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1巻
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そうだ。よくある話だ。過去の文献にも残っているし、映画でも漫画でも小説でもよくある設定だ。
動揺する小町をよそに、ボアラは淡々と言葉を続けてきた。
「ああ、でも前世のあなたは結婚後に猫を飼いはじめていらっしゃいます。黒猫です。旦那様は猫を不衛生だと仰っていて、気に入らなかったようです。しかしあなたはその猫をとても可愛がっていて、猫と二人で生活しているような状態だったようですから、完全な孤独とはまた違ったかもしれませんね」
黒猫! もうすべてが夢と同じじゃないか。これはいよいよ、あの夢は前世の記憶!?
心当たりのあることをズバズバと言われて、動揺している自分がいる。
彼女が本当に前世が見えるのであれば、あの夢の続きを教えてほしい。夢ではまだ見ていないだけで、あのあと幸せになったという可能性だってあるかもしれないじゃないか。
ドキドキしながら続きを待った。
「飼い猫が寿命で亡くなった後、生きる気力を失ったあなたは、風邪をこじらせて肺炎に罹り、三十二歳の若さで生涯を終えられました。前世ではとにかく男性に無縁の一生だったようです」
一気に心が萎える。
(終わり!? 前世のわたしの一生もう終わり!? ちょっと早くないですか!? ラブロマンスはなしですか!?)
そこはもう、夫がある身でありながら、庭師とか書生とか使用人とかといった素敵な殿方と想いを通わせる――そういった身分差も盛り込んでの、身を焦がす禁断の恋なんていう、ドラマティックな展開を用意しておいてくれてもいいじゃないか。何もなしで肺炎で死亡だなんて、あまりにも悲しすぎる。
「……えっと、つまり、前世のわたしは、夫に振り向いてもらえず飼い猫に依存する、『猫だけが生きがいの非モテ女子』、ってことですか!?」
思わず声に出して、次の瞬間にはハッとした。今とそうたいして変わりないじゃないか。いや、むしろそのほうが悪くなっているかもしれない。夫に振り向いてもらえなくても、前世の自分は結婚という永久就職をしている。にもかかわらず、今現在の自分は、失業者。無職である。しかも、嫁にもらってくれるアテもない。
非モテはしょうがなくても、無職は努力でどうにかできるはずだろう。と、いうかどうにかしなくては、今後の生活が立ち行かなくなる。彼氏どころの話じゃない。実家に強制送還だ。
(……しゅ、就職活動頑張らなきゃ……うん……)
露骨に肩を落とした小町を慰めるように、ボアラは続けた。
「安心してください。前世でそうだったからといって、現世でもそうなるとは限りません。あなたにはちゃんと出会いの相が出ていますよ」
「ほ、本当ですか!?」
思わず声を上げていた。
出会い!? 二十三年間彼氏ナシの生活に、遂に終止符が打たれるのか!? 自然と期待が高まる。
「はい。あなたは前世で縁があった方と現世で結ばれます。前世では悪縁に阻まれて結ばれることはなかったお二人ですが、現世では必ず。とにかく相手の方の想いがとても強いのです。あなたのことを幸せにしたいという想いが。ああ……なんて一途な方なんでしょう……時を超えてもあなたを想っておられる」
占いは所詮占いじゃないか。他人が勝手に言うことなんて、そうそう信じられるものじゃない。と、心のどこかで思いながらも、小町は自分にとって都合のいいところだけを信じようとしていた。
自分には出会いがある。しかも自分のことを想ってくれている人――その部分だけを。
「いつですか? いつ、その人と出会いますか?」
やや興奮して身を乗り出すと、ボアラは逆に身を引いた。
「た、たぶん……年内には……」
年内とはこれまた大雑把だ。今はまだ三月。一年は始まったばかりじゃないか。何月何日とまでは言わないから、せめて季節や出会う場所のヒントなんかをもらえると非常にありがたいのだが。しかしこの占いはボアラの練習なのだ。見習い占い師である彼女には限界があるのかもしれない。
「年内……そうなんですね。ありがとうございます。楽しみです!」
前世から縁のある人だなんて、まるで『運命の人』みたいじゃないか。
小町だって年頃の女だ。自分には『運命の人』がいるだなんて言われれば、そわそわしてしまうのも致し方ない。
小町が期待に胸を膨らませて微笑むと、ボアラは握っていた手を離した。
「あなたは今でも猫がお好きのようですね。ああ、さっき雑誌の猫を写真に撮っていらしたので、勝手にそう思ったんですけれど」
ここで初めて彼女が顔を上げた。前髪の隙間からちらっと目元が覗く。やっぱり若い女性だ。目元の肌にははりがある。小町と歳も変わらないように見える。色白で、頬に少しそばかすがあった。
彼女は元から低い声のトーンを更に低くした。
「……猫は絶対に飼わないほうがいいですよ。せっかくの男運が下がってしまいます。前の旦那さんも猫はお好きじゃないようでしたから。猫はあなたにとっての鬼門です」
「え゛っ!?」
にゃんということだ。好きで好きでしょうがない猫が鬼門だなんて。
「あなたはお相手を間違わなければ必ず幸せになれる方なんです。猫で躓いてはいけません」
思いもよらない言葉に戸惑っていると、カーテンの向こうから梓が出てきた。
「お待たせ、小町」
「梓! う、占いはもう終わったの?」
小町は咄嗟に立ち上がった。
「うん! 終わったよ。それで今から買い物に行きたいんだけど。買い物も付き合ってもらっていいかなぁ?」
「買い物? うん、もちろん一緒に行くよ」
小町は挨拶しようと、ボアラのほうに視線をやった。
だが、彼女はもうそこにはいなかった。
「占い、何かいいアドバイスもらえた?」
占いの館を出たところで、小町は梓に尋ねた。占い師に何を言われたのか、館を出てからの彼女はとても嬉しそうだ。
「うん! 私、ジムに通ってみる!」
「えっ、ジム?」
予想外の答えに思わず聞き返すと、梓は占いの詳細を教えてくれた。
もともと、梓と彼女の想い人である稲森さんとの相性はいいらしい。ただ、いまひとつ決め手に欠けている。そこでジムに通って身体を鍛えると、稲森さんのほうからアプローチしてもらえるのだと、占い師が言ったそうなのだ。
「……それって稲森さんは……筋肉ムキムキの女性が好きってこと?」
言い表せない不安に駆られてしまう。確かに筋肉質の女性が好みな男の人もいるだろうが、梓は本当に女性らしい柔らかな雰囲気の子なのだ。筋肉質の女性とは対局のところにいて、あまりにもイメージが違う。
「それはわからないけど、ほら私って運動不足じゃない? 健康のためにもジム通いって悪くないと思うの」
「そ、そうかもしれないけど……」
梓はすっかりやる気になっている。彼女が付き合ってほしい買い物というのは、ジム用のシューズやウェアなのだそうだ。
(あ、梓ってこんなに行動力ある人だったっけ?)
梓の勢いに押されて、小町は彼女の買い物に最後まで付き合った。
「ありがとう! 小町!! すごく可愛いウェアが買えたよ~」
「うん、似合ってたと思うよ。それで通うジムはどこにするの?」
「とりあえず、職場の駅近くにジムがいくつかあった気がするから、覗いてみる」
「そっか。いいところが見つかるといいね」
西川駅で梓と別れた小町は、ふとスマートフォンを出して時間を見た。十八時半。スーパーに寄って帰ろうかとも思ったが、占いの館で梓を待っている時に雑誌で読んだ猫カフェが脳裏をかすめる。
(猫カフェ……行っちゃおうかなぁ~)
猫を飼うと男運が下がるだの、猫は鬼門だのと言われても、好きなものは好きなのだ。否、むしろダメと言われると余計に猫への愛情が募る。
明日は就職の面接があることだし、猫に癒されて英気を養ってもばちは当たらないはず……
撮影した雑誌の画像を見ると、営業時間は二十時までと書いてある。今から行けば、十九時には着くはずだ。それに猫は夜行性。猫カフェに行くなら今くらいの時間がベストである。
(よし、決めた! 行っちゃおう!)
小町は撮影していた地図を頼りに、猫カフェへと足を向けた。
「いらっしゃいませ~」
十分もしないうちに、西川駅の裏手にある猫カフェに到着した。
小町を出迎えてくれたのは、幼稚園の先生を思わせる可愛らしいピンクのエプロンを着けた、三十代半ばくらいの女性店員だ。
「当店は初めてでいらっしゃいますか?」
「はい」
頷けば、ラミネート加工された紙を一枚差し出される。
「こちらが当店の注意事項となっております。同意してくださる方のみ入店していただけます」
書いてある注意事項は、飲食物の持ち込みは禁止、寝ている猫を無理やり起こさない、無理に抱っこしない、追いかけ回さない、驚かせないといった、猫カフェとして基本的なものだ。猫を撮影するのは自由らしい。
「わかりました。大丈夫です」
「ありがとうございます。では、手の消毒をさせてください。お荷物はこちらのロッカーをご利用いただけます。最初の利用時間は一時間です。延長は十分単位です」
アルコールスプレーで手を除菌される。
小町はスマートフォンだけを手に持ち、ショルダーバッグとスプリングコートを壁に並んだロッカーに入れた。そして二重になったドアをくぐって店内に入る。
二色カーペットが交互に敷き詰められた店内は横に広い造りで、中央にキャットタワーが鎮座していた。ソファは三つ。そしてメインである可愛らしい猫たちが、いたるところに合計十匹もいた。人より猫の数のほうが多い。壁には、このカフェで会うことができる猫スタッフを紹介した、写真付きの手作りパネルが飾ってある。カウンターでは猫のおやつがワンパック百円で販売中。アットホームで、実に雰囲気のいいカフェだった。
(うわぁ~猫ちゃんがいっぱい~)
興奮して、思わず声に出したくなるのをぐっと堪える。猫を驚かせてはいけないのだ。
店内では様々な毛色の猫がそれはもう好き勝手にしていた。ある者は籠の中に丸くなって眠り、ある者はキャットタワーを活発に上下し、ある者は店員に甘えて擦り寄る。
小町は自分の顔が緩むのを止められなかった。ここは天国か!? 今すぐあのにゃんこたちの中に飛び込んで、遊んでもらいたい!
小町がにやけ顔で一番手前のソファに座ると、男の人が二人いるのが視界に入った。二人共後ろ姿だったが、一人はさっきの女性店員と色違いのエプロンをしていることから、店員なのが一目瞭然だ。
もう一人はカジュアルスーツを着ている。先客だろうかとも思ったのだが、その人はカウンターにスケッチブックを広げて、男性店員と何かを話していた。
距離があるから話している内容は当然聞こえない。だが、スーツの男の人がスラックスのポケットからメジャーを取り出して壁の長さを測り出したところで、小町はさっきの女性店員を捕まえた。
「もしかして、改装でもするんですか?」
家の近くにこんなに素敵な猫カフェがあるのならぜひとも通いたい。しかし、改装をするのならしばらく休みになるかもしれないと思ったのだ。
案の定、女性店員は少し眉を下げて頷いた。
「そうなんです。猫スペースと喫茶スペースをわけることになって。それで今日は、喫茶スペースに入れる家具の相談に、家具屋さんに来てもらっているんです」
「ああ、それで……」
ではあのスーツの男の人は家具屋さんなのか。さっきから部屋のあちこちを測って、メモしているのは家具のサイズを決めるためなのだろう。
「楽しみですね」
小町がそう言うと、女性店員が可愛らしい笑顔を見せてくれた。
「ありがとうございます。しばらくお休みになるんですが、そのあとは飲食メニューも増える予定なんですよ。ご期待ください」
「いいですね~。あ、猫ちゃんが来てくれた」
足元に、丸い顔に丸い目をしたスコティッシュフォールドがやって来た。耳を可愛くちょんと折っていて、毛は綿あめのようにふわふわだ。小町に興味を持ってくれたのか、わりと物怖じせずに近付いてくる。
「かわいい~~」
「この子はトッキーという名前で、二歳の男の子です」
女性店員の紹介を聞きながら、小町はソファから下りてカーペットの上に座った。スマートフォンで、早速写真を撮る。トッキーは小町の膝に前足を乗せて、スマートフォンに付いた猫の尻尾を模したフェイクファーのストラップを目で追っていた。
「あ、ストラップが気になるのかな?」
「そうみたいですね」
小町がストラップを左右に振ると、トッキーの顔も左右に揺れる。その仕草に悶絶しそうになった時、男性店員が女性店員を呼んだ。
「ユイさーん。ちょっといい?」
「あ、はい――すみません。ゆっくりしていってください」
「はい。ありがとうございます」
返事をしつつ、小町はトッキーの身体をわしゃわしゃと撫で回した。両手からほのかな温かさが伝わってくる。彼も小町を気に入ってくれたのか、膝の上に乗ってきた。
(可愛い~っ。幸せ~)
どうして自分は猫を飼えないんだろう。こんなに猫が好きなのに。
実家の家族が猫アレルギーで、今住んでいるマンションがペット禁止なのは仕方ないにしても、占いで猫を飼わないほうがいいと言われたのは納得できない。将来猫と暮らすのは、小町の夢なのだ。
(ああ~猫やっぱりいいわ。癒される。猫飼いたい。うん、占いなんか関係ない。いつか絶対猫を飼う!)
「猫、いいですよね」
自分が思っていることとまったく同じことを言われ、驚いて顔を上げると、目の前にカジュアルスーツの男の人がいた。さっきまで男性店員と話していたあの彼だ。足音がしなかったから、いつ目の前に来たのかも気が付かなかった。
(うわ……かっこいい人……)
背は高いが柔らかな物腰で、威圧感はまったくない。さらっとした黒髪で色白。鼻筋がスッと通っていて美形だ。切れ長の猫目は凛々しく知的で、年は二十五歳より少し上くらいか。ネクタイこそないものの、真面目な仕事人間といった雰囲気が漂う男の人から話しかけられて、小町は一瞬息を呑んだ。思わずぽーっと見惚れてしまう。
三ヶ月前まで働いていた会社にも、ここまで顔立ちの整った男の人はいなかった。いや、今まで出会ったどんな男の人よりもかっこいい。
「ね?」
同意を求められ、小町はようやく我に返った。素敵な男の人に急に話しかけられたせいか、心臓がやたらとドキドキしている。
小町は驚きながらも、少し緊張した笑みを浮かべた。
「そ、そうですね。可愛いし……ほんと……猫は好きです。猫飼いたいけど、ペット禁止のマンションだし、親は猫アレルギーだし、飼えなくて……だから猫カフェに……」
彼は何度か頷いて、アクリル板が置かれた天井を指差す。
「俺も猫好きです。ここの内装は俺がやらせてもらったんですが、嬉しくて。天井にアクリル板があるの見えますか? 猫が歩くと下から肉球が見られるようになってるんです。肉球……堪らないので」
天井にアクリル板を仕込んで下から肉球を見てやろうなんて、それこそ四六時中、猫のことを考えている人の発想なんじゃないだろうか。見た目はいかにも仕事できますといった感じなのに、彼の頭の中は猫でいっぱいなのかと思うと、そのギャップにやられてしまう。小町はいつの間にかふにゃっと笑っていた。
「雑誌で見ました。だからこのカフェに来たんです」
「あ、そうなんですか? ありがとうございます。嬉しいです」
彼はぺこっと会釈をして、「やっぱり目玉になる設備は有効なんだなぁ」なんて独りごちている。彼が小町に話しかけてくれたのは、一種の顧客調査のようなものなのだろう。
「猫、本当にお好きなんですね」
「ええ。好きです」
彼は小町の膝の上で丸くなっていたトッキーの首元を撫でてきた。しかし、トッキーは目を片方開け、じっと彼を見たかと思ったら、スッと立ち上がって小町の膝から下りてしまう。
「……男に撫でられると逃げるなんて、君は女好きなのか……」
トッキーに逃げられたのがショックだったのか、真顔でそんなことを呟く彼がおかしくって堪らない。笑ってはいけないと思いつつも笑ってしまう。小町が口元を隠しながら肩を小刻みに震わせていると、彼がふわっと微笑んだように見えた。
「あなたはどんな猫が好きですか?」
「どんな猫……う、うーん。改めて聞かれると、どんな……というのはないですね。みんな可愛いです。猫が側にいてくれると、こう……落ち着くというか。ほっこりするというか」
うまく答えられなかったが、彼も明確な答えを求めていたわけではないようだ。
「わかります。見ているだけで心が安らぐ存在ってありますよね。ああ、隣に座ってもいいですか?」
「え? ええ、どうぞ」
彼はストンと小町の隣に腰を下ろした。急に隣に来られたが、嫌な気はしない。
「ここ、よく来られるんですか?」
「いえ。初めてで……」
二人で並んで話していると、男性店員が近くにやって来た。
「柴崎さん。やっぱりさっき提案してもらった棚をお願いしようかな」
「はい、わかりました。ありがとうございます。搬入の日程が決まりましたら改めてご連絡します」
「じゃあ、よろしく。――そちらの綺麗な人はお知り合い?」
綺麗な人だなんて言われて驚いていると、彼――柴崎は小さく首を横に振った。
「いえ。初めてお会いした方です。ちょっとお話しさせてもらっていただけで」
「ああ、そうなんだね。今日は他にお客さんもいないし、ドリンクサービスしますよ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
なんだか店の人に気を使わせてしまったようで申し訳ない。小町が頭を下げると、男性店員は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「気にしないでください。柴崎さんが話してるから知り合いなのかと思っちゃって。ゆっくりしていってください。もう打ち合わせは終わったし、柴崎さんも時間があるならゆっくりしてって」
「どうも」
先ほどユイさんと呼ばれていた女性店員が、アイスコーヒーを持ってきてくれる。それを柴崎と並んで飲みながら猫の魅力について話をしているうちに、小町はなんだか不思議な気持ちになっていった。
(……この人、クールなのかな……あんまり笑わないけど……素敵な人……なんだか落ち着く)
柴崎はあまり表情を変えないタイプのようだ。笑ったように見えたのはさっきの一度だけである。しかし、声のトーンが柔らかいお陰で、きつい印象はない。猫たちに向ける視線も優しさに満ちている。
彼は本当に猫が好きなんだろう。店にいる猫の種類を全部当てたり、背中が白くてお腹が黒い猫はほとんどいないなんていう雑学的なことまでよく知っていた。
「猫の髭が生えているあのぷっくりしたところが堪らないっていうひげぶくろ派と、ピンクの肉球こそが最高だっていう肉球派がいるというんですが、俺は断然肉球派ですね」
「アクリル板を天井に設置してしまうくらい?」
「そうです。ま、本当は全部好きなんですけれどね。香箱座りをしてる時の猫の足も絶妙ですよ」
「あ~それわかります! 器用に折りたたんでますよね~。それに狭い箱の中にも綺麗に入っちゃったり!」
「箱を見たら入らないといけないって、DNAに刻み込まれているんでしょうね。ん? 壁一面をボックスで造ったら猫的にはどうだろう。人間が使う棚は扉付きにするとか……ちょっと考えてみようかな」
猫という共通の話題があるせいか、自然と会話が弾む。気が付くとあっという間に入店から一時間が経っていた。
「あ。そろそろ帰らなくっちゃ」
小町が猫のおもちゃを置いて立ち上がると、柴崎はゆっくりと顔を上げた。どうやら彼は猫によって人間椅子にされ、動くに動けないようだ。あぐらをかいた上に三毛猫を乗せて、じっと小町を見つめてくる。首を傾げた時、彼の綺麗な黒い前髪がさらりと流れたのが印象的だった。
「……もう、帰るんですか?」
表情は大きく変わらないまでも、その残念そうな声に少し後ろ髪を引かれる。でもそこは気にしても仕方がない。何せ彼とは今日初めて会ったばかりなのだ。確かにいい人だし、さらさらの黒髪や声のトーンなんかちょっと好みとは思うが、これ以上の距離を踏み込むのはさすがに躊躇われる。
それ以前に、男性経験のない小町には、どう距離を詰めればいいのかわからないのだけれど。
「はい、買い物もあるので。お話できて楽しかったです。ありがとうございました」
小町がぺこりと頭を下げると、彼もまた同じように頭を下げてくる。
「いえ。俺も楽しかったです。また――」
「ええ、また――」
また――とは言いながらも、次に会う約束はしなかった。彼は仕事でこのカフェに来ていただけ。小町も常連ではなく初めて来ただけ。再会の可能性は限りなく低い。「また」というのが社交辞令にすぎないことはわかりきっている。
料金を払った小町は、振り返って柴崎と店員、そして猫たちに向かって小さく手を振ると、猫カフェをあとにした。
スーパーで買い物をして帰り、シャワーを浴びて晩ご飯を作る。今夜のメインはサーモンのタルタルホイル焼きだ。
アルミホイルに塩コショウをした生鮭を置き、上からタルタルソースとピザ用チーズをこれでもかと乗せ、グリルで十五分ほど焼けばでき上がりというお手軽料理だ。ホイル焼きと同時に、カボチャ、キャベツ、ベーコンをコンソメで煮込む。こちらは一日目を煮物に、二日目をスープにして食べるとおいしい。
料理は嫌いじゃない。母親がお嫁に行った先で困らないようにと、料理と掃除だけはきっちりと仕込んでくれたのだ。腕を振るう相手がいないのが悲しいところだが。
「ごちそうさまでした、っと」
残った料理を冷蔵庫に入れて洗い物をしていると、スマートフォンが着信を告げる。
今日はよく電話がかかってくる日だ。また梓だろうか?
「はいはいはーい、ちょっと待ってね~。今出ま~す」
タオルで手を拭きながら、画面をちらっと見た。そこに出ていた名前に「ゲッ」と思いはしたものの、しぶしぶ電話に出る。そして耳に入ってきたのは、スマートフォンを遠ざけたくなるくらいの大声で――
「遅いわよ! 小町!」
「お、お母さん!」
電話の主は小町の母だ。母親が急に電話をかけてくる時は、何かお小言だと相場が決まっている。だが電話を無視するわけにはいかない。そんなことをしたら、両親揃ってこのマンションまで飛んで来るのは火を見るよりも明らかなのだ。
「……な、何? どうかした?」
「どうかしたじゃないわよ! あんた、仕事は決まったの? お家賃も無駄なんだから、いい加減実家に帰って来なさい!」
「……」
やっぱりお小言だったか。一気に気が重くなった。
勤め先が倒産してからというもの、せっつくように帰って来い帰って来いと言われている。家賃が無駄なのは理解しているが、家に帰ったが最後、自由はなくなる。
一人娘だし、可愛がられているのはわかるのだが、さすがに過保護で過干渉というのは居心地が悪い。
この電話をどう切り抜けたものかと考えつつ、小町は手に持っていたタオルを捏ねくり回しながら、ベッドの上に腰を下ろした。
「仕事はまだ……一応、明日また面接を受けることにはなってるケド……」
「そうは言っても、今のご時世なかなかいい仕事はないでしょ。お父さんがあんたにいい話を持ってきてくれたわよ。今日はそれで電話したの」
動揺する小町をよそに、ボアラは淡々と言葉を続けてきた。
「ああ、でも前世のあなたは結婚後に猫を飼いはじめていらっしゃいます。黒猫です。旦那様は猫を不衛生だと仰っていて、気に入らなかったようです。しかしあなたはその猫をとても可愛がっていて、猫と二人で生活しているような状態だったようですから、完全な孤独とはまた違ったかもしれませんね」
黒猫! もうすべてが夢と同じじゃないか。これはいよいよ、あの夢は前世の記憶!?
心当たりのあることをズバズバと言われて、動揺している自分がいる。
彼女が本当に前世が見えるのであれば、あの夢の続きを教えてほしい。夢ではまだ見ていないだけで、あのあと幸せになったという可能性だってあるかもしれないじゃないか。
ドキドキしながら続きを待った。
「飼い猫が寿命で亡くなった後、生きる気力を失ったあなたは、風邪をこじらせて肺炎に罹り、三十二歳の若さで生涯を終えられました。前世ではとにかく男性に無縁の一生だったようです」
一気に心が萎える。
(終わり!? 前世のわたしの一生もう終わり!? ちょっと早くないですか!? ラブロマンスはなしですか!?)
そこはもう、夫がある身でありながら、庭師とか書生とか使用人とかといった素敵な殿方と想いを通わせる――そういった身分差も盛り込んでの、身を焦がす禁断の恋なんていう、ドラマティックな展開を用意しておいてくれてもいいじゃないか。何もなしで肺炎で死亡だなんて、あまりにも悲しすぎる。
「……えっと、つまり、前世のわたしは、夫に振り向いてもらえず飼い猫に依存する、『猫だけが生きがいの非モテ女子』、ってことですか!?」
思わず声に出して、次の瞬間にはハッとした。今とそうたいして変わりないじゃないか。いや、むしろそのほうが悪くなっているかもしれない。夫に振り向いてもらえなくても、前世の自分は結婚という永久就職をしている。にもかかわらず、今現在の自分は、失業者。無職である。しかも、嫁にもらってくれるアテもない。
非モテはしょうがなくても、無職は努力でどうにかできるはずだろう。と、いうかどうにかしなくては、今後の生活が立ち行かなくなる。彼氏どころの話じゃない。実家に強制送還だ。
(……しゅ、就職活動頑張らなきゃ……うん……)
露骨に肩を落とした小町を慰めるように、ボアラは続けた。
「安心してください。前世でそうだったからといって、現世でもそうなるとは限りません。あなたにはちゃんと出会いの相が出ていますよ」
「ほ、本当ですか!?」
思わず声を上げていた。
出会い!? 二十三年間彼氏ナシの生活に、遂に終止符が打たれるのか!? 自然と期待が高まる。
「はい。あなたは前世で縁があった方と現世で結ばれます。前世では悪縁に阻まれて結ばれることはなかったお二人ですが、現世では必ず。とにかく相手の方の想いがとても強いのです。あなたのことを幸せにしたいという想いが。ああ……なんて一途な方なんでしょう……時を超えてもあなたを想っておられる」
占いは所詮占いじゃないか。他人が勝手に言うことなんて、そうそう信じられるものじゃない。と、心のどこかで思いながらも、小町は自分にとって都合のいいところだけを信じようとしていた。
自分には出会いがある。しかも自分のことを想ってくれている人――その部分だけを。
「いつですか? いつ、その人と出会いますか?」
やや興奮して身を乗り出すと、ボアラは逆に身を引いた。
「た、たぶん……年内には……」
年内とはこれまた大雑把だ。今はまだ三月。一年は始まったばかりじゃないか。何月何日とまでは言わないから、せめて季節や出会う場所のヒントなんかをもらえると非常にありがたいのだが。しかしこの占いはボアラの練習なのだ。見習い占い師である彼女には限界があるのかもしれない。
「年内……そうなんですね。ありがとうございます。楽しみです!」
前世から縁のある人だなんて、まるで『運命の人』みたいじゃないか。
小町だって年頃の女だ。自分には『運命の人』がいるだなんて言われれば、そわそわしてしまうのも致し方ない。
小町が期待に胸を膨らませて微笑むと、ボアラは握っていた手を離した。
「あなたは今でも猫がお好きのようですね。ああ、さっき雑誌の猫を写真に撮っていらしたので、勝手にそう思ったんですけれど」
ここで初めて彼女が顔を上げた。前髪の隙間からちらっと目元が覗く。やっぱり若い女性だ。目元の肌にははりがある。小町と歳も変わらないように見える。色白で、頬に少しそばかすがあった。
彼女は元から低い声のトーンを更に低くした。
「……猫は絶対に飼わないほうがいいですよ。せっかくの男運が下がってしまいます。前の旦那さんも猫はお好きじゃないようでしたから。猫はあなたにとっての鬼門です」
「え゛っ!?」
にゃんということだ。好きで好きでしょうがない猫が鬼門だなんて。
「あなたはお相手を間違わなければ必ず幸せになれる方なんです。猫で躓いてはいけません」
思いもよらない言葉に戸惑っていると、カーテンの向こうから梓が出てきた。
「お待たせ、小町」
「梓! う、占いはもう終わったの?」
小町は咄嗟に立ち上がった。
「うん! 終わったよ。それで今から買い物に行きたいんだけど。買い物も付き合ってもらっていいかなぁ?」
「買い物? うん、もちろん一緒に行くよ」
小町は挨拶しようと、ボアラのほうに視線をやった。
だが、彼女はもうそこにはいなかった。
「占い、何かいいアドバイスもらえた?」
占いの館を出たところで、小町は梓に尋ねた。占い師に何を言われたのか、館を出てからの彼女はとても嬉しそうだ。
「うん! 私、ジムに通ってみる!」
「えっ、ジム?」
予想外の答えに思わず聞き返すと、梓は占いの詳細を教えてくれた。
もともと、梓と彼女の想い人である稲森さんとの相性はいいらしい。ただ、いまひとつ決め手に欠けている。そこでジムに通って身体を鍛えると、稲森さんのほうからアプローチしてもらえるのだと、占い師が言ったそうなのだ。
「……それって稲森さんは……筋肉ムキムキの女性が好きってこと?」
言い表せない不安に駆られてしまう。確かに筋肉質の女性が好みな男の人もいるだろうが、梓は本当に女性らしい柔らかな雰囲気の子なのだ。筋肉質の女性とは対局のところにいて、あまりにもイメージが違う。
「それはわからないけど、ほら私って運動不足じゃない? 健康のためにもジム通いって悪くないと思うの」
「そ、そうかもしれないけど……」
梓はすっかりやる気になっている。彼女が付き合ってほしい買い物というのは、ジム用のシューズやウェアなのだそうだ。
(あ、梓ってこんなに行動力ある人だったっけ?)
梓の勢いに押されて、小町は彼女の買い物に最後まで付き合った。
「ありがとう! 小町!! すごく可愛いウェアが買えたよ~」
「うん、似合ってたと思うよ。それで通うジムはどこにするの?」
「とりあえず、職場の駅近くにジムがいくつかあった気がするから、覗いてみる」
「そっか。いいところが見つかるといいね」
西川駅で梓と別れた小町は、ふとスマートフォンを出して時間を見た。十八時半。スーパーに寄って帰ろうかとも思ったが、占いの館で梓を待っている時に雑誌で読んだ猫カフェが脳裏をかすめる。
(猫カフェ……行っちゃおうかなぁ~)
猫を飼うと男運が下がるだの、猫は鬼門だのと言われても、好きなものは好きなのだ。否、むしろダメと言われると余計に猫への愛情が募る。
明日は就職の面接があることだし、猫に癒されて英気を養ってもばちは当たらないはず……
撮影した雑誌の画像を見ると、営業時間は二十時までと書いてある。今から行けば、十九時には着くはずだ。それに猫は夜行性。猫カフェに行くなら今くらいの時間がベストである。
(よし、決めた! 行っちゃおう!)
小町は撮影していた地図を頼りに、猫カフェへと足を向けた。
「いらっしゃいませ~」
十分もしないうちに、西川駅の裏手にある猫カフェに到着した。
小町を出迎えてくれたのは、幼稚園の先生を思わせる可愛らしいピンクのエプロンを着けた、三十代半ばくらいの女性店員だ。
「当店は初めてでいらっしゃいますか?」
「はい」
頷けば、ラミネート加工された紙を一枚差し出される。
「こちらが当店の注意事項となっております。同意してくださる方のみ入店していただけます」
書いてある注意事項は、飲食物の持ち込みは禁止、寝ている猫を無理やり起こさない、無理に抱っこしない、追いかけ回さない、驚かせないといった、猫カフェとして基本的なものだ。猫を撮影するのは自由らしい。
「わかりました。大丈夫です」
「ありがとうございます。では、手の消毒をさせてください。お荷物はこちらのロッカーをご利用いただけます。最初の利用時間は一時間です。延長は十分単位です」
アルコールスプレーで手を除菌される。
小町はスマートフォンだけを手に持ち、ショルダーバッグとスプリングコートを壁に並んだロッカーに入れた。そして二重になったドアをくぐって店内に入る。
二色カーペットが交互に敷き詰められた店内は横に広い造りで、中央にキャットタワーが鎮座していた。ソファは三つ。そしてメインである可愛らしい猫たちが、いたるところに合計十匹もいた。人より猫の数のほうが多い。壁には、このカフェで会うことができる猫スタッフを紹介した、写真付きの手作りパネルが飾ってある。カウンターでは猫のおやつがワンパック百円で販売中。アットホームで、実に雰囲気のいいカフェだった。
(うわぁ~猫ちゃんがいっぱい~)
興奮して、思わず声に出したくなるのをぐっと堪える。猫を驚かせてはいけないのだ。
店内では様々な毛色の猫がそれはもう好き勝手にしていた。ある者は籠の中に丸くなって眠り、ある者はキャットタワーを活発に上下し、ある者は店員に甘えて擦り寄る。
小町は自分の顔が緩むのを止められなかった。ここは天国か!? 今すぐあのにゃんこたちの中に飛び込んで、遊んでもらいたい!
小町がにやけ顔で一番手前のソファに座ると、男の人が二人いるのが視界に入った。二人共後ろ姿だったが、一人はさっきの女性店員と色違いのエプロンをしていることから、店員なのが一目瞭然だ。
もう一人はカジュアルスーツを着ている。先客だろうかとも思ったのだが、その人はカウンターにスケッチブックを広げて、男性店員と何かを話していた。
距離があるから話している内容は当然聞こえない。だが、スーツの男の人がスラックスのポケットからメジャーを取り出して壁の長さを測り出したところで、小町はさっきの女性店員を捕まえた。
「もしかして、改装でもするんですか?」
家の近くにこんなに素敵な猫カフェがあるのならぜひとも通いたい。しかし、改装をするのならしばらく休みになるかもしれないと思ったのだ。
案の定、女性店員は少し眉を下げて頷いた。
「そうなんです。猫スペースと喫茶スペースをわけることになって。それで今日は、喫茶スペースに入れる家具の相談に、家具屋さんに来てもらっているんです」
「ああ、それで……」
ではあのスーツの男の人は家具屋さんなのか。さっきから部屋のあちこちを測って、メモしているのは家具のサイズを決めるためなのだろう。
「楽しみですね」
小町がそう言うと、女性店員が可愛らしい笑顔を見せてくれた。
「ありがとうございます。しばらくお休みになるんですが、そのあとは飲食メニューも増える予定なんですよ。ご期待ください」
「いいですね~。あ、猫ちゃんが来てくれた」
足元に、丸い顔に丸い目をしたスコティッシュフォールドがやって来た。耳を可愛くちょんと折っていて、毛は綿あめのようにふわふわだ。小町に興味を持ってくれたのか、わりと物怖じせずに近付いてくる。
「かわいい~~」
「この子はトッキーという名前で、二歳の男の子です」
女性店員の紹介を聞きながら、小町はソファから下りてカーペットの上に座った。スマートフォンで、早速写真を撮る。トッキーは小町の膝に前足を乗せて、スマートフォンに付いた猫の尻尾を模したフェイクファーのストラップを目で追っていた。
「あ、ストラップが気になるのかな?」
「そうみたいですね」
小町がストラップを左右に振ると、トッキーの顔も左右に揺れる。その仕草に悶絶しそうになった時、男性店員が女性店員を呼んだ。
「ユイさーん。ちょっといい?」
「あ、はい――すみません。ゆっくりしていってください」
「はい。ありがとうございます」
返事をしつつ、小町はトッキーの身体をわしゃわしゃと撫で回した。両手からほのかな温かさが伝わってくる。彼も小町を気に入ってくれたのか、膝の上に乗ってきた。
(可愛い~っ。幸せ~)
どうして自分は猫を飼えないんだろう。こんなに猫が好きなのに。
実家の家族が猫アレルギーで、今住んでいるマンションがペット禁止なのは仕方ないにしても、占いで猫を飼わないほうがいいと言われたのは納得できない。将来猫と暮らすのは、小町の夢なのだ。
(ああ~猫やっぱりいいわ。癒される。猫飼いたい。うん、占いなんか関係ない。いつか絶対猫を飼う!)
「猫、いいですよね」
自分が思っていることとまったく同じことを言われ、驚いて顔を上げると、目の前にカジュアルスーツの男の人がいた。さっきまで男性店員と話していたあの彼だ。足音がしなかったから、いつ目の前に来たのかも気が付かなかった。
(うわ……かっこいい人……)
背は高いが柔らかな物腰で、威圧感はまったくない。さらっとした黒髪で色白。鼻筋がスッと通っていて美形だ。切れ長の猫目は凛々しく知的で、年は二十五歳より少し上くらいか。ネクタイこそないものの、真面目な仕事人間といった雰囲気が漂う男の人から話しかけられて、小町は一瞬息を呑んだ。思わずぽーっと見惚れてしまう。
三ヶ月前まで働いていた会社にも、ここまで顔立ちの整った男の人はいなかった。いや、今まで出会ったどんな男の人よりもかっこいい。
「ね?」
同意を求められ、小町はようやく我に返った。素敵な男の人に急に話しかけられたせいか、心臓がやたらとドキドキしている。
小町は驚きながらも、少し緊張した笑みを浮かべた。
「そ、そうですね。可愛いし……ほんと……猫は好きです。猫飼いたいけど、ペット禁止のマンションだし、親は猫アレルギーだし、飼えなくて……だから猫カフェに……」
彼は何度か頷いて、アクリル板が置かれた天井を指差す。
「俺も猫好きです。ここの内装は俺がやらせてもらったんですが、嬉しくて。天井にアクリル板があるの見えますか? 猫が歩くと下から肉球が見られるようになってるんです。肉球……堪らないので」
天井にアクリル板を仕込んで下から肉球を見てやろうなんて、それこそ四六時中、猫のことを考えている人の発想なんじゃないだろうか。見た目はいかにも仕事できますといった感じなのに、彼の頭の中は猫でいっぱいなのかと思うと、そのギャップにやられてしまう。小町はいつの間にかふにゃっと笑っていた。
「雑誌で見ました。だからこのカフェに来たんです」
「あ、そうなんですか? ありがとうございます。嬉しいです」
彼はぺこっと会釈をして、「やっぱり目玉になる設備は有効なんだなぁ」なんて独りごちている。彼が小町に話しかけてくれたのは、一種の顧客調査のようなものなのだろう。
「猫、本当にお好きなんですね」
「ええ。好きです」
彼は小町の膝の上で丸くなっていたトッキーの首元を撫でてきた。しかし、トッキーは目を片方開け、じっと彼を見たかと思ったら、スッと立ち上がって小町の膝から下りてしまう。
「……男に撫でられると逃げるなんて、君は女好きなのか……」
トッキーに逃げられたのがショックだったのか、真顔でそんなことを呟く彼がおかしくって堪らない。笑ってはいけないと思いつつも笑ってしまう。小町が口元を隠しながら肩を小刻みに震わせていると、彼がふわっと微笑んだように見えた。
「あなたはどんな猫が好きですか?」
「どんな猫……う、うーん。改めて聞かれると、どんな……というのはないですね。みんな可愛いです。猫が側にいてくれると、こう……落ち着くというか。ほっこりするというか」
うまく答えられなかったが、彼も明確な答えを求めていたわけではないようだ。
「わかります。見ているだけで心が安らぐ存在ってありますよね。ああ、隣に座ってもいいですか?」
「え? ええ、どうぞ」
彼はストンと小町の隣に腰を下ろした。急に隣に来られたが、嫌な気はしない。
「ここ、よく来られるんですか?」
「いえ。初めてで……」
二人で並んで話していると、男性店員が近くにやって来た。
「柴崎さん。やっぱりさっき提案してもらった棚をお願いしようかな」
「はい、わかりました。ありがとうございます。搬入の日程が決まりましたら改めてご連絡します」
「じゃあ、よろしく。――そちらの綺麗な人はお知り合い?」
綺麗な人だなんて言われて驚いていると、彼――柴崎は小さく首を横に振った。
「いえ。初めてお会いした方です。ちょっとお話しさせてもらっていただけで」
「ああ、そうなんだね。今日は他にお客さんもいないし、ドリンクサービスしますよ」
「あ、すみません。ありがとうございます」
なんだか店の人に気を使わせてしまったようで申し訳ない。小町が頭を下げると、男性店員は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「気にしないでください。柴崎さんが話してるから知り合いなのかと思っちゃって。ゆっくりしていってください。もう打ち合わせは終わったし、柴崎さんも時間があるならゆっくりしてって」
「どうも」
先ほどユイさんと呼ばれていた女性店員が、アイスコーヒーを持ってきてくれる。それを柴崎と並んで飲みながら猫の魅力について話をしているうちに、小町はなんだか不思議な気持ちになっていった。
(……この人、クールなのかな……あんまり笑わないけど……素敵な人……なんだか落ち着く)
柴崎はあまり表情を変えないタイプのようだ。笑ったように見えたのはさっきの一度だけである。しかし、声のトーンが柔らかいお陰で、きつい印象はない。猫たちに向ける視線も優しさに満ちている。
彼は本当に猫が好きなんだろう。店にいる猫の種類を全部当てたり、背中が白くてお腹が黒い猫はほとんどいないなんていう雑学的なことまでよく知っていた。
「猫の髭が生えているあのぷっくりしたところが堪らないっていうひげぶくろ派と、ピンクの肉球こそが最高だっていう肉球派がいるというんですが、俺は断然肉球派ですね」
「アクリル板を天井に設置してしまうくらい?」
「そうです。ま、本当は全部好きなんですけれどね。香箱座りをしてる時の猫の足も絶妙ですよ」
「あ~それわかります! 器用に折りたたんでますよね~。それに狭い箱の中にも綺麗に入っちゃったり!」
「箱を見たら入らないといけないって、DNAに刻み込まれているんでしょうね。ん? 壁一面をボックスで造ったら猫的にはどうだろう。人間が使う棚は扉付きにするとか……ちょっと考えてみようかな」
猫という共通の話題があるせいか、自然と会話が弾む。気が付くとあっという間に入店から一時間が経っていた。
「あ。そろそろ帰らなくっちゃ」
小町が猫のおもちゃを置いて立ち上がると、柴崎はゆっくりと顔を上げた。どうやら彼は猫によって人間椅子にされ、動くに動けないようだ。あぐらをかいた上に三毛猫を乗せて、じっと小町を見つめてくる。首を傾げた時、彼の綺麗な黒い前髪がさらりと流れたのが印象的だった。
「……もう、帰るんですか?」
表情は大きく変わらないまでも、その残念そうな声に少し後ろ髪を引かれる。でもそこは気にしても仕方がない。何せ彼とは今日初めて会ったばかりなのだ。確かにいい人だし、さらさらの黒髪や声のトーンなんかちょっと好みとは思うが、これ以上の距離を踏み込むのはさすがに躊躇われる。
それ以前に、男性経験のない小町には、どう距離を詰めればいいのかわからないのだけれど。
「はい、買い物もあるので。お話できて楽しかったです。ありがとうございました」
小町がぺこりと頭を下げると、彼もまた同じように頭を下げてくる。
「いえ。俺も楽しかったです。また――」
「ええ、また――」
また――とは言いながらも、次に会う約束はしなかった。彼は仕事でこのカフェに来ていただけ。小町も常連ではなく初めて来ただけ。再会の可能性は限りなく低い。「また」というのが社交辞令にすぎないことはわかりきっている。
料金を払った小町は、振り返って柴崎と店員、そして猫たちに向かって小さく手を振ると、猫カフェをあとにした。
スーパーで買い物をして帰り、シャワーを浴びて晩ご飯を作る。今夜のメインはサーモンのタルタルホイル焼きだ。
アルミホイルに塩コショウをした生鮭を置き、上からタルタルソースとピザ用チーズをこれでもかと乗せ、グリルで十五分ほど焼けばでき上がりというお手軽料理だ。ホイル焼きと同時に、カボチャ、キャベツ、ベーコンをコンソメで煮込む。こちらは一日目を煮物に、二日目をスープにして食べるとおいしい。
料理は嫌いじゃない。母親がお嫁に行った先で困らないようにと、料理と掃除だけはきっちりと仕込んでくれたのだ。腕を振るう相手がいないのが悲しいところだが。
「ごちそうさまでした、っと」
残った料理を冷蔵庫に入れて洗い物をしていると、スマートフォンが着信を告げる。
今日はよく電話がかかってくる日だ。また梓だろうか?
「はいはいはーい、ちょっと待ってね~。今出ま~す」
タオルで手を拭きながら、画面をちらっと見た。そこに出ていた名前に「ゲッ」と思いはしたものの、しぶしぶ電話に出る。そして耳に入ってきたのは、スマートフォンを遠ざけたくなるくらいの大声で――
「遅いわよ! 小町!」
「お、お母さん!」
電話の主は小町の母だ。母親が急に電話をかけてくる時は、何かお小言だと相場が決まっている。だが電話を無視するわけにはいかない。そんなことをしたら、両親揃ってこのマンションまで飛んで来るのは火を見るよりも明らかなのだ。
「……な、何? どうかした?」
「どうかしたじゃないわよ! あんた、仕事は決まったの? お家賃も無駄なんだから、いい加減実家に帰って来なさい!」
「……」
やっぱりお小言だったか。一気に気が重くなった。
勤め先が倒産してからというもの、せっつくように帰って来い帰って来いと言われている。家賃が無駄なのは理解しているが、家に帰ったが最後、自由はなくなる。
一人娘だし、可愛がられているのはわかるのだが、さすがに過保護で過干渉というのは居心地が悪い。
この電話をどう切り抜けたものかと考えつつ、小町は手に持っていたタオルを捏ねくり回しながら、ベッドの上に腰を下ろした。
「仕事はまだ……一応、明日また面接を受けることにはなってるケド……」
「そうは言っても、今のご時世なかなかいい仕事はないでしょ。お父さんがあんたにいい話を持ってきてくれたわよ。今日はそれで電話したの」
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