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1巻
1-2
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と、思っても言えない。榊は薫に対して、己の妻との距離で接しているだけなのだろう。離れてほしいだなんて言ったら、彼がまた悲しむのは目に見えている。
(よ、呼べは喜んでくれるのかな?)
薫はチラチラと榊を見ながら、緊張した唇を震わせた。
「た、崇弘……さん……」
緊張しすぎて小さな声になってしまった。ちゃんと聞こえただろうか? そう思って、様子を窺うように見ると、笑った榊――崇弘の顔があった。
(あ、……かわいい……)
彼が綺麗な人だというのはわかっていたのだが、笑顔はまた違った。青い瞳が見えなくなるほど目を細くして、白い歯を見せて笑っている。普段は王子様風なのに、この時ばかりは少年のように無邪気だった。
「嬉しいよ、薫。ありがとう!」
飾り気のない言葉だったが、そのぶん真っ直ぐに伝わってくる。彼の言葉が心に染み入るのと同時に自分の顔が熱くなっていくのを感じて、薫はさっと顔を背けた。だが崇弘は薫の頬を両手でむぎゅっと挟みこむと、やや強引に自分のほうを向かせる。
「じゃあ、もう一回言ってみようか。スムーズに言えるように練習」
「ええっ!? 練習!?」
「だってさっきは声が小さかったから」
まさかそんなことを言われるとは思ってもみなくて、薫が驚きに目を見開くと、崇弘はまた屈託なく笑った。
「呼んで」と、囁くような声でせがまれる。しかも息がかかりそうなほど近い。ただでさえ熱くなっていた顔が、茹でだこみたいに真っ赤になった。
「は……離して、ください……」
「駄目。また呼んでくれたら離してあげるよ」
(な、なんでぇ~)
薫は恥ずかしいのと緊張とで、視線が定まらない。まともに崇弘の顔を見ることができないのに、彼は視線を合わせようと顔を近づけてくる。しかも、両手で頬をむにむにと摘まんでくるのだ。これはもう、彼が納得するまで呼ぶしかないのかもしれない。
「はい。言ってみて」
「ひゃ~か~ひ~りょぉ~しゃぁん」
呼ぶ時に崇弘が頬をむにむにとするものだから、ちゃんと呼べない。
「プププ……もう一回」
「ひゃかひろ……もぉっ! 崇弘さんっ!」
崇弘の両手を払いのけて、はっきりと彼の名前を呼ぶ。すると崇弘は笑いながら薫を抱きしめてきた。面白がっていたのが丸わかりの彼に、素直に抱かれてやるのが癪で、プイッとそっぽを向く。けれども崇弘は薫の頭を優しく撫でるのだ。
「はは。ごめん、ごめん。薫があんまり可愛かったから、つい」
「……」
崇弘という存在をどう捉えればいいかわからない。可愛いと言われればドキドキして、こうやって抱きしめられると、彼のぬくもりと鼓動が身体に染み入ってくる。それが決して嫌ではないのだ。
(わたしは……記憶を失くす前、ずっとこうしてもらっていたのかな……?)
薫がそろそろと顔を上げるのとほぼ同時に、崇弘がポツリと呟いた。
「あぁ、やっぱり薫だ……。俺の薫だ……」
「愛おしい」という感情を隠そうともせずに、青い瞳が熱く見つめてくる。なぜかチクンと胸が痛んだ。崇弘が自分の中に別の誰かを探しているように感じたのだ。
崇弘の妻である薫――それは、他の誰でもない薫自身のことらしいが、まだその自覚は持てない。かといって崇弘を拒絶することも薫にはできない。
(早く記憶が戻ればいいのに)
そうすれば、崇弘を愛せるのだろうか。いや、彼を愛する気持ちを取り戻せるのだろうか――
「そうだ。ここで食べようと思って、コンビニで弁当を買ってきたんだった。薫も食事がきたんだね。じゃあ、一緒に食べようか?」
薫を離した崇弘は、気を取り直したように、買い物袋を開けはじめた。
崇弘のぬくもりが離れたことに、五分の安堵と五分の寂しさを感じながら薫は平静を装う。
(さ、寂しい? そんなはずは……。きっとまだ動揺してるのよ)
「あ、はい。一緒に食べましょう。あの、ところでお仕事は大丈夫でしたか?」
会社から電話がかかってきていたことが気になって聞くと、彼は「大丈夫だよ」と頷いた。
「さすがに今日明日は休みを取るよ。土日は元から休みだけど、月曜からは出勤になると思う」
「すみません……休ませてしまって……」
申し訳なさに拍車がかかる。肩を縮こまらせながら俯けば、崇弘がまた宥めてくれた。
「自分の奥さんが怪我をしたんだ。こんな状態の時くらい、休んだってばちは当たらないはずだろ? 薫、俺は君を支えたい。側にいたいんだ。これは俺の意思だから、君が謝るようなことじゃない。――あ、これ。コンビニで適当に買ってみた。よかったら使って」
袋ごと受け取り中身を見る。中には一泊二日用と銘打ったメイク落とし入りスキンケア商品と、旅行用ミニボトルのシャンプーとリンスのセット。それからショーツが入っているではないか。
「~~~~っ!」
男の人に女性用の下着を買わせてしまったことが、申し訳なくて恥ずかしくて堪らない。でもとても助かったことは事実だった。
「あ、ありがとうございます……」
「退院の時に着る服は明日持ってくるよ」
「あ、は、はい」
崇弘は自分の膝の上で弁当を開けた。彼が買ってきたのは、タルタルソースがたっぷり乗った白身魚のフライ入りの海苔弁だ。薫の病院食は、五穀ごはん、ほうれん草のお浸し、高野豆腐と野菜のごま酢和え、オクラソースが乗ったマグロのステーキ、そしてわかめと麩の味噌汁だ。
「冷めちゃったかな? 食べようか。いただきます」
手を合わせて、それぞれの料理に箸を伸ばす。だが、もともとあまりお腹が空いていなかった薫は、お味噌汁を一口と、五穀ごはんを一口食べただけで手を止めた。
マグロのステーキには惹かれるのだが、どうも完食できる気がしない。
「どうした? 食べないの?」
「点滴のせいかなとは思うんですが、実はあまりお腹が空いてなくて……」
正直にそう打ち明けると、崇弘は手の甲で薫の頬をそっと撫でてきた。
「無理はしなくていいけれど、もう少し食べなさい。点滴だけで身体にいいはずはないんだから」
「……はい」
優しく叱ってもらえたのがなぜか嬉しい。両親が他界してから、こんなふうに薫を叱ってくれる人がいなくなっていたからかもしれない。
「もう少し食べます」
「ん。よし、俺が食べさせてあげよう」
崇弘は薫の箸を取り上げると、ほうれん草のお浸しを一口分、口の前まで持ってきた。
「はい、あーん」
「え……えと……あの……」
「ほら、早く食べて。醤油が零れる!」
困惑しているうちに急かされて、薫は慌てて口を開けた。しゃきしゃきした歯ごたえを味わいながら咀嚼すると、崇弘が満足そうに頷いて次の料理を口に運んでこようとするではないか。
「も、もう……自分で食べられますから……。崇弘さんはご自分のを……」
と言ってみたのだが、彼はちっとも箸を返してくれない。
「俺のことは気にしないで。はい、あーん」
(ううう……恥ずかしいよぉ……)
誰が見ているわけでもないのだが、人にものを食べさせてもらっているという絵面がどうにも恥ずかしい。それに、記憶も戻っていないくせに、崇弘に甘えてもいいものなのだろうか? だが当の崇弘は、薫が食べるととても嬉しそうににこにこしている。
彼が悲しい顔をせずに笑ってくれるのなら、お腹いっぱいでも食べたほうがいいのかもしれない、という気になってくるから不思議だ。でも、どうすれば彼が一番喜んでくれるか、薫はわかっていた。
(早く崇弘さんのことを――この一年のことを、全部思い出さなきゃ!)
結局薫は、崇弘に勧められるがまま、この日の夕食を全部食べたのだった。
2
翌日。朝食が終わった九時前に崇弘は病室にやってきた。昨日はスーツだった彼も、今日は長袖のシャツにスラックスというラフな出で立ちだ。手には紙袋が二つある。
「おはよう、薫。どう? 具合は」
「た、崇弘さん。お、おはようございます」
薫は近づいてきた崇弘を十秒ほどじっと見つめて、視線を下げた。
「……ごめんなさい……わたし、まだ思い出せていません……」
医師が「事故による記憶障害はだいたい二、三日で回復することが多い」と言ったから、昨日の夜はそれを期待して眠った。しかし、朝目覚めてからも変化はまったくなかった。崇弘の顔を見れば何か思い出すかもしれないと思ったのだが、どうやらそれもなかったようだ。
謝る薫に、崇弘は優しく微笑みかけてきた。
「いいんだよ、薫。気にしないで」
近くに来た彼は、うなだれる薫の頭を何度も何度もゆっくりと撫でてくれる。その心地よさに誘われるように顔を上げれば、青い瞳が蕩けそうなほど優しい眼差しで見つめていた。彼があまりにも素敵で、その視線を正面から受けるのが恥ずかしくなってしまう。薫は慌てて目を伏せた。
「包帯、取れたんだね」
頭に巻かれていた包帯は、昨日のシャワーの前に、看護師に取ってもらった。今は縫った傷口に肌色のテープが貼られている。それを伝えると、彼は「よかった」と言って、持っていた紙袋を手渡した。
「はい、服。こっちは靴ね」
「あ、ありがとうございます」
薫が受け取ると、彼は壁時計に目をやった。
「九時から会計が開くって聞いてるから、ちょっと行ってくるよ」
入院費の支払いに行くつもりなのだろう。この時になって薫は慌てた。薫には持ち合わせがない。事故に遭った時に鞄を持っていたらしいのだが、「スマホのバッテリーも切れているし、明日の退院の時の荷物を減らすために持って帰るよ」と崇弘に言われたから、貴重品も含めて全部彼に預けていたのだ。
「あ、あの……お金……」
「薫。俺達は結婚してるから、財布は一緒だよ。何も気にしなくていいの」
そう当たり前のように言われても、はいそうですかと素直に受け入れられない。それは薫が結婚したという事実をきちんと受け止めきれていない証拠でもあった。
落ち着かない気はしながらも、薫は頷いた。
「……はい……。ありがとうございます」
「ん。じゃあ、行ってくるね。終わったらまた来るから、着替えておいて」
「はい。わかりました」
ひとりになった薫はベッド周りにカーテンを引くと、崇弘から受け取った紙袋を開けた。カーキ色で七分袖のカットソーと、足首まで長さのある白のロングスカートが一番上に乗っている。
(わぁ……コーディネートしてきてくれたのかな)
この服に見覚えはないが、柔軟剤の匂いがするから新品というわけではなさそうだ。
仕事の時にパンツスタイルだからと、休日はスカートで過ごすことが多かった。一年経ってもそう急に趣味は変わるものでもないのだろう。これは自分でも選びそうな服ではある。服の下には、茶色の紙袋が入っていた。
開けてみると、中には白地にピンクの花柄のブラジャーと、セットのショーツ、更にはレースのキャミソールが入っていた。
「こ、れ……わたしの……?」
薫は一気に赤面した。
躊躇いながらもブラのタグを見ると、サイズはCの70。薫と同じだ。昨日、コンビニで買ったと思しきショーツがパッケージに入ったまま渡されたことを考えれば、これらは崇弘が家から持ってきてくれたのだろう。つまり、記憶喪失になる前の薫が使っていた衣類ということになる。
(……可愛い路線を選ぶあたり、わたしっぽいチョイス……な、気がする……)
薫は衣類に強いこだわりがあるわけではないが、なんとなく買った物でもテイストが似通っていることが多々ある。こと下着に関して言えば、白やピンクといった可愛い系を買っていた。ショーツとセット買いするのも常だ。
夫婦なんだと言われても、まだ実感が持てていない崇弘に下着類まで用意されることに対して、どんな反応をすればいいのだろう? 助かってはいるが、恥ずかしくて仕方がない。
着替えてみれば、当然のことのように、サイズはジャストフィット。もう一つの紙袋から薄茶色のミュールを出して履けば、これまたピッタリだ。
(これ、全部わたしのなんだろうなぁ……まったく覚えがないけれど……)
今まで着ていた病院着を畳んだ薫は、カーテンを開けてベッドに腰を下ろした。
「はぁ……」
思わずため息が零れてしまう。昨日から何度ため息をついたことか。
早く思い出したい。思い出して崇弘と向き合えたならどんなにいいだろう。彼がくれる愛情と微笑みを、罪悪感というフィルターを通さずに感じることができたらいいのに……
(いつ、思い出せるんだろ……明日? 明後日?)
薫がまたため息をつきそうになった時、病室のドアがノックされた。
入ってきたのは崇弘と、薫の主治医だ。
「先生とさっきそこで会ったんだ」
と崇弘が言った。
「榊さん、どうです? 調子は」
医師の言う「榊さん」が、誰のことがわからずに、一瞬、キョトンとしてしまった。だが、彼が自分から視線を外さないことで「あぁ、榊さんはわたしだったわ」と気付く。思わず苦笑いしながら、薫は首を横に振った。
「まだ……まったく……思い出せないです……」
医師は「そうですか」と、言いながら自分の顎をさすった。
「まぁ、昨日の今日ですからね。自宅に帰るというのも一つの刺激にはなります。でもそこで思い出せなかったとしても気落ちしないでください。まずは今までと同じ生活をすること。そうしていくうちに、自然と思い出せるかもしれません。仮に思い出せなくても、日常生活には復帰できます。くれぐれも無理やり思い出そうだなんてしないように。不安や気になることがあれば、病院に来てください。脳外科的には問題がないので、最終的に心理カウンセリングという形になりますが、ご相談には乗れますから」
(今までと同じ生活――か……)
簡単に言われても、結婚している時の生活がわからないのだが――それを医師に言っても仕方がないだろう。薫は丁寧に頭を下げた。
「先生。ありがとうございます。何かあったら相談させてください」
「ええ。旦那さんが本当にいい方ですから、榊さんは大丈夫だと私は思っていますよ」
医師がそう言って隣の崇弘を見る。彼は医師に向き直って頭を下げた。
「妻がお世話になりました。しばらく家で様子を見てみます」
「そうしてください。では私はこれで。おふたりとも車には気を付けてくださいね」
車に撥ねられたことすら忘れている薫に対する、注意だろうか。でも、頭をぶつけて記憶喪失になったのなら、もう一度頭を打ちつければ元に戻ったりはしないだろうか?
(電化製品じゃあるまいし、叩けば治るなんてことはない、か)
それよりも、悪化することだって充分あり得る。医師が、無理やり思い出そうとしないようにと言ってくれたのは、そんな馬鹿なことをしないようにという意味だろう。
「じゃあ、行こうか」
促されて、薫は崇弘と共に病室を出た。
外に出ると、むわっと湿った熱気を感じる。梅雨入りを目前にして湿度が急上昇しているようだ。
歩きながら、半歩先を歩く崇弘を見る。彼は薫の頭一つ分背が高く、しっかりとした肩幅でとても堂々としている。サラサラした金髪が本当に綺麗で見惚れてしまいそうだ。
(この人がわたしの旦那様……? 本当に? まだ信じられないよ……)
彼と一緒に歩くには、自分があまりにも平凡で釣り合わない気がする。
「どうしたの薫? おいで」
「えっ、あっ……」
自分でも知らぬ間に歩調が遅くなっていたようだ。崇弘を見つめてぼーっとしていたなんて言えない。
差し出された彼の手に、恐る恐る自分の手を乗せた。
「すみません……歩くの遅くて……」
「いいや。大丈夫だよ」
再び歩き出した崇弘は、今度は少しゆっくりと歩いてくれた。
彼は車で迎えに来てくれたそうで、病院の駐車場に止まっているベンツのクーペへ案内された。シルバーの右ハンドル仕様。銀色のエンブレムが輝かしくて、崇弘に似合っている気がした。
「さ、乗って」
「お、お邪魔します……」
上質な本革シートに恐々としながら腰を下ろすと、崇弘は苦笑いする。
「うちの車だからそんなに緊張しなくて大丈夫」
(たぶん何度も乗ったことあるんだろうけど、覚えてないし……)
ぎこちなくシートベルトを着けてみるが、やっぱり覚えはない。
仕事柄、顧客の家に行く時には自分で車を運転していた薫だが、乗っていたのは掃除道具を積んだ会社のワンボックスカーだ。記憶にある中で、こんな高級車に乗ったことはない。
怪訝な顔できょろきょろと辺りを見回していると、エンジンがかかった。
「さ、帰ろうか」
「はい」と返事をしたものの、薫はふとあることに気が付いた。
「あの! 帰るってどこへ、ですかっ!?」
ガバッと腕を掴んできた薫に、崇弘は驚いたのか目を見開く。だが、次の瞬間には薫の両手を包むように握ってきた。
「薫。帰るのは俺達の家だ。結婚したから、一緒に住んでいる。ほら、君も仕事で来たろう? あのマンションだよ」
結婚したことは昨日聞いていたし、今朝はこうやって服まで持ってきてもらったくせに、一緒に住んでいることまではとんと考えが及ばなかった。崇弘のマンションといえば、あの豪邸のような三十三階建てのマンションではないか。薫は半ばパニックに陥っていた。
「え? えっ? わたしが住んでたアパートは?」
「引き払ってるよ」
「えーーっ!? ひ、引き払った!? お父さんとお母さんの位牌は!? 和志の荷物だってあるのに!!」
ジタバタして叫ぶ薫を前にして、崇弘は握った手をポンポンと優しく叩いてくる。
「薫。薫。心配しないで。ご両親の位牌も、和志くんの荷物も全部うちにあるから」
「えっ? えっ?」
「薫、ちょっと落ち着こうか」
目を白黒させる薫の背中をよしよしとさすって、崇弘は一旦車のエンジンを止め、シートベルトを外した。車内に沈黙が訪れ、彼の優しい声が響く。
「落ち着いた?」
「ま、まだ……ちょっと混乱しています……」
本当はだいぶ、かなり、激しく混乱していたのだが、そう言うしかない。崇弘は「うーん」と悩ましい声で天井を仰いだ。
「俺と結婚したことはわかってくれたみたいだったから、一緒に住んでいることもわかってくれていると思っていたんだけど違ったんだな。ごめん。昨日、もっとよく説明すればよかったね」
「いや……スミマセン……その……」
(ううう……わたし、まだ頭が混乱してるのかな……)
昨日は与えられた情報を呑み込むのに精一杯で、きちんと理解することにまで及んでいなかったようだ。
崇弘は薫に向き直り、少し微笑んでくれた。
「俺らはごく普通の夫婦だったよ。だからもちろん一緒に暮らしてる。愛し合ってて……まあ俺のほうが惚れてるんだけど。付き合うのも俺から告白したし、プロポーズももちろん俺からだった。俺は誰とも結婚する気はなかったんだけど、薫と出会ったら止まらなくて。押して押して押してのスピード結婚」
崇弘のような人に迫られる自分がとても想像できない。呆気に取られていると、彼は薫の背中に両手を回し、ぎゅうっと抱きしめてきた。
「君が俺を忘れても、俺は君を覚えてるし、愛してる。君がいない人生なんて考えられないんだ」
耳元で囁かれて、顔どころか首筋や両手のひらまで真っ赤になる。崇弘は流し目で薫を見つめると、鼻先でツンと頬を突いてきた。
「あ……えと……」
「ふふ。さて、帰ろうか。俺の可愛い奥様。家でお茶でも飲みながら話そう」
「えと、えっと、帰る? ですか――」
崇弘の言うことはもっともなのかもしれないが、未だ混乱の最中にいる薫はオタオタしてばかりだ。崇弘はあやすように薫の頭を撫でると、自分のシートベルトを着けて車のエンジンをかけた。
「はい、出発」
崇弘の楽しそうな声と共に、車は滑らかに走りだしたのだった。
三十分ほど車を走らせて到着したのは、見覚えのある三十三階建てのマンションだった。たった一年で街が大きく様変わりするはずもなく、ここに来るまでの道中は記憶に新しい。
(当然だよね……わたしにしてみたら、つい数日前にここに来た感じなんだし……)
とはいえ、覚えのない建物もあった。マンションの徒歩圏内に二十四時間営業の大きなスーパーができていたのだ。これは半年ほど前にできたらしい。そう崇弘が教えてくれた。
来たことがあるマンションではあるが、記憶の中ではそれも二度だけ。乗り込んだエレベーターも、言葉にはできない微妙な差異がある気がして落ち着かない。
このマンションはワンフロアにつき一世帯しかなく、全体的に静かだ。
「はい。ここが我が家だよ」
そう言って案内されたのは二階の部屋。まるで金庫のような両開きの玄関ドアが、ピッという電子音を立ててカードキーで解錠される。ホテル以外でカードキーを見たことがない薫は、思わず、「ホテルみたい」と口に出していた。
「あはは! それ、前も言ってたよ。やっぱり薫は薫だね」
崇弘は軽快に笑うと、玄関を開けて薫を中に入れてくれた。空調が効いているのか、外とは違い 湿っぽさがない。
「わ……」
玄関というより、玄関ホールをイメージさせる高い天井。床は白大理石。壁紙も、天井まで続くはめ込み型の靴箱の戸も白くて、目が眩む。掃除するところなんてないんじゃないかと思ってしまうほど、綺麗に整えられた玄関である。おまけに広い。薫と和志が住んでいたボロアパートの玄関のざっと五倍以上の広さがある。この印象は、初めて来た時と同じだ。
「あ、相変わらずすごいですね……」
「そうかなぁ? 普通……っていう感じなんだけど。毎日見てるとわからないな」
そう彼は屈託ない笑みで言うが、断言しよう。彼の感覚は麻痺している。戸建てでもこんなに広い玄関はそうそうない。
(玄関だけじゃなくて中も広いんだよなぁ……ここ)
中に入ったことは一度しかないが、広さはよく覚えている。何せ掃除するのが一苦労だったから。依頼されたのは玄関、リビング、ダイニング、キッチンのフローリング洗浄とワックスがけ。依頼内容は普通なのだが、もうひとりの女性スタッフとふたりがかりで、一般的な住宅なら四時間くらいで終わるところを、六時間もかかってしまったのだ。
時間はかかったが、崇弘は仕事を気に入ったらしく、また利用すると言ってくれた。
「さ、薫。入って」
「お、お邪魔します……」
促され、おずおずとミュールを脱ぐと、先に上がっていた崇弘がまた笑った。
「薫。『ただいま』だろう?」
「あ……」
薫自身にはここに住んでいた記憶はなくても、崇弘にとっては違う。彼にとって、ここは奥さんとふたりで住んでいた家で、そして入院していた奥さんが帰ってきたのだ。更に言うと、その奥さんは、自分。
奇妙な感じはしたものの、薫は小さな声で「ただいま」と言ってみた。
「ん。おかえり」
出してもらったスリッパを履いて中に入る。玄関ホールの突き当たりで廊下が左右にわかれており、左手がリビング、ダイニング、キッチンだ。そこまでは知っている。薫は右手の廊下には進んだことがない。
崇弘の背中を追って、薫はリビングへと足を踏み入れた。
そこは記憶と大差ない、広々とした開放的なリビングだった。明るいナチュラルトーンのカラーリングで揃えられたL字のソファー周り。壁側には大型テレビが置かれ、大きなワインセラーもある。海が見える南側の窓からは、心地よい光が降り注いでいた。
少し家具が様変わりしたようにも感じるが、どこが変わったかまではわからない。
(……思い出せるかな……?)
(よ、呼べは喜んでくれるのかな?)
薫はチラチラと榊を見ながら、緊張した唇を震わせた。
「た、崇弘……さん……」
緊張しすぎて小さな声になってしまった。ちゃんと聞こえただろうか? そう思って、様子を窺うように見ると、笑った榊――崇弘の顔があった。
(あ、……かわいい……)
彼が綺麗な人だというのはわかっていたのだが、笑顔はまた違った。青い瞳が見えなくなるほど目を細くして、白い歯を見せて笑っている。普段は王子様風なのに、この時ばかりは少年のように無邪気だった。
「嬉しいよ、薫。ありがとう!」
飾り気のない言葉だったが、そのぶん真っ直ぐに伝わってくる。彼の言葉が心に染み入るのと同時に自分の顔が熱くなっていくのを感じて、薫はさっと顔を背けた。だが崇弘は薫の頬を両手でむぎゅっと挟みこむと、やや強引に自分のほうを向かせる。
「じゃあ、もう一回言ってみようか。スムーズに言えるように練習」
「ええっ!? 練習!?」
「だってさっきは声が小さかったから」
まさかそんなことを言われるとは思ってもみなくて、薫が驚きに目を見開くと、崇弘はまた屈託なく笑った。
「呼んで」と、囁くような声でせがまれる。しかも息がかかりそうなほど近い。ただでさえ熱くなっていた顔が、茹でだこみたいに真っ赤になった。
「は……離して、ください……」
「駄目。また呼んでくれたら離してあげるよ」
(な、なんでぇ~)
薫は恥ずかしいのと緊張とで、視線が定まらない。まともに崇弘の顔を見ることができないのに、彼は視線を合わせようと顔を近づけてくる。しかも、両手で頬をむにむにと摘まんでくるのだ。これはもう、彼が納得するまで呼ぶしかないのかもしれない。
「はい。言ってみて」
「ひゃ~か~ひ~りょぉ~しゃぁん」
呼ぶ時に崇弘が頬をむにむにとするものだから、ちゃんと呼べない。
「プププ……もう一回」
「ひゃかひろ……もぉっ! 崇弘さんっ!」
崇弘の両手を払いのけて、はっきりと彼の名前を呼ぶ。すると崇弘は笑いながら薫を抱きしめてきた。面白がっていたのが丸わかりの彼に、素直に抱かれてやるのが癪で、プイッとそっぽを向く。けれども崇弘は薫の頭を優しく撫でるのだ。
「はは。ごめん、ごめん。薫があんまり可愛かったから、つい」
「……」
崇弘という存在をどう捉えればいいかわからない。可愛いと言われればドキドキして、こうやって抱きしめられると、彼のぬくもりと鼓動が身体に染み入ってくる。それが決して嫌ではないのだ。
(わたしは……記憶を失くす前、ずっとこうしてもらっていたのかな……?)
薫がそろそろと顔を上げるのとほぼ同時に、崇弘がポツリと呟いた。
「あぁ、やっぱり薫だ……。俺の薫だ……」
「愛おしい」という感情を隠そうともせずに、青い瞳が熱く見つめてくる。なぜかチクンと胸が痛んだ。崇弘が自分の中に別の誰かを探しているように感じたのだ。
崇弘の妻である薫――それは、他の誰でもない薫自身のことらしいが、まだその自覚は持てない。かといって崇弘を拒絶することも薫にはできない。
(早く記憶が戻ればいいのに)
そうすれば、崇弘を愛せるのだろうか。いや、彼を愛する気持ちを取り戻せるのだろうか――
「そうだ。ここで食べようと思って、コンビニで弁当を買ってきたんだった。薫も食事がきたんだね。じゃあ、一緒に食べようか?」
薫を離した崇弘は、気を取り直したように、買い物袋を開けはじめた。
崇弘のぬくもりが離れたことに、五分の安堵と五分の寂しさを感じながら薫は平静を装う。
(さ、寂しい? そんなはずは……。きっとまだ動揺してるのよ)
「あ、はい。一緒に食べましょう。あの、ところでお仕事は大丈夫でしたか?」
会社から電話がかかってきていたことが気になって聞くと、彼は「大丈夫だよ」と頷いた。
「さすがに今日明日は休みを取るよ。土日は元から休みだけど、月曜からは出勤になると思う」
「すみません……休ませてしまって……」
申し訳なさに拍車がかかる。肩を縮こまらせながら俯けば、崇弘がまた宥めてくれた。
「自分の奥さんが怪我をしたんだ。こんな状態の時くらい、休んだってばちは当たらないはずだろ? 薫、俺は君を支えたい。側にいたいんだ。これは俺の意思だから、君が謝るようなことじゃない。――あ、これ。コンビニで適当に買ってみた。よかったら使って」
袋ごと受け取り中身を見る。中には一泊二日用と銘打ったメイク落とし入りスキンケア商品と、旅行用ミニボトルのシャンプーとリンスのセット。それからショーツが入っているではないか。
「~~~~っ!」
男の人に女性用の下着を買わせてしまったことが、申し訳なくて恥ずかしくて堪らない。でもとても助かったことは事実だった。
「あ、ありがとうございます……」
「退院の時に着る服は明日持ってくるよ」
「あ、は、はい」
崇弘は自分の膝の上で弁当を開けた。彼が買ってきたのは、タルタルソースがたっぷり乗った白身魚のフライ入りの海苔弁だ。薫の病院食は、五穀ごはん、ほうれん草のお浸し、高野豆腐と野菜のごま酢和え、オクラソースが乗ったマグロのステーキ、そしてわかめと麩の味噌汁だ。
「冷めちゃったかな? 食べようか。いただきます」
手を合わせて、それぞれの料理に箸を伸ばす。だが、もともとあまりお腹が空いていなかった薫は、お味噌汁を一口と、五穀ごはんを一口食べただけで手を止めた。
マグロのステーキには惹かれるのだが、どうも完食できる気がしない。
「どうした? 食べないの?」
「点滴のせいかなとは思うんですが、実はあまりお腹が空いてなくて……」
正直にそう打ち明けると、崇弘は手の甲で薫の頬をそっと撫でてきた。
「無理はしなくていいけれど、もう少し食べなさい。点滴だけで身体にいいはずはないんだから」
「……はい」
優しく叱ってもらえたのがなぜか嬉しい。両親が他界してから、こんなふうに薫を叱ってくれる人がいなくなっていたからかもしれない。
「もう少し食べます」
「ん。よし、俺が食べさせてあげよう」
崇弘は薫の箸を取り上げると、ほうれん草のお浸しを一口分、口の前まで持ってきた。
「はい、あーん」
「え……えと……あの……」
「ほら、早く食べて。醤油が零れる!」
困惑しているうちに急かされて、薫は慌てて口を開けた。しゃきしゃきした歯ごたえを味わいながら咀嚼すると、崇弘が満足そうに頷いて次の料理を口に運んでこようとするではないか。
「も、もう……自分で食べられますから……。崇弘さんはご自分のを……」
と言ってみたのだが、彼はちっとも箸を返してくれない。
「俺のことは気にしないで。はい、あーん」
(ううう……恥ずかしいよぉ……)
誰が見ているわけでもないのだが、人にものを食べさせてもらっているという絵面がどうにも恥ずかしい。それに、記憶も戻っていないくせに、崇弘に甘えてもいいものなのだろうか? だが当の崇弘は、薫が食べるととても嬉しそうににこにこしている。
彼が悲しい顔をせずに笑ってくれるのなら、お腹いっぱいでも食べたほうがいいのかもしれない、という気になってくるから不思議だ。でも、どうすれば彼が一番喜んでくれるか、薫はわかっていた。
(早く崇弘さんのことを――この一年のことを、全部思い出さなきゃ!)
結局薫は、崇弘に勧められるがまま、この日の夕食を全部食べたのだった。
2
翌日。朝食が終わった九時前に崇弘は病室にやってきた。昨日はスーツだった彼も、今日は長袖のシャツにスラックスというラフな出で立ちだ。手には紙袋が二つある。
「おはよう、薫。どう? 具合は」
「た、崇弘さん。お、おはようございます」
薫は近づいてきた崇弘を十秒ほどじっと見つめて、視線を下げた。
「……ごめんなさい……わたし、まだ思い出せていません……」
医師が「事故による記憶障害はだいたい二、三日で回復することが多い」と言ったから、昨日の夜はそれを期待して眠った。しかし、朝目覚めてからも変化はまったくなかった。崇弘の顔を見れば何か思い出すかもしれないと思ったのだが、どうやらそれもなかったようだ。
謝る薫に、崇弘は優しく微笑みかけてきた。
「いいんだよ、薫。気にしないで」
近くに来た彼は、うなだれる薫の頭を何度も何度もゆっくりと撫でてくれる。その心地よさに誘われるように顔を上げれば、青い瞳が蕩けそうなほど優しい眼差しで見つめていた。彼があまりにも素敵で、その視線を正面から受けるのが恥ずかしくなってしまう。薫は慌てて目を伏せた。
「包帯、取れたんだね」
頭に巻かれていた包帯は、昨日のシャワーの前に、看護師に取ってもらった。今は縫った傷口に肌色のテープが貼られている。それを伝えると、彼は「よかった」と言って、持っていた紙袋を手渡した。
「はい、服。こっちは靴ね」
「あ、ありがとうございます」
薫が受け取ると、彼は壁時計に目をやった。
「九時から会計が開くって聞いてるから、ちょっと行ってくるよ」
入院費の支払いに行くつもりなのだろう。この時になって薫は慌てた。薫には持ち合わせがない。事故に遭った時に鞄を持っていたらしいのだが、「スマホのバッテリーも切れているし、明日の退院の時の荷物を減らすために持って帰るよ」と崇弘に言われたから、貴重品も含めて全部彼に預けていたのだ。
「あ、あの……お金……」
「薫。俺達は結婚してるから、財布は一緒だよ。何も気にしなくていいの」
そう当たり前のように言われても、はいそうですかと素直に受け入れられない。それは薫が結婚したという事実をきちんと受け止めきれていない証拠でもあった。
落ち着かない気はしながらも、薫は頷いた。
「……はい……。ありがとうございます」
「ん。じゃあ、行ってくるね。終わったらまた来るから、着替えておいて」
「はい。わかりました」
ひとりになった薫はベッド周りにカーテンを引くと、崇弘から受け取った紙袋を開けた。カーキ色で七分袖のカットソーと、足首まで長さのある白のロングスカートが一番上に乗っている。
(わぁ……コーディネートしてきてくれたのかな)
この服に見覚えはないが、柔軟剤の匂いがするから新品というわけではなさそうだ。
仕事の時にパンツスタイルだからと、休日はスカートで過ごすことが多かった。一年経ってもそう急に趣味は変わるものでもないのだろう。これは自分でも選びそうな服ではある。服の下には、茶色の紙袋が入っていた。
開けてみると、中には白地にピンクの花柄のブラジャーと、セットのショーツ、更にはレースのキャミソールが入っていた。
「こ、れ……わたしの……?」
薫は一気に赤面した。
躊躇いながらもブラのタグを見ると、サイズはCの70。薫と同じだ。昨日、コンビニで買ったと思しきショーツがパッケージに入ったまま渡されたことを考えれば、これらは崇弘が家から持ってきてくれたのだろう。つまり、記憶喪失になる前の薫が使っていた衣類ということになる。
(……可愛い路線を選ぶあたり、わたしっぽいチョイス……な、気がする……)
薫は衣類に強いこだわりがあるわけではないが、なんとなく買った物でもテイストが似通っていることが多々ある。こと下着に関して言えば、白やピンクといった可愛い系を買っていた。ショーツとセット買いするのも常だ。
夫婦なんだと言われても、まだ実感が持てていない崇弘に下着類まで用意されることに対して、どんな反応をすればいいのだろう? 助かってはいるが、恥ずかしくて仕方がない。
着替えてみれば、当然のことのように、サイズはジャストフィット。もう一つの紙袋から薄茶色のミュールを出して履けば、これまたピッタリだ。
(これ、全部わたしのなんだろうなぁ……まったく覚えがないけれど……)
今まで着ていた病院着を畳んだ薫は、カーテンを開けてベッドに腰を下ろした。
「はぁ……」
思わずため息が零れてしまう。昨日から何度ため息をついたことか。
早く思い出したい。思い出して崇弘と向き合えたならどんなにいいだろう。彼がくれる愛情と微笑みを、罪悪感というフィルターを通さずに感じることができたらいいのに……
(いつ、思い出せるんだろ……明日? 明後日?)
薫がまたため息をつきそうになった時、病室のドアがノックされた。
入ってきたのは崇弘と、薫の主治医だ。
「先生とさっきそこで会ったんだ」
と崇弘が言った。
「榊さん、どうです? 調子は」
医師の言う「榊さん」が、誰のことがわからずに、一瞬、キョトンとしてしまった。だが、彼が自分から視線を外さないことで「あぁ、榊さんはわたしだったわ」と気付く。思わず苦笑いしながら、薫は首を横に振った。
「まだ……まったく……思い出せないです……」
医師は「そうですか」と、言いながら自分の顎をさすった。
「まぁ、昨日の今日ですからね。自宅に帰るというのも一つの刺激にはなります。でもそこで思い出せなかったとしても気落ちしないでください。まずは今までと同じ生活をすること。そうしていくうちに、自然と思い出せるかもしれません。仮に思い出せなくても、日常生活には復帰できます。くれぐれも無理やり思い出そうだなんてしないように。不安や気になることがあれば、病院に来てください。脳外科的には問題がないので、最終的に心理カウンセリングという形になりますが、ご相談には乗れますから」
(今までと同じ生活――か……)
簡単に言われても、結婚している時の生活がわからないのだが――それを医師に言っても仕方がないだろう。薫は丁寧に頭を下げた。
「先生。ありがとうございます。何かあったら相談させてください」
「ええ。旦那さんが本当にいい方ですから、榊さんは大丈夫だと私は思っていますよ」
医師がそう言って隣の崇弘を見る。彼は医師に向き直って頭を下げた。
「妻がお世話になりました。しばらく家で様子を見てみます」
「そうしてください。では私はこれで。おふたりとも車には気を付けてくださいね」
車に撥ねられたことすら忘れている薫に対する、注意だろうか。でも、頭をぶつけて記憶喪失になったのなら、もう一度頭を打ちつければ元に戻ったりはしないだろうか?
(電化製品じゃあるまいし、叩けば治るなんてことはない、か)
それよりも、悪化することだって充分あり得る。医師が、無理やり思い出そうとしないようにと言ってくれたのは、そんな馬鹿なことをしないようにという意味だろう。
「じゃあ、行こうか」
促されて、薫は崇弘と共に病室を出た。
外に出ると、むわっと湿った熱気を感じる。梅雨入りを目前にして湿度が急上昇しているようだ。
歩きながら、半歩先を歩く崇弘を見る。彼は薫の頭一つ分背が高く、しっかりとした肩幅でとても堂々としている。サラサラした金髪が本当に綺麗で見惚れてしまいそうだ。
(この人がわたしの旦那様……? 本当に? まだ信じられないよ……)
彼と一緒に歩くには、自分があまりにも平凡で釣り合わない気がする。
「どうしたの薫? おいで」
「えっ、あっ……」
自分でも知らぬ間に歩調が遅くなっていたようだ。崇弘を見つめてぼーっとしていたなんて言えない。
差し出された彼の手に、恐る恐る自分の手を乗せた。
「すみません……歩くの遅くて……」
「いいや。大丈夫だよ」
再び歩き出した崇弘は、今度は少しゆっくりと歩いてくれた。
彼は車で迎えに来てくれたそうで、病院の駐車場に止まっているベンツのクーペへ案内された。シルバーの右ハンドル仕様。銀色のエンブレムが輝かしくて、崇弘に似合っている気がした。
「さ、乗って」
「お、お邪魔します……」
上質な本革シートに恐々としながら腰を下ろすと、崇弘は苦笑いする。
「うちの車だからそんなに緊張しなくて大丈夫」
(たぶん何度も乗ったことあるんだろうけど、覚えてないし……)
ぎこちなくシートベルトを着けてみるが、やっぱり覚えはない。
仕事柄、顧客の家に行く時には自分で車を運転していた薫だが、乗っていたのは掃除道具を積んだ会社のワンボックスカーだ。記憶にある中で、こんな高級車に乗ったことはない。
怪訝な顔できょろきょろと辺りを見回していると、エンジンがかかった。
「さ、帰ろうか」
「はい」と返事をしたものの、薫はふとあることに気が付いた。
「あの! 帰るってどこへ、ですかっ!?」
ガバッと腕を掴んできた薫に、崇弘は驚いたのか目を見開く。だが、次の瞬間には薫の両手を包むように握ってきた。
「薫。帰るのは俺達の家だ。結婚したから、一緒に住んでいる。ほら、君も仕事で来たろう? あのマンションだよ」
結婚したことは昨日聞いていたし、今朝はこうやって服まで持ってきてもらったくせに、一緒に住んでいることまではとんと考えが及ばなかった。崇弘のマンションといえば、あの豪邸のような三十三階建てのマンションではないか。薫は半ばパニックに陥っていた。
「え? えっ? わたしが住んでたアパートは?」
「引き払ってるよ」
「えーーっ!? ひ、引き払った!? お父さんとお母さんの位牌は!? 和志の荷物だってあるのに!!」
ジタバタして叫ぶ薫を前にして、崇弘は握った手をポンポンと優しく叩いてくる。
「薫。薫。心配しないで。ご両親の位牌も、和志くんの荷物も全部うちにあるから」
「えっ? えっ?」
「薫、ちょっと落ち着こうか」
目を白黒させる薫の背中をよしよしとさすって、崇弘は一旦車のエンジンを止め、シートベルトを外した。車内に沈黙が訪れ、彼の優しい声が響く。
「落ち着いた?」
「ま、まだ……ちょっと混乱しています……」
本当はだいぶ、かなり、激しく混乱していたのだが、そう言うしかない。崇弘は「うーん」と悩ましい声で天井を仰いだ。
「俺と結婚したことはわかってくれたみたいだったから、一緒に住んでいることもわかってくれていると思っていたんだけど違ったんだな。ごめん。昨日、もっとよく説明すればよかったね」
「いや……スミマセン……その……」
(ううう……わたし、まだ頭が混乱してるのかな……)
昨日は与えられた情報を呑み込むのに精一杯で、きちんと理解することにまで及んでいなかったようだ。
崇弘は薫に向き直り、少し微笑んでくれた。
「俺らはごく普通の夫婦だったよ。だからもちろん一緒に暮らしてる。愛し合ってて……まあ俺のほうが惚れてるんだけど。付き合うのも俺から告白したし、プロポーズももちろん俺からだった。俺は誰とも結婚する気はなかったんだけど、薫と出会ったら止まらなくて。押して押して押してのスピード結婚」
崇弘のような人に迫られる自分がとても想像できない。呆気に取られていると、彼は薫の背中に両手を回し、ぎゅうっと抱きしめてきた。
「君が俺を忘れても、俺は君を覚えてるし、愛してる。君がいない人生なんて考えられないんだ」
耳元で囁かれて、顔どころか首筋や両手のひらまで真っ赤になる。崇弘は流し目で薫を見つめると、鼻先でツンと頬を突いてきた。
「あ……えと……」
「ふふ。さて、帰ろうか。俺の可愛い奥様。家でお茶でも飲みながら話そう」
「えと、えっと、帰る? ですか――」
崇弘の言うことはもっともなのかもしれないが、未だ混乱の最中にいる薫はオタオタしてばかりだ。崇弘はあやすように薫の頭を撫でると、自分のシートベルトを着けて車のエンジンをかけた。
「はい、出発」
崇弘の楽しそうな声と共に、車は滑らかに走りだしたのだった。
三十分ほど車を走らせて到着したのは、見覚えのある三十三階建てのマンションだった。たった一年で街が大きく様変わりするはずもなく、ここに来るまでの道中は記憶に新しい。
(当然だよね……わたしにしてみたら、つい数日前にここに来た感じなんだし……)
とはいえ、覚えのない建物もあった。マンションの徒歩圏内に二十四時間営業の大きなスーパーができていたのだ。これは半年ほど前にできたらしい。そう崇弘が教えてくれた。
来たことがあるマンションではあるが、記憶の中ではそれも二度だけ。乗り込んだエレベーターも、言葉にはできない微妙な差異がある気がして落ち着かない。
このマンションはワンフロアにつき一世帯しかなく、全体的に静かだ。
「はい。ここが我が家だよ」
そう言って案内されたのは二階の部屋。まるで金庫のような両開きの玄関ドアが、ピッという電子音を立ててカードキーで解錠される。ホテル以外でカードキーを見たことがない薫は、思わず、「ホテルみたい」と口に出していた。
「あはは! それ、前も言ってたよ。やっぱり薫は薫だね」
崇弘は軽快に笑うと、玄関を開けて薫を中に入れてくれた。空調が効いているのか、外とは違い 湿っぽさがない。
「わ……」
玄関というより、玄関ホールをイメージさせる高い天井。床は白大理石。壁紙も、天井まで続くはめ込み型の靴箱の戸も白くて、目が眩む。掃除するところなんてないんじゃないかと思ってしまうほど、綺麗に整えられた玄関である。おまけに広い。薫と和志が住んでいたボロアパートの玄関のざっと五倍以上の広さがある。この印象は、初めて来た時と同じだ。
「あ、相変わらずすごいですね……」
「そうかなぁ? 普通……っていう感じなんだけど。毎日見てるとわからないな」
そう彼は屈託ない笑みで言うが、断言しよう。彼の感覚は麻痺している。戸建てでもこんなに広い玄関はそうそうない。
(玄関だけじゃなくて中も広いんだよなぁ……ここ)
中に入ったことは一度しかないが、広さはよく覚えている。何せ掃除するのが一苦労だったから。依頼されたのは玄関、リビング、ダイニング、キッチンのフローリング洗浄とワックスがけ。依頼内容は普通なのだが、もうひとりの女性スタッフとふたりがかりで、一般的な住宅なら四時間くらいで終わるところを、六時間もかかってしまったのだ。
時間はかかったが、崇弘は仕事を気に入ったらしく、また利用すると言ってくれた。
「さ、薫。入って」
「お、お邪魔します……」
促され、おずおずとミュールを脱ぐと、先に上がっていた崇弘がまた笑った。
「薫。『ただいま』だろう?」
「あ……」
薫自身にはここに住んでいた記憶はなくても、崇弘にとっては違う。彼にとって、ここは奥さんとふたりで住んでいた家で、そして入院していた奥さんが帰ってきたのだ。更に言うと、その奥さんは、自分。
奇妙な感じはしたものの、薫は小さな声で「ただいま」と言ってみた。
「ん。おかえり」
出してもらったスリッパを履いて中に入る。玄関ホールの突き当たりで廊下が左右にわかれており、左手がリビング、ダイニング、キッチンだ。そこまでは知っている。薫は右手の廊下には進んだことがない。
崇弘の背中を追って、薫はリビングへと足を踏み入れた。
そこは記憶と大差ない、広々とした開放的なリビングだった。明るいナチュラルトーンのカラーリングで揃えられたL字のソファー周り。壁側には大型テレビが置かれ、大きなワインセラーもある。海が見える南側の窓からは、心地よい光が降り注いでいた。
少し家具が様変わりしたようにも感じるが、どこが変わったかまではわからない。
(……思い出せるかな……?)
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