとって、これは越えなければいけない最初の関門であり、羊から、捕食者の側に回るための儀式であると確信されていた。

 故に、今眼前で恐怖に喘ぐこの男が命乞いの一環としていかに魅力的な条件を提示してきたとしても、決してその決意と殺意は鈍らなかったであろう。この怨霊の如く付き纏う観念から解放してやるとでも言われない限りは。

「おい、お前の相手はこの俺だ。
悪いが、俺の”捧げ物”となってもらわなくてはならん。恨むなら、その不運を恨んでくれ」

 己の不運を誰よりも恨みたいのは、他でもない俺自身だ。そう自嘲気味に笑うと、情けなく床面に座り込む相手と向かい合う位置に堂々と歩みを進め、不敵に笑う。
 その双眸ではっきりと、射抜くように”獲物”を見定めた魔沙斗は己の右腕、つまりは患部を覆う役割を果たしていた上着を脱ぎ捨てた...
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