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1巻
1-1
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――わたしが願ったことはただ一つ。愛する人と幸せになりたい。それだけです。
ゆうに百四十畳はある大広間に設えられた高砂に、雛人形よろしく座っているのは若い新郎新婦。
花嫁は恥ずかしがっているのか、綿帽子を深く被ったまま顔を上げようとしない。一方、面長の薄い顔立ちで、丸縁眼鏡をかけた新郎は、ひっきりなしに注がれる参列客からの酒を、顔色一つ変えずに飲み干していた。
二人の後ろには、松と鶴が描かれた、それは見事な金屏風が飾られている。座敷には大勢の人が集まり、飲めや歌えのどんちゃん騒ぎだ。
だがその一角で、冷めた目をしている者達がいる。
『ふん。西洋かぶれの成金が。女と爵位を手に入れて、我々と肩を並べたつもりか。貿易商ごときが図に乗りよって』
『貧乏農家の五男が、今では軍御用商人ですからね。なんでも先の戦争で大儲けをしたとか。しかしまぁ、男爵もよくこのご結婚をお受けになったもので。目に入れても痛くない一人娘でしょうに、これでは売ったも同然じゃありませんか』
『そうせざるを得なかったのでしょうよ。あそこも内情は……』
侮蔑とやっかみの声が聞こえたのか、俯いた花嫁の表情に影がさす。彼女の隣にいた新郎が、酒を飲みながらぼそぼそと独りごちた。
『やれやれ。俺が買ったのは爵位で、女はおまけについてきただけなんだが……』
それを聞いた花嫁の顔が、みるみるうちに血の気を失っていった。それでもじっと耐え忍ぶ姿が、いじらしいを通り越して哀れに見える。
男からは、花嫁に対する労りや愛情といったものを微塵も感じない。興味のない置物を隣に置いて、ただ酒を飲んでいるだけだ。
ふと気付くと、高砂も参列客も消えていた。
代わりに目の前に広がっていたのは、広々とした洋間。窓辺で女性が一人、揺り椅子に座っているのが見える。先ほどの花嫁だった。
彼女は小花の散った美しい着物を着て、ウェーブがかった髪を、大きな洋風簪で纏めている。その膝の上では、一匹の黒猫が丸くなって眠っていた。彼女は黒猫の背中を優しい手つきで撫でながら、ゆっくりと椅子を揺らしている。
辺りには、しっかりした煉瓦造りの暖炉、そして重厚な色合いの応接セットや、豪華な飾り物で溢れかえったサイドボードがある。天井からつり下がる、花模様の傘が美しいシャンデリア。大きな窓には、まばゆい白のレースカーテンがかかっている。窓の外に広がるのは、英国式の庭。その中で、和風な装いの彼女は浮いて見えた。
物はたくさんあるのに、人がいない。彼女はこの部屋で一人ぼっちだった。いや、正確には黒猫が一匹、彼女に寄り添ってはいるが。
『クロさん、クロさん。今日の晩ご飯は何がいいかしらね。あなた鰊はお好き?』
ふと彼女が話しかけると、黒猫は耳をピクピクと動かして、短い尻尾をゆっくりと左右に振った。
短毛短尾の純日本猫で、何ものにも染まらない漆黒の毛並みを持つ彼の姿は、凛々しいの一言だ。とても賢い子で、まるで人間の言葉が全部わかっているかのように反応する。
『あなたがいなかったらわたしはここに一人ぼっちね。一人じゃせっかくのご飯もおいしくいただけないわ。ありがとうね、クロさん』
と、そこに、外から話し声が聞こえてきた。庭を横切るように、彼女の夫と若い女性が並んで歩いている。その様子は親しげで、二人が男女の関係にあるのは明らかだ。
その二人を見た彼女は微かに表情を強張らせると、立ち上がってカーテンを閉めた。彼女の膝から飛び降りた黒猫が、心配そうに足元をうろつく。彼女はずるずるとその場に座り込むと、彼を抱きかかえた。
『みゃー』
いつの間にか顔を上げて彼女をじっと見ていた黒猫が、着物の胸元を前足で突いてくる。彼女が抱き上げて頬を寄せると、彼は鼻の頭をちょんと付けて、懸命に首筋に胸にと自分の頭を擦り寄せてきた。そして最後に、ザリザリの舌で彼女の目尻に浮かぶ涙をぺろりと舐めたのだった。
1
「……うう……なんかまたあの変な夢見たぁ~」
南城小町は寝ぼけ眼を擦りながら、うるさく鳴り響くスマートフォンのアラームを止めた。朝九時だ。実家ならば、「いつまで寝てるの、だらしない」と、母親にお小言を食らってもおかしくないが、そこは一人暮らし。なんの束縛もありはしない。
小町は背中の中程まである黒髪を、手櫛で梳いた。
あの夢を見るのはもう何度目だろうか。
まるで、テレビや映画の中のような、時代がかった世界。
祖母が朝の連続テレビ小説が大好きな人で、子供の頃は小町も一緒になって見ていた。きっと祖母と見ていたドラマたちによる記憶の欠片が、夢になってボロボロと出てきているのだろう。
小町は子供の頃から、よくこの『変な夢』を見ていた。
――お金持ちの男の人に嫁いだ女の人が孤独に泣く夢。夫となった人に見向きもされず、彼女は広い洋館で黒猫を可愛がって生きているのだ。その女の人の容姿が自分に似ているのが若干引っかからないでもないが、よく見るというだけで、別にこれと言って実害はない。そういうわけで小町は、この『変な夢』を頭の端に追いやった。
むくりと起き上がって、ベッドの上で四つん這いになる。昨日の夜読んでいた求人雑誌とハローワークの求人票の束が、猫足のちゃぶ台の上に雑然と広がっているのが視界に入った。ソレから意識的に視線を外し、枕に顔を押し付けて、「はぁ~」とため息をつく。
そのため息の重いこと重いこと……
小町はただいま絶賛失業中。ハロワ通いも板に付き、SNSに『ハロワなう』と書き込むのも二秒とかからない。なにせ、ハ行の予測変換第一候補がハロワである。カレンダーが何曜日を示そうと、小町にとっては毎日が日曜日同然だ。
(いやいや、明日は面接があるから日曜日じゃない……いい加減仕事決まんないとヤバイ……)
二十三歳、独身、彼氏ナシ(というか彼氏がいた例すらナシ)で、絶賛失業中。何も好き好んでこんな辛気臭いプロフィールになったわけではない。つい最近までは、二十三歳、独身、彼氏ナシ、大手飲食系企業正社員という、多少はマシなプロフィールだった。しかし、もともと経営状態がよろしくない会社に入ってしまい、就職からわずか九ヶ月で倒産してしまったのだ。新卒というかけがえのないゴールデンバッジと、ビミョー過ぎる職歴を交換する羽目になって二ヶ月半が経過。手当たり次第に履歴書を送っているのだが、面接に辿り着いたのはたった数社で、未だ採用はされずといった具合だ。失業保険給付期間終了が目前に迫り、このままでは実家への強制送還も免れない。
とは言っても、小町が一人暮らしをしているこのマンションは、実家からそう遠くない。本来は一人暮らしをする必要もないのだが、実家は小町にとって窮屈な檻なのだ。
心配性で超過保護な銀行員の父親と、お節介で押しの強い専業主婦の母親の組み合わせのもとで、一人娘の小町はレールの敷かれた真っ直ぐな人生を歩んできた。
この一人暮らしだって、本当はものすごく反対されたのだ。それを就職を機にと、小町は説得しまくった。そうしてようやく許してもらった新居は、実家から電車でたったの三駅。オートロック付きの二十四時間有人監視、女性専用という超過保護マンションである。
そんなセキュリティのうえに部屋が三つもあるから、家賃が高い高い。みるみるうちに貯金が目減りしていく。一人暮らしなのだからワンルームでいいものを、「ここ以外の物件に住むなら保証人にはならない」だなんて親に言われ、頷くほかなかったのだ。
(猫ちゃんと一緒に暮らせるマンションに引っ越したい。ああ~猫ちゃん、猫ちゃん飼いたい……)
自分一人でも危うい生活のくせに、悠長に猫なんて飼えるものか――そうわかってはいても、小町は猫が飼いたかった。
子供の頃から猫好きだったのだが、母親が動物嫌いかつ猫アレルギーで、飼うことができなかったのだ。だから一人暮らしをしたら猫を! と意気込んでいたものの、親の許可が下りた物件は、前述した通りの超過保護マンション。ここはペット禁止なのだ。
(まぁ、無理だよねぇ……一人暮らしを許してもらっただけでも奇跡なんだから)
猫と暮らすことは将来の夢としておいても、今、実家に強制送還されるわけにはいかない。実家に帰ってしまえば、次はいつ一人暮らしを許してもらえるかわからないではないか。なんとしても新しい仕事を見つけて一人暮らしを継続し、そしてラブキャット生活への資金を貯めるのだ。
小町は「えいやッ」と気合いを入れて上体を起こすと、ちゃぶ台の上の求人票が目に入らないようにしながらベッドから下りた。
起き抜けの紅茶はダージリンに限る。小町は母親のイギリス土産である茶葉を、食器棚から取り出した。ちょっと濃い目に淹れたダージリンをちびちびと飲むのが、失業してからの小町の習慣だ。悲しいかな、時間だけはたくさんあるから困る。
昨日焼いておいたチョコチップ入りスコーンを皿に移していると、枕元に置きっぱなしにしていたスマートフォンが着信を告げた。
電話の主は間宮梓。女子大時代の同級生で、一番の友達だ。小町のマンションから徒歩二十分のところに住んでいる。
「もしもし? おはよ、小町。起きてた?」
「おはよ~。うん、起きてたよ~。どうかした? 梓は今日休みだったっけ?」
今日の梓の声は、やや早口で、どこか落ち着きのない印象だ。彼女はよく電話してきてくれるが、これほどそわそわしていることはない。何かあったのだろうか?
「うん。休みなの。小町は今日暇かな?」
小町が「暇だよ」と言うと、彼女は声のトーンを少し上げた。
「あのね、どうしても行きたいところがあるんだけど一人じゃ緊張しちゃって……。小町に付き添ってもらいたいの。お願い!」
梓はインドアタイプだ。外出は仕事と家の往復のみで、買い物も通販で済ませてしまうようなところがある。だから梓と会う時は、彼女の家でのんびり……ということが多かった。そんな梓がどうしても行きたいところとはどこだろう? そこに興味もあったし、彼女が自分を誘ってくれたのも嬉しかった。
「いいよ。どこに行くの?」
「三笠港駅の近くにある、占いの館なの」
「占い?」
予想外の答えに、小町は小さく眉を寄せた。
占いが目的というのは少々意外だ。だが、小町は快く引き受けた。今日はすることもなく暇だったのだ。
「いいよ。じゃあ、十一時に西川駅で待ち合わせしよっか」
「うん! ありがとう!」
家の最寄り駅で落ち合う約束をして、電話を切る。スコーンを手早く胃袋に収めると、軽くシャワーを浴びて出掛ける支度をした。
今は三月の半ば、桜の開花シーズン真っ只中である。窓の外は明るく、天気もよさそうだ。
去年の今頃買ったはいいものの、あまり着ることもなく仕舞っておいたボウタイのブラウスを取り出した。ボルドー系の色合いのそれは、黒のリボンと袖口のレースがガーリースタイルで気に入っている。下には白のチューリップカットのスカートを合わせて春を演出。長い黒髪を白のシュシュで無造作に括り、ナチュラルメイクを施せば完成だ。
オフホワイトのスプリングコートを羽織った小町は、ショルダーバッグを片手に家を出た。
西川駅で梓と合流して軽くランチを食べたあと、三笠港駅に降り立った。
人通りの多い賑やかなところで、よく手入れされた街路樹の桜が、惜しげもなく咲いている。
「いつも電車で通り過ぎるだけの駅だったから気付かなかったけど、意外と人が多いね」
「そうだね。わたしも滅多に来ないから、ちょっとびっくり」
隣を歩く梓も、辺りを見回しながら頷く。彼女は持ってきていた雑誌を開いて、小町に見せてきた。丁寧に折り目まで付けてある。彼女が行きたいと言っていた占いの館には、テレビでも紹介されたこともある評判の占い師がいるらしい。占いの館は、駅から徒歩五分ほどのところにある雑居ビルの三階だと書いてあった。
「梓って占い好きだったっけ?」
歩きながら尋ねる。
梓とは大学入学時からの付き合いだから、もう五年ほどになる。だが、彼女が占い好きだという記憶はない。
「ん~好きってほどじゃなかったんだけど、ここ当たるって評判なの。同じ職場の子もここでみてもらって、当たったって言ってたんだ。だから私もみてもらいたくって」
「何をみてもらうの?」
そう聞くと、彼女はちょっと恥ずかしそうに俯いた。
「……えっと……恋占い、かな。今、好きな人がいて……」
「ええっ!? そうなの? 初耳だよ~」
それならそうと、もっと早くに言ってくれればよかったのに。そうしたらランチの最中にトコトン尋問しただろう。
「誰、誰? どんな人? 梓の好きな人って!」
好奇心満載で迫ると、彼女は周りを気にする素振りを見せながらも、こそっと耳打ちしてくれた。
「あのね、職場の先輩なの。稲森さんっていって……優しくってかっこいいの」
彼の名前を口にするなり、彼女は手持ちの雑誌で顔を隠した。前下がりボブの隙間から、真っ赤になった頬が覗いている。その仕草が本気で可愛らしい。
梓は小柄だが、同性の小町から見てもスタイルがいい。今着ているバックプリーツニットも大人可愛くてよく似合っている。それに彼女は真面目だし、趣味は手芸と料理という、とても女性らしい性格の持ち主だ。そんな彼女から好かれていると知ったら、稲森さんとやらも悪い気はしないだろう。
「占いなんかしなくたって、そのままアタックしちゃえばいいのに」
「そんなの無理! だって、稲森さんにどう思われてるか、まったくわからないんだもん。仕事以外で接点なんてないし……。それに稲森さんってすごく真面目な人なの。プライベートのこととか一切話さないし、告白なんかしたら職場に何しに来てるんだって思われちゃうかも……」
梓の仕事は大学病院の医療事務だ。忙しい職場だと聞いている。シフト制でもあることだし、もしかすると意中の人と話す時間があまりないのかもしれない。
「だから占いで、どうしたら稲森さんと仕事以外でお近付きになれるかなって……聞きたいの。ここの占いの館って、恋愛専門なんだって」
占いで、そんなことまでわかるものなのだろうか? 占いを積極的に信じているとは言い難い小町は、内心首を傾げていた。だが恋に一生懸命になっている梓が可愛くて、無粋なことを言う気にはなれない。
「すごいね。楽しみ」
その稲森さんについて聞きながら歩いていると、目的の占いの館が入っている雑居ビルに到着した。
「小町も一緒にみてもらう? ほら、小町も彼氏欲しいって言ってたじゃない? いつ出会うのかとか占ってもらえるかも。小町は美人なんだから、出会いさえあれば、あとは簡単だと思うの」
小町は肩を竦めて苦笑いした。彼女は美人だと言ってくれたけど、小町は男の人に告白されたことがない。話しかけにくいと言われたことならある。愛想が悪いのかと笑顔を意識してみたら、ナンパのような喜ばしくない声かけが増えただけだった。
「ううん。わたしはやめとくよ。今のわたしに必要なのは彼氏じゃなくて就職先なんだもん」
彼氏は欲しいが、それ以上に欲しいのは仕事だ。それに悲しいかな金欠でもある。だが就職先や時期を教えてくれる占いなら、やってみたいかもしれない。
「いい仕事、見つかりそう?」
心配してくれているのだろう。梓が少し眉を下げる。それに対して小町は歯切れの悪い返事をするしかなかった。
実際、戦局はよくない。再就職活動をして三ヶ月になるのに一向に仕事が決まらないのだ。これは小町の予想を大きく超えていた。
自分はまだ若いし、性格は真面目だと自負している。職を失ったのも会社都合だ。次の仕事はすぐに決まるはずだと思っていたのだ。しかし、現実は未だ無職である。
「ん……まぁ、うん……一応明日面接……」
「そうなんだ! 頑張ってね。どんな仕事なの?」
「大きめの花屋さん。いい加減、仕事決まらないとね……実家戻りたくないし……」
「ああ……うん……小町の家、超過保護だもんねぇ……」
梓は小町の母親と何度か顔を合わせたことがある。マシンガントークで小町の交友関係を探る母親を知っているせいか、彼女はこれ以上話を広げてこなかった。
気を使わせてしまって悪いなと思いながら、無言のまま雑居ビルのエレベーターに乗って、占いの館がある三階まで上がる。三階の床は赤い絨毯が敷き詰められており、壁にはスパンコールの付いた黒い布が掛けられていた。普段の生活では馴染みのない雰囲気に驚いて、小町は自分が占ってもらうわけでもないのに少し身構えてしまった。なんの匂いかはわからないが、鼻孔に残る、花のような匂いがする。
木製のドアを開けると、いきなり白い壁に囲まれた小窓に出迎えられた。小窓の奥には人がいるようだが、窓が異様に小さいのと、位置が腰辺りと低いために顔は見えない。
壁には『本日出勤の占い師』と書かれており、ちょうど十枚の顔写真があった。占い師は男の人が一人で他は女性だ。どうやらこの小窓が受付で、客が占い師を指名するシステムらしい。
黒いカーテンで仕切られた部屋の向こうからは、ぼそぼそとした話し声がする。先客だろうか。姿が見えないから実際にどれぐらいの人で賑わっているのかよくわからなかった。
「すみません、アンジュ先生にみていただきたいんですが」
小窓に向かって梓が話しかける。
「アンジュ先生は今ちょうど空いています。そのままカーテンの奥にお進みください」
「わかりました」
梓は振り向くと、小窓の斜め向かいにある長椅子を指差した。
「待ち時間なしだった。ラッキー。ドキドキするけど行ってみるね。小町はそこで待っててくれる?」
今は誰もいないが、おそらくは指名した占い師に先客がいた時用の簡易待合室だろう。長椅子が三脚と自動販売機がある。
「うん、わかった。あ、雑誌貸してもらっていい? 読みながら待ってるから」
小町は梓から雑誌を受け取り、小さく手を振った。
「いってらっしゃい」
「うん。行ってくるね」
小町は椅子に腰掛け、借りた雑誌を読みはじめた。この地域の特集誌ということで、見覚えのある地名や店名が並んでいる。
前から順番にページをめくっていた小町の手がふと止まった。
(猫カフェだ)
可愛いにゃんこたちが戯れる写真が全面に押し出されている。愛くるしいその瞳に吸い込まれるように、小町の目はページに釘付けになった。この猫カフェは、どうやら自宅マンションの最寄り駅近くにあるらしい。普段の買い物をする店には詳しくなったつもりだったが、猫カフェがあるとは知らなかった。
天井の一部にアクリル板を張っており、そこを猫が歩くと下から肉球が見えるという〝肉球ロード〟なる設備があるとのこと。過去に何度か猫カフェに行ったことはあるが、そんな珍しい設備があるカフェはなかった。猫好きとして、これは行かなくてはなるまい。
小町が自分のスマートフォンで猫カフェのページを写真に撮っていると、不意に雑誌に影が落ちた。
「あのォ……少しいいですか……?」
暗くゆったりとした声で話しかけられ、驚いて顔を上げる。するとそこには、頭から黒いレースのショールを被った妖しい雰囲気の女性が立っていた。長い前髪で表情が見えない。それに酷い猫背で、年配者のような雰囲気だ。声はまだ若かったけれど。
彼女は袖の中から名刺を一枚差し出してきた。
「突然すみません。私はここの見習い占い師で、ボアラと申します。いきなりで申し訳ないのですが、占いの練習に付き合ってもらえませんか? もちろん、練習なのでお代はいりません」
その名は、さすがに本名ではないだろう。そういえば、梓が指名した占い師もアンジュという名前だったっけ。占い師も芸名のようなものを使うのが一般的なんだろうか。そんなことを考えながら、小町は笑顔で頷いた。
「いいですよ」
練習らしいし、軽い人助けのような気持ちだ。
「私は今、前世透視で良縁をみる占いを練習しています。だからそれをやらせてください」
同じ長椅子の隣に座ってきたボアラは、先ほど以上に妖しげな雰囲気を醸し出しながら言った。
「前世透視? えっと、それはつまり、いわゆる前世占い、というやつですか?」
「そうとも言います。袖振り合うも多生の縁と申します。現世で結ばれる方は、前世でも少なからずご縁があるのです。出会うべくして出会ったと言っても過言ではありません。前世を通すことで魂の結びつきを見ることができるのです」
「は、はぁ……魂の結びつき……」
つまりは、輪廻転生のような生まれ変わりによる縁を占うということなんだろう。問題は本当に生まれ変わりというものがあるのか、だが……前提を覆すようなことを言うのはナンセンスだ。
小町の生返事を、ボアラは気にした素振りも見せずに、書類ばさみにはさんだ白い紙と、ボールペンを差し出した。
「ここにお名前と生年月日を書いてください」
「あ、はい」
さらさらと書いて紙をボアラのほうに向けると、彼女は大きく深呼吸をした。
「ありがとうございます。南城さん――南城小町さん。では始めますので手を握らせてください」
言われるがまま右手を差し出すと、彼女は両手でそれを握ってきた。そして目を閉じる。集中しているのか、彼女は丸い背中を一層丸くして下を向いた。
「……あなたの前世はとても身分の高いご令嬢です」
「おお~すごい」
声は抑えたものの、小町は自分の頬が緩むのを感じていた。
ちょっと嬉しい。とりあえず、前世は人間だったらしい。ゴキブリとかじゃなくてよかったという安堵もある。しかもいいところのお嬢さんだなんて、やるじゃないか前世の自分。
「日本の……明治、いや、大正? すみません。ちょっと詳細はわかりませんが、その辺りの時代に生きておられたようです。大きな会社を経営なさっている旦那様と結婚されましたね。ん……しかし……夫婦仲は良好とはいえなかったようです」
それはよくない。前世の話とはいえ、幸せな家庭を築いていたかったのに。
「どうして仲が悪いんですか? 喧嘩でもしてるんですか?」
小町の質問に、ボアラはゆっくりと首を横に振った。
「いえ、喧嘩による不仲ではありません。旦那様は他にお妾さんがいらっしゃるようです。奥様であるあなたには根本的に興味がない……むしろ嫌っていらっしゃるのです。時代的に、お見合い――政略結婚の可能性もありますから、致し方ないことかもしれませんね……。現代の感覚で語ることはできないとは思いますが、今でいうと家庭内別居のような感じで、ほとんど顔を合わせない生活と言えばわかりやすいでしょうか」
「なるほど……」
つまり、愛のない結婚だったのか。愛もなく結婚しなくてはならないなんて、昔の人は大変だ、などと人事のように思う。
しかし、どこかで聞いたことのある話のような気がする。
(う~ん。どこで聞いたんだっけなぁ?)
どうにも思い出せない。
「でも、暮らしは豊かですよ。豪華な洋館に住んでいらっしゃるように見えます。しかし、周りに人が見当たらないのが気になりますね」
ボアラはますます猫背を酷くして、握った小町の手を自分の額に当てた。
「ああ……寂しいという気持ちを強く感じます。前世のあなたはとても孤独な生活を送っておられたようです」
「……」
何か引っ掛かるものを感じて、小町は無言になってしまった。
――妻に興味のない夫。妾。家庭内別居。洋館に一人。
喜ばしくない単語の羅列が、小町の記憶を刺激してくる。
暮らしぶりは悪くないのに、寂しい思いが消えない孤独な生活。
しばらく考え込んでいた小町だったが、突然気が付いてしまった。ボアラの言う自分の前世は、今朝見た夢とあまりにもそっくりなのだ。
(う、嘘でしょ? あれって、前世の記憶だったの? えっ、いや、まさか、そんな……)
しかし、こんな偶然があってもいいのだろうか? 今まで何度も見たことのある夢だったが、誰にも話したことはない。それをこの見習い占い師が知っているはずはないのだ。
だけどあまりにも夢と合致しすぎていて、彼女が適当に言っていると断言するほうが横暴に思えてくる。ボアラには何か特別な力があるのだろうか?
(いやいやまさか! 占いっていうのは、それらしいことを並べるものなんでしょう? ご令嬢の政略結婚だなんてよくあることだろうし……そうだよ、よくある、よくある……よね?)
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