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手をつなごう
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「俺、いつも人と手をつないでいないと、不安でしかたないんだ」
小学生のころ、そんなことを言う男子生徒がいた。
彼の名前はタミオ。クラスでもあまり目立つ存在ではなく、特に目を引く容姿でもない。だからいつでもその存在は皆から忘れられることが多かった。だが私だけは妙に彼のことが気になっていたから、いつも彼の行動を見つめていたのである。
見つめていても何か変わったことがあるわけではない。教室に入るとそのまま自分の席に座って地蔵のように動かない。
ただ昼休みになると彼は急変し、おかしな行動をとる。
誰彼かまわず、
「手をつなごう」
と、追い立てるのだ。
当然、皆は逃げるのだが、彼はそれを見て嬉しそうに笑う。逃げる方もそれをどこか楽しんでいるようにも見えた。
以来、彼は皆から変態扱いされるようになった。
タミオのことを観察していて気付いたことだが、どうやら彼は同じクラスのリョウコという女子に気があるようだ。暇さえあればいつも彼女の方を見ている。
まあ、彼女はクラスの中でもひときわ輝く存在であったから、それも不思議なことではないだろう。
しかし、あるとき彼女は何らかの事故に巻き込まれたらしく、学校に来なくなってしまった。何でも右手を負傷したということである。担任の先生もそれ以上のことは何も言わない。
タミオもさぞかし悲しんでいるだろうと思えば、けっしてそうではなかった。
彼は教室の中だというのにダウンジャケットを脱がずに、右手だけをいつもジャケットのポケットの中に突っ込んでいる。そして、あたかも幸福そうな顔をしているのだ。
何だ、別に彼女に気があったわけじゃなかったのか。ある種の期待が裏切られたような気持ちだった。
そんなある日の放課後のことだった。
生徒たちはいっせいに立ち上がり、我先へと教室から出ていった。
タミオは皆よりも後に立ち上がり、ランドセルを背負おうとしている。ジャケットのポケットから右手を出した。
そのときだった。
私の視界に飛び込んできたのは彼のジャケットのポケットから覗ける白いものである。見間違いでなければ、それは人の手だ。実際には何本かの指先だけしか見えなかったが、確かに人の手だった。
いつの間にか教室の中には私とタミオの二人しかいない。
タミオはふいに私の顔を見てニヤっと笑った気がした。
私は怖くなってその場から走って逃げた。
もう、無我夢中で走っていた。頭の中には先ほど見たポケットから覗けた人の手が鮮明に焼き付いていた。
タミオはポケットの中で、あの白い手を握っていたのかもしれない。あたかも幸せそうな顔をして。
そうだ。リョウコは右手を負傷したと先生は言っていた。もしかして私が見たあの白い手は……。
私はひたすら走り続けた。立ち止まったらすぐ後ろにタミオがいるような気がしたから。
これだけ怖い体験をしたにもかかわらず、私はその後のことをまったく覚えていない。いや、何もかも覚えていないというわけではない。その後のタミオに関することはすべて私の記憶から消えていたのだ。
私だけではない。クラスの皆はタミオという生徒がいたことさえ分からないようだった。皆の頭からタミオの記憶が削除されたように。
ただ、右手を負傷したリョウコはあれから学校に来ることなく、どこかへ引っ越したということだった。
あの出来事から既に三十年が過ぎようとしている。
私は十年間勤めた広告代理店を退社して今はフリーのコピーライターだ。都心から少し離れた場所にマンションを借り、そこで一人暮らしをしている。
仕事が一段落つくと冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲む。それが日課である。
その日も買い溜めしている缶ビールを飲んでいるとドアをノックする音がした。ここにはめったに人が訪ねてくることはない。いったい誰だろうと思いながらドアを開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。
「あのう、私、隣に越してきた者ですが、ご挨拶に伺いました」
「ああ、わざわざすみません」
「あのう……」
男は私の前に右手を差し出して、
「握手、いいですか?」
と、言った。
「握手、ですか……」
少し戸惑いながら私は男の顔を見た。
そのとき一瞬だが呼吸を忘れてしまった。
何故なら、その男の笑顔にタミオの面影を見たからである。
小学生のころ、そんなことを言う男子生徒がいた。
彼の名前はタミオ。クラスでもあまり目立つ存在ではなく、特に目を引く容姿でもない。だからいつでもその存在は皆から忘れられることが多かった。だが私だけは妙に彼のことが気になっていたから、いつも彼の行動を見つめていたのである。
見つめていても何か変わったことがあるわけではない。教室に入るとそのまま自分の席に座って地蔵のように動かない。
ただ昼休みになると彼は急変し、おかしな行動をとる。
誰彼かまわず、
「手をつなごう」
と、追い立てるのだ。
当然、皆は逃げるのだが、彼はそれを見て嬉しそうに笑う。逃げる方もそれをどこか楽しんでいるようにも見えた。
以来、彼は皆から変態扱いされるようになった。
タミオのことを観察していて気付いたことだが、どうやら彼は同じクラスのリョウコという女子に気があるようだ。暇さえあればいつも彼女の方を見ている。
まあ、彼女はクラスの中でもひときわ輝く存在であったから、それも不思議なことではないだろう。
しかし、あるとき彼女は何らかの事故に巻き込まれたらしく、学校に来なくなってしまった。何でも右手を負傷したということである。担任の先生もそれ以上のことは何も言わない。
タミオもさぞかし悲しんでいるだろうと思えば、けっしてそうではなかった。
彼は教室の中だというのにダウンジャケットを脱がずに、右手だけをいつもジャケットのポケットの中に突っ込んでいる。そして、あたかも幸福そうな顔をしているのだ。
何だ、別に彼女に気があったわけじゃなかったのか。ある種の期待が裏切られたような気持ちだった。
そんなある日の放課後のことだった。
生徒たちはいっせいに立ち上がり、我先へと教室から出ていった。
タミオは皆よりも後に立ち上がり、ランドセルを背負おうとしている。ジャケットのポケットから右手を出した。
そのときだった。
私の視界に飛び込んできたのは彼のジャケットのポケットから覗ける白いものである。見間違いでなければ、それは人の手だ。実際には何本かの指先だけしか見えなかったが、確かに人の手だった。
いつの間にか教室の中には私とタミオの二人しかいない。
タミオはふいに私の顔を見てニヤっと笑った気がした。
私は怖くなってその場から走って逃げた。
もう、無我夢中で走っていた。頭の中には先ほど見たポケットから覗けた人の手が鮮明に焼き付いていた。
タミオはポケットの中で、あの白い手を握っていたのかもしれない。あたかも幸せそうな顔をして。
そうだ。リョウコは右手を負傷したと先生は言っていた。もしかして私が見たあの白い手は……。
私はひたすら走り続けた。立ち止まったらすぐ後ろにタミオがいるような気がしたから。
これだけ怖い体験をしたにもかかわらず、私はその後のことをまったく覚えていない。いや、何もかも覚えていないというわけではない。その後のタミオに関することはすべて私の記憶から消えていたのだ。
私だけではない。クラスの皆はタミオという生徒がいたことさえ分からないようだった。皆の頭からタミオの記憶が削除されたように。
ただ、右手を負傷したリョウコはあれから学校に来ることなく、どこかへ引っ越したということだった。
あの出来事から既に三十年が過ぎようとしている。
私は十年間勤めた広告代理店を退社して今はフリーのコピーライターだ。都心から少し離れた場所にマンションを借り、そこで一人暮らしをしている。
仕事が一段落つくと冷蔵庫から缶ビールを取り出して飲む。それが日課である。
その日も買い溜めしている缶ビールを飲んでいるとドアをノックする音がした。ここにはめったに人が訪ねてくることはない。いったい誰だろうと思いながらドアを開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。
「あのう、私、隣に越してきた者ですが、ご挨拶に伺いました」
「ああ、わざわざすみません」
「あのう……」
男は私の前に右手を差し出して、
「握手、いいですか?」
と、言った。
「握手、ですか……」
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