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3章
決定
しおりを挟む突然触れられた麻耶は驚いて目を見開く。戦っていた際に婀娜な流し目を寄越していた垂れた目は、ルイの治療痕こそないが瞼も腫れ、擦って赤くなり涙で濡れて痛々しい。
抵抗もできない麻耶の目を真っ直ぐに見つめながらルイは憐れむでも否定するでもなく、ただ事実を述べた。
「レイは治療できる…と思う。僕であれば」
「ち…ちりょう…?」
「うん。レイは僕が救おう。ただ、大きな手術になる。目覚めたばかりで体力も力も戻ってないんだ。しばらくはレイ自身の浄化に任せて、回復次第治療を始めようと思う。だから、ここにいてほしい」
「は…」
レイの真っ直ぐすぎる目を受け止めきれず麻耶は視線をずらす。
「レイが治療できることは喜ばしいが…それに、俺のことは関係ない…」
「あるだろ」
やんわりとルイのことを押し返す麻耶の太腿に片喰が手を置く。
麻耶はびくりと肩を震わせて視線だけを片喰に向けた。片喰は困ったように微笑んで麻耶の髪を掻き上げた。自分から触ることには躊躇いがなさそうだった麻耶が怯えて身を竦ませる。
「レイが目覚めたとき、お前がいなかったらレイが困るだろ。お前が迎えてやれよ。レイはまだ死んでない。生きてるんだぞ」
「で…でも…レイは、ルイがいれば……」
「はぁ、こりゃあ鈍ちんだな」
片喰とルイは顔を見合わせて苦笑する。
ルイは何と言うかを考えて、麻耶を解放するとなるべく優しく声をかけた。
「…麻耶。もう十年以上も一緒にいる人が、目覚めた時に死んでいたら僕は悲しいよ。僕たちのような能力持ちは救えなかったことをきっと後悔する。レイもきっとそうだ。生きていてほしい」
麻耶の腕に力が入る。
「生きるのは、その体では…苦しいかもしれない。でも、麻耶に生きる意思があるなら、レイが目覚めるまで生きていてくれない?」
「ふっ……ぅ…」
麻耶の喉から嗚咽が漏れる。
どこまでも枯れることを知らない涙が、力の入った手と太腿に添えられた片喰の手に落ちた。
「俺が…生きる、のは…っ、俺だけでは…」
「うん。もちろん僕の治療を受けてもらうよ。ここで暮らしてくれる?僕の治療はレイと比べても負担が大きいし、毒にも気をつけないといけない。麻耶も大変かもしれないけど…でも、レイのために生きてるんでしょ?レイは目覚めるんだからまだ生きとかなきゃね」
なるべく茶目っ気を含ませ、幼い子供を相手するようにルイは笑顔で声をかけ続ける。
麻耶は体を丸めると膝の上のたくあんを力一杯抱きしめ、嗚咽を噛み殺した。
「俺ァ…お前らを、殺しかけてるンだぞ…なんで、こんな……」
「うーん、まぁ、そもそも身内のことだし…それに、僕はお医者さんだからね!…それに、片喰さんは僕の…えっと……恋人だから。僕のこと、応援してくれるでしょ?」
「当然だろ。お前、そのなり、アジサイの国出身だろ?具合悪いとき粥飯とか作ってやるよ。俺、アジサイの料理詳しいんだ」
「……………」
麻耶はその後、長い間沈黙していた。
顔をたくあんに埋めて、息を整えているようにも思考を巡らせているようにも見えた。時折呻きのような小さな嗚咽が漏れ出る。ただ、泣いているだけかもしれない。
ルイも片喰もそっと見守ることに決めて、ふたりはティーセットを洗うとこれから麻耶を入浴させるための着替えを用意した。
側に服が置かれた気配に麻耶は身じろぎする。
「……………い…きてて、いいのか…?おれァ……レイを、待つ…権利、を…もらっても……」
小さな呟きを聞き逃すことはない。
ルイと片喰はほとんど同時に、光の速さで返事をした。
「当たり前だよ」
「当たり前だろ」
被った台詞にルイと片喰はまた顔を見合わせて笑う。
麻耶はたくあんを下ろして顔を上げると、ふたりの前に歩み出て深々と頭を下げた。
「過去のことを清算してもらうつもりも……許してもらうつもりもねェ。俺が、貴方がたを殺しかけたことも…レイの過ちも。償い切れるかはわからねェが……できることはやる。レイと、俺を…お願いします、ドクター。世話になります、片喰藤さん」
言い切って顔を上げた麻耶はもう泣いていなかった。
アジサイの国、日本を舞台にした国の男はNPCも皆人情あふれる義理深いキャラクター設定だ。麻耶がそうかはわからないが、奴隷でもなんでもやり出しそうな面構えは悪くなかった。
ルイは嬉しそうに微笑み、片喰は満足そうに笑う。
「それじゃあ、僕は日が高いうちにちょっと古城を見てくるよ。レイがいなくて困るエクリプサーは麻耶だけじゃないからね。週に一度は往診しなきゃ。サチルにも挨拶行かなきゃね」
ルイはいくつかポーションを取り出すと一息で飲み干した。
ぼんやりと社畜時代を思い出しながら止める術もなく片喰は複雑そうな顔をする。
「あぁ、そうか…確かにたくさんいたな。俺も…」
「片喰さんは麻耶とレイのこと見ておいて。帰りは十字架で戻るし遅くはならないよ。あと、アスクと…」
そこでタイミングよくアスクがリビングに顔を出した。
不貞腐れていても怒ってはいなさそうな表情で、アスクが今までの話を聞いていたのは一目瞭然だった。
「あっ、アスク…」
「…大丈夫、一緒に暮らすんでしょお?噛んだりしないって!」
「聞いてたの?入ってくればよかったのに」
アスクは麻耶の前まで這っていくと舐めるように見下ろした。
麻耶は一瞬体を強張らせたが、怯むこともなくアスクを見上げる。噛みつかれても仕方がないと考えているようだ。
「あの…ラピア」
「…アスク。ホテプと共通の名前で呼ばないでよね」
「申し訳ねェ…」
アスクは大きなため息をついて頭を麻耶の高さまで下げた。
戸惑う麻耶に血よりも赤い瞳で手を上げるように促す。
「え?ホテプとやってないの?仲良し」
「な…な…仲良し?」
「アスク、それはうちだけの文化だよ…」
アスクは麻耶に額の鱗を触らせる。
ホテプと対話らしい対話ができたことがない麻耶はそもそも話が通じることに驚きながら鱗を何度か撫でた。
「ドクターが言ってたんだ。人間が撫でるのは仲良しだよって。だから、もう怒ってない。ホテプは許してないけど、しょうがないからまやとレイは許した!」
アスクは駄々っ子のように言い放つと踵を返して病院の方へ消えていった。
残された麻耶は撫でていた手の形のまま呆然とその尾を見送る。
「…なんか、ホテプとは随分違うなァ…」
「そうかもね。ホテプは異端だからなぁ」
苦笑したルイはもう身支度を整えていた。
麻耶は慌ててたくあんの首根っこを掴むとルイに差し出す。
「たくあん使ってくれ。レイが生きてるうちは使えるはずだ。飛ぶのが速いから下手なカムレヴァより速ェよ」
「ありがとう。いいかな?たくあんくん」
「ぴっぴ!」
ルイはたくあんに乗って古城まで向かっていく。
窓すら開けていなくて気が付かなかったが、雪が積もった一面の銀世界は晴れ渡った日の光を反射して輝いていた。見送りについてきた麻耶は目を細めて唇を引き結ぶ。
「麻耶、風呂入れよ。その格好じゃ寒いだろ」
「あァ、具合がいいうちにいただくとするよ」
麻耶は用意された着替えを大切に抱きしめて風呂場へと向かった。
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