溺愛デイズ

槇原まき

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1巻

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     1


 すっかり春めいてきた三月最後の金曜日。
 ガヤガヤと談笑が繰り広げられる居酒屋で、さくら井穂乃香いほのかはビールジョッキをドンッとテーブルの上に叩きつけた。三分の二ほど減った黄金色の液体が、プチプチと炭酸の泡をはじけさせながら波打つ。

「よっ、櫻井! いい飲みっぷり!!」

 場を盛り上げようとしているのだろう。同期の滝沢弘武たきざわひろむが、大きな声ではやし立ててくる。穂乃香はそんな彼をちらりと見て、唇に付いた白い泡を手の甲で拭った。
 フェミニン系のサテンブラウスと、花柄をあしらった膝上のプリーツスカートをそつなく着こなしているくせに、穂乃香がやっていることは場末ばすえのオヤジと変わらない。だが滝沢は、女子にあるまじきその仕草を非難することもなく、穂乃香のジョッキにピッチャーからビールをぎ足した。

「飲め飲め、櫻井。今日は俺らのおごりだから。な? 飲んで忘れろ!」
「た、滝沢ぁ~! みんなぁ~!」

 隣に座っていた滝沢をはじめ、座卓を囲んでいる同期達の同情に似た眼差まなざしを受けて、穂乃香はぐじゅっと鼻をすすった。
 この飲み会に集まっているのは、沢中さわなか建設・深山みやま営業所に、平成二十二年に入社した六人だ。
 彼らが勤めている沢中建設は大手総合建設会社――いわゆるゼネコンで、国内でもトップクラスの業務実績を誇っている。
 そんな会社に就職氷河期を勝ち抜いて入社し、早四年。数少ない同期ということもあって、彼らの結束は固い。
 今日は、『駅周辺地区の再開発都市設計コンペ』に落選した穂乃香をなぐさめる会が、滝沢の主催で開かれていた。

「櫻井、あんたはよくやった! 今回は相手が悪かったんだよ」
「ううう……」

 慰めの言葉にうめき声で返事をして、穂乃香はジョッキに口をつける。そして、目をつむりながらグビグビと喉を鳴らした。
 普段は特別飲みたいとも思わないビールだが、今日ばかりは飲まずにいられない。
 消化しきれない悔しさが、腹の底でとぐろを巻く。
 人材育成に力を入れている沢中建設では、経験の浅い建築士とベテランとでコンビを組ませて仕事をやらせている。今回のコンペでは、一級建築士の村田むらた所長の共同提案者として、二級建築士である穂乃香が名前を連ねていた。今までで一番大きなこの仕事に、穂乃香は半年の時間と、おのれの魂をつぎ込んできたのだ。
 産業・観光・定住の三つの機能を、駅を中心にしてひとつにつなぐ、スパイラル型の未来都市。それが穂乃香が提案した構想だ。
 穂乃香の設計のテーマは、建築と自然の融合だ。もちろん、今回の都市計画にも環境保護の視点を盛り込んでいた。
 さらに災害時の対策もバッチリ考えたお陰か、第一次審査は難なく通過。最終審査の公開プレゼンテーションだって自信があった。審査員の前評判だってよかったはずだ。
 事実、村田所長も手応えを感じていたようで、「これはいける」と言っていたくらいだ。
 なのに結果は落選。
 当選を確信していただけに、ショックは大きかった。
 穂乃香だけではない。この場に集まっているメンツも、今回のコンペの結果には誰一人として納得していなかった。
 その理由は、当選したのがこの業界の有名人、『黒崎隼人くろさきはやと』だったからだ。

「タイミングが悪かったと思うしかないよな。あの黒崎隼人が同じコンペに出場してたなんて。もしも黒崎がいなかったら、村田所長と櫻井の案が通ってたんじゃないか?」

 同期の一人がため息混じりにそうこぼす。その声に触発されたのか、滝沢は自分の鞄から取り出した一冊の雑誌を、テーブルの上に放り投げた。

「タイミングなんてもんじゃねぇよ。計算だろ計算。お前らも知ってるだろ? 今月の『アーキテクスト』に、黒崎隼人の特集が載ったの」

 放り出されたのは、建築士の間ではメジャーな雑誌だ。滝沢は情報通を気取っていて、様々な情報誌を幅広く読んでいる。
 穂乃香はジョッキをテーブルに置くと、その雑誌に手を伸ばした。
 モダンな建築物が写っている表紙には、『黒崎隼人』の名前がでかでかと載っている。コンペ最終審査のに発売されたこの雑誌は、彼、黒崎隼人を特集したものだ。
 穂乃香はゆっくりとページをめくった。

(わ……かっこいい……)

 ページの一枚を割いた黒崎隼人の写真に、思わず目を奪われる。
 さらりとした黒髪に、高い鼻梁びりょう。インテリっぽい黒縁の眼鏡がよく似合っている。寡黙かもくな人なのだろうか、唇を引き結び、階段の手すりにもたれるようにして、視線をカメラから外していた。ノーネクタイでも、彼のフォーマルな雰囲気は崩れていない。

(この人が『黒崎隼人』……)

 ページの左下に、彼のプロフィールが白文字で小さく書かれていた。
 大学で建築学を専攻し、卒業後は都内の建築事務所に就職。二十四歳で一級建築士の資格を取得。二十五歳で渡仏とふつ。AAA――Alexandre
Auber Architecteに所属、アレクサンドル・オベールに師事。三十歳で帰国。黒崎隼人建築設計事務所を設立。三十二歳でJMM Design Award
2013 金賞受賞――
 そう、彼は国際的に有名なフランス人建築家の愛弟子まなでしとして有名なのだ。
 彼の華々しい経歴に軽い嫉妬しっとを覚える。穂乃香は緩くウェーブした茶色の髪を、不貞腐ふてくされつつ指に絡めた。

(ちぇっ……全部ストレートコースか。いるんだよな……こういうエリート。神様って不平等だなぁ……)

 穂乃香だって一級建築士を目指している建築家の端くれだ。この資格を取ることがどれだけ大変なのかは、よくわかっているつもりだ。
 一級建築士の受験資格は、大学を卒業後、二年の実務経験を経てようやく得られる。つまり、多くの受験者は仕事をしながら試験勉強をすることになるのだ。当然、並々ならぬ努力と、強靭きょうじんな精神力が要求される。
 人の努力の結果を天からの才能だと言ってしまうこと自体がひがんでいる証拠なんだろうということは、わかっている。わかってはいるが、努力しても合格率十パーセントの中におのれが入っていない現状をかんがみると、やはりそこには努力の及ばない才能というものがあるのではないのか? と、考えたくもなるのだ。
 おまけに黒崎隼人は顔もいいときたもんだ。きっとこの男は、前世でよっぽどの善行を積んだか、神に愛されているかに違いない。
 穂乃香はまじまじと黒崎隼人を見つめた。すると滝沢は、雑誌に載っている黒崎隼人の額を、指でバチコンとはじいた。

「コンペの最中にこんなもんが出ちまったら、審査員だって黒崎を選ぶに決まってんだろ? こうやって取材を受けてんだ。こいつはてめえの記事が雑誌に載ることくらい知ってたはずだ。ちょうど雑誌が発売される時期にコンペに出れば、好感度が上がるって寸法よ。なにが『フランスの巨匠、アレクサンドル・オベールの愛弟子まなでし』だ。こいつ絶対に性格悪いぜ」

 吐き捨てるように滝沢が言う。
 業界でもメジャーな雑誌に載ったことで、黒崎隼人は今や時の人だ。
 そんな人の案を蹴るなんて、審査員の面々めんめんもやりたくないに違いない。巨匠の顔に泥を塗るようなものだ。それに、『フランスの巨匠、アレクサンドル・オベールの愛弟子、黒崎隼人が設計した』というネームバリューが欲しかったとも取れる。
 今回のコンペの審査に「見えない力」が働いたのではないかという思い――それが、穂乃香達が落選という結果に納得できない理由だった。

「マジで腹立つぜ、黒崎隼人。スカしたツラしやがって。去年のデザインアワードで金賞受賞してっから、依頼だけで十分食っていけるくせに、今更コンペに出場だなんて……マジで何考えてんだ? 櫻井、今回の結果は気にすることなんてないからな」
「滝沢。ありがとね」

 同期の中でも、特に滝沢は自分のことのように怒ってくれている。そんな彼の気持ちが嬉しくて、くにゃっと笑ってみせると、彼は穂乃香の頭をポンポンっと撫でてきた。口は少々悪いが、根はとても優しい男なのだ。

「誰が何と言おうと、お前のあの案はよかった! 次は黒崎隼人にづらかかせてやれ。黒崎がコンペ以外で受注する仕事は、女社長の物件ばっかりだって噂だぜ。どうやって仕事取ってるんだかなっ、たくよぉ。ツラがいい奴は得だぜ」
「えっ!?」

 滝沢の言葉に、穂乃香は目をいた。確かに彼は綺麗な顔立ちをしていると思う。思うが――

(まさか……)

 穂乃香の心の声が聞こえたかのように、滝沢は声をひそめると、とんでもないことを聞かせてきた。

「まさかと思うだろ? 他にもあるぞ。あいつの設計が、ある時期からいきなり変わったらしいんだ。そこから急に売れ出したんだってさ。実は別人が設計してるんじゃないかって噂もある」
「ええっ!? 何それ!!」

 黒崎隼人ほど名の知れた建築家ともなれば、指名で依頼が来ることも多いはずだ。なのに、別人が設計しているだなんて。それはクライアントに対する裏切り行為に他ならない。

「コンペに自分の特集をぶつけてくるような奴だぞ。裏で何やってるかわかんねーよ」
(そんな卑怯者に負けただなんて……!)

 何が日本の建築業界をになう若手建築家だ。とんでもない奴じゃないか。
 コンペで負けた悔しさも相まって、穂乃香の負けず嫌いに火がついた。落ち込んでなんかいられない。必ずこの雪辱せつじょくを果たさなくては! という気持ちが、フツフツと沸き起こってくる。

「打倒、黒崎隼人!! 首を洗って待ってなさいよ。次はわたしが勝つ!!」
「櫻井よく言った! その意気だ!」

 酒が回って気が大きくなった穂乃香のライバル宣言。それに対して滝沢は拍手をして、ビールをぎ足してくれた。
 同期達も、あおるように盛り上げてくる。

「櫻井、頑張れ~!」
「黒崎隼人になんか負けるな! 俺達の沢中魂を見せてやれ!」
「任せて! 黒崎隼人を超えてやるんだから!」

 温かい声援を受けて、穂乃香はビールを一気に飲み干した。



     2


 本人を前にしない黒崎隼人へのライバル宣言から数日後。桜の花びらが絨毯じゅうたんのように敷きつめられた石畳の道を、穂乃香は段ボールを抱えて走っていた。ついさっき降りはじめた雨は、容赦なく穂乃香を濡らす。遅咲きの桜も、この雨でずいぶんと散ってしまうことだろう。
 今日は都内の某大学キャンパスで、シンボルストリートデザインコンペの二次審査が開かれることになっていた。
 今回、沢中建設・深山営業所から応募しているのは、我らが村田所長だ。その共同提案者には、滝沢の名前が並んでいる。穂乃香はそのサポートに回ることになっていた。
 応募総数二百作品を数えた一次審査をくぐり抜け、二次審査に残っているのは十五作品と聞いている。その中に黒崎隼人の名前はない。彼が参加していないなら、選ばれるのは沢中建設うちだろうと、穂乃香は確信していた。
 黒崎隼人は確かに巨匠の愛弟子まなでしで、今や時の人かもしれない。だが、積み重ねてきた経験と実績は、沢中建設のほうが上なのだ。

(仮に黒崎隼人がこのコンペに出ていたとしても、所長と滝沢の作品が選ばれるに決まってる!)

 その所長と滝沢はプレゼンテーションの打ち合わせのために、一足先に会場に入っている。
 プレゼンテーションがはじまる前にこの展示用パネルを会場に運び、設置するのが今回の穂乃香の仕事だ。
 社用車を停めた駐車場からかなり急いで運んだのだが、パネルを保護する段ボールは雨でだいぶ濡れてしまっていた。傘は車に積んでいたのだが、段ボールが大きくて両手がふさがってしまい、さすことができなかったのだ。
 自分が濡れるのはどうでもいい。だが展示用パネルが濡れるのは困る。
 今回のプレゼンテーションは公開式のものだから、パネルは会場の壁に張り出され、審査員をはじめとした傍聴者が見ることになる。その中には、同業者や、建築士を目指す学生もいることだろう。沢中建設がどんな仕事をするのか、多くの人がパネルを通して知ることになるのだ。いわばこのパネルは、沢中建設の名刺であり看板でもある。濡らすわけにはいかない。

(ああ~もういきなり降ってくるんだもん、最悪! パネル大丈夫かな……)

 不安になった穂乃香は、ようやくたどり着いた建物のエントランスホールで段ボールをそっと開けてみた。中に入れていたパネルは、念のためビニールで包んでいたお陰で無事なようだ。ホッと胸を撫で下ろすと、そのままエレベーターに向かった。
 いつもはカジュアルなオフィスファッションでまとめている穂乃香だが、今日ばかりは違った。裏方とは言えども公式の場にのぞむのだから、奮発して買ったグレーのパンツスーツでばっちり決めている。しかし、そのスーツも今はじっとりと濡れてしまっていた。

(パンツが泥ハネで汚れてたら嫌だなぁ~。クリーニングに出したばっかりなのに)

 濡れたせいで髪のうねりが強くなっている。頬に張り付いた髪を気にしながらエレベーターの前に来た時、あるものが目に入って、穂乃香はがっくりと肩を落とした。エレベーターのボタンの上には、飾り気のない貼り紙が一枚――


『節電のため、エレベーターを停止しています。階段をご利用ください。エレベーターのご利用を希望される方は事務所までお越しください』


 「イベントがある日くらい節電はやめようよぉ~」
 思わず声に出して突っ込んでから、穂乃香はため息をついた。
 公開プレゼンテーションの会場は四階だ。階段を使って四階までこの段ボールを運ばないといけないかと思うと、げんなりする。段ボールが、大きさの割にそう重たくないのがせめてもの救いか。
 穂乃香は気を取り直してエレベーター横の階段に向かった。
 ――トントントントン……と、リズミカルに足を動かし、階段を一段飛ばしで上っていく。
 穂乃香はアパートの三階に住んでいて、毎日階段を上り下りしている。そういうわけで階段なんざ慣れたもの、とめてかかったのが悪かったのか――目的地の四階でヌッと出てきた人影に、穂乃香は面食らった。

「きゃっ!」
「おっと!」

 あわやぶつかる! といったところで足を止め、顔を上げてさらに仰天する。
 かすかに目にかかる長めの前髪。ノーネクタイのブラックスーツに身を包んだ長身の男は、先日雑誌で見たばかりのライバルだった。

(く、黒崎隼人!? なんでここに!?)

 眼鏡の奥で、爽やかな切れ長の目が大きく見開かれて、どこか少年のようなあどけなさを垣間見せた――気がした瞬間、穂乃香は反射的に後ずさってしまい、階段を踏み外した。

(落ちる!?)

 そう思った時にはもう遅かった。
 バランスを崩した身体が真後ろに傾き、ジェットコースターが急降下する時に似た浮遊感を味わう。嘘みたいにすべてがスローモーションに見えて、息をするのも忘れた。

「危ない!!」

 焦った顔をした黒崎が叫び、こちらに向かって手を伸ばしてくる。しかし穂乃香の両手は、大切な展示用パネルが入った段ボールでふさがれていた。
 やたらとえ渡った頭は、「段ボールを放り出せ! そしてあの男の手を取るんだ!」と、命令しているのに、身体が硬直して動かない。まるで、自分の身体が自分のものではなくなったかのようだ。ただ目だけが、黒崎の手の動きを追っていた。
 雨には降られるし、エレベーターは止まっている。そして今、階段から落ちようとしている。

(ツ、ツイてない……わたし、最近こんなのばっかりじゃん……)

 伸ばされた黒崎の手がくうを切るのと、段ボールを抱えたままの穂乃香が階段から真っ逆さまに落ちたのは、ほぼ同時だった。



     3


「……ぅうん……?」

 穂乃香はぼんやりとした意識の中で目を覚ました。二、三度まばたきをして、視界に映る天井を見つめる。

(あ……この蛍光灯、直管形蛍光灯タイプのLEDだ……だって端まで明るいもん……)

 大型の商業施設は、ここ数年でほとんどこのタイプの蛍光灯を取り付けるようになったんだよな~だなんて、どうでもいいことを考えていると、男の顔が目の前に現れた。

「気がつきましたか?」

 男は眉を寄せて、眼鏡の奥の瞳を心配そうに揺らしている。

(……この人……)

 どこか見覚えのあるその男の顔を見ていると、だんだんと意識がはっきりしてきて、穂乃香は目を見開いた。

「く……黒崎隼人!! ……さん!」

 ついうっかり呼び捨てにしてしまい、慌てて敬称を付け加える。
 自分の名前が聞こえたからだろうか。彼がホッとしたように笑った。

「ああ……よかった……本当に……本当によかった……」

 心の底から安堵した声を出す黒崎に、穂乃香は戸惑いを隠せなかった。どうして彼が自分の側にいるのかわからない。

「あ、あの……」

 穂乃香が身体を起こそうとすると、彼が急いで制止する。

「待って。まだ横になっていたほうがいい。あなたは階段から落ちたんですよ、覚えていますか? 頭を打っているから、急に動いてはいけない。ここは病院です。すぐに看護師さんを呼びますから。今はじっとしていてください。ね?」

 病院という言葉に反応してぐるりと辺りを見回す。壁も天井も、ついでに掛けられている布団も白い。ベッドサイドのテーブルには、カード式のテレビが設置されている。彼の言ったとおり、ここが病院であることは一目瞭然いちもくりょうぜんだった。それもどうやら個室らしい。

「中央病院です。救急車で運ばれたんですよ。さぁ、横になって」
「はぁ……」

 何がなんだかわからないが、黒崎が必死な様子で説得してくるので、生返事で頷く。打った頭を冷やすためか、枕に保冷剤が入れてあるようで、ひんやりとしていた。
 中央病院と言えば、プレゼンテーションの会場になっていた大学からかなり近い。
 ナースコールで看護師を呼ぶ黒崎を横目で眺めているうちに、穂乃香はぼんやりとだが、自分の身に何が起こったのかを思い出しはじめた。

(落ちた……ああ……そっか、わたし、階段から落ちたんだ……。うわー展示パネル、壊れてないといいんだけど……プレゼンはどうなったんだろ?)

 色々と不安がよぎるが、今はとにかく身体がだるくて重たい。打ったという頭が気になって手を伸ばすと、腕には針が刺さっており、針から伸びたチューブがスタンドに吊された点滴のパックにつながっているではないか。まるで重病人のようだ。
 改めて我が身を振り返れば、着ていたはずのスーツは脱がされて、代わりに前合わせの寝巻きを着せられている。
 胸元を隠すように布団を引き上げると、コンコンと部屋のドアが叩かれた。

「はい。こんにちは。目が覚めましたか。ご自分の名前言えますか?」

 やや早口でしゃべる中年の医師が、若い女性看護師と共に部屋に入ってくる。

「えっと……櫻井穂乃香、です」
「はい、結構ですよ。櫻井さん。ではベッドを起こしますね」

 医師はベッドの背もたれを起こして、穂乃香の診察をしてくれた。診察といっても、ほとんどが問診だったが。
 黒崎はまるで家族のように病室にとどまって、医師の話を一緒に聞いている。付き添ってくれている彼を追い出すのもなんだか変な気がして、穂乃香は何も言わなかった。

「うんうん。目の動きもおかしくないし、意識もハッキリしてるね。気分はどうですか?」
「少しだるいです」
「吐き気は?」
「ありません」
「痛みは?」
「……少しあります」
「うん、まぁ少しは仕方ないかな。今してる点滴に痛み止め入ってるの。この点滴、今日一日しとこうね。抜いたらものすごく痛いからね。あなた、右足首が折れてるの。ちょうどくるぶしのところね。今ギプスで仮固定してるんだけど、見る?」

 ポンポンポンと軽快に繰り出される説明に、穂乃香はポカンと口を開けていた。足元の布団を軽くめくられると、白い塊と言っても差し支えない足が現れる。ギプスに包まれたそれを見てしまえば、途端に痛みが増してくるような気がした。

「こ、骨折……ですか?」
「うん。あとたんこぶ」

 医師は、たんこぶはたいしたことがないと言う。そして、看護師に持たせていた茶封筒からレントゲン写真を取り出すと、蛍光灯にかざした。

「これがあなたの骨ね。ここね、くるぶしのとこが骨折してずれちゃってるんです。わかる?」

 初めて見る自分の足首の骨は、言われてみれば、本来の位置から少しずれているような気がする。骨のくぼみと出っぱりの位置がみ合っていない、と言ったらいいだろうか。

「これ、手術した方がいいです。ギプスでの固定だけじゃ時間もかかるし、綺麗に治らないかもしれないからね。僕としては手術をオススメします。ワイヤーでね、ちょいちょいと固定するんです。すぐ終わっちゃいますよ」
「……手術……」

 指先でワイヤーをひねる動作をする医師の言葉を、穂乃香はおうむ返しのように呟く。医師はにっこり笑ってレントゲン写真をしまった。

「頭を打ってるから、念のために今日は入院しようか。手術するならそのまま続けて入院。入院は十日間くらいかな。今日中に手術するって決めてくれたら、明日の午後が空いてるから手術できますよ。執刀しっとうは僕ね。手術しないなら明日退院できるけど、結構大変だよ? くっつかない場合もあるしね。きちんと治らなかったら偽関節ぎかんせつっていって、関節みたいに動く骨になっちゃって、痛みが残ったり、動きにくくなったりする可能性もあるしね」

 そのあと、細かい説明を看護師がしてくれた。
 穂乃香が着ていたスーツは、治療のためにハサミで切ってしまったこと。持っていた財布やスマートフォンはベッドサイドに備え付けてある金庫に入っていることなどを告げられる。

(うわ~ん! やっぱ最悪!! あのスーツ高かったのに……)

 ハサミで切られてしまったら、もう使い物にならないじゃないか。仕方ないことだとはいえ、苦いものを感じてしまう。

「あとで入院の書類を持ってきますから」

 そう言って医師と看護師が出て行くと、入れ違いに今度は穂乃香の両親が入ってきた。

「お、お母さん!? お父さんまで!!」
「ちょっとぉ~穂乃香、大丈夫なの? 階段から落ちたんだってね。会社から電話がかかってきたわよ? おかーさんビックリしちゃった! 本当に馬鹿なんだから。落ちるのは一級建築士の資格だけにしなさいな。毎度、毎度、落ちてばっかりでまぁ~飽きもせずに階段からも落ちるなんて! そしてなぁに!? その足! おとーさん見てよ! この子、本当に足折っちゃったの? ヤダ! ほんっと馬鹿ねぇ!」

 開口一番から、どこで息ぎをしているのかわからないほどまくし立ててくる母親に、穂乃香は顔から火が出るかと思った。なにせ隣には、穂乃香が落ちてばっかりの一級建築士の資格に一発合格しているお方――黒崎隼人がいるのだから。

「や、やめてよ、お母さん! 恥ずかしいじゃない!!」

 穂乃香が焦った声を出すと、ようやく黒崎の存在に気がついたのか、母は口元を押さえて一オクターブ高い声を上げた。

「あら? あらあらあら、あらっ?」

 そのニヤついた目は、完璧に好奇心に染まっている。

「穂乃香、そちらの方は? 会社の方? もしかして、お電話くださった方かしら?」

 まったく……この母親には、怪我をした娘をいたわる親心というものはないのだろうか? 穂乃香はため息をつきたい気持ちを呑み込んで、首を横に振った。


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