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『こんばんは。ナビゲーターの西條要さいじょうかなめです。今夜のクロスムーブ、登場ゲストは――』

 FMラジオから流れる甘みを帯びた男性の声が、六畳の自室を満たす。これは毎週金曜夜のお楽しみだ。瀬田せたひなみは、縫い上がったばかりのオックスフォードシャツを人台ボディに着せながら、満足気に頷いた。

(うん。いい感じ)

 少し脇線わきせんを絞っている作りだから、余計なしわやたるみが出にくい。着用した時にすっきりとしたシルエットになって、のスタイルを更に引き立ててくれることだろう。さわやかな印象のサクソンブルーは空を思わせ、季節を選ばない。やっと手に入ったこだわりの生地だ。彼の印象にぴったりのはず。
 今は一月で寒さのピークを迎えているが、上に冬物ニットを重ねれば問題ないだろう。

(今度はいつ帰ってくるのかなぁ。お正月に帰ってきたばっかりだから、当分先かな)

 このシャツをプレゼントしたい相手――小川啓おがわけいの整った顔立ちと長身を思い浮かべるだけで、頬がゆるむ。そんなひなみの表情に合わせるかのように、ラジオからは好きな曲が流れてきた。
 ひなみはメンズ服のパタンナーだ。パタンナーの仕事は、デザイナーが二次元に描いたデザインを、服という三次元にするための設計図パターンを書き起こすこと。
 服好きが高じて大手アパレルメーカーのショップ店員として就職したひなみなのだが、気が付けば異動でパタンナーの役割を任されてしまっていた。
 別にパタンナーを目指していたわけではなかったから、当時はこの辞令に動揺したものの、結果この異動が転機になった。
 ひなみは自身が小柄な体型ということもあり、既製服のサイズが合わないことも多く、服のアレンジを頻繁ひんぱんにしていた。服飾学校で服の構造も勉強していたし、パタンナーに向いていたのかもしれない。
 パタンナーになれば、自分の引いたパターンが製品ラインに乗る。自分の関わった服が店頭に並んだ時には感動したものだ。当然、やり甲斐がいだってある。
 パタンナーになって三年。今は仕事が楽しくて仕方がない。仕事だけでは飽き足らず、暇さえあればこうして家でも自作のパターンを引き、服を仕立てているくらいだ。

(この色のシャツは啓くん持ってなかったと思うんだけど。気に入ってくれるかなぁ。気に入ってもらえたら、次は同じパターンで白を縫おう。定番カラーだし、たぶん一枚あると便利なはず……)

 その時には、この間手芸屋で見つけたサイコロ型のボタンを、えりとカフスに付けてみようか。シンプルながらも遊び心があって、いいかもしれない。見る人が見れば気が付いてもらえる、そんなさり気なさが、きっと彼には似合うはず――
 啓を思うだけで、創作意欲が止めどなくあふれてくる。
 彼に似合う服を、彼をもっと素敵に見せる服を作りたい。それがひなみの服作りの原点だ。

(あ。でも啓くんは立体ボタンだといやがるかも。平面でかっこいいボタンをもっと探して――)
「ひなみ! ちょっと、ひなみ!」

 ドタドタと足音を響かせながら階段を上がってくる母親の声に思考を中断されて、ひなみは人台ボディから手を離した。

「どうしたの? お母さん」

 部屋に入ってきた母親をきょとんとした顔で出迎える。そんなひなみとは対照的に、母親は頬を軽く紅潮させ、ニヤニヤと好奇心丸出しだ。その手には、バトンのように丸まった週刊誌が握られている。

「ねぇ、啓ちゃんに彼女できたって知ってた!?」
「っ!?」

 突然もたらされたニュースに、ひなみの心臓がビクッと跳ねた。
 内心では充分驚いているくせに、それを表情には出さないようひた隠しにして、「へぇ~」だなんて言うひなみの視線は、母親の手にある週刊誌に釘付けだ。
 表紙が折り返された週刊誌には、『人気俳優・西條要(26)密会デート』の見出しが白抜きでデカデカと踊っている。続きは……残念ながら読み取ることができない。
 西條要はひなみが手作りのシャツをプレゼントしようとしている相手――つまり小川啓の、芸名だ。今、背後で流れているラジオ番組のナビゲーターでもある。
 彼は十六歳で雑誌モデルとしてデビューを果たし、そのあと俳優に転身した。その王子様のような甘いマスクと声で、女性からの支持率は圧倒的。演技力も定評があり、ドラマアカデミー主演男優賞を受賞したこともある。今や映画にドラマにバラエティにと、引っ張りだこの人気俳優だ。そして、ひなみの幼馴染おさななじみで、子供の頃から未だに続く片想いの相手でもある。
 もちろんひなみは、俳優・西條要のファンだ。こうしてラジオの視聴も欠かさない。もっとも、ひなみの場合は幼馴染おさななじみの啓のことが好きだから、同一人物である西條要も好きなのだが。
 彼は不定期ではあるものの、月に一、二回程度の割合で地元に帰ってくる。そしてひなみの両親がいとなんでいる喫茶店に顔を出していくのだ。

「あんた知らんかったん?」
「知らないよ」
(知るわけないでしょぉおおお!? えっ、えっ? 密会デートって何っ!? 誰と!?)

 ひなみの視線が週刊誌から離れないことを知ってか知らずか、母親はそれをブンブンと振り回す。週刊誌が上下するたびに、ひなみの顔が小刻みに動いた。

「なんだ。あんたならなんか知っとるかと思ったのに。つまーんない」

 母親はひなみの部屋に入ってくると、人台ボディが着ている真新しいシャツの袖をひょいっと持ち上げた。

「新作できたんね。さわやかないい色やーん? 啓ちゃんに似合いそう」
「う、うん……。喜んでくれたらいいんだけど……」

 生返事を返しながらも、ひなみの視線は母親の手が持つ週刊誌に向いている。
 角度が変わって、『お相手は――』まで見出しの文字が読めた。

(お相手は? 誰? 誰? わたしの知ってる人?)

 西條要――もとい、啓には、今まで浮いた話なんてひとつもなかった。学生時代だって、付き合っていた女の子がいたのかさえ謎だったくらいなのだ。だからこれは初スキャンダルと言っていい。
 西條要のファンとして、いや小川啓の幼馴染みとして、いやいや小川啓に恋する者として! 密会デートの相手は大いに気になる。

「これ、今度啓ちゃんが帰ってきたら渡すん?」
「うん。そうするつもり。バレンタインも近いし――」
「啓ちゃんのこともいいけど、あんたは? 誰かいい人おらんの?」

 矛先が自分に向けられ、ひなみは苦笑いしながら口籠くちごもった。

「わたし? わたしは……そんな……」

 ――ピリリリリッ。
 突如部屋に響いた着信音によって、母娘おやこの会話がさえぎられる。
 ひなみは急いでラジオのボリュームを下げ、ベッドの枕元に置いていたスマートフォンを取った。画面には、二年前まで同じ職場で働いていた先輩パタンナーである石上哲也いしがみてつやの名前が表示されている。

「電話?」
「うん。石上先輩から。ちょっと出るね」

 一言断って通話ボタンを押すと、背後で母親が「もう夜遅いんだから早めに寝なさいねー」と言い残し出ていった。

「はい、もしもし」
「お、瀬田。こんな時間に悪いな。今、大丈夫か?」

 受話器の向こうからハキハキとした明るい声が聞こえてくる。ひなみは西條要の密会デートの真相が気になりながらも、一旦それは頭の端に追いやって背筋を伸ばした。
 石上は、ひなみがパタンナーになりたての頃、パターンのいろはを直接教え込んでくれた人だ。一緒に働いたのは一年弱と短い時間だったが、彼はとても仕事熱心で、今は独立してアメカジ系のオリジナルブランド、「STONEストーンSTORMストーム」を立ち上げている。
 ひなみが最後に指導したパタンナーだからか、いろいろと世話をやいて、退職後も時折こうして電話をくれる。年は十歳ほど上だったが、とても尊敬できるし、気さくで話しやすい人なので、なんとなく縁が続いていた。

「はい。大丈夫です。お久しぶりですね、先輩。お元気ですか?」
「おー。元気だ。今日はさ、折り入って相談があって連絡したんだ」
「相談……ですか?」

 石上がひなみに相談があるなど初めてのことだ。先輩である彼が、自分のような駆け出しパタンナーに何を……と不思議に思いながら、ひなみは話をうながした。

「独立して二年になるんだが、取引先も増えてだいぶ軌道きどうに乗ってきたんだ。いいことなんだが、さすがにそろそろ一人じゃ手が足りなくってさ」

 贅沢ぜいたくな悩みだと彼は笑う。

(わたしに誰かいいパタンナーを紹介してほしいってことなのかな?)

 外注先が欲しいのかもしれない。そう彼の相談内容に当たりを付けながら、知り合いのフリーパタンナーを何人か思い浮かべてみる。すると、途端に石上の声が神妙になった。

「それでさ……瀬田に俺んところに来てもらえたらありがたいんだけど」
「わ、わたしですか?」

 まさかの指名に、ひなみは思わずパチクリと目をまたたいた。
 石上の事務所は東京にある。一方のひなみは神戸にいるので、だいぶ距離がある。それにひなみには、今の会社を辞める予定や意思はなかったのだ。実家から通えるし、休みもちゃんともらえる。給料もそれなり。不満なんてひとつもない。石上もそれは承知の上のようだった。

「軌道に乗ってきたと言ってもまだ二年目だ。これから何があるかわからない。今の会社で働き続けたほうが、瀬田にとっていいこともわかってる。ただ俺が……できるなら……また、瀬田と一緒に働けたらいいなと……思ってだな……」

 後半をにごした石上は一度言葉を切ると、今度ははっきりと言い直してきた。

「勝手な誘いをかけてる自覚は充分ある。だが瀬田の腕を見込んで頼みたい。俺のところに来てくれないか?」
「わ、わたしなんかがそんな――」

 実力以上の評価と期待を寄せられていることに困惑したひなみが反射的にそう言うと、石上の声に力が入った。

「『わたしなんか』なんて言うなよ! 俺が教えてきた新人の中で、おまえが一番センスがあった。それに俺にはわかる。おまえ、日常的に自分でデザインしてるだろ?」
「どうしてそれを――」

 ひなみの会社では、デザイナーとパタンナーは完全分業だ。ひなみの仕事はパターン制作であって、デザインではない。デザイナーの領分りょうぶんにパタンナーが立ち入ることを嫌う人もいる。逆もまたしかりだ。それに、いくら服が好きだからと言っても、休日にまで服を作りたい人間はあまり多くない。だからひなみは、自分がプライベートでデザインをしていることを、同業者には一度も言ったことがなかった。なのに、石上は勘付いていたのだ。

「わかるよ。おまえのパターンは、デザイナー目線なんだ。デザイン画に描いてあることを寸分違わず再現しようとするパタンナーが多い中で、おまえは常にできあがりを意識している。いいことだよ。それにミシンテクニックも最強だ。縫製ほうせいオペレーター並みだからな。だから、俺にはおまえが必要なんだ」
「あ、ありがとうございます……そんなふうにおっしゃっていただけるなんて……」

 不意にめられて、スマートフォンを耳に当てたまま、ここにはいない石上に向かって頭を下げる。尊敬する人にここまで言ってもらえるなんて、純粋に嬉しい。しかも、会社に誘ってもらえるなんて。

「俺も自分のデザインを自分でパターンに起こしたい。それで手が回らなくなってきたなら、こりゃもう自分と同じ考えの奴を入れるっきゃないだろ? 俺がおまえに来てほしい第一の理由はそれだよ。もちろん、給料面や休みは今の会社の条件より悪くするつもりはない。ちょっと考えてみてくれないか?」
「……は、はい……」

 それからは、石上が会社の状況を事細かに語るのを聞いて、電話を終えた。

(ふぅ……なんか驚いちゃったな……)

 スマートフォンの画面を指先でこすり、小さくため息をつく。いつの間にかラジオ番組は次に移っていた。週に一度の啓の声を聞けるチャンスを逃したことに落胆を覚える。
 ふと振り向くと、人台ボディの前にあるちゃぶ台に、雑誌が広げて置いてあった。西條要の密会デートを伝える、あの雑誌だ。
 母親が置いていったであろうそれに吸い寄せられるように近付き、ラグの上に座って読みふける。
 気になる密会相手として報道されていたのは、本郷葵ほんごうあおい

(ああ……本郷葵さんってあの……)

 西條要と同じく、ティーンズ雑誌のモデルから女優へと転身した人物で、正統派の美女だ。おまけに巨乳。
 数年前の月9のドラマで啓と共演したから、ひなみも覚えていた。その時の二人は脇役だったが、主役に引けをとらない存在感で、当時ずいぶんと話題になったものだ。
 紙面には、二人が都内のホテルから揃って出てくるところが掲載されている。離れた場所から撮影されたものなのか、画像のあらい雑な白黒写真だったが、並んだ二人の姿はそれこそドラマのワンシーンのようで、とても絵になっていた。

(本郷葵さんってこんな写真でも綺麗……。きっと実物はもっと綺麗なんだろうなぁ……わたしもこの人みたいに綺麗だったら……)

 無意識に自分の頬をこすってしまう。作業用のでっかい眼鏡のフレームに、指先が当たった。
 十人が十人、美女だと評するであろう彼女と、誰の目にもとまらない量産顔の自分を比較するのもおこがましい。まさに月とすっぽん。すっぽんはすっぽんらしく、素直に首をすくめるに限る。
 じっと見つめていた紙面から目をらし、ひなみはスマートフォンの画面をつついた。ブラウザのお気に入りから、西條要のブログをタップする。
 ブログには今日のラジオ放送のお知らせと、バラエティ番組で共演した男性タレントとのツーショット写真が掲載されていた。たくさんのファンからの応援コメントが並ぶブログをひと通り眺め、今度は検索窓に「本郷葵」と入力し、彼女のブログを表示する。
 新しい映画の撮影に挑む彼女は、美しく整えられた髪型や綺麗な衣装の写真をアップし、「頑張ります!」と意気込みを記している。そこにも彼女の美貌びぼうたたえ、撮影へ期待を寄せるファンのコメントがたくさん並んでいた。
 眼鏡を外してちゃぶ台に突っ伏したひなみは、顔を覆うアッシュブラウンの長い髪を避けもせずに「はーっ」と深いため息をこぼした。
 これが彼らの世界なのだ。
 顔形が違う以前に、自分とは生きている世界がまるで違う。ひなみがブログを開設し、「次回作、頑張ります!」と決意表明をしたところで、その情報をいったい誰が求めているというのか。
 けれども西條要と本郷葵は違う。彼らが配信する情報のひとつひとつ、写真の一枚でさえも、多くのファンが待ち望んでいるのだ。
 芸能界という世界は不思議だ。そこに生きる人たちが自分と同じ人間だということを頭では理解できても、どこか違う存在のように思えてしまう。
 ひなみは自分がスポットライトを浴びるシーンなんて想像つかないし、まず人前に出て自分を見てもらおうなんて思えない。そんな自信なんてない。ただ仕事をこつこつとこなし、特にこれといって代わり映えも事件性もない日々を過ごしていくだけなのだ。
 ただ、啓とは産まれた時からの付き合いだから、感覚が他の芸能人に対するものと違う。
 まずは家が近所で、産院が同じ。母親同士は妊娠中から交流があり、啓が二日先に産まれたものの、幼稚園、小学校、中学校、果ては高校と、ずっと一緒だった。それで今でも時々顔を合わせるから、彼が遠い世界の人だという実感は薄かった。だがそれは、ひなみが麻痺まひしていただけの話。
 啓は西條要であって、西條要は自分ひなみとは違う世界に生きているのだ。そして西條要には、本郷葵のような華やかな女性がパートナーとして似合っている。ひなみの目から見ても明らかに、西條要と本郷葵は同じ世界に生きていた。
 啓に恋するこの気持ちがいつから自分の胸にあったかすら思い出せないくらい、ずっと彼を想っている。一緒に過ごしてきた時間だってきっと誰よりも長い。お互いになんだって話してきた。だから、今まで自分の気持ちを伝えるチャンスはいくらでもあったはずなのに、ひなみは啓に告白できないでいた。
 理由は明白。
 自分たちはずっと、家族ぐるみの付き合いをしてきた。啓は昔からひなみの両親が経営する喫茶店にひょっこりと顔を出すし、ひなみも啓の両親に会えば実の娘のように可愛がってもらえる。そんな中で一歩を踏み出すことは、逆に難しい。うまくいけばいいが、そうならない可能性だって充分にあるのだから。
 自分の気持ちと啓の気持ちが同じでなかったら……そう思うと怖い。
 今の関係を壊すことを恐れ、無意識にブレーキをかけていたと言ってもいい。そうしている間に二十六年の月日が経ち、啓は押しも押されぬ売れっ子俳優になってしまった。
 西條要の密会デートの真相がどうであれ、もう自分と彼の住む世界が違いすぎて、とてもこの気持ちを告げることなんてできないのだ。

(もー……いい加減に諦めないとなぁ……)

 ちゃぶ台に突っ伏したまま、雑誌を閉じる。視線はいつの間にか、人台ボディに着せた新作のオックスフォードシャツへと移っていた。
 啓は、ひなみが作った服は全部受け取ってくれる。服だけではなく、帽子やマフラーやアクセサリー類といった小物に至るまですべてだ。
 ひなみだってアパレル業界でそれなりに勉強してきたわけだから、啓に似合うものを作る。品質だって、ブランド品に負けてはいない。ミシンも縫製ほうせい工場で使われている工業用を使っているし、何よりひなみはプロのパタンナーだ。啓の身体に合ったパターンをいくつも持っている。ひなみの作品は、啓のためだけにあるオリジナルブランドだ。
 彼はひなみの作品を気に入ってくれているのか、バラエティやトークショーなど、衣装指定のない番組にはひなみの作った服でよく出演している。
 でもそれだけだ。
 ひなみと啓をつなぐものは、幼馴染おさななじみという立場と服だけ。あの服は啓を輝かせてくれるかもしれないが、ひなみの世界と啓の世界までは繋げてくれない。
 ひなみはどう足掻あがいても芸能人にはなれないし、啓の世界には届かないのだ。その距離が苦しい。
 早いところ啓への片想いを終わらせてしまわないことには、自分はずっと前に進めない気がする。

(わたしは、美人じゃないし……本郷葵さんみたいな綺麗な女優さんにはなれないもん……告白されたこともないし、モテたためしもないし……はぁ……)

 そう思うと、途端に啓に会いたくなくなってきた。しかしここは啓の地元だ。地元に帰ってきた啓は、律儀にもひなみの両親の喫茶店に顔を出す。ひなみは会社が休みである土日はその喫茶店を手伝っているため、どうしてもそこで啓と顔を合わせることになるのだ。
 今まではそれが楽しみだった。啓と二人で話をして、新作の試着を頼んで――変わらない日常の延長を送ってきたのだ。しかし、そのがまったく見えない。二十六年間何もなかったのだ、今更何かあるとは思えない。たぶん自分たちはこのまま幼馴染おさななじみの域を出ないのだろう。

(転職……か……)

 ひなみはオックスフォードシャツをぼーっと見つめながら、石上の誘いを思い出していた。
 普段啓は東京に住んでいるし、石上の会社も東京だ。転職するとなると、ひなみは上京しなくてはならない。上京すれば啓との物理的な距離が縮むことになるわけだが、人の多い東京でまさか偶然彼と鉢合わせするなんてことはないだろう。
 啓は忙しい身の上だし、オフはたいてい地元に戻っている。ひなみが東京に住むほうが、むしろ会う機会は減るはずだ。
 というよりこのままでは、啓が地元に帰ってくる度に、ひなみは彼と会わなくてはならない。そんな生活が続くほうが辛いのではないか――

(転職……してみようかな……)

 今まで実家を離れたことはないし、転職だって初めてだから不安もあるが、こうでもしないと自分は、この不毛な恋を終わらせることができない気がする。
 ひなみは啓への恋心を諦めるために、転職の道を決意していた。



   2


 会社に辞表を出し、ひと月になろうとしていた二月最後の土曜日。ひなみは両親が経営する喫茶店を手伝って、ホールに入っていた。
 ひなみの実家は商店街の入り口に位置しており、一階が喫茶店、二階三階が住居スペースだ。近くにオフィスビルやマンションがある上に駅に近いから、個人経営の喫茶店でも昼時はそれなりに繁盛はんじょうしている。
 昼時のお客が引けて、店に余裕が出てきた頃、裏口の戸が開いた。

「あら啓ちゃん! おかーえりー。入り入り」

 母親の応対する声で啓の訪れを知ったひなみは、お客が帰ったあとのテーブルを片付ける手を止めた。うつむき加減で息を詰めたまま、様子をうかがうように聞き耳を立てる。
 西條要の密会デートの続報はなかった。あれから某国の核開発問題や、人気アイドルグループの解散報道などが立て続けにあって、自然に風化した形だ。だが、ひなみの中ではまだ残っている。真実が聞きたいと思いながらも啓からはなんの連絡もないし、ひなみもまた聞けないでいた。

「啓ちゃーん。雑誌見たわよぉ~? なぁに? あの人、彼女なん?」
「やだなぁ、おばさん。あんなガセネタなんか信じないでくださいよ。絶対にないですから」

 断言する啓の声が漏れ聞こえてきて、ほっと息をつく。しかし、いつか啓にも恋人ができて、ひなみはそれを報道で知る日が来るのだろう。その時、にこやかに笑って啓を祝福することができるだろうか? たぶん、できない。本郷葵との密会デートを否定する啓の声に、今こんなにも安堵あんどしているのだから。
 だから彼を諦めるために転職を決めたのはよかったことなのだと改めて思い、ひなみは顔を上げた。トレイに食器をのせてキッチンに戻ると、お正月ぶりに会う幼馴染おさななじみがそこにいる。
 さらりとした少し長めの髪に、キリッとした目元。おまけに彫りが深くて鼻筋も通っているから、顔のパーツや配置のすべてが計算し尽くされているかのような印象だ。
 テレビ越しや雑誌で見るよりもはるかに魅力的な啓は、ひなみの大切な幼馴染み。
 でも今は鼻の頭がちょっぴり赤い。きっとこの寒空の下を歩いてきたのだろう。手袋を忘れたのか、すり合わせた手に息を吹き掛けている。

「よっ。ひなみ」

 右手を軽く上げてくる啓に、自分でも意図せずに頬がゆるむ。ああ、自分はまだこの人が好きなんだなぁと思った。こんなことでは駄目なのに。

「啓くん、おかえり」
「ひなみ。ここはいいから、啓ちゃんに二階に上がってもらい。あとでコーヒー持ってくから」

 お客の会計を終えた父親がキッチンに顔を覗かせると、啓はさわやかな笑みを振りまいた。カメラなんか回っていないのに、テレビで見る王子様スマイルと同じだ。

「ありがとうございます、おじさん。俺、おじさんのコーヒーを飲むために帰ってきてるようなもんですよ。おじさんのコーヒーが一番うまいから」
「そうかい? 嬉しいこと言ってくれるねぇ」

 顔を皺々しわしわにしている父親は、確実に照れている。
 ひなみは流しに食器をつけて、エプロンを外した。

「啓くん、行こ?」
「ああ」

 一度外に出て、裏から続く階段を上がれば、そこはもう瀬田家の住居スペースだ。ちなみに、三階がひなみの部屋である。
 子供の頃から遊びに来ていた啓は、勝手知ったると言わんばかりに、コートも脱がずにリビングの二人掛け用ソファに腰を下ろした。

「はー。今日は寒いな」
「ほんと寒いね。待ってね、今ヒーター付けるから」

 ヒーターのスイッチを入れて振り返ると、啓と目が合う。彼は背凭せもたれにひじを突き、じっとひなみを見つめていた。
 強い視線にとらわれて、たじろいでしまう。芸能人だからかはわからないが、啓は人よりも眼力がある。にらまれているとは思わないが、正面から見つめ返すのは幼馴染みのひなみでさえ多少の度胸を必要とするくらいだ。
 特に二人っきりの時には――

「なぁ、ひなみー」
「な、なぁに?」

 意を決して啓に向き直ると、彼は自分の唇を親指でなぞりながら、気怠けだるそうに尋ねてきた。

「おまえはあの報道信じたりしてないよな?」

 あの報道とは、本郷葵との密会デートに他ならないだろう。

「信じてないよ」

 何を心配しているのかとくすりと笑って軽い口調で返事をすれば、啓は「ならいい」と言って目をらす。

「そうだ。新作できたんだよ。持ってくるね」
「またかよー。俺はおまえの着せ替え人形じゃないんだぞ」

 後ろで啓の呆れた声が聞こえるが、それは気にしないでおく。
 ひなみは、アイロンがけをして畳んでいたオックスフォードシャツを、自分の部屋から持ってきた。

「どうかな?」

 広げて見せると、啓はソファの背凭せもたれに預けていた身体を起こしてシャツのすそに触れた。

「へぇ。いい色だな。この色は持ってなかった気がする」
「でしょう? あの……着てくれる?」

 ひなみが上目遣いで頼むと、啓は鼻から浅い息を吐いて上着を脱ぎだした。
 パサッと軽い音を立てて、まだ体温の残るグレーのニットがソファに置かれる。


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