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1巻
1-3
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仕事で男の人と話す機会は多いのだが、プライベートでは勉強漬けで、年齢=彼氏いない歴を着々と更新している穂乃香は、色恋に関して免疫がなかった。だからさして親しくもない女に、「可愛い」だなんてヌケヌケと言ってくる男に、どう対応すればいいのかわからない。
気の利いた返しのひとつも言うことができずに、穂乃香は真っ赤になったまま視線を泳がせた。
そしてふと、以前、滝沢が「黒崎がコンペ以外で受注する仕事は、女社長の依頼ばかりだ」と言ったのを思い出す。
(滝沢の言ったとおりだ。この人はこうやって女の人から仕事をもらってるんだ。タラシだ。タラシに違いない)
こんなふうに持ち上げられたら、誰だっていい気分になってしまう。しかも、こんなにかっこいい男の人に――
きっとそれが彼の常套手段なんだと思っても、一度持ってしまった顔の熱はなかなか引かなかった。
「はは。本当に可愛いですね。穂乃香さんは前からちっとも変わっていない」
「は?」
穂乃香がキョトンとして目を瞬かせると、彼は「ん?」と笑いながら器用に眉を上げた。
(前から?)
――どこかでお会いしましたっけ? そう穂乃香が聞こうとした時、病室のドアがコンコンとノックされた。
「はい」
看護師が来たのかと思って返事をすると、顔を覗かせたのは穂乃香の友人、渡辺由紀子だった。
由紀子と穂乃香は小学校からの長い付き合いだ。大学で建築に進んだ穂乃香と、服飾系に進んだ由紀子とで道は分かれたが、社会人になってもやり取りを続けている。まさしく、親友と言ってもいい存在である。
穂乃香は自分の入院が決まった日、彼女にメールを送っていたのだ。洋服や雑貨を扱うセレクトショップへと就職した彼女の休みは週一なのだが、スタッフが休むと代わりに出勤することになる。そのため、前もって予定を立てておくのが難しい。メールでも、「行けたら見舞いに行くね」と書いてあった。
「なべちゃん! 来てくれたんだ!」
「穂乃香~メール見たよ~。大丈夫なの? あっ! ごめん、お客さん?」
由紀子は黒崎を見るとすぐにペコリと会釈をした。それを受けて、黒崎も会釈を返すと立ち上がる。
「お友達もいらしたみたいですし、今日はこれで帰ります」
「え……そうですか?」
「ええ、ちょうどこれから仕事の打ち合わせが入ってるんです。では、また明日――」
黒崎が由紀子に会釈して病室を出て行く。その後ろ姿に「ありがとうございました」と声を掛けて、穂乃香は親友に視線をやった。
由紀子は露骨な好奇心に瞳を輝かせながら、九センチのヒールをカツカツ鳴らしてベッドサイドに近づき、椅子に腰掛ける。
「な、何よ?」
「今の誰? 会社の人――じゃなさそうだねぇ」
彼女は黒崎を仕事関係の人間だとは思わなかったようだ。確かに、黒崎を見ると真っ先にその整った容貌に目が行く。彼には建築関係の仕事よりも、モデルか俳優の仕事のほうがしっくりくるかもしれない。
穂乃香は由紀子の勢いに半ば押されながら、黒崎のことを話した。
「階段で足を滑らせて落ちたって、メールで言ったでしょ? 出会い頭にあの人にぶつかりそうになったの。わたしが勝手に落ちただけなのに、『責任取る』って言って色々面倒見てくれるんだ。さっきもこうやってケーキ買ってきてくれてさ。別にいいのに、毎日お見舞いに来てくれるし……」
食べかけのイチゴのショートケーキを見せると、由紀子は穂乃香が大事に取っておいたてっぺん部分のイチゴを、摘んで食べてしまった。
「あーっ! 最後のお楽しみに取ってたのに!」
「この幸せ者めッ!」
由紀子は奪ったイチゴをモグモグと咀嚼しながら、身を乗り出してきた。そんな彼女に穂乃香は力いっぱい反論する。
「骨折してんのよ!? 明日からのゴールデンウィークも入院なのよ!? どこが幸せなのよ!」
「あんなイケメンとお近付きになれるなんて羨ましい! 羨ましすぎる! この当たり屋め!」
「あ……当たり屋って……」
それではまるで、穂乃香がわざと黒崎の前に飛び出して行ったように聞こえるではないか。穂乃香はムッとして残っていたショートケーキを一口で頬張る。すると由紀子は「当たり屋は冗談だよ」と言って、膨れた頬を指先で突いてきた。
「いいなーケーキ。おいしそう」
「なべちゃんも食べる?」
「うん。もらう~」
穂乃香がフルーツタルトを、由紀子がチョコレートケーキを食べることにする。
「それにしても、毎日来るの? 彼」
「うん。毎日。お花持って来てくれるの」
「えーっ、毎日見舞いに来てくれるの!? あの人、穂乃香のこと好きだったりしてぇ~」
「はあッ!?」
フルーツタルトを皿に移していた手を止めて、思わず叫んでしまった。
「だってさ、普通、責任感だけで毎日は来ないでしょ~。あの人のせいで穂乃香が怪我したわけじゃないんだから」
「そ、そうなんだけど……」
だからといって、黒崎が自分を好きなのだと決めつけるのは早計というものだろう。だが、ついさっき彼に「可愛い」と言われたのを思い出して、穂乃香の頬がじわっと熱を持ちはじめた。
(いやいや、あれは食べてる姿が「可愛い」って言われただけだし!)
そんなことあるわけない。だって彼は、黒崎隼人なのだ。あれだけのハイスペックな男の人に惚れられる要素が、自分のどこにあるというのか。
「あら? あらあらあら~? 何か心当たりでもあるわけぇ?」
「あ、あるわけないでしょ!? ……あの人は……た、ただのいい人だよ」
由紀子は「そうかなぁ~?」とニヤついた笑いを浮かべていたが、やがて思い出したように袋を渡してきた。
「これ、雑誌。どうせ暇でしょ?」
「ありがとー助かる!」
由紀子が持ってきてくれたのは、二十代の女性をターゲットにしたファッション誌が二冊。それから、カフェや食事処を選り集めたカフェ本が一冊だった。さすが、穂乃香の好みをよくわかってくれている。
そのあとは、ケーキを食べながらお喋りに花を咲かせた。
5
同期の滝沢が見舞いに来てくれたのは、この日の面会時間終了間際だった。
「よぉ、櫻井。元気してっか」
「滝沢!」
由紀子が差し入れてくれたカフェ本のページをめくる手を止めて、穂乃香は明るい声を上げた。滝沢に椅子を勧めると、彼はスーツのジャケットを脱いで「ふーっ」と、盛大なため息をつく。穂乃香が抜けた穴を埋めるために、忙しくしているのかもしれない。ネクタイを緩める彼の仕草に、疲れが滲み出ていた。
「悪いな。もっと早く来ようと思ってたんだが、結構仕事が詰まっててさ」
「そんなのいいよー。むしろわたしのほうこそ、ごめんね……コンペの最中に抜けちゃって」
「気にすんな。それより所長が謝ってたぞ。療養補償? 休業補償だっけかな? なんか色々書類を用意しなきゃならんらしいが、今バタバタしてるからちょっと待ってくれって」
「うわ……所長にもごめんなさいって言っておいて。ホントごめん。忙しい時に……」
今はコンペの真っ最中だ。村田所長に余計な仕事を増やしてしまい、申し訳ない気持ちになる。だが滝沢は「もらえるモンはもらっとけ!」と、笑い飛ばしてくれた。
「ところでコンペ、どうだった……? そろそろ結果が出るんじゃない?」
進行中だったコンペの結果を恐る恐る尋ねると、彼は椅子を軋ませながら前屈みになって、ニッと笑った。
「おー今日結果来た。二次も通ったぞ。次は最終審査だな。今のところ、うちも含めて五作品が残ってる」
「やった!」
滝沢はずいぶん自信があるのか、「余裕だろ」とふんぞり返った。
「しっかし、お前も災難だったな」
「うん……ドジっちゃった」
包帯でぐるぐる巻きになっている足を見下ろして乾いた笑いを浮かべると、滝沢は慰めるように優しく頭を撫でてきた。
「仕事のことは心配すんな。お前はさっさと治せよ」
「うん。ありがと」
滝沢の優しさが嬉しくて微かに微笑む。すると、彼の視線が泳いで、ベッドサイドに飾ってあったチューリップの花に向かった。
「……ああ、わりぃ。手ぶらで来ちまった。なんか買ってくりゃよかったな」
彼らしからぬ気遣いに、穂乃香はブンブンと手を振った。ただでさえ、彼には仕事で迷惑を掛けているのだ。申し訳なくて気が引ける。
「そんなのいらないよ! 来てくれただけで嬉しい。コンペとか仕事とかすごく気になってたんだ」
「うん……まぁ……なんだ。結構見舞いに来てくれる人いるのか? 親御さんとか……さすがに今の時間は来ないか?」
滝沢が、少しソワソワした様子で辺りを見回しながら聞いてくる。穂乃香はちょっぴり苦い顔をして、黒崎のことを話した。
「うん。今の時間はね、誰も来ないよ。うちの親は今沖縄旅行中なんだ、手術の日も来なかったよ。全部黒崎さんに丸投げ」
「は?」
急に真顔になった滝沢が、眉間に皺を寄せる。穂乃香は小さく肩を竦めて、手術の日は黒崎が付いていてくれたこと。そして、毎日彼が見舞いに来てくれることを話した。
「わたしが階段から落ちた時、黒崎さんにぶつかりそうになったんだ。今更なんだけど、救急車呼んでくれたのって黒崎さんなのかな?」
穂乃香が尋ねると滝沢は「まあ、そうだな」と頷いた。
「本当は俺か所長が付き添うべきだったんだが、お前が階段から落ちたところを見てたのは黒崎だけだし、状況の説明とか考えたら黒崎が適任だろうって話になってさ……俺らはプレゼンもあったし……」
「そうなんだ。なんかさ黒崎さん、わたしが階段から落ちたのは自分のせいだって、責任感じちゃってるみたいなの。たまたま近くにいただけなのにね。全部自分が面倒見るって。この病室も個室でしょ? 黒崎さんが用意してくれたんだ。しかも毎日お見舞いに来てくれるし。大丈夫ですって断ったんだけど、気が済まないからって……」
「……へぇ」
滝沢は不愉快そうな声で相槌を打つと、半目でチューリップを睨みつけた。
「毎日……ねぇ。さすが、自分で設計してないから暇なんだな」
「うーん……暇かどうかはわからないな~。今日も打ち合わせがあるって言ってすぐ帰ったし。いい人だと思うよ。こっちが申し訳ないくらいに、よくしてもらってる」
さんざんお世話になっている自覚のある穂乃香は、思わず黒崎をかばうようなことを言っていた。その言葉を聞いた滝沢は、気に入らないと言わんばかりに、フンッと鼻を鳴らす。
「どーだか。悪人ほどな、いい人っぽく見えるもんだ」
滝沢は、どうしても黒崎に対するマイナスイメージを払拭できないらしい。
黒崎を悪く言われて、穂乃香はちょっとムッとしてしまった。
「……そんなこと、ないと思うケド……」
滝沢に聞こえないくらいの小さな声で、ボソボソっと反論する。
黒崎は自分で設計をしていないらしいという噂を聞いていたから、彼に対する印象がよくなかったのは穂乃香も同じだ。しかし彼は、救急車を呼んで穂乃香を助けてくれた。恩人のことを悪く言うべきじゃない。
穂乃香は黒崎のことから話題をそらした。
「ねぇ、それよりも会社の様子を教えて?」
「ん? ああ――」
その後も少し、会社の様子などを滝沢から聞いていると、女性看護師が夕ご飯の食器を下げに来てくれた。
「櫻井さーん。夕ご飯は食べ終わりましたか?」
「あ、はい!」
穂乃香はまだ食べていなかったゼリーを手元に残して、空になった食器を看護師に返した。
「あと面会は二十時までですからね。あと五分で終了ですよ」
看護師に釘を刺されて、滝沢は立ち上がった。
「じゃあ、俺帰るわ」
「忙しいのに、わざわざありがとうね。退院したらなんか奢るから!」
「はは。そりゃ嬉しい。リハビリ頑張れよ」
「りょーかい!」
滝沢はふっと笑うと、そのまま病室を出て行った。
一人残った病室に静寂が訪れ、少し物寂しく感じる。どこか置いてきぼりにされているような気がして切ない。
(はぁー早く仕事に復帰したいなぁ……)
穂乃香は明日のリハビリはもっと頑張ろうと心に決めて、この日は早めに就寝した。
6
(はぁ~しんどい~)
リハビリを終えて病室に帰ってきた穂乃香は、汗を吸ったシャツを脱ぎ捨てて新しいものに着替えると、ぐったりとベッドに腰を下ろした。
骨折してからというもの、なんだか疲れやすくなったような気がする。身体が回復しようとして、そこに体力を使っているのかもしれない。
今日は土曜日だ。穂乃香が入院している病院では、土曜日でもリハビリ治療をやっている。
穂乃香はあまり器用なほうではないため、松葉杖の使い方もいまだにぎこちない。だが今日のリハビリは、弱音を吐かずに最後までやりきった。
(今日のわたし、超頑張ったよね)
ちょっぴり自画自賛すると、穂乃香はミネラルウォーターをくぴっと飲んでベッドに潜り込んだ。しっかりリハビリしたお陰で、疲れて眠くなってきたのだ。
黒崎はまだ来ていない。彼は今まで十五時頃から来ることが多かった。というのも、平日の一般病棟の面会時間が、十四時から二十時だからだ。土日祝日は、朝の十時から二十時までが面会可能な時間となっている。
穂乃香は病室の壁に掛かっている時計を見上げた。時計の針は十時四十分を指している。黒崎がいつもと同じ時間に来るのなら、まだまだ余裕があった。
(今のうちに寝ちゃおうっと)
お昼になれば、そのうち看護師が昼食を持ってきてくれる。それまで昼寝だ。
穂乃香は肩まで布団を掛け直すと、惰眠を貪りはじめた。
「……ん……?」
頬にちろちろと何かが当たる気配にくすぐったさを感じて、穂乃香は意識を浮上させた。そして目を開けてギョッとする。
なんと視界いっぱいに広がっていたのは、柔らかく目を閉じた黒崎の顔だったのだ。
唇が触れ合いそうなその距離の近さに、慌てて仰け反る。
(な、なんでいるの!?)
どういうわけかわからないが、彼は眼鏡を掛けたまま、穂乃香の枕元に頭をもたれさせて、すーすーと規則的な寝息を立てて眠っているではないか。頬に当たった違和感は、どうやら彼の髪だったらしい。
不意打ちに驚きながらも、穂乃香は黒崎の寝顔から目をそらすことができなかった。
息をするのも忘れて見入ってしまう。長いまつ毛と高い鼻梁が影を作り、彫りの深さを際出たせている。今日の仕事は休みなのだろうか。装いはいつもよりカジュアルで、サラサラの黒髪は額に流れていた。
ふと眼鏡が邪魔そうなことに気付き、外そうと手を掛ける。気持ちよく眠っている黒崎を起こさないように気を付けながら、ゆっくりと眼鏡を外した。そうして現れたのは、初めて見る彼の素顔だった。
(きれい……)
男の人なのに、なんて綺麗な寝顔だろう。
ただ見ているだけでドキドキしてくる。穂乃香は思わず彼の頬に触れたいと手を伸ばしそうになって――やめた。
彼を起こしてしまったら、この時間が終わってしまうかもしれない、と思ったのだ。今はまだもう少し、彼の寝顔を見つめていたかった。
見つめながら思う。由紀子は黒崎が穂乃香のことを好きだから、毎日会いに来るんじゃないかと言ったが、本当にそんなことがありえるのだろうか? こんな綺麗な男の人が自分を? ありえないという思いしか湧かない。だが、どうして彼はこんなに自分によくしてくれるんだろう?
「……黒崎さん……」
ポツリ……と小さな小さな声で彼を呼んでみる。すると、彼の瞼がぴくっと動いて、ゆっくりと目が開いた。
「……ほのか、さん……?」
まだ寝ぼけているのか、彼はぼんやりとした目で穂乃香を見つめてくる。
「えっと……おはようございます?」
起こしてしまって悪かったなと思いながら、疑問形で苦笑いすると、彼の頬がじわっと赤く染まった。
「え……え。あれ? 俺……寝てました?」
黒崎は慌てて起き上がると、片手で顔を押さえる。耳まで赤い。
恥ずかしがっている彼がとても新鮮で、穂乃香の中でちょっぴり悪戯心が湧いてきた。
「ええ。ぐっすりと!」
「うわ……すみません。あれ、眼鏡……」
自分の顔から眼鏡がなくなっていることに気がついた黒崎が、キョロキョロと辺りを見回す。
「邪魔かと思って、わたしが外したんです」
穂乃香が眼鏡を手渡すと、彼は「ありがとうございます」と頭を下げて、眼鏡を掛けた。
「見舞いに来て一緒になって寝てるとか、本当に何しに来たんだって感じですね。すみません。ちょっと最近徹夜続きだったもので……」
黒崎は首の後ろに手をやって、面目ない――と恥ずかしそうに目を伏せる。完璧に見える彼の意外な一面を知って、穂乃香はなんだか嬉しかった。
「いいえ。可愛かったのでいいですよ」
「やめてください。三十すぎの男に可愛いはないでしょう、可愛いは……」
穂乃香が茶化すと、彼は苦笑いして椅子に座り直した。
「でも、俺も穂乃香さんの寝顔を堪能していたので、おあいこですね。可愛かったですよ、とっても」
仕返しのように言われて、今度は穂乃香が赤面してしまう。
そうだ。彼がいつ病室に来たのかを穂乃香は知らない。病室に飾られている花が、いつの間にかキュートなピンクの薔薇に変わっていた。
「……く、黒崎さんって……、何気に意地悪ですよねっ!」
真っ赤になった穂乃香がそう言って唇を尖らせると、黒崎は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げて、澄ました顔をした。
「そうですか? 結構優しいつもりなんですけれど。ずっと穂乃香さんのこと考えてますし」
(い゛っ!?)
まるで口説き文句のようなセリフに、穂乃香はすっかり硬直してしまった。男性経験ゼロの自分には難易度が高すぎる。心臓が早鐘のように鳴り響いて、音が黒崎に聞こえてしまうのではないかと思ったくらいだ。
「な、ななな、何言ってるんですか……」
「ん? 本音ですよ。穂乃香さんの骨折が早く治らないかなって思ってます」
「……な、なんだ……そっちですか……」
そう言った穂乃香は、恥ずかしさにいたたまれなくなって視線を下げた。
さっきの彼のセリフを愛や恋からくるものなのかと勘違いして高鳴ったこの心臓を、とっちめてやりたくなる。
(黒崎さんがわたしを――とかあるわけないじゃない。バカみたい)
それもこれも、この前、由紀子が変なことを言ったからだ。だからありもしない変なことを考えてしまったのだ。
「少し……中庭を散歩しませんか? 昼ご飯まであと少し時間があるみたいなので」
誘われて壁時計を見ると、確かに昼ご飯の時間まで、あと三十分はあった。
散歩に出るのはいいのだが、今日はリハビリを頑張りすぎて身体が疲れている。もう歩く気にはなれなかったので、穂乃香は正直にそう言った。
「……歩くのはちょっと……リハビリで疲れてしまって……」
「では車椅子を使いましょう。今日はとても暖かいし天気もいいですから、きっと気分転換になりますよ」
彼は病室の隅にある車椅子を指差した。その車椅子は、穂乃香が検査室に移動する時に使っているものだ。
「でも……」
「穂乃香さん。部屋の中にばかりいてはいけません。たまには外に出て、陽の光を浴びないと身体に悪いですよ。体力をつけないと」
「は、はい……」
キツくはないが強めの口調で言われて、思わず頷いてしまった。
入院してから五日間、一度も外に出ていない。それはあまり、いいことではないだろう。車椅子なら歩かなくていいし、身体への負担も少ないはずだ。確かに彼は、穂乃香のことをよく考えてくれている。
――怪我が早く治ればいいという意味で。
「さぁ、穂乃香さん」
黒崎が車椅子を持ってくる。促された穂乃香が布団をめくると、彼が「失礼」と言って、穂乃香をふわりと横抱きに抱え上げてきた。いわゆる、お姫様抱っこである。驚いた穂乃香は思わず悲鳴を上げた。
「きゃあっ! 何をするんですか、黒崎さんっ!」
「何って……車椅子に乗せるだけですよ。大丈夫ですって。こう見えても力はありますから」
そうは言われても、こんなふうに男の人に抱き上げられるのは生まれて初めてだ。決して黒崎の腕が頼りないわけではないのだが、独特の浮遊感が階段から落ちた時を連想させる。
穂乃香は強く目をつぶって身体を縮こませると、ギュッと彼の胸元にしがみついた。
「やっ! 離さないでっ! 絶対に落とさないでくださいっ!!」
「あぁ……もう……。誰が離すもんですか。離せって言われても絶対に離しませんよ。大丈夫……安心して。大丈夫ですから……ね? 怖くない。怖くない」
彼はそう言って穂乃香を強く――そして優しく抱きしめてくる。
車椅子までそう距離もないのに、黒崎がずっと自分を抱きしめている不自然さに、慌てている穂乃香はまったく気がつくことができなかった。
ただただ、黒崎にしがみついて身体を強張らせる。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
お尻が硬めのビニールに当たってから恐る恐る目を開けると、いつの間にか穂乃香は車椅子に座らされていた。目の前には笑いを堪えている黒崎がいる。
たったこれしきのことに怖がってしまった自分が恥ずかしい。穂乃香は薄らと頬を染めると、モゴモゴと言い訳しながら俯いた。
「きゅ、急に抱き上げたりしないでください……び、びっくりします……」
「はい。わかりました。次は気を付けますから」
そう言う彼は、喉の奥で「クククッ」と楽しそうに笑っていた。
気の利いた返しのひとつも言うことができずに、穂乃香は真っ赤になったまま視線を泳がせた。
そしてふと、以前、滝沢が「黒崎がコンペ以外で受注する仕事は、女社長の依頼ばかりだ」と言ったのを思い出す。
(滝沢の言ったとおりだ。この人はこうやって女の人から仕事をもらってるんだ。タラシだ。タラシに違いない)
こんなふうに持ち上げられたら、誰だっていい気分になってしまう。しかも、こんなにかっこいい男の人に――
きっとそれが彼の常套手段なんだと思っても、一度持ってしまった顔の熱はなかなか引かなかった。
「はは。本当に可愛いですね。穂乃香さんは前からちっとも変わっていない」
「は?」
穂乃香がキョトンとして目を瞬かせると、彼は「ん?」と笑いながら器用に眉を上げた。
(前から?)
――どこかでお会いしましたっけ? そう穂乃香が聞こうとした時、病室のドアがコンコンとノックされた。
「はい」
看護師が来たのかと思って返事をすると、顔を覗かせたのは穂乃香の友人、渡辺由紀子だった。
由紀子と穂乃香は小学校からの長い付き合いだ。大学で建築に進んだ穂乃香と、服飾系に進んだ由紀子とで道は分かれたが、社会人になってもやり取りを続けている。まさしく、親友と言ってもいい存在である。
穂乃香は自分の入院が決まった日、彼女にメールを送っていたのだ。洋服や雑貨を扱うセレクトショップへと就職した彼女の休みは週一なのだが、スタッフが休むと代わりに出勤することになる。そのため、前もって予定を立てておくのが難しい。メールでも、「行けたら見舞いに行くね」と書いてあった。
「なべちゃん! 来てくれたんだ!」
「穂乃香~メール見たよ~。大丈夫なの? あっ! ごめん、お客さん?」
由紀子は黒崎を見るとすぐにペコリと会釈をした。それを受けて、黒崎も会釈を返すと立ち上がる。
「お友達もいらしたみたいですし、今日はこれで帰ります」
「え……そうですか?」
「ええ、ちょうどこれから仕事の打ち合わせが入ってるんです。では、また明日――」
黒崎が由紀子に会釈して病室を出て行く。その後ろ姿に「ありがとうございました」と声を掛けて、穂乃香は親友に視線をやった。
由紀子は露骨な好奇心に瞳を輝かせながら、九センチのヒールをカツカツ鳴らしてベッドサイドに近づき、椅子に腰掛ける。
「な、何よ?」
「今の誰? 会社の人――じゃなさそうだねぇ」
彼女は黒崎を仕事関係の人間だとは思わなかったようだ。確かに、黒崎を見ると真っ先にその整った容貌に目が行く。彼には建築関係の仕事よりも、モデルか俳優の仕事のほうがしっくりくるかもしれない。
穂乃香は由紀子の勢いに半ば押されながら、黒崎のことを話した。
「階段で足を滑らせて落ちたって、メールで言ったでしょ? 出会い頭にあの人にぶつかりそうになったの。わたしが勝手に落ちただけなのに、『責任取る』って言って色々面倒見てくれるんだ。さっきもこうやってケーキ買ってきてくれてさ。別にいいのに、毎日お見舞いに来てくれるし……」
食べかけのイチゴのショートケーキを見せると、由紀子は穂乃香が大事に取っておいたてっぺん部分のイチゴを、摘んで食べてしまった。
「あーっ! 最後のお楽しみに取ってたのに!」
「この幸せ者めッ!」
由紀子は奪ったイチゴをモグモグと咀嚼しながら、身を乗り出してきた。そんな彼女に穂乃香は力いっぱい反論する。
「骨折してんのよ!? 明日からのゴールデンウィークも入院なのよ!? どこが幸せなのよ!」
「あんなイケメンとお近付きになれるなんて羨ましい! 羨ましすぎる! この当たり屋め!」
「あ……当たり屋って……」
それではまるで、穂乃香がわざと黒崎の前に飛び出して行ったように聞こえるではないか。穂乃香はムッとして残っていたショートケーキを一口で頬張る。すると由紀子は「当たり屋は冗談だよ」と言って、膨れた頬を指先で突いてきた。
「いいなーケーキ。おいしそう」
「なべちゃんも食べる?」
「うん。もらう~」
穂乃香がフルーツタルトを、由紀子がチョコレートケーキを食べることにする。
「それにしても、毎日来るの? 彼」
「うん。毎日。お花持って来てくれるの」
「えーっ、毎日見舞いに来てくれるの!? あの人、穂乃香のこと好きだったりしてぇ~」
「はあッ!?」
フルーツタルトを皿に移していた手を止めて、思わず叫んでしまった。
「だってさ、普通、責任感だけで毎日は来ないでしょ~。あの人のせいで穂乃香が怪我したわけじゃないんだから」
「そ、そうなんだけど……」
だからといって、黒崎が自分を好きなのだと決めつけるのは早計というものだろう。だが、ついさっき彼に「可愛い」と言われたのを思い出して、穂乃香の頬がじわっと熱を持ちはじめた。
(いやいや、あれは食べてる姿が「可愛い」って言われただけだし!)
そんなことあるわけない。だって彼は、黒崎隼人なのだ。あれだけのハイスペックな男の人に惚れられる要素が、自分のどこにあるというのか。
「あら? あらあらあら~? 何か心当たりでもあるわけぇ?」
「あ、あるわけないでしょ!? ……あの人は……た、ただのいい人だよ」
由紀子は「そうかなぁ~?」とニヤついた笑いを浮かべていたが、やがて思い出したように袋を渡してきた。
「これ、雑誌。どうせ暇でしょ?」
「ありがとー助かる!」
由紀子が持ってきてくれたのは、二十代の女性をターゲットにしたファッション誌が二冊。それから、カフェや食事処を選り集めたカフェ本が一冊だった。さすが、穂乃香の好みをよくわかってくれている。
そのあとは、ケーキを食べながらお喋りに花を咲かせた。
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同期の滝沢が見舞いに来てくれたのは、この日の面会時間終了間際だった。
「よぉ、櫻井。元気してっか」
「滝沢!」
由紀子が差し入れてくれたカフェ本のページをめくる手を止めて、穂乃香は明るい声を上げた。滝沢に椅子を勧めると、彼はスーツのジャケットを脱いで「ふーっ」と、盛大なため息をつく。穂乃香が抜けた穴を埋めるために、忙しくしているのかもしれない。ネクタイを緩める彼の仕草に、疲れが滲み出ていた。
「悪いな。もっと早く来ようと思ってたんだが、結構仕事が詰まっててさ」
「そんなのいいよー。むしろわたしのほうこそ、ごめんね……コンペの最中に抜けちゃって」
「気にすんな。それより所長が謝ってたぞ。療養補償? 休業補償だっけかな? なんか色々書類を用意しなきゃならんらしいが、今バタバタしてるからちょっと待ってくれって」
「うわ……所長にもごめんなさいって言っておいて。ホントごめん。忙しい時に……」
今はコンペの真っ最中だ。村田所長に余計な仕事を増やしてしまい、申し訳ない気持ちになる。だが滝沢は「もらえるモンはもらっとけ!」と、笑い飛ばしてくれた。
「ところでコンペ、どうだった……? そろそろ結果が出るんじゃない?」
進行中だったコンペの結果を恐る恐る尋ねると、彼は椅子を軋ませながら前屈みになって、ニッと笑った。
「おー今日結果来た。二次も通ったぞ。次は最終審査だな。今のところ、うちも含めて五作品が残ってる」
「やった!」
滝沢はずいぶん自信があるのか、「余裕だろ」とふんぞり返った。
「しっかし、お前も災難だったな」
「うん……ドジっちゃった」
包帯でぐるぐる巻きになっている足を見下ろして乾いた笑いを浮かべると、滝沢は慰めるように優しく頭を撫でてきた。
「仕事のことは心配すんな。お前はさっさと治せよ」
「うん。ありがと」
滝沢の優しさが嬉しくて微かに微笑む。すると、彼の視線が泳いで、ベッドサイドに飾ってあったチューリップの花に向かった。
「……ああ、わりぃ。手ぶらで来ちまった。なんか買ってくりゃよかったな」
彼らしからぬ気遣いに、穂乃香はブンブンと手を振った。ただでさえ、彼には仕事で迷惑を掛けているのだ。申し訳なくて気が引ける。
「そんなのいらないよ! 来てくれただけで嬉しい。コンペとか仕事とかすごく気になってたんだ」
「うん……まぁ……なんだ。結構見舞いに来てくれる人いるのか? 親御さんとか……さすがに今の時間は来ないか?」
滝沢が、少しソワソワした様子で辺りを見回しながら聞いてくる。穂乃香はちょっぴり苦い顔をして、黒崎のことを話した。
「うん。今の時間はね、誰も来ないよ。うちの親は今沖縄旅行中なんだ、手術の日も来なかったよ。全部黒崎さんに丸投げ」
「は?」
急に真顔になった滝沢が、眉間に皺を寄せる。穂乃香は小さく肩を竦めて、手術の日は黒崎が付いていてくれたこと。そして、毎日彼が見舞いに来てくれることを話した。
「わたしが階段から落ちた時、黒崎さんにぶつかりそうになったんだ。今更なんだけど、救急車呼んでくれたのって黒崎さんなのかな?」
穂乃香が尋ねると滝沢は「まあ、そうだな」と頷いた。
「本当は俺か所長が付き添うべきだったんだが、お前が階段から落ちたところを見てたのは黒崎だけだし、状況の説明とか考えたら黒崎が適任だろうって話になってさ……俺らはプレゼンもあったし……」
「そうなんだ。なんかさ黒崎さん、わたしが階段から落ちたのは自分のせいだって、責任感じちゃってるみたいなの。たまたま近くにいただけなのにね。全部自分が面倒見るって。この病室も個室でしょ? 黒崎さんが用意してくれたんだ。しかも毎日お見舞いに来てくれるし。大丈夫ですって断ったんだけど、気が済まないからって……」
「……へぇ」
滝沢は不愉快そうな声で相槌を打つと、半目でチューリップを睨みつけた。
「毎日……ねぇ。さすが、自分で設計してないから暇なんだな」
「うーん……暇かどうかはわからないな~。今日も打ち合わせがあるって言ってすぐ帰ったし。いい人だと思うよ。こっちが申し訳ないくらいに、よくしてもらってる」
さんざんお世話になっている自覚のある穂乃香は、思わず黒崎をかばうようなことを言っていた。その言葉を聞いた滝沢は、気に入らないと言わんばかりに、フンッと鼻を鳴らす。
「どーだか。悪人ほどな、いい人っぽく見えるもんだ」
滝沢は、どうしても黒崎に対するマイナスイメージを払拭できないらしい。
黒崎を悪く言われて、穂乃香はちょっとムッとしてしまった。
「……そんなこと、ないと思うケド……」
滝沢に聞こえないくらいの小さな声で、ボソボソっと反論する。
黒崎は自分で設計をしていないらしいという噂を聞いていたから、彼に対する印象がよくなかったのは穂乃香も同じだ。しかし彼は、救急車を呼んで穂乃香を助けてくれた。恩人のことを悪く言うべきじゃない。
穂乃香は黒崎のことから話題をそらした。
「ねぇ、それよりも会社の様子を教えて?」
「ん? ああ――」
その後も少し、会社の様子などを滝沢から聞いていると、女性看護師が夕ご飯の食器を下げに来てくれた。
「櫻井さーん。夕ご飯は食べ終わりましたか?」
「あ、はい!」
穂乃香はまだ食べていなかったゼリーを手元に残して、空になった食器を看護師に返した。
「あと面会は二十時までですからね。あと五分で終了ですよ」
看護師に釘を刺されて、滝沢は立ち上がった。
「じゃあ、俺帰るわ」
「忙しいのに、わざわざありがとうね。退院したらなんか奢るから!」
「はは。そりゃ嬉しい。リハビリ頑張れよ」
「りょーかい!」
滝沢はふっと笑うと、そのまま病室を出て行った。
一人残った病室に静寂が訪れ、少し物寂しく感じる。どこか置いてきぼりにされているような気がして切ない。
(はぁー早く仕事に復帰したいなぁ……)
穂乃香は明日のリハビリはもっと頑張ろうと心に決めて、この日は早めに就寝した。
6
(はぁ~しんどい~)
リハビリを終えて病室に帰ってきた穂乃香は、汗を吸ったシャツを脱ぎ捨てて新しいものに着替えると、ぐったりとベッドに腰を下ろした。
骨折してからというもの、なんだか疲れやすくなったような気がする。身体が回復しようとして、そこに体力を使っているのかもしれない。
今日は土曜日だ。穂乃香が入院している病院では、土曜日でもリハビリ治療をやっている。
穂乃香はあまり器用なほうではないため、松葉杖の使い方もいまだにぎこちない。だが今日のリハビリは、弱音を吐かずに最後までやりきった。
(今日のわたし、超頑張ったよね)
ちょっぴり自画自賛すると、穂乃香はミネラルウォーターをくぴっと飲んでベッドに潜り込んだ。しっかりリハビリしたお陰で、疲れて眠くなってきたのだ。
黒崎はまだ来ていない。彼は今まで十五時頃から来ることが多かった。というのも、平日の一般病棟の面会時間が、十四時から二十時だからだ。土日祝日は、朝の十時から二十時までが面会可能な時間となっている。
穂乃香は病室の壁に掛かっている時計を見上げた。時計の針は十時四十分を指している。黒崎がいつもと同じ時間に来るのなら、まだまだ余裕があった。
(今のうちに寝ちゃおうっと)
お昼になれば、そのうち看護師が昼食を持ってきてくれる。それまで昼寝だ。
穂乃香は肩まで布団を掛け直すと、惰眠を貪りはじめた。
「……ん……?」
頬にちろちろと何かが当たる気配にくすぐったさを感じて、穂乃香は意識を浮上させた。そして目を開けてギョッとする。
なんと視界いっぱいに広がっていたのは、柔らかく目を閉じた黒崎の顔だったのだ。
唇が触れ合いそうなその距離の近さに、慌てて仰け反る。
(な、なんでいるの!?)
どういうわけかわからないが、彼は眼鏡を掛けたまま、穂乃香の枕元に頭をもたれさせて、すーすーと規則的な寝息を立てて眠っているではないか。頬に当たった違和感は、どうやら彼の髪だったらしい。
不意打ちに驚きながらも、穂乃香は黒崎の寝顔から目をそらすことができなかった。
息をするのも忘れて見入ってしまう。長いまつ毛と高い鼻梁が影を作り、彫りの深さを際出たせている。今日の仕事は休みなのだろうか。装いはいつもよりカジュアルで、サラサラの黒髪は額に流れていた。
ふと眼鏡が邪魔そうなことに気付き、外そうと手を掛ける。気持ちよく眠っている黒崎を起こさないように気を付けながら、ゆっくりと眼鏡を外した。そうして現れたのは、初めて見る彼の素顔だった。
(きれい……)
男の人なのに、なんて綺麗な寝顔だろう。
ただ見ているだけでドキドキしてくる。穂乃香は思わず彼の頬に触れたいと手を伸ばしそうになって――やめた。
彼を起こしてしまったら、この時間が終わってしまうかもしれない、と思ったのだ。今はまだもう少し、彼の寝顔を見つめていたかった。
見つめながら思う。由紀子は黒崎が穂乃香のことを好きだから、毎日会いに来るんじゃないかと言ったが、本当にそんなことがありえるのだろうか? こんな綺麗な男の人が自分を? ありえないという思いしか湧かない。だが、どうして彼はこんなに自分によくしてくれるんだろう?
「……黒崎さん……」
ポツリ……と小さな小さな声で彼を呼んでみる。すると、彼の瞼がぴくっと動いて、ゆっくりと目が開いた。
「……ほのか、さん……?」
まだ寝ぼけているのか、彼はぼんやりとした目で穂乃香を見つめてくる。
「えっと……おはようございます?」
起こしてしまって悪かったなと思いながら、疑問形で苦笑いすると、彼の頬がじわっと赤く染まった。
「え……え。あれ? 俺……寝てました?」
黒崎は慌てて起き上がると、片手で顔を押さえる。耳まで赤い。
恥ずかしがっている彼がとても新鮮で、穂乃香の中でちょっぴり悪戯心が湧いてきた。
「ええ。ぐっすりと!」
「うわ……すみません。あれ、眼鏡……」
自分の顔から眼鏡がなくなっていることに気がついた黒崎が、キョロキョロと辺りを見回す。
「邪魔かと思って、わたしが外したんです」
穂乃香が眼鏡を手渡すと、彼は「ありがとうございます」と頭を下げて、眼鏡を掛けた。
「見舞いに来て一緒になって寝てるとか、本当に何しに来たんだって感じですね。すみません。ちょっと最近徹夜続きだったもので……」
黒崎は首の後ろに手をやって、面目ない――と恥ずかしそうに目を伏せる。完璧に見える彼の意外な一面を知って、穂乃香はなんだか嬉しかった。
「いいえ。可愛かったのでいいですよ」
「やめてください。三十すぎの男に可愛いはないでしょう、可愛いは……」
穂乃香が茶化すと、彼は苦笑いして椅子に座り直した。
「でも、俺も穂乃香さんの寝顔を堪能していたので、おあいこですね。可愛かったですよ、とっても」
仕返しのように言われて、今度は穂乃香が赤面してしまう。
そうだ。彼がいつ病室に来たのかを穂乃香は知らない。病室に飾られている花が、いつの間にかキュートなピンクの薔薇に変わっていた。
「……く、黒崎さんって……、何気に意地悪ですよねっ!」
真っ赤になった穂乃香がそう言って唇を尖らせると、黒崎は眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げて、澄ました顔をした。
「そうですか? 結構優しいつもりなんですけれど。ずっと穂乃香さんのこと考えてますし」
(い゛っ!?)
まるで口説き文句のようなセリフに、穂乃香はすっかり硬直してしまった。男性経験ゼロの自分には難易度が高すぎる。心臓が早鐘のように鳴り響いて、音が黒崎に聞こえてしまうのではないかと思ったくらいだ。
「な、ななな、何言ってるんですか……」
「ん? 本音ですよ。穂乃香さんの骨折が早く治らないかなって思ってます」
「……な、なんだ……そっちですか……」
そう言った穂乃香は、恥ずかしさにいたたまれなくなって視線を下げた。
さっきの彼のセリフを愛や恋からくるものなのかと勘違いして高鳴ったこの心臓を、とっちめてやりたくなる。
(黒崎さんがわたしを――とかあるわけないじゃない。バカみたい)
それもこれも、この前、由紀子が変なことを言ったからだ。だからありもしない変なことを考えてしまったのだ。
「少し……中庭を散歩しませんか? 昼ご飯まであと少し時間があるみたいなので」
誘われて壁時計を見ると、確かに昼ご飯の時間まで、あと三十分はあった。
散歩に出るのはいいのだが、今日はリハビリを頑張りすぎて身体が疲れている。もう歩く気にはなれなかったので、穂乃香は正直にそう言った。
「……歩くのはちょっと……リハビリで疲れてしまって……」
「では車椅子を使いましょう。今日はとても暖かいし天気もいいですから、きっと気分転換になりますよ」
彼は病室の隅にある車椅子を指差した。その車椅子は、穂乃香が検査室に移動する時に使っているものだ。
「でも……」
「穂乃香さん。部屋の中にばかりいてはいけません。たまには外に出て、陽の光を浴びないと身体に悪いですよ。体力をつけないと」
「は、はい……」
キツくはないが強めの口調で言われて、思わず頷いてしまった。
入院してから五日間、一度も外に出ていない。それはあまり、いいことではないだろう。車椅子なら歩かなくていいし、身体への負担も少ないはずだ。確かに彼は、穂乃香のことをよく考えてくれている。
――怪我が早く治ればいいという意味で。
「さぁ、穂乃香さん」
黒崎が車椅子を持ってくる。促された穂乃香が布団をめくると、彼が「失礼」と言って、穂乃香をふわりと横抱きに抱え上げてきた。いわゆる、お姫様抱っこである。驚いた穂乃香は思わず悲鳴を上げた。
「きゃあっ! 何をするんですか、黒崎さんっ!」
「何って……車椅子に乗せるだけですよ。大丈夫ですって。こう見えても力はありますから」
そうは言われても、こんなふうに男の人に抱き上げられるのは生まれて初めてだ。決して黒崎の腕が頼りないわけではないのだが、独特の浮遊感が階段から落ちた時を連想させる。
穂乃香は強く目をつぶって身体を縮こませると、ギュッと彼の胸元にしがみついた。
「やっ! 離さないでっ! 絶対に落とさないでくださいっ!!」
「あぁ……もう……。誰が離すもんですか。離せって言われても絶対に離しませんよ。大丈夫……安心して。大丈夫ですから……ね? 怖くない。怖くない」
彼はそう言って穂乃香を強く――そして優しく抱きしめてくる。
車椅子までそう距離もないのに、黒崎がずっと自分を抱きしめている不自然さに、慌てている穂乃香はまったく気がつくことができなかった。
ただただ、黒崎にしがみついて身体を強張らせる。
「ほら、大丈夫だったでしょう?」
お尻が硬めのビニールに当たってから恐る恐る目を開けると、いつの間にか穂乃香は車椅子に座らされていた。目の前には笑いを堪えている黒崎がいる。
たったこれしきのことに怖がってしまった自分が恥ずかしい。穂乃香は薄らと頬を染めると、モゴモゴと言い訳しながら俯いた。
「きゅ、急に抱き上げたりしないでください……び、びっくりします……」
「はい。わかりました。次は気を付けますから」
そう言う彼は、喉の奥で「クククッ」と楽しそうに笑っていた。
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