2 / 18
1巻
1-2
しおりを挟む
「この人は――」
黒崎を紹介しようとして、ふと言葉に詰まる。業界では有名な人物だが、知り合いというわけではない。むしろ、どうして彼がここにいるのか、穂乃香の方が知りたいくらいなのだから。
「えっと……」
穂乃香が躊躇いがちに黒崎を見ると、彼は小さく微笑んで穂乃香の両親に向かって頭を下げた。
「初めまして。黒崎と申します。電話は、私が沢中建設の村田所長に頼んでしてもらいました」
名刺をスマートに取り出して、両親に手渡す。黒崎の名刺を受け取った穂乃香の母親は、彼の肩書きを読み上げた。
「株式会社黒崎隼人建築設計事務所代表? あら、一級建築士。事務所をお持ちなの?」
「はい。まだ立ち上げて二年目ですが」
黒崎が事務所持ちの一級建築士と知るやいなや、穂乃香の母親の目がランランと輝きだした。それを見て、穂乃香に嫌な予感が走る。
「失礼ですが、あのォ~うちの穂乃香とはどういう……? もしかして付き合ってるとか?」
だったらいいな、という期待を滲ませた母親の問いかけを、穂乃香は力いっぱい否定した。
「おかーさん!! そんなわけないでしょ!? やめてよ!」
「なんだ。つまんない」
「つ……つまんないって……」
恥ずかしくって、いたたまれない。穂乃香は布団を引き寄せ顔を埋めた。
二十六にもなるというのに、穂乃香は今まで一度たりとも男の人と付き合ったことがない。大学の頃はもとより、今でも自分の時間はすべて建築のための勉強に費やしてきた。男の人と付き合う余裕なんてあるはずがない。一級建築士の試験に受かるためには、一に勉強二に勉強、三、四がなくて五に勉強。とにかく勉強あるのみなのだ。
初めの頃は、一級建築士を目指す穂乃香を応援してくれていた母なのだが、穂乃香が二回連続で試験に落ちた頃から応援のテンションはだだ下がり。「やっぱり無理なんじゃないか」といったムードを漂わせ、それどころか去年、穂乃香の一つ上の従姉が結婚したのをきっかけに、「誰かいい人はいないのか」としつこく聞いてくる始末――
その実家でのノリを、他人がいる前でやられたのでは堪らない。しかも、よりによって黒崎隼人の前で――
(……本当に最悪……)
穂乃香が耳まで真っ赤にしていると、黒崎が会話に入ってきた。
「すみません。私はご両親にお詫びをしなくてはなりません。お嬢さん――穂乃香さんが階段から落ちてしまったのは私のせいです。本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる黒崎を見て、穂乃香は口をポカンと開けていた。
「え? え? ええ!? どうしてそうなるんですか? あれはわたしが勝手に落ちたんです!」
驚きながらもそう叫ぶ。
「いや、あなたを驚かせてしまったのは俺ですから。――言い訳はしません。大切なお嬢さんに怪我をさせてしまいました。この責任は私にあります。お許しいただけるなら、完治するまで、お嬢さんの面倒を私のほうで見させていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
穂乃香は黒崎を制止しようとするが、彼は聞かない。それどころか、穂乃香の怪我の具合を説明しはじめた。
「さっき穂乃香さんを診察してくださった医師によると、骨折は手術をしたほうがいいとのことでした。手術をしないと、完治までに時間がかかる上に、綺麗に治らないかもしれないそうです。手術となると入院になりますが、かかる費用は全額私が負担します」
「ちょっと、黒崎さん!!」
どうして彼がそこまでする必要があるのか。ちょっと出会い頭にぶつかりそうになっただけで、実際はぶつかってもいない。穂乃香が勝手に驚いて、勝手に後ろに下がって、勝手に階段から落ちたのだ。なのに彼は、そのすべてが自分の責任だと言う。
穂乃香の両親は一瞬顔を見合わせたが、すぐにケラケラと笑いだした。
「あらーそうですか? ではお願いします。穂乃香、お言葉に甘えてしまいなさいな」
「はぁッ!?」
普通、そこは断るところだろう。だが、この母親に常識を求めるのが間違っていた。
「だって、おとーさんと私、明日から沖縄に行くことになってるのよ。言ったでしょ? 五泊六日」
そう言われてハッとする。ずいぶん前ではあったが、「おとーさんが定年退職したから、沖縄に旅行に行く」というようなことを言っていた気がする。
「えっ! 沖縄って明日からだったっけ?」
「そーよ、明日からよ。んもう、やだわこの子ったら忘れたの?」
穂乃香の母は両手を胸の前で組み合わせると、沖縄への熱き思いを語りだした。
「一度行ってみたかったのよねぇ~沖縄! ゴールデンウィーク前に行っとかないと、沖縄は梅雨入りしちゃうのよ。今のうち、今のうち! そこで私は島人になるの。どんだけ入院するか知らないけど、もう子供じゃないんだし、親がついてなくても大丈夫でしょ? それに、旅行を前日キャンセルすると、料金の四十パーセントが取られるのよ? 冗談じゃないわよ」
「いやいやいやいや、そこは娘についてようよ、親なんだからさぁ!!」
娘の一大事に、キャンセル料がなんだと言うのか。
(何が「島人」よ。一人娘が大事じゃないの!?)
穂乃香があからさまにむくれると、黒崎が一歩前に出た。
「そういう事情でしたら、手術の付き添いは私がします」
「あ、お願いできます?」
「はい」
穂乃香をそっちのけにして、またもや母と黒崎の間で話が勝手に進んでいく。穂乃香は思わず抗議の声を上げた。
「ち、ちょっと待ってください! わたしは手術するなんて言ってませんから!」
今日一日は入院するように言われたが、手術をしないのであれば、明日には退院できるはずだ。自慢じゃないが、穂乃香は一度も入院や手術を経験したことがない。手術しないで済むなら、そのほうがいいとさえ思っている。
(だって怖いし……)
穂乃香の手術に対する躊躇いを感じ取ったのか、今まで無言どころか空気のような存在だった穂乃香の父親が、口を開いた。
「穂乃香。手術しとけ。それがよか」
九州出身の父は、普段は無口なのだが言うべきことは言う。そしてその一言が重い。だからこそ、家庭内で父の発言は絶対に近いものがあった。おちゃらけた母でさえも、父の言葉には逆らわないのだ。
家長の決定に、穂乃香は思わず頷いてしまっていた。
「……はい……」
「じゃ手術することで決定~。黒崎さんでしたっけ」
「はい」
穂乃香の母に呼ばれて黒崎が返事をすると、母は深々と頭を下げた。
「不束な娘ですが、どうぞ末長くよろしくお願いします」
「なんかそれ、お願いの仕方が違う!!」
まるで嫁入りする時のような挨拶をされて、穂乃香は反射的に突っ込んだ。だが母はペロッと舌を出してすっとぼける。反省の色なんか欠片もありはしない。
「まぁまぁ、そう固いこと言わないの、別に嫁に貰ってもらったって構わないんだから、お願いしとくに越したことはないでしょ」
「な、何言ってるの!?」
母のトンデモ発言に、穂乃香は目をひん剥いて仰け反った。
会って間もないにもかかわらず、「嫁に」だなんて言われて、黒崎が不愉快に思ったかもしれないではないか。申し訳なくって彼になんて言えばいいのかわからない。
思わず顔を押さえると、「プププ。照れちゃって!」だなんてからかわれる始末だ。
「もう……何しに来たのよ……」
思わず疲れた声が漏れてしまう。すると穂乃香の母は、持ってきていたボストンバッグと紙袋を、デデンとベッドの上に置いた。
「忘れてた。これ、アンタの着替えね。うちにあった服を適当に持ってきたから」
「ありがと……」
ちらりと紙袋の中を見ると、穂乃香が使っていたパジャマ代わりのルームウェアをはじめ、見覚えのある衣類や細々したものが入っている。どうやら実家に置いておいたものを、持ってきてくれたらしい。穂乃香が受け取ると、母は携帯を出して黒崎に話しかけた。
「黒崎さん。一応、私の連絡先を渡しておきますね」
「ありがとうございます。では私も」
ベッドの横で、母と黒崎が互いの電話番号を交換している。そんな二人を見ながら、穂乃香は苦々しい顔をしていた。
(ってか何なの? この成り行きは!)
手術は受けたほうがいいらしいので、そこは仕方がない。だが、なぜ黒崎の世話にならなくてはならないのか。彼には何の責任もないのだ。しかし、母と黒崎の間では、黒崎が穂乃香の面倒を見ることで合意している。何も言わないということは、父も賛成なのだろう。
黒崎と連絡先を交換した母は、満足そうに笑うと父の背中を押した。
「じゃあね、穂乃香。おかーさん達、帰るわ」
「えっ! もう帰るの!?」
うるさい母親だが、帰ると言われると急に心細くなる。穂乃香が不安に眉を下げると、母は小さく肩を竦めた。
「帰るわよ。明日から旅行だって言ったでしょ? 荷造りしなきゃ。急に電話で呼び出されたもんだから晩ご飯の支度もしてないし、アンタが思ってるほどこっちは暇じゃないのよ。じゃあね、手術、頑張んなさいな。黒崎さん、あとよろしくお願いします」
「ちょ、ちょっとお母さん!」
穂乃香が呼び止めるのも聞かないで、母は「おみやげ買ってくるわねぇ~」と言い残し、父と共に病室を出て行ってしまった。
(嘘でしょ? 普通、よく知らない男の人に嫁入り前の娘を預ける? ありえない!!)
黒崎と共に病室に取り残された穂乃香は、途方に暮れてしまった。視線をやると、彼は見惚れるような笑みを浮かべて名刺を一枚差し出してくる。
「はい、穂乃香さんにも」
「あ、はぁ……どうも……」
名刺を受け取ると、そこには憧れの「一級建築士」の文字が入っていた。とはいえ、彼には設計を他人に丸投げしているのではないかという疑惑があるのだが――
穂乃香は、硬い表情で黒崎に向き直った。
「あの……ありがとうございました。いろいろと……でも、本当に大丈夫ですから! 責任取るとかやめてください。母はああ言っていましたが、ここまで付き添ってもらっただけで十分なんです」
だが彼は、「いいえ」と首を横に振る。
「それでは俺の気が済みません。本当はあの時、穂乃香さんを助けられたらよかったんですが……」
神妙な顔をして俯く彼は、穂乃香を助けられなかったことを酷く悔やんでいるらしい。
「だからせめて、完治するまではお世話させてください」
「いや……でも……そんなの困るんです。本当にやめてください」
「そう言わないでください。俺の自己満足なんです」
双方譲らず。
二人の攻防は、看護師が入院手続きの書類を持ってくるまで続いた。
4
翌日――
くるぶしの整形手術を終えた穂乃香が目を開けた時、ボンヤリとした視界に入ってきたのは、黒崎の顔だった。ぼやけていても整っている彼は、笑っているように見える。
「穂乃香さん、よく頑張りましたね。手術は大成功ですよ」
優しい声が手術の成功を教えてくれた。なんだかホッとする。
まだ眠いのは麻酔が抜けきっていないせいだろうか。全身が怠いし、目もしょぼしょぼしている。そんな時、ふと頭を優しく撫でられた。
「お疲れ様です。ゆっくり休んでくださいね」
(あ……まだ寝てていいんだ……)
額に触れる温かな体温が、一人じゃないんだという安心をくれる。
穂乃香は目を閉じて、力を抜いた。
「おやすみなさい、穂乃香さん。大丈夫、眠るまで側にいます。また明日も来ますからね……」
そんな声が聞こえたような気がした――
「こんにちは。穂乃香さん」
「もうッ! 来なくていいって言ったじゃないですか!」
「穂乃香さんは今日も元気ですね。骨折もすぐに治ってしまいそうだ」
週末の昼下がり。ベッドの上で穂乃香は、見舞いに来た黒崎に向かって吼えた。だが彼は、穂乃香の不機嫌を気にする様子もなく、持ってきた花束を花瓶に活けている。
今日の花は、可愛らしいピンク色のチューリップだ。
そう、骨折してから四日。あれから彼は、毎日異なる花束を持って、――短時間ではあったが――穂乃香の病室を訪れている。ちなみに昨日はピンクと赤のガーベラだった。
黒崎の世話になる気など、さらさらない。だから穂乃香は、手術の翌日に見舞いに来た彼に、キッパリと断りを入れていた。
『手術は不安でしたけど、お陰様でこうして無事に終わりました。ですから、これ以上黒崎さんに、お時間を割いていただかなくても大丈夫です』
『そうは言われても、俺は穂乃香さんのご両親と約束しました。責任を持って穂乃香さんの面倒を見ると――やると決めたことを途中で放り出すのは、俺のポリシーに反します』
責任感が強いのか、穂乃香の両親と約束した義務感からか、はたまた穂乃香を助けられなかった罪悪感からなのかは知らないが、彼は穂乃香を見舞うことを止めるつもりはないらしい。
病室だって大部屋でいいのに、黒崎が用意してくれたのは個室だ。なんでも彼はここの病院の改装に携わったそうで、院長と顔見知りらしい。
風呂もトイレも付いている部屋なので、有り難いことには違いないが、ここまで甘えていいものだろうか?
穂乃香はあからさまにため息をついて、固定され包帯でぐるぐる巻きになっている自分の右足に視線を落とした。
少し、イライラしている自分がいる。
手術の次の日からリハビリが始まっているのだが、まだ痛みが強くて思うように歩けないのだ。
医師が言うには、手術した方の足に軽く体重を掛けてもいいらしい。骨に徐々に負荷を掛けるリハビリの方法は、折れた部分の修復を促す効果があるのだと言う。しかし、そんなことできるわけもなかった。
だって、痛いのだ。
手術の翌日なんかはパンパンに腫れ上がって、まるでゾウの足のようだった。腫れは徐々に引いてきているが、足を床に着けると痛みを感じるのは相変わらず。そして、初めて使う松葉杖にもまだ慣れていなかった。
手術してからまだ三日しか経っていないのだからと、自分を慰めてみる。だが、リハビリは早いほうがいいということぐらい、素人の穂乃香だって知っていた。医師も、固定中は極端に運動量が減るから、固定を外す頃には筋肉が細くなったり、関節の動きが悪くなってしまったりすると言う。
リハビリが遅れて、このまま歩けなくなったらどうしよう、という不安が頭をよぎる。だが足を床に着けると痛い――その繰り返しだ。
焦りと不安が苛立ちとなって、毎日顔を見せる黒崎に向かっていると言っても過言ではなかった。
「穂乃香さん」
むくれた穂乃香に、花を活け終わった黒崎が話しかけてきた。いつもはノーネクタイの彼だが、今日はキッチリとネクタイをしている。売れっ子建築家様はさぞかしお忙しいことだろう。髪を柔らかく後ろに撫で付けたビジネススタイルも、ずいぶんと様になっている。さらに黒縁の眼鏡のお陰で、インテリ臭が半端ない。そんな彼が憎々しい。
(わたしだって仕事したいのに!)
「なんですか」
彼にコンペで仕事を取られた時のことをふいに思い出して、つっけんどんな態度で返事をする。するとベッドサイドの椅子に腰掛けた彼が、テーブルの上に紙製の白い箱を置いた。
「昨日看護師さんに確認したんですが、穂乃香さんは骨折での入院なので、食事制限はないそうです。ケーキを買ってきたんですが、食べませんか?」
ケーキと聞いて、ピクッと反応してしまう。穂乃香は甘いものに目がない。特にケーキは大大大大好物で、ケーキバイキングに行くと全種類のケーキを制覇したくなるくらいだ。
ちなみに穂乃香のケーキバイキングの最高記録は、十三個である。その店ではバイキング用の小さなケーキではなく、店売り用の大きなケーキを提供していたので、その量は推して知るべし。
この病院の食事は比較的おいしいほうだとは思うのだが、こういったケーキ類は出てこない。
「いりません!」と突っぱねてやりたいのに、箱の中身が気になって気になって仕方ない。
(だ、だめよ、穂乃香。相手は黒崎よ、黒崎隼人なのよ! わたしの仕事を取った奴なのよ! そんな奴からの差し入れを食べるなんて……)
大好物のケーキを食べてしまいたい欲望と、いやいや食べてなるものかというプライドがせめぎ合う。
そんな穂乃香の心中を知ってか知らずか、黒崎は箱を開けてケーキを勧めてきた。
「どれでも、お好きなのをどうぞ。最近評判のピタゴラスという店で買ってきたんです」
「ピタゴラス!?」
ピタゴラスはケーキ通の中では有名なカフェだ。雑誌のカフェ特集には、必ずと言っていいほど載っている。穂乃香も一度は行きたいと思っていた店だ。だがそこは、ケーキのテイクアウトを行っていないはずなのだが……
そう思ったのが、顔に出ていたのだろうか。黒崎はニコッと笑った。
「入院している友人に持って行きたいと相談したら、店長さんが特別に対応してくれたんです。だから、お店の人の親切に報いるためにも、ここは穂乃香さんに食べていただきたいな、と」
「え……そ、そうですか?」
「ぜひ」と後押しされて、穂乃香は仕方ないなぁ~と言わんばかりの表情で箱の中を覗き込んだ。
店の人が特別に用意してくれたなら、食べなくては。ケーキに罪はない。
箱の中にはオーソドックスなイチゴのショートケーキ、さくらんぼがたくさん乗ったフルーツタルト、そしてチョコレートケーキが一つずつ入っていた。
どれもこれも本当においしそうで、思わずゴクリと生唾を呑む。
「お、おいしそうですね」
穂乃香はライバルからの差し入れだというのも忘れて、ケーキに見入ってしまった。
生クリームたっぷりのショートケーキもいいが、フルーツの下にカスタードクリームが入ったフルーツタルトも捨て難い。いや、それとも大人なチョコレートケーキにするべきか――本来テイクアウトでは食べられないケーキだと思うと迷いが生じる。
どれにするか選べないでいる穂乃香に、黒崎の目が眼鏡の奥で柔らかく笑った。
「全部食べてもいいですよ?」
「えっ、本当に?」
穂乃香がパッと顔を上げると、黒崎はまた笑った。
「もちろん。俺はあまり甘いものは食べないので」
「そうなんですか?」
「ええ、そうなんです。どれから食べますか?」
「じ、じゃあ、最初はショートケーキで」
穂乃香は、真っ白なクリームに包まれたショートケーキを指差した。
最初は無難なイチゴのショートケーキでその店の味を知り、次にフルーツが乗ったタルトで季節感を味わい、ラストはチョコレートケーキと共にコーヒーで締める――これが穂乃香が思う通の食べ方だ。
「ショートケーキですね」
ぬかりなく用意されていた紙皿の上に、黒崎がケーキを取ってくれる。なんと彼は、使い捨てのフォークまで用意してくれていた。その周到ぶりには舌を巻く。
「なんかすみません。色々用意してもらって……」
自分の中のモヤモヤを黒崎にぶつけてしまったことを反省しながら謝ると、黒崎は「いいえ」と首を横に振った。
「俺が好きでしていることですから」
「でも――」
責任も、義務も、罪悪感すら彼が感じる必要はないのに――穂乃香がそう言おうとしたのがわかったのか、彼はスッと席を立った。
「コーヒーを買ってきますが、穂乃香さんも何か飲みますか? ついでに買ってきますよ」
備え付けの冷蔵庫には、ミネラルウォーターが入っている。しかし、ケーキのお供が水というのも味気ない。ケーキをコーヒーで締めることが好みの穂乃香は、悪いな……と思いながらも、彼の厚意に甘えることにした。
本当は自分で買いに行きたいが、慣れない松葉杖を両手についた状態で、買ったコーヒーを病室まで持ってくるのは不可能だ。缶やペットボトルならともかく、病院の待合室にある自動販売機は、紙コップで出てくるタイプなのだ。
「すみません……じゃあ、わたしもコーヒーをお願いします。ミルク多めで」
「はい」
黒崎はそう返事をして病室を出て行った。
(おいしそうだなぁ~)
勝手に食べるのも気が引けたので、穂乃香はツヤツヤのイチゴが乗ったケーキを見ながらオアズケ状態で待つ。黒崎はすぐに戻ってきた。
「ありがとうございます。あの、お金払います。おいくらでした?」
穂乃香が財布を出すと、テーブルにコーヒーを置いた黒崎は小さく肩を竦めた。
「いいですよ、これぐらい」
「え、でも……」
「それよりケーキをどうぞ。おいしいといいんですけれど……はい、あーん」
そう言うなり、黒崎がフォークで一口大に切ったケーキを穂乃香の口元に差し出してきた。
「え……あ、あの、自分で食べられますから……」
利き手を骨折しているのならまだしも、穂乃香が折ったのは足の骨だ。食べることに関してはまったく不自由していない。
黒崎は一瞬キョトンとしていたが、すぐにハッとしてフォークを穂乃香に返してきた。
「すみません、本当に……素で余計なことを……」
「……いえ……えっと……じゃあ、いただきます……」
気を取り直して目の前のイチゴのショートケーキを頬張る。一口食べただけで、しつこくない生クリームの甘みと共に、イチゴの甘酸っぱさが広がった。ちなみに、穂乃香はてっぺんのイチゴは最後まで取っておく派だ。
「あ、おいしい……」
「それはよかった。たくさん食べてくださいね」
「ありがとうございます」
ケーキで懐柔されているような気がしないでもないが、久しぶりに食べるケーキの甘さに、ついつい頬も緩む。ここ半年あまりはコンペの準備で忙しく、のんびりとケーキバイキングに出掛ける暇もなかったのだ。その心血注いだコンペも、落選という結果に終わったが……
(それに当選したのが黒崎さんなんだよねぇ……)
自分が落選したコンペの当選者に見舞われているという現状に、なにやら皮肉にも似たものを感じてしまう。ふと視線を彼に向けると、バチッと彼と目が合った。眼鏡の奥に、優しそうな眼差しがある。
もしかすると、食べているところをずっと見られていたのだろうか。そう思うと急に恥ずかしくなって、穂乃香は口元を押さえながら赤面した。
「あの、そんなに見ないでください……」
「あぁ――すみません。可愛いなぁと思って、つい……」
「!? ゲホッ! ゴホッ!!」
いきなり「可愛い」だなんて言われて、驚きのあまり咳き込んでしまう。まさかそんなことを言われるだなんて思ってもみなかったのだ。第一、食べているところを可愛いと言われても複雑なだけではないか。
「だ、大丈夫ですか?」
差し出されたコーヒーを慌てて口に含んだ。
「っもう! 何言ってるんですかッ! 変なこと言わないでください!!」
「え。俺、何かおかしなこと言いました? 本当のことを言っただけなんですけれど。なんだかこうしていると、可愛い穂乃香さんを独り占めしているような感じで、役得だなと思って」
「な……な……なにを……」
穂乃香は赤くなっていた頬をさらに染めて、フォークを持ったまま硬直してしまった。
黒崎を紹介しようとして、ふと言葉に詰まる。業界では有名な人物だが、知り合いというわけではない。むしろ、どうして彼がここにいるのか、穂乃香の方が知りたいくらいなのだから。
「えっと……」
穂乃香が躊躇いがちに黒崎を見ると、彼は小さく微笑んで穂乃香の両親に向かって頭を下げた。
「初めまして。黒崎と申します。電話は、私が沢中建設の村田所長に頼んでしてもらいました」
名刺をスマートに取り出して、両親に手渡す。黒崎の名刺を受け取った穂乃香の母親は、彼の肩書きを読み上げた。
「株式会社黒崎隼人建築設計事務所代表? あら、一級建築士。事務所をお持ちなの?」
「はい。まだ立ち上げて二年目ですが」
黒崎が事務所持ちの一級建築士と知るやいなや、穂乃香の母親の目がランランと輝きだした。それを見て、穂乃香に嫌な予感が走る。
「失礼ですが、あのォ~うちの穂乃香とはどういう……? もしかして付き合ってるとか?」
だったらいいな、という期待を滲ませた母親の問いかけを、穂乃香は力いっぱい否定した。
「おかーさん!! そんなわけないでしょ!? やめてよ!」
「なんだ。つまんない」
「つ……つまんないって……」
恥ずかしくって、いたたまれない。穂乃香は布団を引き寄せ顔を埋めた。
二十六にもなるというのに、穂乃香は今まで一度たりとも男の人と付き合ったことがない。大学の頃はもとより、今でも自分の時間はすべて建築のための勉強に費やしてきた。男の人と付き合う余裕なんてあるはずがない。一級建築士の試験に受かるためには、一に勉強二に勉強、三、四がなくて五に勉強。とにかく勉強あるのみなのだ。
初めの頃は、一級建築士を目指す穂乃香を応援してくれていた母なのだが、穂乃香が二回連続で試験に落ちた頃から応援のテンションはだだ下がり。「やっぱり無理なんじゃないか」といったムードを漂わせ、それどころか去年、穂乃香の一つ上の従姉が結婚したのをきっかけに、「誰かいい人はいないのか」としつこく聞いてくる始末――
その実家でのノリを、他人がいる前でやられたのでは堪らない。しかも、よりによって黒崎隼人の前で――
(……本当に最悪……)
穂乃香が耳まで真っ赤にしていると、黒崎が会話に入ってきた。
「すみません。私はご両親にお詫びをしなくてはなりません。お嬢さん――穂乃香さんが階段から落ちてしまったのは私のせいです。本当に申し訳ありませんでした」
深々と頭を下げる黒崎を見て、穂乃香は口をポカンと開けていた。
「え? え? ええ!? どうしてそうなるんですか? あれはわたしが勝手に落ちたんです!」
驚きながらもそう叫ぶ。
「いや、あなたを驚かせてしまったのは俺ですから。――言い訳はしません。大切なお嬢さんに怪我をさせてしまいました。この責任は私にあります。お許しいただけるなら、完治するまで、お嬢さんの面倒を私のほうで見させていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
穂乃香は黒崎を制止しようとするが、彼は聞かない。それどころか、穂乃香の怪我の具合を説明しはじめた。
「さっき穂乃香さんを診察してくださった医師によると、骨折は手術をしたほうがいいとのことでした。手術をしないと、完治までに時間がかかる上に、綺麗に治らないかもしれないそうです。手術となると入院になりますが、かかる費用は全額私が負担します」
「ちょっと、黒崎さん!!」
どうして彼がそこまでする必要があるのか。ちょっと出会い頭にぶつかりそうになっただけで、実際はぶつかってもいない。穂乃香が勝手に驚いて、勝手に後ろに下がって、勝手に階段から落ちたのだ。なのに彼は、そのすべてが自分の責任だと言う。
穂乃香の両親は一瞬顔を見合わせたが、すぐにケラケラと笑いだした。
「あらーそうですか? ではお願いします。穂乃香、お言葉に甘えてしまいなさいな」
「はぁッ!?」
普通、そこは断るところだろう。だが、この母親に常識を求めるのが間違っていた。
「だって、おとーさんと私、明日から沖縄に行くことになってるのよ。言ったでしょ? 五泊六日」
そう言われてハッとする。ずいぶん前ではあったが、「おとーさんが定年退職したから、沖縄に旅行に行く」というようなことを言っていた気がする。
「えっ! 沖縄って明日からだったっけ?」
「そーよ、明日からよ。んもう、やだわこの子ったら忘れたの?」
穂乃香の母は両手を胸の前で組み合わせると、沖縄への熱き思いを語りだした。
「一度行ってみたかったのよねぇ~沖縄! ゴールデンウィーク前に行っとかないと、沖縄は梅雨入りしちゃうのよ。今のうち、今のうち! そこで私は島人になるの。どんだけ入院するか知らないけど、もう子供じゃないんだし、親がついてなくても大丈夫でしょ? それに、旅行を前日キャンセルすると、料金の四十パーセントが取られるのよ? 冗談じゃないわよ」
「いやいやいやいや、そこは娘についてようよ、親なんだからさぁ!!」
娘の一大事に、キャンセル料がなんだと言うのか。
(何が「島人」よ。一人娘が大事じゃないの!?)
穂乃香があからさまにむくれると、黒崎が一歩前に出た。
「そういう事情でしたら、手術の付き添いは私がします」
「あ、お願いできます?」
「はい」
穂乃香をそっちのけにして、またもや母と黒崎の間で話が勝手に進んでいく。穂乃香は思わず抗議の声を上げた。
「ち、ちょっと待ってください! わたしは手術するなんて言ってませんから!」
今日一日は入院するように言われたが、手術をしないのであれば、明日には退院できるはずだ。自慢じゃないが、穂乃香は一度も入院や手術を経験したことがない。手術しないで済むなら、そのほうがいいとさえ思っている。
(だって怖いし……)
穂乃香の手術に対する躊躇いを感じ取ったのか、今まで無言どころか空気のような存在だった穂乃香の父親が、口を開いた。
「穂乃香。手術しとけ。それがよか」
九州出身の父は、普段は無口なのだが言うべきことは言う。そしてその一言が重い。だからこそ、家庭内で父の発言は絶対に近いものがあった。おちゃらけた母でさえも、父の言葉には逆らわないのだ。
家長の決定に、穂乃香は思わず頷いてしまっていた。
「……はい……」
「じゃ手術することで決定~。黒崎さんでしたっけ」
「はい」
穂乃香の母に呼ばれて黒崎が返事をすると、母は深々と頭を下げた。
「不束な娘ですが、どうぞ末長くよろしくお願いします」
「なんかそれ、お願いの仕方が違う!!」
まるで嫁入りする時のような挨拶をされて、穂乃香は反射的に突っ込んだ。だが母はペロッと舌を出してすっとぼける。反省の色なんか欠片もありはしない。
「まぁまぁ、そう固いこと言わないの、別に嫁に貰ってもらったって構わないんだから、お願いしとくに越したことはないでしょ」
「な、何言ってるの!?」
母のトンデモ発言に、穂乃香は目をひん剥いて仰け反った。
会って間もないにもかかわらず、「嫁に」だなんて言われて、黒崎が不愉快に思ったかもしれないではないか。申し訳なくって彼になんて言えばいいのかわからない。
思わず顔を押さえると、「プププ。照れちゃって!」だなんてからかわれる始末だ。
「もう……何しに来たのよ……」
思わず疲れた声が漏れてしまう。すると穂乃香の母は、持ってきていたボストンバッグと紙袋を、デデンとベッドの上に置いた。
「忘れてた。これ、アンタの着替えね。うちにあった服を適当に持ってきたから」
「ありがと……」
ちらりと紙袋の中を見ると、穂乃香が使っていたパジャマ代わりのルームウェアをはじめ、見覚えのある衣類や細々したものが入っている。どうやら実家に置いておいたものを、持ってきてくれたらしい。穂乃香が受け取ると、母は携帯を出して黒崎に話しかけた。
「黒崎さん。一応、私の連絡先を渡しておきますね」
「ありがとうございます。では私も」
ベッドの横で、母と黒崎が互いの電話番号を交換している。そんな二人を見ながら、穂乃香は苦々しい顔をしていた。
(ってか何なの? この成り行きは!)
手術は受けたほうがいいらしいので、そこは仕方がない。だが、なぜ黒崎の世話にならなくてはならないのか。彼には何の責任もないのだ。しかし、母と黒崎の間では、黒崎が穂乃香の面倒を見ることで合意している。何も言わないということは、父も賛成なのだろう。
黒崎と連絡先を交換した母は、満足そうに笑うと父の背中を押した。
「じゃあね、穂乃香。おかーさん達、帰るわ」
「えっ! もう帰るの!?」
うるさい母親だが、帰ると言われると急に心細くなる。穂乃香が不安に眉を下げると、母は小さく肩を竦めた。
「帰るわよ。明日から旅行だって言ったでしょ? 荷造りしなきゃ。急に電話で呼び出されたもんだから晩ご飯の支度もしてないし、アンタが思ってるほどこっちは暇じゃないのよ。じゃあね、手術、頑張んなさいな。黒崎さん、あとよろしくお願いします」
「ちょ、ちょっとお母さん!」
穂乃香が呼び止めるのも聞かないで、母は「おみやげ買ってくるわねぇ~」と言い残し、父と共に病室を出て行ってしまった。
(嘘でしょ? 普通、よく知らない男の人に嫁入り前の娘を預ける? ありえない!!)
黒崎と共に病室に取り残された穂乃香は、途方に暮れてしまった。視線をやると、彼は見惚れるような笑みを浮かべて名刺を一枚差し出してくる。
「はい、穂乃香さんにも」
「あ、はぁ……どうも……」
名刺を受け取ると、そこには憧れの「一級建築士」の文字が入っていた。とはいえ、彼には設計を他人に丸投げしているのではないかという疑惑があるのだが――
穂乃香は、硬い表情で黒崎に向き直った。
「あの……ありがとうございました。いろいろと……でも、本当に大丈夫ですから! 責任取るとかやめてください。母はああ言っていましたが、ここまで付き添ってもらっただけで十分なんです」
だが彼は、「いいえ」と首を横に振る。
「それでは俺の気が済みません。本当はあの時、穂乃香さんを助けられたらよかったんですが……」
神妙な顔をして俯く彼は、穂乃香を助けられなかったことを酷く悔やんでいるらしい。
「だからせめて、完治するまではお世話させてください」
「いや……でも……そんなの困るんです。本当にやめてください」
「そう言わないでください。俺の自己満足なんです」
双方譲らず。
二人の攻防は、看護師が入院手続きの書類を持ってくるまで続いた。
4
翌日――
くるぶしの整形手術を終えた穂乃香が目を開けた時、ボンヤリとした視界に入ってきたのは、黒崎の顔だった。ぼやけていても整っている彼は、笑っているように見える。
「穂乃香さん、よく頑張りましたね。手術は大成功ですよ」
優しい声が手術の成功を教えてくれた。なんだかホッとする。
まだ眠いのは麻酔が抜けきっていないせいだろうか。全身が怠いし、目もしょぼしょぼしている。そんな時、ふと頭を優しく撫でられた。
「お疲れ様です。ゆっくり休んでくださいね」
(あ……まだ寝てていいんだ……)
額に触れる温かな体温が、一人じゃないんだという安心をくれる。
穂乃香は目を閉じて、力を抜いた。
「おやすみなさい、穂乃香さん。大丈夫、眠るまで側にいます。また明日も来ますからね……」
そんな声が聞こえたような気がした――
「こんにちは。穂乃香さん」
「もうッ! 来なくていいって言ったじゃないですか!」
「穂乃香さんは今日も元気ですね。骨折もすぐに治ってしまいそうだ」
週末の昼下がり。ベッドの上で穂乃香は、見舞いに来た黒崎に向かって吼えた。だが彼は、穂乃香の不機嫌を気にする様子もなく、持ってきた花束を花瓶に活けている。
今日の花は、可愛らしいピンク色のチューリップだ。
そう、骨折してから四日。あれから彼は、毎日異なる花束を持って、――短時間ではあったが――穂乃香の病室を訪れている。ちなみに昨日はピンクと赤のガーベラだった。
黒崎の世話になる気など、さらさらない。だから穂乃香は、手術の翌日に見舞いに来た彼に、キッパリと断りを入れていた。
『手術は不安でしたけど、お陰様でこうして無事に終わりました。ですから、これ以上黒崎さんに、お時間を割いていただかなくても大丈夫です』
『そうは言われても、俺は穂乃香さんのご両親と約束しました。責任を持って穂乃香さんの面倒を見ると――やると決めたことを途中で放り出すのは、俺のポリシーに反します』
責任感が強いのか、穂乃香の両親と約束した義務感からか、はたまた穂乃香を助けられなかった罪悪感からなのかは知らないが、彼は穂乃香を見舞うことを止めるつもりはないらしい。
病室だって大部屋でいいのに、黒崎が用意してくれたのは個室だ。なんでも彼はここの病院の改装に携わったそうで、院長と顔見知りらしい。
風呂もトイレも付いている部屋なので、有り難いことには違いないが、ここまで甘えていいものだろうか?
穂乃香はあからさまにため息をついて、固定され包帯でぐるぐる巻きになっている自分の右足に視線を落とした。
少し、イライラしている自分がいる。
手術の次の日からリハビリが始まっているのだが、まだ痛みが強くて思うように歩けないのだ。
医師が言うには、手術した方の足に軽く体重を掛けてもいいらしい。骨に徐々に負荷を掛けるリハビリの方法は、折れた部分の修復を促す効果があるのだと言う。しかし、そんなことできるわけもなかった。
だって、痛いのだ。
手術の翌日なんかはパンパンに腫れ上がって、まるでゾウの足のようだった。腫れは徐々に引いてきているが、足を床に着けると痛みを感じるのは相変わらず。そして、初めて使う松葉杖にもまだ慣れていなかった。
手術してからまだ三日しか経っていないのだからと、自分を慰めてみる。だが、リハビリは早いほうがいいということぐらい、素人の穂乃香だって知っていた。医師も、固定中は極端に運動量が減るから、固定を外す頃には筋肉が細くなったり、関節の動きが悪くなってしまったりすると言う。
リハビリが遅れて、このまま歩けなくなったらどうしよう、という不安が頭をよぎる。だが足を床に着けると痛い――その繰り返しだ。
焦りと不安が苛立ちとなって、毎日顔を見せる黒崎に向かっていると言っても過言ではなかった。
「穂乃香さん」
むくれた穂乃香に、花を活け終わった黒崎が話しかけてきた。いつもはノーネクタイの彼だが、今日はキッチリとネクタイをしている。売れっ子建築家様はさぞかしお忙しいことだろう。髪を柔らかく後ろに撫で付けたビジネススタイルも、ずいぶんと様になっている。さらに黒縁の眼鏡のお陰で、インテリ臭が半端ない。そんな彼が憎々しい。
(わたしだって仕事したいのに!)
「なんですか」
彼にコンペで仕事を取られた時のことをふいに思い出して、つっけんどんな態度で返事をする。するとベッドサイドの椅子に腰掛けた彼が、テーブルの上に紙製の白い箱を置いた。
「昨日看護師さんに確認したんですが、穂乃香さんは骨折での入院なので、食事制限はないそうです。ケーキを買ってきたんですが、食べませんか?」
ケーキと聞いて、ピクッと反応してしまう。穂乃香は甘いものに目がない。特にケーキは大大大大好物で、ケーキバイキングに行くと全種類のケーキを制覇したくなるくらいだ。
ちなみに穂乃香のケーキバイキングの最高記録は、十三個である。その店ではバイキング用の小さなケーキではなく、店売り用の大きなケーキを提供していたので、その量は推して知るべし。
この病院の食事は比較的おいしいほうだとは思うのだが、こういったケーキ類は出てこない。
「いりません!」と突っぱねてやりたいのに、箱の中身が気になって気になって仕方ない。
(だ、だめよ、穂乃香。相手は黒崎よ、黒崎隼人なのよ! わたしの仕事を取った奴なのよ! そんな奴からの差し入れを食べるなんて……)
大好物のケーキを食べてしまいたい欲望と、いやいや食べてなるものかというプライドがせめぎ合う。
そんな穂乃香の心中を知ってか知らずか、黒崎は箱を開けてケーキを勧めてきた。
「どれでも、お好きなのをどうぞ。最近評判のピタゴラスという店で買ってきたんです」
「ピタゴラス!?」
ピタゴラスはケーキ通の中では有名なカフェだ。雑誌のカフェ特集には、必ずと言っていいほど載っている。穂乃香も一度は行きたいと思っていた店だ。だがそこは、ケーキのテイクアウトを行っていないはずなのだが……
そう思ったのが、顔に出ていたのだろうか。黒崎はニコッと笑った。
「入院している友人に持って行きたいと相談したら、店長さんが特別に対応してくれたんです。だから、お店の人の親切に報いるためにも、ここは穂乃香さんに食べていただきたいな、と」
「え……そ、そうですか?」
「ぜひ」と後押しされて、穂乃香は仕方ないなぁ~と言わんばかりの表情で箱の中を覗き込んだ。
店の人が特別に用意してくれたなら、食べなくては。ケーキに罪はない。
箱の中にはオーソドックスなイチゴのショートケーキ、さくらんぼがたくさん乗ったフルーツタルト、そしてチョコレートケーキが一つずつ入っていた。
どれもこれも本当においしそうで、思わずゴクリと生唾を呑む。
「お、おいしそうですね」
穂乃香はライバルからの差し入れだというのも忘れて、ケーキに見入ってしまった。
生クリームたっぷりのショートケーキもいいが、フルーツの下にカスタードクリームが入ったフルーツタルトも捨て難い。いや、それとも大人なチョコレートケーキにするべきか――本来テイクアウトでは食べられないケーキだと思うと迷いが生じる。
どれにするか選べないでいる穂乃香に、黒崎の目が眼鏡の奥で柔らかく笑った。
「全部食べてもいいですよ?」
「えっ、本当に?」
穂乃香がパッと顔を上げると、黒崎はまた笑った。
「もちろん。俺はあまり甘いものは食べないので」
「そうなんですか?」
「ええ、そうなんです。どれから食べますか?」
「じ、じゃあ、最初はショートケーキで」
穂乃香は、真っ白なクリームに包まれたショートケーキを指差した。
最初は無難なイチゴのショートケーキでその店の味を知り、次にフルーツが乗ったタルトで季節感を味わい、ラストはチョコレートケーキと共にコーヒーで締める――これが穂乃香が思う通の食べ方だ。
「ショートケーキですね」
ぬかりなく用意されていた紙皿の上に、黒崎がケーキを取ってくれる。なんと彼は、使い捨てのフォークまで用意してくれていた。その周到ぶりには舌を巻く。
「なんかすみません。色々用意してもらって……」
自分の中のモヤモヤを黒崎にぶつけてしまったことを反省しながら謝ると、黒崎は「いいえ」と首を横に振った。
「俺が好きでしていることですから」
「でも――」
責任も、義務も、罪悪感すら彼が感じる必要はないのに――穂乃香がそう言おうとしたのがわかったのか、彼はスッと席を立った。
「コーヒーを買ってきますが、穂乃香さんも何か飲みますか? ついでに買ってきますよ」
備え付けの冷蔵庫には、ミネラルウォーターが入っている。しかし、ケーキのお供が水というのも味気ない。ケーキをコーヒーで締めることが好みの穂乃香は、悪いな……と思いながらも、彼の厚意に甘えることにした。
本当は自分で買いに行きたいが、慣れない松葉杖を両手についた状態で、買ったコーヒーを病室まで持ってくるのは不可能だ。缶やペットボトルならともかく、病院の待合室にある自動販売機は、紙コップで出てくるタイプなのだ。
「すみません……じゃあ、わたしもコーヒーをお願いします。ミルク多めで」
「はい」
黒崎はそう返事をして病室を出て行った。
(おいしそうだなぁ~)
勝手に食べるのも気が引けたので、穂乃香はツヤツヤのイチゴが乗ったケーキを見ながらオアズケ状態で待つ。黒崎はすぐに戻ってきた。
「ありがとうございます。あの、お金払います。おいくらでした?」
穂乃香が財布を出すと、テーブルにコーヒーを置いた黒崎は小さく肩を竦めた。
「いいですよ、これぐらい」
「え、でも……」
「それよりケーキをどうぞ。おいしいといいんですけれど……はい、あーん」
そう言うなり、黒崎がフォークで一口大に切ったケーキを穂乃香の口元に差し出してきた。
「え……あ、あの、自分で食べられますから……」
利き手を骨折しているのならまだしも、穂乃香が折ったのは足の骨だ。食べることに関してはまったく不自由していない。
黒崎は一瞬キョトンとしていたが、すぐにハッとしてフォークを穂乃香に返してきた。
「すみません、本当に……素で余計なことを……」
「……いえ……えっと……じゃあ、いただきます……」
気を取り直して目の前のイチゴのショートケーキを頬張る。一口食べただけで、しつこくない生クリームの甘みと共に、イチゴの甘酸っぱさが広がった。ちなみに、穂乃香はてっぺんのイチゴは最後まで取っておく派だ。
「あ、おいしい……」
「それはよかった。たくさん食べてくださいね」
「ありがとうございます」
ケーキで懐柔されているような気がしないでもないが、久しぶりに食べるケーキの甘さに、ついつい頬も緩む。ここ半年あまりはコンペの準備で忙しく、のんびりとケーキバイキングに出掛ける暇もなかったのだ。その心血注いだコンペも、落選という結果に終わったが……
(それに当選したのが黒崎さんなんだよねぇ……)
自分が落選したコンペの当選者に見舞われているという現状に、なにやら皮肉にも似たものを感じてしまう。ふと視線を彼に向けると、バチッと彼と目が合った。眼鏡の奥に、優しそうな眼差しがある。
もしかすると、食べているところをずっと見られていたのだろうか。そう思うと急に恥ずかしくなって、穂乃香は口元を押さえながら赤面した。
「あの、そんなに見ないでください……」
「あぁ――すみません。可愛いなぁと思って、つい……」
「!? ゲホッ! ゴホッ!!」
いきなり「可愛い」だなんて言われて、驚きのあまり咳き込んでしまう。まさかそんなことを言われるだなんて思ってもみなかったのだ。第一、食べているところを可愛いと言われても複雑なだけではないか。
「だ、大丈夫ですか?」
差し出されたコーヒーを慌てて口に含んだ。
「っもう! 何言ってるんですかッ! 変なこと言わないでください!!」
「え。俺、何かおかしなこと言いました? 本当のことを言っただけなんですけれど。なんだかこうしていると、可愛い穂乃香さんを独り占めしているような感じで、役得だなと思って」
「な……な……なにを……」
穂乃香は赤くなっていた頬をさらに染めて、フォークを持ったまま硬直してしまった。
0
お気に入りに追加
168
あなたにおすすめの小説
社長室の蜜月
ゆる
恋愛
内容紹介:
若き社長・西園寺蓮の秘書に抜擢された相沢結衣は、突然の異動に戸惑いながらも、彼の完璧主義に応えるため懸命に働く日々を送る。冷徹で近寄りがたい蓮のもとで奮闘する中、結衣は彼の意外な一面や、秘められた孤独を知り、次第に特別な絆を築いていく。
一方で、同期の嫉妬や社内の噂、さらには会社を揺るがす陰謀に巻き込まれる結衣。それでも、蓮との信頼関係を深めながら、二人は困難を乗り越えようとする。
仕事のパートナーから始まる二人の関係は、やがて揺るぎない愛情へと発展していく――。オフィスラブならではの緊張感と温かさ、そして心揺さぶるロマンティックな展開が詰まった、大人の純愛ストーリー。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑
岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。
もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。
本編終了しました。
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
番外編を閲覧することが出来ません。
過去1ヶ月以内にエタニティの小説・漫画・アニメを1話以上レンタルしている
と、エタニティのすべての番外編を読むことができます。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。