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1巻
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「なんでっ⁉」
たった今届いたメールを見た山田華子は、ぐわっと身を乗り出してノートパソコンに齧り付いた。牛乳瓶の底を切り取って付けたかのような分厚いレンズが、画面にぶつかって擦れるが、そんなことは気にしていられない。
「山田さん、また駄目だったのかい?」
回転椅子に座ったまま勢いよく振り返ると、白衣を羽織った中年男性が背後で眉を下げている。彼の名前は畠山。この研究室の所長だ。
尊敬する教授の下で、大学院に残ってポスドクとして研究ばかりしていたら、知らぬ間に二十七歳になっており、「頼むから就職してくれ」と親に泣かれて困っていた研究馬鹿の華子を採用してくれた、仏様のようなお人である。
ここは大手化粧品メーカー、赤坂堂の本社敷地内の一角にある〝美容科学研究所〟。赤坂堂が国内外に販売しているあらゆる化粧品を、原料から研究、開発。その安全性を確認しているところである。
この美容科学研究所には、畠山所長をはじめ十五人の研究員がいるのだが、華子を除いて全員が男性だ。華子の入社前には女性研究員もいたらしいが、寿退社したり、産休育休に入ったりした結果、現在のように猛烈な偏りが生じてしまっているのだそうだ。
華子は、赤坂堂の心臓部ともいえるこの美容科学研究所で、美白の有効成分を含んだ化粧水の開発に二年携わってきた。臨床結果も揃い、効果効能もばっちり。保湿を超えた超保水性。今回、厚生労働省から認可が下りたばかりの医薬部外品の新規有効成分、〝次世代型ハイドロキノンα〟が肌の深層部まで染み渡り、シミそばかすといった、もう既にできてしまったお肌の敵を、分解排泄どころか徹底漂白。加齢による肌のくすみも除去してくれるという夢の化粧水の開発――これが華子の初仕事だ。
美の追求者なら老若男女問わず、誰もが欲しがるであろう代物を作り上げたのだが、商品開発部から、それを認めないという連絡がメールできた。そもそも、作れと指示を出してきたのは商品開発部のほうなのに。
保湿力があって、美白効果があって、浸透力が高くて、いい匂いで、付け心地もよくて、安全性も高くて、ぶっちゃけ他社に負けない化粧水。理想を詰め込みすぎで、無茶としか言いようのない代物だったが、それが上からの指示で成果を期待されていると思ったからこそ、華子はコツコツ地道に研究してきたのだ。なのにようやく出来上がったら、今度はやっぱりいらないときたものだから納得いかない。納得いかなすぎて、プレゼン資料を作り直して再提出したくらいだ。だがそれも、こうして突き返されてしまったわけだが。
「信じられません。この化粧水を商品化しないなんて。次世代型ハイドロキノンαちゃんは最高なんですよ⁉ そのよさがわからないなんて、商品開発部には馬と鹿しかいないのでしょうか? 至急、動物園に引き取っていただきたいものです」
華子が真顔で毒を――いや、真っ当な主張をしていると、襟が伸びきったTシャツに穴のあいたジーンズを身につけた男性が、インスタントコーヒーの入ったビーカーにお湯を注ぎながら、畠山所長の後ろから顔を出した。櫛を入れていないボサボサの頭で、とても勤務中には見えない格好をしているが、彼は華子の同僚の阿久津で、れっきとした美容科学研究所の研究員である。
「こうなると、あの噂は本当なのかもしれませんなぁ」
「噂、ですか?」
華子が続きを促すと、阿久津はその独特な話し方を更に早口にした。
「小生が聞いたところによりますと、経営サイドが委託に乗り気らしいのですよ。既に、いくつかのメーカーとコンタクトを取っているとかいないとか」
「え? 委託するのですか⁉」
華子は思わず椅子から腰を浮かせた。
百貨店に並ぶ有名メーカーの商品とやたらとそっくりな――そう、成分までもそっくりな後発化粧品が、ドラッグストアやコンビニに安価で並んでいることがある。なんのことはない。研究から開発製造まで請け負った委託先が、パッケージを変えただけのそっくり同じものを作っているのだ。もちろん、そういう契約をはじめから交わしているのだから違法ではない。発注側は、諸々を委託に丸投げすることによって、開発費も製造コストも抑えられるというメリットがあるから、最近はそういう商品が増えているのだ。
だが、そんなことをされたら、今ある研究所はどうなる? 縮小され、華子達研究員はリストラ対象になる可能性も出てくることに――
「そんな……。わたしは納得しかねます」
華子が露骨に肩を落とすと、阿久津はずずずっと音を立ててビーカーのコーヒーを啜った。そんな彼の横で、所長が顎をさすりながら難しい顔をしている。
「まぁ、僕のところに正式な話としては来ていないが、そういう噂はあるにはあるようだねぇ」
「これも時代の流れでありましょうな。ま、小生は研究ができればどこでもいいであります。また大学に戻る手もありますし、転職も。そうそう、海外の選択肢もありますな」
「それはそうですけれど……」
知は力だ。研究一本で実績を積み上げてきた研究員は、それこそ職人のようなもの。国内で転職が適わなくても、海外へ行けば引く手あまただ。それに海外のほうが待遇がよかったりするので、語学力にそれなりに自信があれば、阿久津のように海外勤務を視野に入れる人間もいるだろう。
「でもそれでは、次世代型ハイドロキノンαちゃんはなかったことになるじゃありませんか!」
「まぁ、それは仕方ないであります。新しいものを作っても世に出ないことなんて、商業ではザラにありますですよ。山田女史も洗礼を受けたと思って。ねぇ、所長?」
阿久津は所長に同意を求めるように目配せする。
「そうだねぇ……こればっかりはねぇ……。利益が上がるかどうかを判断するのは上であって僕らじゃないからねぇ。従うのみだねぇ」
「…………」
瓶底丸眼鏡が自分の表情をわかりにくくしていることを知りながら、華子はムムッと眉を寄せた。なにが洗礼だ。
所長も阿久津も、最初から諦めている。彼らも過去に散々辛酸を舐めさせられてきたということなのだろう。その経験が、彼らを牙の抜かれた獣のように従順にさせているのか。言わんとしていることはわかるのだが、散々苦労してやり遂げた自分の初仕事が、日の目を見ぬまま葬り去られるのはやはり納得できない。だって自信作なのだ。効果も効能も間違いなくある。売り出せば、喜ぶ人がきっとたくさんいる。
しかし、赤坂堂が製品化してくれないなら、よそで――というわけにはいかない。華子が仮に転職したとしても、転職先でこの化粧水と同じものを勝手に作るなんてことはできないのだ。就業規則で「特許を受ける権利」は会社に帰属することになっている。つまり、華子が開発した有効成分は赤坂堂のものであって、華子のものではないのだ。
「山田さん、まぁ、そう気を落とさずに。委託の話だって噂だ。ただの噂。山田さんの作った有効成分も、今後別の形で使うこともあるかもしれないじゃないか。まったくの無駄じゃないよ」
確かに所長が言うように、クリームだったり乳液だったり、フェイスマスクだったりと、形を変えて別の商品として出せるかもしれない。だがそれは、研究所が存続していればの話だ。製造だけでなく、開発さえも委託することになって研究所がなくなってしまったら? もうそこで終わりなのだ。
(でも、委託の話がまだ本決まりでないのなら……説得の余地はあるかもしれません)
華子は唇を引き結ぶと、先ほど不愉快なメールを受信してくれたノートパソコンに向き直った。
「もう一度、次世代型ハイドロキノンαちゃんのプレゼン資料を書き直してみます。わたしの書き方が悪かったのかもしれませんから」
そう言いながら、前のめりになって怒濤の勢いでキーボードを叩く。
「まぁ……あまり根を詰めないようにね」
「はい!」
一瞬だけ所長を振り返り、またパソコンに向かう。今めいっぱい足掻かなくては、後悔する気がするから。
結局華子は、その日のうちにプレゼン資料を商品開発部に再再提出した。前回より詳しく作ったプレゼン資料は気合いが入りすぎて、五十ページを超えてしまったくらいだ。商品開発部の担当者に分厚い資料を叩きつけながら、自らの知力の結晶である次世代型ハイドロキノンαの効果効能をおおいに語ってきた。相手は引き攣った顔をしていたようだが、まぁ大丈夫だろう。華子の熱意と、次世代型ハイドロキノンαの素晴らしさが、今度こそ伝わったと信じたい。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
「お疲れ様」
十八時の定時になって席を立つ。すると、顕微鏡を覗いていた所長がわざわざ顔を上げた。
「山田さん、来週からはこっちの実験データを取るのを手伝ってくれないかな」
「……はい。かしこまりました。…………では」
所長の言葉に素直に頷く。「落ちた企画にいつまでもしがみつくな」と言われているようで――いや、実際遠回しにそう言われているのだろう――かなり切ない。それでも所長は、研究馬鹿の華子の気が紛れるように配慮してくれているのだと思う。
(はぁ……世の中厳しいですねぇ。ああ、可哀想な次世代型ハイドロキノンαちゃん……なんとかしたい。わたしが尊敬する教授なら、次世代型ハイドロキノンαちゃんの素晴らしさを一瞬で理解してくださるに違いないのに!)
華子は胸の内でため息をついて、自分ひとりしか使う者のいない女性更衣室に入った。
ロッカーからA4サイズのトートバッグを出して、中のスマートフォンをチェックする。どうやらメッセージアプリの通知が来ているようだ。
(お母さんからだ。なんでしょう?)
あまり頻繁に連絡を寄越すタイプではない母親である。急用だろうかと、急いでメッセージアプリを開いた。
『お誕生日おめでとう』
短いメッセージを見て、一瞬きょとんとしてしまう。が、更衣室のカレンダーの日付けを見て、そうかと合点がいった。
四月三十日――今日は、華子の二十九歳の誕生日である。
(あら~。すっかり忘れていました)
家族以外に祝ってくれる人もなし、前の誕生日からいつの間にか一年が経っていたという区切り以上の感慨もない日であるが、祝われればそれなりに嬉しい気持ちにはなる。
白衣とスプリングコートを取り替えてロッカーに鍵を掛けた華子は、更衣室から出ながらスマートフォンでメッセージを入力した。
「『ありがとうございます』っと――」
メッセージを送って、スマートフォンをジーンズのお尻ポケットに無造作に押し込む。と、そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。母親からの電話だ。華子は、研究所の玄関に向かって歩きながら電話に出た。
「もしもし、ハナ? お仕事は終わったの?」
「はいです。ちょうど今から帰るところです」
おっとりとした声に頷きながら答える。母親は「お疲れ様」と付け加えてくれた。
「じゃあ、改めて。お誕生日おめでとうございます。もう二十九歳ね」
「ありがとうございますです。実はすっかり忘れてまして。えへへ……」
自分でも驚いてしまう。実感なんてまるでないのだから怖い。華子の精神年齢なんて、大学生の頃から変わっちゃいないのだ。すると、電話の向こうから小さなため息が聞こえた気がした。
「ねぇ、ハナ。いつまでお仕事するの?」
「そうですねぇ、今の社会保障制度を思うに、定年後もしばらくは働いたほうがいいかなと」
自分の考えをそのまま述べると、また電話の向こうから小さなため息が聞こえる。二回目なので、気のせいということはなさそうだ。
「お母さんの言い方が悪かったわ。今のは〝もう二十九歳になってしまったけれど、そろそろ結婚も考えないとあとがないわよ。ギリギリよ! ピンチよ! 誰かいい人はいないの⁉〟という意味よ」
「ああ、結婚適齢期の女性がしばし体験するという、親族からの結婚の催促というやつですね」
他社の化粧品研究のために購読している女性誌にときたま書いてあるので、あらゆる面に疎い華子も言い直されればすぐにわかった。
「残念ながら、そのような殿方はいないのが現状です、はい」
「ああもう……この子は……はぁ……」
「ご、ごめんなさい……」
三度目になる母親のため息に、ちょっと申し訳なくなる。華子は昔から、お勉強の成績はすこぶるいいのだが、大学で高分子化学を専攻してからというもの、研究にのめり込んで他のことにリソースを割くことを、豆粒米粒どころかミジンコ大ほどもしてこなかったのだ。高分子化学の知識は、現在手がけている化粧品原料開発に役立っているわけだけれど……
「お仕事もいいけど、そろそろ将来のことも本気で考えてちょうだい。お母さん、心配よ。お母さん達がいなくなっても、あなたがずっとひとりなんじゃないかって……。言いたくないけど、あなたってば抜けてるし、頼りないし、友達すらいないじゃない。多少強引かもしれないけど、結婚でもしなきゃずっとひとりよ?」
「うっ……」
痛いところを突かれて言葉に詰まる。研究馬鹿の華子には、同性の友達というのがまずいない。もちろん、異性もだ。学生時代の同級生や、先輩後輩といった知り合いはたくさんいるが、あくまで知り合いだ。まったく親しくない。学会で会ったときに、論文の検討や、研究の進み具合いなどの話はしても、プライベートとなると皆無である。
誕生日に――しかも花金の就業後になんの予定もない。帰って食べて寝るだけ。おまけに誕生日を祝ってくれるのも親しかいないとくれば、これまでの人付き合いがいかに間違っていたかを実感させられる。そんな娘は、親から見れば絶えずやきもきさせられて、頼りない存在なのだろう。
「お母さんはね、ハナをひとりにしておくのが心配なの。だってあなた、研究に夢中になると、ご飯を食べるのも忘れちゃうじゃない。それで倒れるんだから! そんなんじゃ駄目よ。頼れる人が側にいたら、そういうこともなくなるでしょ」
実は華子には、研究に夢中になると、食べることも飲むことも忘れてしまうという悪癖がある。酷いときには、自分で作った料理の存在を忘れて、論文や粧業界のメルマガ、ニュースサイトを読みふけり、そのまま食べずに放置して腐らせ、挙げ句の果てには倒れるのだ。集中を通り越して夢中になると、周りの声も耳に入らなくなる。食事の時間というのは非常に無駄が多く感じられて、華子は職場の机の引き出しにブドウ糖入りゼリー飲料を箱でストックしており、食べるのが面倒くさいときはそれを飲んでいるくらいである。そんな食生活が身体にいいわけないことも、華子自身、一応はわかっているわけで。
「た、確かに……。体調管理してもらえると非常に助かりますね」
華子が同意したことに気をよくしたのか、母親の声のトーンが明るくなった。
「ね? それにあなたは頭もいいし、なによりすごく可愛いんだから! 本気で探せば、お相手なんかあっという間に見つかるわ」
「ええ? それはちょっというか、だいぶ言いすぎでは?」
「そんなことあるもんですか。ハナは自慢の娘よ。……ちょっと変わってるけど」
「最後のそれは、本当に言わなくちゃいけないことだったんでしょうか、マイ・マザー?」と喉まで出掛かって、ぐっと呑み込む。自分が変わっているという自覚はあるのだ、一応。
「じゃあ、考えてみてね。おやすみなさい」
「はい、おやすみなさい」
電話を切った華子は、ちょうどとまっていたエレベーターに乗って一階のボタンを押した。
振り返れば、ずっと研究ばかりしてきた。大学で専攻した高分子化学は、化学や繊維、医療や電子産業、果ては航空宇宙分野まで、幅広い領域で活かされる技術だ。高分子が人類の発展に必要な資材となった今、研究に終わりなどない。
華子の母親はおっとりとした専業主婦で、父親は開業医。こちらも温和な人で、華子が高分子化学に傾倒することに理解もある。そんな両親を、研究に没頭するあまり『頼むからちゃんと就職してくれ』と泣かせたのは華子だ。ポスドクの給料は年々右肩下がり。いつまで経っても大学から離れず、ポスドクになったと思ったら、薄給の上に家のことはなにもしないパラサイト娘。いくら理解ある親でも泣きたくなるのは当然だ。
華子は大学院を出て、赤坂堂の美容科学研究所に就職するのと同時に独り暮らしをはじめたものの、結局、研究三昧の日々に戻っている。まぁ、ポスドク時代に比べると、給料はすこぶるいいのだが。今度は『いい加減にちゃんと結婚してくれ』と親を泣かせてしまうのも時間の問題だろう。さすがにそれは不本意だ。
(結婚……うーん……結婚、か……)
まったく考えたこともなかったので、正直唸ることしかできない。だが、母親の言う通り、結婚でもしなければ一生ひとりなのは間違いないだろう。自分の性格上、ずっとひとりでいることに抵抗はないし、親が泣くのを除いて別に困りもしない。じゃあ、結婚しない主義かというとそこまでのこだわりはない。結局華子は、研究ができればそれでいいのだ。
つまり、研究を続けても文句を言わない人が相手なら、結婚するのもやぶさかではないわけで。むしろ、研究以外の私生活の部分を支えてもらえたら――
(そう考えると、結婚はあり寄りのありですね。いいかもしれない。でも、男の人の知り合いはいるにはいますが全然親しくありませんし……。日常的に会う男の人って、職場にしかいないんですよねぇ)
つい先ほどまで一緒にいた所長をはじめとする、研究所の面々を思い浮かべてみる。
所長は既婚者なので対象外。他にも何人か既婚者がいた気もするが、今まで一度もそういう対象として見たことがなかったので確かなことはわからない。彼女持ちかすらも不明な有様なのだ。
相手の容姿や仕事、年収は気にしないから、フリーで、年はそう華子と変わらなくて、華子の仕事に理解があり、理系の話がそれなりに通じて、家事もひと通りこなしてくれる男の人がいい。
(男の人、男の人、誰か男の人――)
男のことばかり考えていると、エレベーター内に設置された大きな姿見がふと視界に入った。そこに映る自分を見て、なんとも言えない気持ちになる。
(それにしてもお母さん……わたしを可愛いっていうのはちょっと……)
コートの下は、白のTシャツにジーンズ。黒髪ストレートのひっつめに、顔には大きな瓶底丸眼鏡。おまけにすっぴん。持ち物は生成りのしょぼいトートバッグだ。女らしさなんかまるでない。正直なところ、ビーカーでコーヒーを飲んでいた研究員の阿久津とそう変わりない格好をしている。これを可愛いというのは、親の贔屓目というものだ。
清潔であれば見栄えなどどうでもいいという人間が、美容研究をしている様はなんとも言えない滑稽さがあるのかもしれないが、それはそれ。これはこれである。
華子が男性同僚達をそういう対象として見たことがないのと同様に、実験一筋できた男性同僚達の理系脳味噌が、毎日毎日同じ格好で出勤してくる華子をそういう対象として認識するはずもなく。華子は研究所の紅一点でありながらも、チヤホヤどころか〝女〟扱いされることもなく日々を過ごしてきたわけだ。それが気楽でもあったわけだが――
(職場で結婚のお相手を探すのは効率が悪い気がしますね)
既に華子に対象外のラベリングをしているであろう相手の意識を変えるのは、非常に困難だ。それに、男性同僚ひとりひとりに、「わたしは結婚しても研究を続けたいのですが、あなたの結婚対象になりますか?」とか「わたしの私生活も含めて支えてくれますか?」なんて聞いて回ったら、確実にヤバイ奴認定されてしまう。今後の仕事にも悪影響を及ぼしかねない。
もっと効率的に相手を見つけることができたら――
(そう言えば駅前に、結婚相談所がありましたね。えーっと、なんとかコネット!)
毎日利用する最寄り駅のビルに、結婚相談所の大きな看板があったこと思い出す。
煽り文句は〝最先端AIマッチングシステムが、あなたを想い、助け、寄り添ってくれるベストパートナーをご紹介します〟。
AIシステムは最近、至るところに導入されて、成果を上げていると聞く。なにより最先端なのがいい。好奇心がそそられる。
第一に、恋人いない歴=年齢の自分が、自力で結婚相手を探すなんてできるはずがない。そんなことができるなら、この二十九年の中でもう運命の出会いくらいとっくに果たしているはずだ。自力で出会える範囲などたかが知れているのだから、最新の科学の力に頼ったほうがいい出会いができるかもしれないではないか。
そもそも華子は、人を好きになったことがない。恋なんて、脳内麻薬のドーパミンがドバドバと馬鹿みたいに出て、セロトニンによる制御が効かなくなった一種の錯乱状態に過ぎない。人はその状態に、愛だの恋だのと詩的な名前をつけているのだ。つまり、「恋は盲目」や、「あばたもえくぼ」も全部脳内麻薬のせい。自分が錯乱状態になるなんて、ちょっと耐えられない! 華子がしたいのは、恋愛ではなく、結婚なのだ。
(うん! 手っ取り早く結婚相談所に相談することにしましょう! 我ながらナイスです!)
華子はスマートフォンを取り出すと、記憶に残っていた煽り文句を頼りに、その結婚相談所を検索した。見つけたぞ。〝フタリエコネット〟。
どうやら、平日の今日は二十時まで開いているらしい。
(早速登録しに行きましょう!)
一階に着いてエレベーターを降りた華子は、思い立ったが吉日とばかりに〝フタリエコネット〟の店舗に向かった。
◆ ◇ ◆
カチカチッ。快適な温度に設定された部屋に、マウスをダブルクリックする音が小さく響く。ノートパソコンの画面に表示されたグラフを見ながら、赤坂透真は口の端をニヤリと上げた。
(お。予想通り売り上げが上がってきたな。やっぱりサンプル配布プロモーションは、無料より有料に限る。対して、オフィス街で配ったサンプルのほうは、ほぼ購入に結びついてない。あー、もうこれ次からやめるように言おう。これならドラッグストアで配ったほうが、三倍はリターンがあるわ)
新規の顧客一人あたりを獲得するコストをプログラムに計算させながら、顧客の購入実態を探っていく。特に売り上げのいい商品とプロモーションをマークして、透真は顎を軽くさすった。
ここは大手化粧品メーカー、赤坂堂の本社ビルの一室だ。洗練されたデザインのワークデスクと応接セット、そして歴代社長の出版物が並ぶ本棚の横には、〝美はつくれる〟という社訓が額に入れて掲げられている。ひとりには広いこの部屋を、透真は使うことを許されていた。
透真は、赤坂堂の十五代目社長の息子だ。今はまだ執行役員だが、チーフ・ストラテジー・オフィサーいわゆるCSOとして、市場への商品供給計画や物流、品質の改革から戦略立案に関わっている。将来的にはもちろん、社長の座に君臨することが約束されている――と言いたいが、そこは株式会社。総会で一定の支持がなければ、いかに直系とはいえ会社のトップに立つことはできない。そのために誰にも有無を言わせぬ結果を残すべく、戦略を練る日々だ。
他の業界と比べて化粧品業界は、メーカーごとの好不調はあっても、バブル崩壊後も安定した伸び率を誇ってきた。要因は多々あるが、第一に、化粧品自体が経済の影響を受けにくいということが言えるだろう。多くの女性にとって、化粧品は必需品だ。不景気になれば女性が働きに出るから化粧品を使う機会が増え、その結果、低価格化粧品が売れる。いわゆる、プチプラコスメだ。収入が減った女性が商品ランクを落とすことはあっても、化粧品をまったく使わなくなることはない。反対に好景気になれば女性の収入が増え、今度は高級化粧品が売れるようになる。自分の髪や肌にかける金額が増えるのだ。
女性が美を追求する以上、そのサイクルが崩れることはない。価格や販売方法、プロモーションといったユーザーに対するアプローチは、数字になって返ってくる。数字が上がらないということは、他社との客の取り合いに負けたということだ。
(この俺が絶対に業界トップを取ってやる)
人体の運動理論に基づいて設計された高機能ワークチェアに身体を預けた透真は、伸びをするようにリクライニングした。くるっと椅子を半回転させ窓の外を見つめる。もう五月も終わりにさしかかり、会社の敷地内にある木々の新緑が清々しい。未来を感じさせる力強さがある。これから夏にかけて、化粧品の販売合戦は熾烈を極めることになる。
透真は仕事が好きだ。
赤坂堂は現在、化粧品業界で国内シェアナンバー2の座に甘んじている。これを国内シェアナンバー1にすることが透真の夢だ。そしてゆくゆくは、海外へ販路を広げたい。
化粧品のメインは、メイクアップと基礎化粧品だ。メイクアップに関しては、ファンデーションはA社、口紅はB社というふうに、複数のブランドを使ったり、季節によって使用するものを変えたりする女性は多い。特に今は、あらゆる年齢層でプチプラコスメの利用率がアップしている。
その一方で、化粧水や乳液といった基礎化粧品は、長年同じブランドを使い続けるケースがほとんどだ。ブランドチェンジが起こりにくいということは、一度気に入ってもらえれば継続購入が見込めるが、逆に言えば、他メーカーからシェアを奪うのは簡単ではないということでもある。
しかし売り上げで美味しいのは、基礎化粧品のほうなのだ。基礎化粧品の購入合計金額は、メイクアップ用品の二倍になるという現実がある。
つまり基礎化粧品のシェアを拡大することが、赤坂堂が業界ナンバー1になる近道であることはまず間違いない。
「――足りないんだよなぁ……なにかこう、決め手になるやつが欲しい。ガツンと女心を掴むやつ」
他メーカーからシェアを奪う決め手。起爆剤となり得るもの……
あらゆる女性に「欲しい!」と思わせる商品が、今の赤坂堂には必要なのだ。
透真が頭を悩ませていると、突然ドアがコンコンとノックされた。
腕時計に視線を走らせれば、もう定時の十八時を過ぎたところだ。赤坂堂では残業を推奨していないし、今日は誰かと会う予定もない。緊急案件なら内線が先にかかってくるはずなのに。
「どうぞ」
声をかけるのとほぼ同時に開いたドアに目をやると、入ってきたのは赤坂堂の現社長。透真の父親でもある敬之だった。白髪のまじった髪をオールバックにした敬之は、化粧品メーカーの社長らしく清潔感にあふれている。顔立ちも整っているが、六十五歳の割には肌艶もいい。腹も出ていなければ加齢臭など微塵もない。香るのは自社製品のフレグランスだ。フルオーダーのブランドスーツは似合いすぎて嫌味もない。さしずめ歩くダンディズムと言ったところか。
「社長。どうされたんですか?」
椅子から立ち上がりつつ敬語で尋ねる。いくら親子といえどもここは会社。甘えた態度は許されない。が、敬之は直立する透真を右手でまぁまぁと制した。
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