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1巻
1-3
しおりを挟む「よくあること。よくあること! 僕らの仕事は会社の手数を増やすこと。増やした手数をいつ、なにで、どう使うかを決めるのは商品開発部。それぞれの領分があるんだから」
察した所長が宥めるように、優しく諭してくれる。
「…………はい」
そう返事をするものの、悔しさとやり切れなさが胸に込み上げてきた。行き場をなくした感情が、身体の中に澱のように蓄積するのだ。
「所長、お昼に行ってください。わたしはちょっと食欲がなくなってしまったので……」
華子がそう言うと、所長は少し眉を下げた。
「そうかい? じゃあ、そうさせてもらうけど、あまり思い詰めないことだよ」
ぎこちなく微笑んで頷いてみせる。
所長が食事に出て、研究所にひとりになった華子は、握りしめた拳を小さく机に叩きつけた。
(有効打がありながら使わないだなんて、怠慢以外のなにものでもないですっ! 仕事しやがれってんですよ! おたんこなす! だからいつまで経っても赤坂堂は二位なんですよ!)
腐るつもりはないが腹は立つ。真剣に取り組んでいたから尚更だ。
華子は胸中でひとしきり毒づいて、椅子の背凭れに身体を預けた。そして、天井を仰ぎながらそっと目を閉じる。いつか所長と阿久津に言われた言葉を思い出していた。
これは洗礼なのだと。仕方のないことなのだと。諦めるしかないのだと……
だが諦めるなんてことは、華子のポリシーに反する!
(ふんだ! 誰が諦めるもんですか。見てるがいいです。なにがなんでも商品化してみせます。商品開発部め、次世代型ハイドロキノンαちゃんの前にひれ伏すがいいです‼)
逆境こそチャンスなり。具体的なアイディアはまだないが、せっかく生み出した最高傑作をお蔵入りになどにしてたまるものか。華子は鼻息を荒くすると、机の引き出しにストックしていたブドウ糖入りゼリー飲料を取り出して、チューッと一気飲みした。
◆ ◇ ◆
(や、やばいです! ピンチです! 初デートなのに遅刻です!)
華子はスマートフォン片手に全力疾走しながら、待ち合わせのレストランへと向かった。
現在時刻は十八時五十九分二十秒。T・A氏との待ち合わせ時間の十九時まであと四十秒しかない。次世代型ハイドロキノンαをどうやって救うかを考えることに夢中になって、会社を出たのが定時を四十五分も過ぎてからだったのだ。十五分で着く距離だと思って油断しすぎた。本当はもっと早く会社を出るつもりだったのに。
アプリの通知によると、T・A氏はもう待ち合わせの場所に着いている。しかも約束時間の十分前にだ。氏には、本日解禁されたチャット機能で、「やや遅れるかもしれません」と念のために断りを入れてはいるものの、だからといってのんびりはしていられない。
(パ、パンプス……走りにくい……)
普段穿き慣れたジーンズとスニーカーが恋しい。
約束の時間を一分過ぎて、汗を垂らしながら待ち合わせのレストラン前に到着した。
辺りを見回すと、入り口から少し離れた道路脇に、スーツ姿の男の人がひとり立っているのが目に入る。道行く人はたくさんいるが、立ち止まっている人は他にいないし、おそらくあの人が件のT・A氏だろう。そう当たりを付けた華子は思い切って近付いた。
「あ、あの……はぁはぁ……フタ、フタリエコネ、ットの……はぁはぁ……えっと……」
呼吸はめちゃくちゃ、汗はダラダラ、単語はカミカミだ。この人がT・A氏じゃなかったらどうしようという不安と、待たせてしまった申し訳なさがごちゃまぜだ。かなりいっぱいいっぱいで、華子は今自分がどんな状態で、この人にどんなふうに見られているかなんてまったく考えもしなかった。
「……………………君が、H・Y、さん?」
たっぷりと間を置いた彼の視線が、華子の頭の天辺からつま先までを移動する。どうやら人違いではなかったようだ。身長一八二センチのプロフィールの通り、背が高い。スーツ姿のせいかもしれないが、がっちりしたその体格は、研究所で見慣れた男性同僚らとはまるで違う。
華子は手にしていたスマートフォンからフタリエコネットの専用アプリを開いて、証明するように自分のプロフィールページを見せた。
「は、はい! 山田華子と申します! 初めまして!」
意識して元気な声を出す。ついでにニコッと笑うと、T・A氏の口角がピクッと引き攣ったように上がった。
「……ど、どうも……」
相手は言葉少なだ。もしかして、おとなしい人なんだろうか。だとすると、結婚相談所を利用するのも納得だが。
(それとも怒ってるんでしょうか? 一分二十秒くらい遅れてしまいましたし)
「あの、すみません。お待たせしてしまって……」
ぺこりと頭を下げる。氏は表情ひとつ変えずに、「いえ」と言った。
「仕事は大丈夫?」
「ええ、それは、はい。大丈夫です」
おそらく氏は、華子の仕事が長引いて時間に遅れたのだと思ったのだろう。そんな人に、仕事自体は定時で終わっていたのだとはとても言えない。眼鏡の奥で、微妙に視線が泳いでしまう。
「……じゃあ、入ろうか」
「そ、そうですね」
T・A氏が木製のドアを引くと、カランカランとドアベルの音がする。「どうぞ」と先に促されて、華子は店内に入った。
(初めてレディファーストされちゃいました。この人は紳士な人ですねぇ)
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
「七時に予約していた者です」
出迎えてくれた女性店員に、氏がスマートフォンから予約番号を見せている。
華子は初めて来たのだが、ここはハンバーグ・ステーキ専門店らしい。個人経営で、レンガ造りの壁にどこかほっこりした雰囲気を感じる。「夜バルはじめました」と、手書きの看板があった。
店員に案内された奥のテーブル席に向かい合って座ると、お冷やとおしぼりが二つずつ、メニューが一冊、テーブルに置かれた。
この一冊のメニューというのは微妙に困る。独り占めするわけにもいかないし、かと言って、初対面の人と一緒に顔を突き合わせて見るのも気が引ける。恋愛力というか、コミュニケーション能力に長けた人なら困りもしないのだろうが……
「山田さんは、ここに来たことはある?」
急に話しかけられて慌てて顔を正面に戻すと、T・A氏がメニューを広げている。
「えっと……ないです。初めてです」
「俺は何度か来たことがあるよ。この黒毛和牛一〇〇%ハンバーグセットが、この店の名物。ソースもオリジナルでね。結構うまい」
氏の気さくな口調に、おとなしいという第一印象はすぐに消え失せる。かなりコミュニケーション能力の高い人らしい。爽やかと言うんだろうか。華子がメニューを見やすいように向きを変えてくれたりと、気遣いも見える。
そんな人だから、少し落ち着きを取り戻した華子は勧められるがままに頷いた。
「そ、そうなんですね。じゃあ、それにします」
食べ物なんてなんでもいい。好き嫌いはないし、こだわりもない。口に入る物はなんでも栄養だ。
「俺も同じのにしようかな」
注文が終わって店員が去ると、T・A氏はジャケットを脱ぎながら話しだした。
「あー。なにを話せばいいのかな。俺、今回初めて結婚相談所を利用したから、こういうの慣れてないんだ。やっぱり最初は自己紹介かな?」
「自己紹介!」
華子はその単語に敏感に反応すると、すぐさま鞄からA4サイズの茶封筒を出して、それを氏に差し出した。
「……これは?」
不思議な表情を向けられる。一応、笑ってはいるが、驚いているようでもあり、警戒しているようでもある。そんな彼に、華子は自信満々に胸を張った。
「わたしの履歴書です。自己紹介ならこれが一番効率的かと思いまして」
フタリエコネットの自己紹介ページはかなり簡易的だ。名前や勤め先など、個人情報にかかるところはすべてぼかされている。というのも、対面して信頼できそうな相手だと判断できたら、自分で名乗ったり勤め先を教えたりすることになっているからだ。つまり、実際に会ってみて「なんか違う」「この人ヘンだわ」と思ったら、個人情報はなにも教えずに「さようなら」することもできる。
だが華子にそんなつもりはなかった。せっかく結婚相談所に登録してまで、最先端のAIに「相性がいい」相手を紹介してもらったのだ。相手からお断りされるのは仕方ないとしても、自分から断るのはなんかもったいないではないか。
今回のデートの目的は、お互いを知ること。隠し事をするメリットはゼロだ。自分の情報を開示せずに相手のことだけを知ろうなんて虫がよすぎる。――そう結論付けた華子は、みっちりと書き込んだ履歴書を持参していた。
「そ、そう? じゃあ、読ませてもらおうかな」
氏は封筒から履歴書を出して紙面に目を走らせている。その間、華子は手持ち無沙汰だ。
(緊張しますね。就職活動の面接を思い出します)
まぁ、就活も婚活も似たようなものだろう。まずは条件が合うか合わないかだ。履歴書の本人希望欄にはしっかりと「結婚しても研究を続けたいです」と書いておいた。これが一番大事だ。
ところでさっきから、どこからともなくチラチラと視線を感じる。なんだろうと思って見ると、二つ横の席に座っている二人組の女性客が、T・A氏を見て「かっこいいね」と囁いているのが聞こえた。今度は反対側を見てみると、オーダーを取ってくれたさっきの店員が氏の横顔に熱い視線を送っている。この店は店員もお客も女性のほうが多いようだが、そのほとんどの視線がT・A氏へと向いている。ひとりの人が視線を向ける時間は短いのだが、交互に絶えず誰かが氏を見ているので、氏の目の前に座っている華子もその視線の余波に晒されることになるわけか。
(なるほど! この人はかっこいいんですね! ホモ・サピエンス的に!)
周りの女性の反応に確信を持つ。履歴書を読むT・A氏の顔をまじまじと見ると、確かに整った顔立ちだ。
(ホモ・サピエンスは、左右対称の顔立ちを遺伝子的に健康状態が良好だから好むという説が以前ありましたが、最近は左右対称顔のほうが、脳が知覚的な処理がしやすいために選好されやすい、という説に変わりつつあるようですね。イケメンは、個体認識するのに脳のリソースを割く割合が少なくて済むから好まれている……言い換えると、単純造形でずっと見ていても疲れない顔ということでしょうか?)
『彼氏が超イケメンなんだけど、ムカついてもあの顔を見るだけで落ち着くの。まぁ、いいかって気分になる』と、大学時代に同級生が話していたのを聞いたことがある。そのような現象も、左右対称の単純顔が脳に与える影響と考えると面白いかもしれない。
(まぁ、わたしには、よくわかりませんけれどね)
ひどい乱視と近視で、華子の視界は眼鏡越しにも歪んでいる。そこに脳味噌補正までも自動で加わっているのだから、視覚情報など当てにはならない。人間の大脳皮質の三割が視覚に関連したものなのに、脳が度々錯覚を起こすことはよく知られている。時には二次元と三次元の区別さえつかない。騙し絵なんて最たるものだ。人間は、見たいものを主観と希望と憶測と、更には自己解釈まで交えて、見たいように見る。つまり、人間の脳は「高度なアホ」という矛盾を抱えているのだ。
華子がそんなことを考えていると、T・A氏が「ああ」と声を漏らした。
「君はうちの研究員か」
「え?」
理解が追いつかずに、きょとんとして聞き返す。氏は華子の履歴書をテーブルに置いて、脱いだジャケットの内ポケットから革製の名刺入れを取り出した。
「自己紹介、俺の番だね。履歴書はないが――はい、名刺」
差し出された名刺を受け取りマジマジと見つめる。見慣れた赤坂堂のロゴマークの横には、仰々しい役職名が書いてあった。
「赤坂堂の執行役員兼、チーフ・ストラテジー・オフィサーの赤坂透真です」
「えっ! 同じ会社ですか⁉」
これには華子もさすがに驚いた。眼鏡の奥で思いっきり目を見開いて、名刺とホモ・サピエンス的に好ましいらしい彼の顔を交互に見つめる。本当に左右対称顔だ。
「や、役員さん……なんですか?」
「ついでに言うと、赤坂社長の長男ね。俺の顔、社内報で見たことないか? ちょいちょい載ってるんだけど」
爽やかに微笑む左右対称顔を見ながら、華子は「ははは~」と誤魔化し笑いを浮かべた。
(ないですねぇ……)
華子は社内報に微塵も興味がない。人事異動や商品売り上げ、表彰などが書かれた社内報より、尊敬する高分子化学の教授が書いた論文を読むほうが好きなのだ。でも、この人が言うことが本当なら、自社の上役が――社長の息子が自分の目の前にいることになる! なんという偶然! なんという幸運! このチャンスを逃す手はない!
可愛い可愛い次世代型ハイドロキノンαちゃんのため、華子は目をギラつかせながら身を乗り出した。
「赤坂堂美容科学研究所所属研究員、山田華子です! わたしが開発した次世代型ハイドロキノンαちゃんについて直訴します!」
「は?」
綺麗な左右対称顔が、華子を見上げてぽかんと呆気に取られている。そんなことはお構いなしに、華子は自分の最高傑作がいかに優れているかを延々と語りはじめたのだった。
◆ ◇ ◆
「――従来のハイドロキノンは、作用が強すぎて副作用が起きやすい成分であったことはご存知の通りだと思います。そこで赤坂堂ではハイドロキノンにブドウ糖を結合したα‐アルブチンを、ハイドロキノン誘導体として使用してきました。これは安全性はピカイチですが、効果のほどはやはり本物のハイドロキノンと比べると劣ります。そこで次世代型ハイドロキノンαちゃんでは、アルブチンのチロシナーゼの働きを阻害してメラニンの生成を抑制する効果はそのままに――」
早口で延々と講釈を垂れ流し、身振り手振りを交えながら、時にはペーパーナプキンに構造式を書いてみせるリケジョを前に、透真は笑いを堪えるのに必死だった。
(直訴……直訴って……。しかもなんで成分の名前に〝ちゃん〟付け……)
自然と肩が揺れる。
――失敗した。
待ち合わせの場所に走ってきた彼女を見たときの、透真の正直な感想がそれだった。
量産品のリクルートスーツに、黒髪のひっつめ。化粧に至っては、一応パウダーを叩いてはいるようだが、すっぴん風メイクを通り越したほぼすっぴん。そして極め付けは瓶底丸眼鏡だ。正直、めちゃくちゃ地味な上にダサすぎて直視に堪えない。
(ちょっと待てよ! 俺は美人が好きなんだが? そういうのが心理テストでわかるんじゃなかったのか⁉ こんな地味女、完全に俺の範疇外だぞ! ひ、人違い! そうだ、人違――)
「山田華子と申します! 初めまして!」
結婚相談所の自己紹介ページを片手にニコッと微笑まれて、素直な表情筋が引き攣る。
ガッデム……これで人違いの線は完全に潰えた。彼女こと山田華子が、朝からワクワクしながら店の中にも入らずに待ち続けたH・Yさん。
飾り気がないのはあの朧気な写真からも伝わってきていたが、これは飾り気なさすぎだろう。自分を少しでもよく見せようという気が微塵も伝わってこないことが、透真は堪えられないのだ。
赤坂透真、三十二歳。美人が好みだと言って憚らない男である。
美人が好きでなにが悪い。その分、自分の顔に自信はあるし、スタイル維持の努力だってしている。なにせ、〝美はつくれる〟が社訓の、赤坂堂の経営者一族だ。美とは努力の結晶なのだ。
ガッカリなのは本心だが、それでも店は予約しているし、相手の顔を見るなり「用事ができた」と言ってとんずらするわけにもいかないだろう。どんな瓶底丸眼鏡の地味女でも女は女だ。いやな気分で帰ってほしくないというホスト精神が働くのは、女性相手の商売を生業としている人間の性かもしれない。
とりあえず、店に入って腰を落ち着ける。どんなアルゴリズムでこの瓶底丸眼鏡と俺をマッチングさせたんだと、今度同期を問い詰めてやろうと決意しつつ、料理を注文した。
料理が来るまで自己紹介でもするかと話をふったら、あろうことか山田華子は履歴書を提出してきたのだ! 婚活に就活用の履歴書を持ってくるのは普通なのか? それとも自己PRのつもりか? 女性が会って間もない男に自分の詳細を書いた履歴書をホイホイ渡すなど、不用心過ぎて逆にドン引きである。警戒心というものはないのか? とは思いつつも、努めて顔には出さずに履歴書に目を通す。すると彼女の職場は、赤坂堂だと書いてあるではないか!
(ええっ⁉ マッチングポイントそこ? そこなのか⁉)
まさかの共通点である。もっと他に運命的なマッチングポイントはなかったのか。最先端とは言っても所詮はAIなのかと落胆が隠せない。
研究所は本社の敷地内にあるが、完全に別棟なので行き来はほぼない。まだ本名を名乗っていないし、透真が自社の役員だということに彼女が気付いているようにも見えないが、あとから気付かれるのも、それはそれで面倒だ。
(ってか、自社の社員は無理とか理由を付けて、二度目は会わない話に持っていったほうが無難か?)
うまい断り方が見つかってよかったじゃないかと思いつつ、名刺を渡して自己紹介をすると、彼女の目の色が露骨に変わった。透真が自社の役員で、社長の息子だと知った途端、あの瓶底丸眼鏡の奥で目がくわっと見開いたのだ。
(あ、なんだ。こいつもか)
透真が繰り返した出会いと別れの数は、赤坂堂の社長の息子という透真の肩書きや年収、そしてこの顔に釣られて寄ってきた女の数と、そのまま一致する。
女受けのいいこの外見と、赤坂堂の社長の息子という肩書きは、最強のリトマス試験紙だ。どいつもこいつも目の色を変えて媚を売ってくる。透真ではなく、〝赤坂透真〟というアクセサリーに付随してくる金が目当てなのがあからさますぎて、滑稽で嗤えるのだ。そして、目の前の彼女の反応に、どこか裏切られたような気持ちになる自分も。
誰も透真を見てはくれない――透真のそんな仄暗い感情も、彼女のひと声で一気に吹っ飛んだ。
「赤坂堂美容科学研究所所属研究員、山田華子です! わたしが開発した次世代型ハイドロキノンαちゃんについて直訴します!」
「は?」
素で面喰らう。
今は仕事中ではない、結婚相談所の紹介による顔合わせの席だ。なのに、彼女がはじめたのは、仕事のプレゼンである。仕事熱心なところは素直に好ましいと思うが、本来なら自己PRをするべき場で、自分が作った有効成分のPRをしているのだから、ちょっとどころかだいぶおかしい。普通じゃ考えられない。
(と言うかこいつ、俺の顔を見てもろくに反応しないんだよなぁ……)
この店に入る前も入ってからも、透真は周囲の女性達からちらちらと視線を向けられていた。中には露骨に秋波を送ってくる者もいる。それが透真の日常だ。ちょっと微笑んでやれば、女は誰もが頬を赤らめる。
試しにニコッと微笑んでみると――
「臨床結果も揃っていますし、実用には充分耐えうる品質を確保していると自負しています! 保水力もですね、赤坂堂がラインナップしている三万円台の高級化粧品シリーズの三・二五倍です。使うと肌が本当に違うんです。この保水力にも次世代型ハイドロキノンαちゃんが作用していまして、この〝次世代型〟というのがですね、水にも油にも溶けて――」
これである。清々しいほどの完全スルーだ。
こんな反応をされたのは生まれて初めてのことで、思わず笑ってしまう。
彼女は自分の容姿にも無頓着のようだが、男の容姿にも無頓着なのだろう。今まで透真の周りにはいなかったタイプだ。
「あとですね、この化粧水は主成分が水ではありません。もう、主成分が水の時代は古いと――」
「ストップ、ストップ、ストップ。ちょっと待って」
何時間でも続きそうな講釈を押しとどめるように、透真は彼女の話を遮った。その上で、冷静に突っ込ませてもらう。
「君がうちの研究員だというのはわかったが、今は開発品ではなく、君自身のプレゼンをする場じゃないのか? 一応俺達は今、結婚相談所の紹介で会っていて、仕事中じゃない。あと、仮にも開発品だ。誰が聞いているかもわからない社外でプレゼンするのはやめようか」
「あっ!」
自分がだいぶズレていたことに華子はようやく気が付いたらしい。しゅんと肩を落として俯いた。
「す、すみません……わたし……あの……」
「以後気を付けて」
「は、はい……本当にごめんなさい」
声が震えている。
(ちょっと言いすぎたか?)
おそらく彼女は非常に真面目な性格なのだろう。プレゼンから仕事熱心なのも伝わってくるし、なにより履歴書の本人希望欄に「結婚しても研究を続けたいです」と書いてある。
(仕事が好きなのも、俺との共通点、か?)
彼女が作った化粧品を、透真が売る――そう考えると、確かにベストパートナーと言えないこともないかもしれない。多少、奇っ怪な行動も目に付くが、今のところ仕事熱心のひと言でカバーできなくもない……かもしれない。透真の年収や肩書きに釣られない女性という条件は満たしている。AIもAIなりに仕事をしていたということか。
(なるほどね。ベストパートナー……。これで美人だったら俺好みの女性ってことになるのか。まぁ、見た目はちょっとアレだけど、女は磨けばどうにでもなるしなぁ。あのダサい眼鏡外して、髪型と服を変えてみたら案外いけたりするか……?)
まさに〝美はつくれる〟である。そんなことを考えながら、透真は恐縮しきっている彼女を見つめた。
「怒ってないからそう落ち込まないでくれ。君の話は興味深かったよ。商品開発部にも、再検討するように俺から言っておく」
「あ、はい。ありがとうございます!」
華子に笑顔が戻ると、ちょうど店員が料理を運んできた。熱々の鉄板を銀色の蓋が覆っている。これを目の前で取って、仕上げにオリジナルソースをかけてくれるのだ。
「お熱いのでお気を付けください。では、開けますね」
店員が二個同時に蓋を取る。すると、もわっと白い湯気とジューシーな香りが立ち上がり、そこにこの店自慢のオリジナルソースがかけられた。中に肉汁をたっぷり詰め込んだハンバーグは、しずる感たっぷり。じゅわっじゅわ~っと焼けた鉄板が唸り、食欲をそそる。
透真は早速、カトラリーセットから自分の分のフォークとナイフを取った。
「旨そうだ。さ、食べようか」
「あ、先に召し上がってください。わたし、眼鏡が曇って……」
「ははは。湯気凄かったもんな。じゃあ、お先にって――……」
話し終えるのと同時に、透真は目をくわっと見開いた。なんと、絶世の美女が目の前にいたのだ。
ファンデーションを付けていなくても真っ白な肌は、ぷっりぷりのもっちもちで透明感がある。アーモンド形の切れ長の目はわずかに伏せられ、今は長い睫毛が影を作っている。アイラインどころかマスカラも塗っていないその目元は、彼女の美貌が天性のものだという証明だ。すっと線を引いたような鼻筋に、小振りで愛らしい唇は自然な色味。改めて見れば、髪の毛なんか天使の輪ができるほどツヤツヤではないか。
顔立ちも相当整っているが、女らしく手入れが行き届いているところがまた驚きだ。化粧品メーカーの人間だからこそわかる。これは一朝一夕でできるものじゃない。普段から手入れをちゃんとしている証拠だ。
どこから来た? この美女はいったいどこから来たのだ? ついさっきまで目の前にいたのは、量産品のリクルートスーツを着た瓶底丸眼鏡の一風変わったリケジョだったのに!
驚愕に固まる透真は、目の前の美女から目が離せない。そして気付いてしまった。彼女が着ているのは、量産品のリクルートスーツ。ひっつめ髪。そしてあろうことか彼女は、構造式が書き散らかされたペーパーナプキンで、あの印象的な瓶底丸眼鏡を拭いているではないか――
「嘘だろ……」
呟いた透真の両手から、フォークとナイフがスッコーンと落ちる。彼女は眼鏡を拭く手をとめて、顔を上げた。
「なにか落ちませんでした?」
「い、いや……大丈夫」
「?」
きょとんとした彼女が真っ直ぐに視線を向けてくる。さっきより大きく見える目は、綺麗な二重まぶたで縁取られている。束ね損ねた横髪がサラッと額を流れただけで、その色っぽさに本気でゾクッとした。
眼鏡を外して、髪型と服を変えてみたら案外いけるんじゃないかと思っていたが、ここまでとは思わなかった。超絶地味女が瓶底丸眼鏡を取ったら超絶美女だなんて、こんなことがあっていいのか⁉ 一八〇度印象が変わりすぎだろう! だが、めちゃくちゃ好みだ。どストライクである。
〝フタリエコネット〟の最先端AIは、十二分に仕事をしていたのだ。
彼女はきっと仕事を辞めない。最前線で働き続けようとするだろう。彼女の一生懸命さは今見たばかりだ。彼女の研究が赤坂堂の明日を――透真を支えてくれることになるかもしれない。
(仕事熱心で、美人で、俺の収入も肩書きも気にしない女。俺の――)
〝最先端AIマッチングシステムが、あなたを想い、助け、寄り添ってくれるベストパートナーをご紹介します〟
あの煽り文句が脳裏をよぎる。
「…………」
なにも言わない透真を前に不思議そうな顔をしながら、彼女はすちゃっと眼鏡をかけた。すると、夢から覚めたように、彼女が元の瓶底丸眼鏡に戻る。間違いなく同一人物のようだ。まだ脳が混乱しているが、目の前の出来事が真実だ。眼鏡を取った彼女は超絶美人なのだ。
透真が自分の年収を逆サバしたり役職を偽ったりしたのと同じように、もしかするとこのダサい瓶底丸眼鏡と洒落っ気のなさは、彼女の防御なのかもしれない。ナンパや痴漢被害に遭わないようにとか、そんなやむにやまれぬ理由があるんだろう。いや、きっとそうだ。そうに違いない。絶世の美女が、好き好んでこんなダサい格好をするとは思えない。
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