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1巻
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しおりを挟む「就業時間は過ぎた。親として、ちょっとおまえに話があってな。なに、手間は取らせない」
父親の左手にある紙袋にチラリと目をやる。なにが入っているのかはわからないが、それにまつわる用件なのだろう。透真は既に実家を出て独り暮らしをしているし、敬之も忙しい身の上だ。プライベートで会おうとすると、お互いに都合をつけるという仰々しいものになってしまう。すぐに終わる用件なら、こうして就業時間後すぐに直接訪ねるほうが早いのだ。
促されるまま椅子に座りなおすと、敬之は持っていた紙袋を机の上にドサッと置いた。
「透真。今、お付き合いをしているお嬢さんはいるのか?」
いきなりだと思った。
「いや、そういう人はいないよ。今のところはね」
軽く答えながら、肩を竦める。「付き合っている人はいるのか」と聞かれた時点で、透真の勘が父親の用件を察知した。
「なに。結婚しろって?」
「話が早い」
そう言った父親は、紙袋の中からいかにもお見合い写真ですといった高級台紙を出して、透真に差し出してきた。
「おまえももう三十二だ。要領よくやっているようだが、そろそろ身を固める時期かと思ってな。私が母さんと結婚したのも三十二だった」
差し出されたお見合い写真を受け取り、父親に向けた視線を、今度はさっきの紙袋にやる。まだ中に何部もの写真台紙が入っているようだ。
「私が見繕ったおまえの花嫁候補の写真だ。中に釣書も挟んである。みんなおまえ好みの美人だぞ」
(どうせ画像を加工してんだろ?)
と、内心毒づきながら、お見合い写真をぺろっと開いてみる。
加工疑惑はさておいて、確かに美人だ。緑の木々が見える窓を背景に、袖がフリルになったワンピースを着た女性が、脚をクロスして写っている。モデル顔負けのポージングは「どう? 私、綺麗でしょ?」という自信のあらわれに見えた。
「ガキじゃないんだ。花嫁候補だなんて、こんなお膳立てしてもらわなくたっていいんだけどな」
たった今開いたばかりのお見合い写真を閉じて、透真は小さく息を吐いた。
自分で言うのもなんだが、透真はモテる。父親譲りのこの整った顔立ちが女性に好かれるという自覚はあるし、加えて自分が赤坂堂の社長の息子であることも別段隠さないから、特定の相手は作らなくても女性に困ったことがないのだ。
「もちろん。無理にこの中から選べとは言わんさ。おまえが、この赤坂堂に恥ずかしくない花嫁を連れてきていればな。そうすれば、私がこんなお膳立てをしてやる必要もなかったのだがね?」
そう言った父親が、鼻で笑っている。それは、一夜の恋ばかりを繰り返す透真の日常を見透かしているようだ。
「あー、はい。わかった。あとで見とくよ」
自分の分が悪いことを感じて、早々に白旗を上げる。すると敬之が、バシッと左右から力強く肩を叩いてきた。
「会社のことをおまえが真剣に考えてくれているのはわかっている。同じくらい真剣に自分のことも考えろ。私からはそれだけだ」
「…………」
返す言葉が思いつかず、ダンディな後ろ姿が部屋を出ていくのを黙って見送る。
パタンとドアが閉まって、透真は小さく息を吐いた。椅子に身体を預け、天井を仰ぐ。
(結婚……結婚ねぇ……)
男としては、不自由で窮屈なイメージがある。自分の自由がなくなると言えばいいか。とは言っても、透真は結婚否定主義者ではないし、「俺は絶対結婚しない!」なんて言い張るつもりもない。いつかは結婚するときが来るんだろう。だが、その不自由で窮屈な檻の中に、自分が喜んで入っていく様がいまいち想像できないだけだ。その一方で、父親の言わんとすることもわかる。
役職が上がれば、公式のパーティーなどに同伴するパートナー――つまり伴侶は必要不可欠だ。特に海外ではその風潮が顕著と言える。赤坂堂がこれから、海外にシェアを拡大していこうとするなら、海外の裕福層、投資家主宰のパーティーに出る機会も増えてくるだろう。後継者のことも考えなければいけない。だがそんなことを脇に置いたとしても、我が子によい伴侶と幸せな家庭をと願う親心が自分の父親にあることも理解できる。
(俺ももう三十二だ。そろそろ腹を括れ、ってことか……)
父親から渡されたお見合い写真を、さっきとは違う気持ちで開く。
透真は写真ではなく、台紙に挟まれていた釣書に目をやった。
――西園寺優里亜。父親はコンビニ事業や総合スーパー事業を営む大手流通株会社スリーセブンの代表取締役。三姉妹の末っ子。
三年前、スリーセブンと赤坂堂は事業提携を行った仲だ。赤坂堂が二十代前半の女性をターゲットに立ち上げたメイクブランドを、スリーセブンだけで販売するという独占契約で、そこそこまとまった利益を出している。西園寺優里亜が候補に挙がったのも、彼女の父親がスリーセブンの代表取締役だからだろう。ビジネス的な政略結婚が狙いなのはわかる。
(ああ。そう言えば、スリーセブンと業務提携したときのパーティーにいたな。そのときは大学生だったっけ……。ふーん)
なんとなく思い出しながら、釣書の続きを読んだ。
――現在は二十四歳。O女子大学人間総合学部卒。趣味、スキー、テニス、ピアノ、バイオリン、旅行。特技、英会話。
「は?」
思わず声が出た。西園寺優里亜の釣書を頭からもう一度丁寧に読み直す。
(なんで職歴が書いてないんだ? もしかして職歴がないのか? 働いたことがないのか? そうなのか? 今まで一度も?)
そうとしか考えられない。透真はパタンと閉じた西園寺優里亜の写真と釣書を机に置いて、紙袋から別のお見合い写真を出した。そして、挟まれていた釣書に目を通す。
(ちょっと待て、こいつもか! 嘘だろ?)
開いて、閉じて、開いて、閉じて――そうして全てのお見合い写真と釣書をチェックした透真は、最後の写真を机に放り出して思わず叫んだ。
「こいつら全員ニートじゃねーか!」
ここにリストアップされた女性達は、生まれついてのお嬢様だ。父親が大手企業の代表取締役だったり、銀行の総裁だったり、テレビ局の重役だったり。あくせく働く必要がないのだろうことは想像に易い。だからといって全員が全員、親の臑齧りとは何事だ。美人なのは確かだが、言い換えると顔と親の肩書き以外になにもないじゃないか。
このお見合い写真の中から相手を選んで結婚すれば、赤坂堂にはなにがしかのメリットがある。しかし、透真個人にはデメリットしかないことは明らかだ。働きもせず、親の金で旅行だスキーだと好き勝手に遊び回ってきた女が、結婚した途端に良妻賢母になれるわけがない。金の出所が親から透真に変わるだけ。透真はATM兼アクセサリーだ。
「俺は働いている美人が好きなんだ! 美人でもニートはいやだっつーの! 俺をナニと結婚させようってんだよ、親父!」
冗談じゃない! 今どき一度も働いたことのないニートが自分の伴侶だなんて! 本気で無理だ。仕事大好き人間の自分と、話どころか価値観さえも合うとは思えない。我が子に幸せな結婚をという親心はどこにいったのだ、親父よ。
ドン引きした透真が顔を引き攣らせていると、ポロンとスマートフォンが鳴った。
(メール、か)
スマートフォンに届くメールは全てプライベートのものだ。業務用はパソコンで受信するようにしている。しかし今、プライベートで急いで確認しなくてはならないようなメールが来る予定はなかった。だが、この漣立った心中を落ち着けるために少し別のことを考えようと、透真は広げたお見合い写真の山から、自分のスマートフォンを発掘した。
「ん? なんだこれ?」
『あなたにピッタリなお相手が見つかりました』
そんなメールの件名を見て、スマートフォン片手に首を傾げる。
一瞬、新手のスパムかとも思ったのだが、透真は自分が受信許可したメールしか受信箱に入らない設定にしている。知らないアドレスから来たメールは、即迷惑メールフォルダ行きなのだ。だからこのメールは、透真が自分自身で受信を許可したアドレスから来たことになる。
送信元を確認しようと、透真は件名をタップしてメールを開いた。
『赤坂様。日頃より、結婚相談所のフタリエコネットをご愛顧いただき誠にありがとうございます』
「結婚相談所? 結婚相談って、ああ! あれか!」
メールの冒頭を見た途端、すっかり忘れていた記憶が蘇る。
実は、透真の大学時代の同期が、数年前に事業を立ち上げたのだ。それがこの結婚相談所、〝フタリエコネット〟。大学時代に学んだ統計学を活かして、独自のマッチングシステムを構築。最新のAIが登録会員の中からベストパートナーを紹介してくれるというものらしい。名前は、ふたりと、結びつけるという意味のコネクトを掛け合わせた造語なんだとか。
当時、事業を立ち上げたばかりだった同期と飲みに行ったときに、「会員数を少しでも増やしたいから協力してくれないか」と頼まれて、透真も登録していたのだった。
(もう何年前になるか? ノリで登録したからすっかり忘れてたぜ)
忘却の彼方へと追いやっていたこの結婚相談所の名前を、透真はネットで軽く検索してみた。レビューをいくつか読んだが、なかなか評判がいいらしい。実店舗も少しずつ増えていて、今はスマートフォン用の専用アプリもあるとのこと。
(ふーん。やるねぇ)
会員登録は実店舗のみで行い、独自の審査をクリアしなければ登録できない仕組みになっている。しかも、本人確認書類をはじめ、独身証明書やら卒業証明書、国家資格以上は資格証明書、おまけに収入や勤務先を証明するために、源泉徴収票や確定申告の控えも提出させられる。
提出書類が多ければ多いほど、結婚相談所としての信頼が増すのかどうかは不明だが、それらの書類は、会員登録している限り毎年更新する必要があるんだとか。
ただ、透真自身は更新手続きをしていないのだが――
『俺の年収なんて、毎年そんなに変わらないしな。て言うか、本当の額を書いたら、俺にマッチングする女が増えないか? 嵩増し登録なのにそれじゃあ本末転倒だろ。逆サバしとこう。仕事も普通の会社員にしてと。履歴書? 俺が同じ大学出てるの、おまえが知ってるじゃないか。独身証明書もパスパス。え? AIが顔面偏差値採点するから写真は絶対必要? しょうがないなぁ、んじゃ今スマホで撮れよ。写真館とかいいよ。俺イケメンだからスナップで。なに? 他にも感覚テストとかあるのか? それを受けたら、俺がどんなタイプの美人が好きとかもわかるわけ? へぇ、心理テストみたいなやつか。それは面白そうだな。今スマホでできるのか? んじゃ受けるよ。更新手続きをそっちでしてくれといたら、俺が結婚するまで会員登録してていいぞ』
なーんて、同期と飲みながらノリで言った気がする。マッチングしてもらう気なんかさらさらなかったから、写真なんか変顔で登録したっけ。同期は会員登録数が増えた今も、透真の言葉通りに毎年更新していたようだ。なんとも涙ぐましい営業努力である。
(ああ、だんだん思い出してきた。酒の勢いって怖えーな)
若気の至りに自分で失笑しながら、透真はマッチングメールをスクロールした。本文中に記載されていたURLから、会員専用ページにログインする。表示されたページには、AIがマッチングしてくれた「赤坂透真様にピッタリなお相手」のプロフィールが表示されていた。
(H・Yさん? この人が俺にピッタリな相手ねぇ? ふーん、二十九歳か。身長一五八センチ。体重四二キロ。会社員。あ、職業のカテゴリーが研究者だ。女の研究者か! リケジョだな、リケジョ。年収、五百万。へぇ~うちの研究者と同じくらいか。分野はなんだろう? 結構大手に勤めてそうだな。勤続二年……ああ、大学院を出てるのか。趣味、研究だって。はは! 仕事が趣味なタイプか? 顔は見れないのか? 顔)
イニシャルの横に、青背景にバストアップの証明写真風の画像が表示されるが、顔の中央がうっすらとぼかしてある。髪型や髪色、体型などの雰囲気はなんとなくわかるものの、それ以上に鮮明な写真を見ることはできない。なるほど、名前や勤め先、顔写真などの個人が特定できる要素には、フィルターがかかる安全仕様らしい。ここで相手のだいたいのプロフィールを確認して、お互いに興味を持ったら次のステップに進むわけか。
父親が持ってきた見合い写真と釣書よりも、明らかに熟読している自分に気が付いて、透真は取り繕うように軽く咳払いした。この部屋には自分しかいないのに。
ページの最下部にある、「H・Yさんに会ってみたいですか?」という問いを視界の端に入れつつ、このAIマッチングシステムの解説ページに飛んだ。
(まぁ一応、どんなシステムか把握しときたいしな……俺とこの人がどういう基準でマッチングしたのか、とかさ)
自分で自分に言い訳しながら、ページを熟読する。
店舗で新規会員登録が完了すると、翌日からAIがマッチングを開始。希望の条件を合致させるだけでなく、ふたりの共通点などもマッチングポイントになるらしい。それは趣味だったり、思考だったり、食の好みだったりといろいろだ。他にも、お互いをうまく補完し合えるような組み合わせになることもあるんだとか。
マッチングすると、まず既会員にマッチングメールが届く。透真が受け取ったあの『あなたにピッタリなお相手が見つかりました』というメールだ。
既会員が先に大まかなプロフィールを閲覧。会ってみるかどうかの問いに、【はい】を選択すると、新会員にマッチングメールが届く。ちなみに、どちらかが会わない――【いいえ】を選択すると、AIが瞬時に好みを再学習して、同様の異性を紹介しないようにする仕組みだ。
AIは常に学習を続けているので、既会員同士のマッチングも行われ、最近では成婚カップル誕生数が二十%を超えているのだとか。ちょっと検索してみたところによると、大手の結婚相談所の成婚率がだいたい十%らしいので、ちょうど倍になる計算だ。
(へぇ……そんなにいいのか、これ……)
〝最先端AIマッチングシステムが、あなたを想い、助け、寄り添ってくれるベストパートナーをご紹介します〟
ページに書かれたキャッチコピーがただの宣伝文句だとわかっているくせに、どこか心惹かれている自分がいる。
登録するとき、どうして年収を逆サバしたり、役職を変えたり、適当な写真を送ったりした? どんな男よりも赤坂透真がいいと言ってくれる女性に出会いたかったからではないのか? あのときから自分は、運命の出会いを待っていたのかもしれない。
透真はページを戻って、紹介された女性の写真をもう一度眺めてみた。ぼかされた写真だが、痩せ型なのはわかる。髪色は黒。短いのか、結っているか……たぶん結っているのだろう。シンプルな白い服を着ている。飾り気のない女性だ。これが――いや、この女性が、AIが導き出した自分のベストパートナー。
――H・Yさんに会ってみたいですか?
(そりゃあ、まぁ……)
こんなマッチングシステムでも利用しなければ、出会うこともない人だろう。
〝フタリエコネット〟は同期が立ち上げた会社だ。怪しい出会い系のそれとは違うと頭ではわかっている。だが言葉にできない躊躇いがあるのも確かで――なのに、迂闊な指先がスマートフォンの画面にポンと触れて、【はい】のボタンを押してしまったのだ。
「あ」
しまった! と思ったときには既に画面が切り替わって、「H・Yさんにアポイントメールを送りました。返事があるまでしばらくお待ちください」と表示される。確認画面すら出ない。なんというスピードだ。
「んん~。ま、いっか……」
詰めた息を吐いて、椅子に身体を預けた。
【はい】のボタンを押してしまったからと言って、必ず会えるとは限らない。相手の意思もある。透真がノリで登録したあのプロフィールを見て「会いたい」と思う女性は相当のレアだ。実際、登録したのは数年前のはずだが、今日までマッチングメールが来なかったのがいい証拠。少なくとも、父親が持ってきたお見合い写真のご令嬢達とは真逆のタイプの女性だろう。
(ベストパートナーねぇ……。そんな女が本当にいるなら……)
会ってみたい――それは透真の純粋な興味だった。
◆ ◇ ◆
『あなたにピッタリなお相手が見つかりました』
仕事が終わって電車に揺られているとき、華子はこんなタイトルのメールを受信した。送信元は、昨日、本会員登録が完了した結婚相談所〝フタリエコネット〟だ。
「うほ!」
電車の中なのに、興奮したオランウータンのような声が出てしまい、隣に座っていた人にギョッとされる。華子は「スミマセン」と小さく頭を下げ、またスマートフォンの画面を見つめて鼻息を荒くした。
(ほ、本当に来ました。すっごーい! 思ったより早かったですねぇ~)
華子は誕生日に〝フタリエコネット〟の店舗に向かったが、あの日はシステム説明と仮登録だけで終わってしまった。本登録に進むためには、様々な証明書が必要になる。それらの書類を揃えるのに二週間。それから審査に一週間。そして審査が通ったら、今度は自分のプロフィール作成と、感覚テストだ。
感覚テストは一般常識から道徳的思考、それからあらゆる人間の顔パターンを見せられて、その中から自分が「好ましい」と思ったものを選ぶ形式だった。受けた印象では、パーソナリティ理論に基づいた一種の性格分析だと思う。潜在意識を探る感じだ。これを元にAIがマッチングを行うのだろう。
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聞くところによると、写真館でお見合い用の写真を撮影してもらい、それを登録する人が圧倒的に多いのだそうだ。九百円の証明写真――しかも、ひっつめに白無地のTシャツ、おまけにすっぴんの写真を提出してきた人間は今までひとりもいなかったと見える。だが華子にしてみれば、個人情報保護の観点からぼかしが入るとわかっている写真に、わざわざ気合いを入れる意味がわからない。どうせ見るのはAIだけだ。AIの画像判定に影響するのは解像度のみで、どんな髪型だろうがメイクだろうが背景だろうが関係ない。あれやこれや言うのは人間の感性だ。
(どれどれ? どんな方をご紹介いただいたんでしょう?)
最先端のAIがもたらす情報に、華子は興味津々だ。
華子は早速、本登録時にインストールした〝フタリエコネット〟専用アプリを立ち上げた。
(なになに? イニシャルT・A氏。三十二歳。身長一八二センチ。体重七二キロ。会社員。職業カテゴリーはサービス業。年収三百万円。勤続十年。最終学歴、K大経済学部。趣味は仕事。――うん、超普通ですね!)
お相手のプロフィールを読み上げて、心の中で頷く。
華子が相手に求めるものはそう多くない。容姿や年収、学歴なんかは気にしないし、結婚しても、華子が研究を続けることに賛成してくれればそれでいい。あとは、ついつい食べることを疎かにしてしまう華子の面倒を見てくれたら大変有り難い。
プロフィールを全部読むと、ページの最下部に、「T・Aさんに会ってみたいですか?」という問いが出てくる。せっかく結婚相談所に登録したのだ、【はい】以外の選択肢なんて存在しない。むしろ、【いいえ】を選択する意味がわからない。
華子が迷わず【はい】のボタンを押すと、ページが変わってカレンダーが表示される。このページで、会うのに都合のよい日時を登録するらしい。
初めて会うときは、あまり気合いの入った店だと緊張するので、カジュアルな店がいいらしいが、恋愛慣れしていない登録者がそんな都合のいい店を知っているわけがないことも、我らが親愛なるフタリエコネットは織り込み済みだ。ふたりの勤務地や自宅から無理なく行くことができるレストランや喫茶店といった食事処を、AIが待ち合わせ場所としてリストアップし、予約代行までしてくれる。まさに至れり尽くせり、フタリエコネット様様である。
(登録以外は全部アプリ上で完結するなんてすごいですねぇ~。じゃあ、会う日を決めないと……)
とりあえず今は自分が主体で進めている研究はないし、再再提出した〝次世代型ハイドロキノンα〟のプレゼン資料の結果も戻って来ていない。残業することもないと踏んだ華子は、平日日中以外は毎日あいていると解答した。店も、リストアップされた全ての店舗にOKを出した。
(これだけ対面可能日に設定すれば、どこか一日くらい合うでしょう)
あとは相手の返事を待てばいい。相手に本当に会う意思があるのなら、日程もサクッと決まるだろう。そう予想した途端、アプリから通知が来て、お相手と対面する日が今週金曜の夜に決まった。場所は、職場の最寄り駅付近にあるレストランだ。徒歩十五分ほどで着く距離である。
当日、待ち合わせ場所に着いたら、アプリにある到着ボタンを押すことで相手に連絡することができる仕様らしい。すれ違いを防ぐために当日になるとチャット機能も解禁される。ただし、連絡なしのドタキャンはフタリエコネットの本部に連絡が行き、一発退会処分となる。厳しいが、この厳しさがフタリエコネットの人気の秘密だ。
(仕事が速いですね、T・A氏。好感度高いです~。うちの商品開発部も見習えこの野郎です)
もう三週間も待たされている次世代型ハイドロキノンαの件と比較せずにはおれない。画面の向こう側で、T・A氏なる人物が自分に会おうと予定を入れてくれたのだと思うと、妙な高揚感を覚える。しかもこれはデートだ。確認のためにネットでデートの意味を調べてみると、日時や場所を定めて男女が会うこと、とある。ほら! やっぱりデートだ!
人生初のデートの約束に、華子はホクホク顔で電車を降りた。
◆ ◇ ◆
「山田女史、どうされました! 今日は珍しい格好ではありませぬか!」
出社した華子を出迎えたのは、同僚、阿久津の驚いた声だ。阿久津が突然大声を出すものだから、皆の視線が一気に華子に集中する。
珍しいと言っても、華子が着ているのは、就職活動に使っていた一般的な黒のリクルートスーツである。しかしこのリクルートスーツこそが、華子が持っている服の中で、最も値の張る文字通りの一張羅だ。
今日は金曜日。待ちに待ったT・A氏との対面日である。
初デートでTシャツにジーンズはさすがにラフすぎて失礼であろうと考えた華子は、熟考の末にリクルートスーツを引っ張り出してきたのだ。鞄も革製に変えたし、髪もゴムではなくバレッタでとめた。足元もパンプス。顔にはルースパウダーも叩いた。華子最大級のお洒落である。
自分のお洒落に気付いてもらえたのが、ちょっと照れくさい。仕事帰りに男と会うなんて、めちゃくちゃOLっぽいではないか。華子は上に羽織った白衣のポケットに両手を突っ込むと、「えへへ……」はにかんだ笑みを浮かべた。
「もしや、転職――」
「違います」
予想だにしていなかった阿久津からの質問に、サッと笑みを消して真顔で答える。華子がデートに行くなんて、他の研究員は考えもしないのだ。そもそも華子に転職の意思はない。なにせ華子には次世代型ハイドロキノンαがある。
(わたしの次世代型ハイドロキノンαちゃんを活かさないなど、会社的な、いえ社会的な損失です。商品開発部もそれぐらいわかるでしょう。果報は寝て待てと言いますからね。わたしはじっくり待ちますよ~)
華子はパソコンに接続された蛍光実体顕微鏡の前に座った。
華子が今手伝っているのは、畠山所長が中心となって進めている、グラスファイバーを配合したマスカラの再開発だ。既に製品化されているのだが、商品開発部から「洗顔時に落ちにくいのをどうにか改良してほしい」とリニューアルを依頼された物である。
(だったらコーティング剤の成分を改良したほうが早いような気がしますけど……)
そんなことを考えながら、新開発のマスカラの上に、赤坂堂が発売しているメイク落としを各種垂らして、どの商品でどうなるかを顕微鏡で観察する。地味だが、現状の把握のためには大切な作業だ。
黙々と……ひたすら黙々と顕微鏡を覗く。そうしているとあっという間にランチタイムだ。
「山田さん。お昼だよ。もう皆行ってるし、僕らも行こうか」
「あ、はい!」
所長の声に顔を上げる。いけない、いけない。ちゃんとご飯を食べなくては。
(では、メールチェックしてからご飯にしましょう)
こういうことをするから、ついつい食いっぱぐれる。それはわかっているけれども、華子はいつもの習慣でメールボックスを開いた。
『次世代型ハイドロキノンαについて』
そんな件名のメールが受信箱に入っている。受信時間はついさっきだ。きっと商品開発部からの返事に違いない。
待ちに待った連絡を、華子ははやる気持ちを抑えきれずに開いた。
『提出いただきました次世代型ハイドロキノンαの詳細を拝見しました。その有効成分の効果効能は認めますが、開発方針から今回は採用見送りと致します』
「……採用見送りって……はぃい⁉」
淡泊すぎるメールを前に、目を見開いて驚愕する。ランチに行こうとしていた所長も足をとめてこちらを見ていた。吉報と信じてやまなかった知らせなのに、見送りだなんて信じられない。商品開発部はしっかり検討し直してくれたのだろうか? 検討し直してこの結果なのか。本当に?
華子はパッと電話を取ると、商品開発部の担当者に内線をかけた。
「もしもし! 研究所の山田です。次世代型ハイドロキノンαちゃんの件で確認したいことがあるのですが、担当者さんは――あ、はい……はい……ではお戻りになったら――え、そうなんですか? はい……わかりました……では後日改めて……」
電話を切ってドサッと椅子に崩れ落ちる。近付いてきた所長が、おずおずと聞いてきた。
「開発部はなんて?」
「採用見送りだそうです。担当者に電話したのですが、今は昼休憩だと。折り返しの連絡を頼もうとしたんですが、今日は午後から会議があるから来週にしてほしいと言われて……」
「あー……それはぁ……」
逃げられた――それぐらい、華子にもわかる。おそらく来週電話しても担当者は出ない。直接出向いても離席しているか、他の用事があるからと邪険にされてしまうだろう。採用できない理由を教えてもらえれば改良の余地もあるのに、商品開発部は華子を相手にする気はまるでないのだ。
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